仏法を学ぶ際に、ただ経典を暗誦し盲信するばかりでは、どうして道業に進歩がありましょうか。智慧はどうして成長できましょうか。得難き人身を得て大乗の了義法に遇いながら、自らの頭脳をよく用い深く細やかに思惟し、実証を求めなければ、せっかくの人身も真実の仏法との出遇いも空しく過ぎ、幾十年を経ても依然として何の成就も得られぬなら、まことに惜しむべきことではございませんか。自らの不正確で理に適わぬ学仏の方法を改め、宝を数えるのではなく自らの懐に宝を収めなければなりません。他人のために数えても無益、結局は全て空しきもの。必ず禅定を修め、定中において仏法を観行すべきです。定を離れては理解さえ適切に至らず、ましてや証得などできましょうか。証得された智慧こそが究竟の智慧、真に自らのものとなった智慧であります。理解だけでは不確か、ましてや不十分な理解ではなおさらです。
三蔵十二部経をどれほど暗誦しても、意根が熏習成就されなければ、中有の身においてこれらの知識は何の役にも立ちません。理論的知識は所詮知識、自ら証得せず手中に収めなければ根本的に無力です。故に私は常に皆様に定力と観行を強調するのであり、これは知識よりもはるかに重要でございます。ましてや果位の事は理論的知識と無縁で、どれほど仏法を暗誦しようと証得なければ零の果位。仏法を証得する者は、たとえ多くの理論的知識がなくとも、実際の証量がその果位の高低を決定するのであります。
0
+1