もし人が自らの過ちを知ったならば、どう進むべきか、いかに過ちに対処すべきか、その要諦はどこにあるのでしょうか。意識が過ちを知った後、さらに意根にその過ちを認識させねばなりません。意根が一度過ちを悟れば、事は容易になります。意識は自らの誤りをありのままに意根に伝え、意根は自ら善悪を思量する機縁を得るのです。
意識が単に表面的に知るだけでなく、さらに思惟観行を深め、より微細に了知する過程において、意根は次第に熏習を受け、自らの思量を起こすようになります。意識はより緻密に思惟し、より確固たる証拠を把握せねばならず、禅定の中でこそ微細透徹な思惟が可能となります。意根が明らかに悟るためには、禅定の中にあって外乱を受けぬことが必要です。
意識は自らが意根を熏染すべきことを知っていますが、意根は必ずしも意識の熏習意図を認識しているわけではありません。第一に意根が意識の思惑を理解する智慧を有するか、第二に意識が法義の内容を深く理解し明晰に思惟できるか、第三に意根が日常的に意識をよく理解し、両者の調和が取れているか、これら三点が鍵となります。
意根が意識の熏習意図を察知した時、もし意根の我執習気が強く、意識の考えが意根に大きく反するならば、意根は不快を覚え、苦悩し、逃避や反抗を企てるでしょう。しかし意識の考えが意根に大きく背かなければ、意根は受け容れ、理に明るくなるほど熏習と教化を受け入れやすくなります。
4
+1