衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2019年08月14日    水曜日     第3 回の開示 合計1822回の開示

救うべき衆生がいないとき、諸仏は何をなさるのでしょうか

世界はもはや存在せず、何も存在しない。空さえも存在しない。世界は人によって存在し、人の業によって存在し、人の縁によって存在し、人の願力によって存在する。もし人が存在しなければ、業もなく、縁もなく、願力もなく、どうして世界が単独に存在できようか。衆生の五陰十八界において、五陰がなければ十八界も存在しない。世界がない時は空々寂々であり、空々寂々さえも存在しない。なぜなら空は世間を表し、寂は状態を表すからである。世界が存在しなければ、空間も状態も存在しない。

衆生が仏となった後、また度すべき衆生も存在しないなら、諸仏は国土世界で何をなすのであろうか。為すべき事なく、用いる心もなく、ただ禅定に入るのみである。長期間禅定に入るなら涅槃に入るに如かず、結果は同じで区別がない。阿羅漢たちが世俗の事業を何も行わないなら、仏はさらに何ができようか。終日禅定に入るとして、禅定に何の役割があろうか。諸仏が何を為しても無益であり、何も為さねばさらに無益である。禅定と涅槃に違いはない。衆生が共にいれば互いに争うこともあるが、仏となれば心に絶対の太平を得て、為すべき事はなくなる。

仏となった後は、ただ衆生を度す一事のみが為すべきことである。もし度すべき衆生が存在しなければ、何事も存在しない。仏となれば全てが余計なものである。では我々が現在多くの事を為しているのは何故か。同様に無意味である。今集まって互いに争うことに何の意味があろうか、争うべきものなど存在しない。全てが無益である。我々は今から自らを律すべきである。悪法は極力一つも行うべきではなく、善法を行うことができるが、最終的には善法さえも余計なものとなり、善法も行わない。こうして心はますます無為となり、仏となることが速やかである。

——生如法師の開示
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