世界はもう存在せず、何もなく、空すらもない。世界は人によって存在し、人の業によって、人の縁によって、人の願力によって存在する。もし人がいなければ、業もなく、縁もなく、願力もなく、世界はどうして単独で存在できようか。衆生の五陰十八界は、五陰がなければ十八界も存在しない。世界がない時は空空寂寂であり、空空寂寂すらない。なぜなら空は世間を表し、寂は状態を表すからで、世界がなければ空間も状態もない。
衆生が仏に成った後は、また度すべき衆生もなく、諸仏は国土世界で何をするのか。為すべきことはなく、用いる心もなく、ただ禅定に入るのみである。長期間禅定に入るならば、むしろ涅槃に入るほうが良い。結果は同じであり、違いはない。阿羅漢たちはすでに世俗の事業を何も行わない。仏はさらに何ができようか。終日禅定に入っているが、禅定に入って何の役に立つのか。諸仏は何をしても無意味であり、何もしなければさらに無意味である。禅定と涅槃に違いはない。衆生が一緒にいれば互いに争うこともできるが、仏に成った後は心が完全に太平となり、為すべきことはない。
仏に成った後は、ただ衆生を度す一つのことのみが為すべきことである。もし度すべき衆生がいなければ、何事もなく、仏に成った後は全てが余計なものである。では我々は今、なぜ多くのことをするのか。同じく無意味である。今集まって互いに争うことに何の意味があるのか、何を争い戦うことがあろうか。何も役に立たない。我々は今から自らを律すべきであり、悪法はなるべく一つも行うべきではない。善法を行うことはできるが、最後には善法すらも余計なものとなり、善法も行わない。こうして心はますます無為となり、仏に成るのが速くなる。
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