我々が仏法を学び修行する全過程、つまり凡夫から仏に至るまでの過程とは、絶えず一切の法が真実ではなく、幻化されたものであり、影であり、夢であり、無我であることを証得していくことに他なりません。最終的に全ての仏法を証得するとはまさにこのことであり、一切の法は真実ではなく、我ではないと悟った時、我々はこの生死の大夢から覚醒し、完全なる解脱を得て仏となり、もはや修行を必要としなくなります。故に修行の過程とは自らの認識を絶えず改めていく過程であり、一切の法を真実と見做す無明の心を、修道の過程で徐々に改変し、最終的に全ての法が真実ではないと認識するに至ります。そうして全ての心の働きが転換され、汚れなく無明のない心となり、七識の心が完全に識を転じて智を得る時、即ち成仏するのです。これが仏法を学び修行する過程の真実です。
この過程において、自心は絶えず法の束縛から離れ、法縛から解脱してますます自在を得ます。凡夫が解脱と自在を得られない原因は、仮のものを真実と見做し、三界の世俗が幻化した影を実体と錯覚し、そこに執着し造作し、業行に拘束されるため、心が解脱と自在を得られないからです。こうして三界の中で生死を繰り返し苦悩するのです。修行とはこれらの無明を破り、仮を真と見做さなくなり、一切の相を破ることにあります。理屈としては単純に見えますが、実際の修行過程は極めて長遠を要します。意根の無明が余りにも多く重く、我執と法執も甚だ重いため、無明を破るには非常に長い時間が必要なのです。
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