念仏や経典を唱えることが意根に薫習されず、意根に念仏や経典を思う心念がなく、仏と経典を記憶していなければ、意識が目覚めてなお念仏を続けていることに気づくことも、意識が仕事を終えて振り返り念仏を続けていることに気づくこともあり得ません。意識が無自覚に念仏するのは、全て意根が主体的に主導し、意根の自覚的な心行によるもので、意根が念仏を好み、意識が意根の指揮を受けて何事に従事中も念仏を忘れないのです。故に意根には必ず念心所が存在し、必ず記憶作用があり、また必ず勝解があると言えます。そうでなければ意根は薫習を受けず、常に念仏を思うことはありません。また一方で、意根は必ず定力と相応し、習慣化されて一つの事を堅持する、これが定であり、そうして初めて意識は恒常的に一つの行いを続けることができるのです。
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