意識が観察できない法は、法が存在しないことを説明するものではない。なぜなら、意識は無明と愚痴のためである。ちょうど意識が第八識を観察できないからといって、第八識が存在しない証明にはならない。睡眠中の意根が実際にどのような心の行いをしているか、一般の人は確かに観察できない。しかし、それは意根に心の行いがないことを証明するものではなく、仏は意根がいつどのような心の行いをしているかを完全に理解できるのである。
意根の非常に多くの心の行いは、一般人の意識では観察できないが、それは意根にそれほど多くの心の行いがないことを意味しない。修行では論理的思惟をよく用いるべきであり、論理的思惟能力を高めるとともに、禅定の中で法を思量することで初めて、智慧を効果的に高め、絶えず無明を破り、より多くより深い法を観察し、より多くより深い真理を証得することができる。
仏の境地における八識の心王は、誰も観察できないため、自分自身の議論の根拠として用いることはできない。仏の境地に至る前の八識の心王は、地上の菩薩がわずかに観察できるが、それゆえに他の人が議論の根拠として用いることもできない。自分自身で直接観察したものでなければ、いかなるものも議論の根拠として用いてはならない。
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