すべての客観的に存在する事理は、ある衆生がそれについて理解・認識しているかどうか、また衆生がそれを承認するかどうかにかかわらず、客観的事実は事実である。盲者が太陽の光を見ることができないからといって、太陽が存在しないわけではない。したがって、花の美しさが存在するかどうか、五境における表色・無表色が存在するかどうかは、衆生の見識や認識によって左右されるものではない。真理である客観的事実は、無知な衆生が絶えず探求し発見する必要があるものであり、探求がなければ発見はなく、発見がないからといって客観的真理が存在しないわけではない。それが客観的と呼ばれる所以は、事実や法則が衆生個人や集団の意志によって左右されないからであり、ただ衆生にそれを発見し認識する智慧があるかどうかという点に尽きる。
衆生は皆、自分の意識を過大評価しすぎている。そのため、意識が愚痴に陥っているときにはその愚痴に気づかず、真理がないと不平を言うのである。真理は目の前にあるのに、どのような眼差しでそれを見るかが大きな問題である。
娑婆世界において、すべての衆生あるいは大多数の衆生が仏法を理解せず、仏法に賛同しないとき、仏聖者はこの世に来て法を説き教えを広めることはない。目覚めようとしない衆生は光明を感応することができず、たとえ光明が頭上を絶えず照らしていても、なお昏睡状態から覚めることはない。
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