体中傷だらけになり、痛みのあまり気を失った者でも、意識を取り戻せば再び痛みが続きます。なぜ意根は再び目覚めることを選ぶのでしょうか。それは意根が強く身執に執着し、常に五陰の活動を望み、五陰の機能が滅することを好まないからです。六識が生じる因縁条件が整う時、意根は必ず主導して六識を生起させ、五陰身の活動を発生させます。特に激痛時には身根が受ける損傷が大きく、意識の継続的な了別と生起を阻むため、意識は滅去せざるを得ません。身根が少し回復すると、意根は身体の状態を了別しようとし、意識と五識が生じます。あるいは他の強烈な塵境が現れ、意根が了別を求めれば六識が生じ、昏睡から覚醒するのです。これにより、意根が五陰身にどれほど執着しているかが分かります。
歓喜のあまり死に至る者もいます。大歓喜時になぜ死が訪れるのでしょう。意識が制御できないほどの歓喜、心ではこのような喜びはあるべきでないと感じつつも、制御できない状態、それが意根の喜びです。喜びの心行が過大になると、心臓の血液供給が追いつかず、身根が正常に機能しなくなるか損壊します。すると六識も正常に活動できず滅去し、意根は身根の損壊を認識して六識の再生を断念し、ついに離身を決意します。五陰が滅する時、横死者の意根は離れる準備がなく、ましてや離身を望みません。しかし身体が粉々に破壊され完全な色身を失えば、意根はもはや身執できず、速やかに色身を捨てて中陰身の段階に入るのです。
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