衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月17日    土曜日     第3開示 合計1835開示

意根が身体に執着する問題について

全身傷だらけで痛みのあまり気を失った者が、目覚めた後もなお痛み続けなければならないのに、なぜマナ識は目覚めることを選ぶのか。それはマナ識が強く身体に執着し、常に自らが五蘊の活動を持つことを望み、五蘊の機能が滅することを望まないからである。六識が生じる因縁条件が整う時、マナ識は必ず主体となって六識を生起させ、五蘊身の活動を引き起こす。特に激痛時には、身体の根(身根)が受ける損傷が大きく、意識の継続的な認識と生起を阻むため、意識は滅せざるを得なくなる。身根が少し回復すると、マナ識は身体の状態を認識したくなり、それによって意識と五識が生じる。あるいは他の強い塵境が現れ、マナ識がそれを認識しようとする時、六識も生じる。こうして昏睡状態から目覚めるのである。ここから、マナ識が五蘊身にいかに執着しているかが明らかである。

また、喜びのあまり死に至る者もいる。大歓喜時になぜ死を招くのか。意識が制御できないほどの喜び、心では「このような喜び方はすべきでない」と感じつつも、どうしようもなく制御できない――それがマナ識の喜びである。喜びの心の作用が過度に大きくなると、心臓の血液供給がはるかに追いつかなくなり、身根が正常に機能しなくなるか破壊される。すると六識も正常に活動できず、ついには滅する。マナ識が身根の破壊と機能不全を認識し、六識が再び生じ得ないと判断すると、身体からの離脱を決意する。身体を捨て離れることで、五蘊は死を迎える。不慮の死を遂げた者では、マナ識に離脱の準備がなく、ましてや身体を離れようとは思っていない。しかし身体がバラバラに破壊され、完全な色身も失われると、マナ識はもはや身体に執着できず、速やかに色身を捨てて中有身の段階に入るのである。

——生如法師の開示
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