衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2019年08月18日    日曜日     第1開示 合計1839開示

第八識の体は捨てることができるのか

問:『成唯識論』の中で、「(第八識は)あるいは異熟識とも名付けられる。生死の善不善業の異熟果を引き起こすことができるからである。この名称はただ異生・二乗・諸菩薩の位にのみ存在し、如来地には存在しない。なお異熟無記の法が存在するからである。」と「異熟識の本体は、菩薩が菩提を得ようとする時に捨て、声聞・独覚が無余依涅槃に入る時に捨てる。」という二つの文は矛盾しているのか。阿羅漢が無余涅槃に入った後もなお阿羅漢であり、二乗に属するのか。特に第二の文について、異熟識の本体は捨てられるのか。私の理解では常に名前を捨てるが本体は捨てないのである。

答:八地以前の菩薩の第八識は阿頼耶識と名付けられ、八地菩薩以後、声聞・縁覚が涅槃に入った後の第八識は異熟識と名付けられる。声聞・独覚が無余涅槃に入る時、阿頼耶識の名前を捨てるのであって、阿頼耶識の本体を捨てるのではない。ましてや異熟識の本体を捨てることはできない。妙覚菩薩がまさに仏になろうとする時に第八識の異熟識という名称を捨てるが、異熟識の本体を捨てることはできない。本体は真実に存在するものであり、不生不滅である。仏でさえ捨てることはできない。もし異熟識の本体を捨てるならば、一切の法は存在しなくなり、再び生じることもできず、永遠に五蘊も存在せず、涅槃もなく、諸仏も世界も存在しなくなる。異熟識の名称を捨てることができるのは、すべての異熟性を滅し、すべての無明を滅した諸仏のみである。等覚菩薩でさえ異熟識の名称を捨てることはできず、ましてや阿羅漢や辟支仏・独覚仏においてなおさらである。

——生如法師の開示
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