問:『成唯識論』において「(第八識は)或いは異熟識と名づく、生死を引く善不善業の異熟果たるが故に。この名称は唯だ異生・二乗・諸菩薩の位に在り、如来地には非ず、猶ほ異熟無記の法有るが故に」とある箇所、及び「異熟識の体は、菩薩が菩提を得んとする時に捨て、声聞独覚が無余依涅槃に入る時に捨つ」という二つの文は矛盾しているのでしょうか。阿羅漢が無余涅槃に入った後も依然として阿羅漢であり、二乗に属するのでしょうか。特に後者の文において、異熟識の体を捨てることは可能なのでしょうか。私の理解では常に名称を捨てるも体は捨てないと考えております。
答:第八地以前の菩薩において、その第八識は阿頼耶識と称されます。第八地の菩薩以降、及び声聞・縁覚が涅槃に入った後、その第八識は異熟識と名付けられます。声聞独覚が無余涅槃に入る際に捨てるのは阿頼耶識の名称であって、阿頼耶識の体そのものを捨てるのではなく、ましてや異熟識の体を捨てることはできません。妙覚菩薩が成仏を目前とする際に捨てるのは第八識の異熟識という名称であり、異熟識の体そのものを捨てるのではありません。体は真実に存在するものであり、生滅するものではありません。仏といえどもこれを捨てることはできません。仮に異熟識の体を捨ててしまえば、一切の法は存在し得なくなり、再び生起することもなく、永遠に五蘊も涅槃も諸仏も世界も存在しなくなります。異熟識の名称を捨て得るのは、全ての異熟性を滅除し、全ての無明を断じた諸仏のみです。等覚菩薩でさえ異熟識の名称を捨てることはできず、ましてや阿羅漢や辟支仏・独覚仏においてはなおさらです。
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