楞厳経において仏は、修行が一定の段階に至ると六根が互いに通じ合い、互いに用いられるようになると説かれています。大迦葉は円明の智慧をもって、心念に依らず意識を用いず、ただ意根によって了知しました。意根は意識に代わり、五識をも代替するのです。そうして意根は五識の機能作用を具足し、意識の機能作用をも具足して、六塵の境界を具体的かつ詳細に了別することができます。つまり意根は物体の具体的な色彩など粗大な五塵境界を見て触れることができ、極めて微細な法塵境界を了別するために意識に代わり、思考・分析・推理・判断・回想などを司ります。虚空蔵菩薩のように身体がなくても触塵を感じるのは、意根が身根と身識・意識に代わるからです。かくして意根は全能となり、その機能は制限されず、六識の心所法をすべて具足します。ただ意根と第八識があれば生命体の存在を維持し、大いに神通を顕現し、為さざることはありません。
法法はすべて相通じるものであり、仏法に通達した時、一切の法義は相互に貫通して一体となります。本来別々のものではないのです。ただ仏法に通達していない段階では、自らの認識に障害があり、自心が自心を局限し、煩悩の障りが自心を局限しているのであって、法義が人に道理を悟らせないように制限しているのではありません。法義自体は人を制限する意志を持たないのです。
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