衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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雑阿含経 第一卷 選講

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年04月12日 閲覧数: 4881
<h2 style="text-indent: 2em;">雑阿含経第一巻  七</h2>

世尊は諸比丘に告げられた:もし人が色陰に対して貪愛し好むならば、それは苦を好むのと同じであり、苦を貪愛し好む人は、苦に対して解脱していない。色陰を貪愛し好むがゆえに、身見が断たれず、色陰に繋縛され、内心は色陰を執取し貪取するようになる。貪執が断たれないならば、意根の色陰に対する執著も断たれず、命終の時、意根は執著のゆえに、常に色陰の存在を求めるので、中陰身が生じることになる。

そして中陰身は七日ごとに滅亡し、中陰身は最多で七つまである。意根は中陰身が頼りにならないことを知るので、慌てて投胎しに行き、未来世の色陰の存在を保とうとする。投胎すれば次の世の色陰が出生し、そこに生老病死の無量の憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) が生じ、純大苦聚が生まれるのである。そうすると衆生はこれらの無量の憂悲苦悩を受け、生死の苦から解脱できず、苦を受け続けることになる。それゆえ世尊は、色陰を貪愛することは苦を貪愛することである、と説かれたのである。

世尊はかつて弟子たちを率いて一つの海辺に行かれ、砂浜に横たわる一具の女屍を見られた。その女屍はすでに太って腫れ膨張しており、顔には一匹の小さな虫が這っていた。世尊は弟子に告げて言われた:この女は生前、容貌が非常に美しく、自分自身の姿かたちを非常に好み、毎日鏡を見て自分の顔を眺めていた。命終の時、自分への貪愛を捨てられなかったために、一匹の虫に生まれ変わり、顔の上を這い回り、引き続き自分の顔を貪愛しているのだ、と。この物語は私たちに、何を好めば、何に繋縛され、離れることができず、解脱できないことを教えている。必ず未来世の生老病死が出生し、憂悲苦悩から離れることができず、生死の苦から解脱できないのである。世尊が私たちに貪愛を断つようにと言われるのは、すなわち苦を断たせ、心を解脱させ、生死輪回から出離させるためである。

世尊は諸比丘に告げられた。このように受陰、想陰、行陰、識陰に対して貪愛し好むならば、それは苦を貪愛し好むことであり、苦を好む人は、苦に対して解脱できず、苦を受け続けることになる。受陰、想陰、行陰、識陰を貪愛するがゆえに、この四陰に繋縛され、粘りつかれ、内心はこの四陰を執取し、執取が断たれないならば、未来世の有も断たれない。命終の時、意根の執著のゆえに中陰身が出生し、さらに投胎すれば、次の世の受想行識の四陰が出生し、そこに生老病死の無量の憂悲苦悩が生じ、衆生は苦を受け続け、生死輪回の苦から解脱できないのである。

世尊はさらに諸比丘に告げられた。もし色陰に対してもはや貪愛し好まないならば、色陰に繋縛されることはなく、内心はもはや色陰を執取せず、中陰身の出現もなくなる。あるいは意根は中陰身において自らを滅し、もはや投胎することはなく、こうして未来世の色陰は出生しなくなり、生老病死の無量の憂悲苦悩も滅し、心は解脱し、生死輪回の苦からも解脱するのである。

世尊はさらに諸比丘に告げられた。もし受想行識の四陰に対してもはや貪愛し好まないならば、この四陰に繋縛され粘りつかれることはなく、内心はもはや四陰を執取せず、中陰身の出現もなくなる。あるいは意根は中陰身において滅し、投胎することはない。こうして未来世の四陰は出生しなくなり、生老病死の無量の憂悲苦悩も滅し、心は解脱し、生死輪回の苦からも解脱するのである。

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