座禅三昧経講義
原文:若愚痴偏多。当学三种思惟法门。或初习行。或已习行。或久习行。若初习行当教言。生缘老死。无明缘行。如是思惟。不令外念。外念诸缘。摄之令还。
解釈:もし愚痴が偏って多ければ、三種の思惟法門を修習すべきである。愚痴が偏って多い人のうちには、最初に修習を始めた人がおり、すでにしばらく修習した人がおり、さらに長く修習してきた人がいる。もし最初に修習する人であれば、彼に教導すべきは、生縁老死、無明縁行 (avidyā-pratyayāḥ saṃskārāḥ) などの十二因縁法門であり、彼を導いて思惟させ、生命の過患が老死の苦を生じさせること、無明の過患が一切の業行を引き起こして生死を流転させることを認識させる。このような思惟に縁じて、心念を外に攀縁させず、もし心念が移転散乱したなら、摂持して引き戻すのである。
無明縁行 (avidyā-pratyayāḥ saṃskārāḥ) とは、意根に無明があり、法界の実相を知らず、寂静の真如の中に安住することを肯んじず、心を起こして外に貪求しようとするため、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が意根の無明に随順して意根の心行を生じさせ、意根の内心に躁動が生じ、三界の法および五陰の身心を執取 (upādāna) しようとし、身口意行を有しようとするのである。
生縁老死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) とは、五陰の身は生滅幻化の性質であり、出生した後、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が執持し、絶えず四大の種子を出力して、色身を絶えず生長させ、次第に老いて、最後に死ぬ。この中に、無量の生死の苦があり、憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) は尽きることがない。これらの生老病死の苦も、すべて阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が縁に依って出生させたものであり、その根源はやはり意根の執取 (upādāna) 性であり、および意根の貪愛であり、意根の貪愛を滅除して初めて一切の苦受を滅除できるのである。
原文:若已习行当教言。行缘识。识缘名色。名色缘六入。六入缘触。触缘受。受缘爱。爱缘取。取缘有。如是思惟。不令外念。外念诸缘。摄之令还。
解釈:もしすでにしばらく修習した人であれば、彼に教導すべきは、十二因縁の中の行縁識、識縁名色、名色縁六入処 (ṣaḍāyatana)、六入処 (ṣaḍāyatana) 縁触、触縁受、受縁愛、愛縁取、取縁有である。順序に従って一つ一つ思惟し、心念を外縁に流散させず、もし心念が散乱したなら、心念を収摂して、専一に思惟するのである。
行縁識とは、意根のこのような躁動不安と外に求取する心行のために、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が意根の思心所を満足させ、六識を生じさせ、意根に六識を利用させて自らの意愿を達成させ、一切の身口意行を造作させるのである。
識縁名色とは、意根の心行が絶えず、六識の身口意行が絶えないため、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は自動的に業種を収蔵し、こうして未来世の受生の種子が植え付けられる。命終の時に意根の心行が絶えず、五陰の身を求取するので、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は中陰身を出生させ、中陰身の中で、意根は暫時の色身に満足せず、さらに下一世の五陰の身を有しようとする。父母の縁が具足すると、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は意根に随って投胎し、名色が生じるのである。
名色縁六入処 (ṣaḍāyatana) とは、名色の受精卵が形成された後、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は意根の五陰の身に対する想に随順し、業種と業縁に基づいて絶えず色身を変造し、色身の上に眼根・耳根・鼻根・舌根を生じさせ、身根も絶えず増長し完備されて、五根が阿頼耶識 (Ālayavijñāna) によって創造され、これに意根を加えて、六入処 (ṣaḍāyatana) が具足するのである。
六入処 (ṣaḍāyatana) 縁触とは、六入処 (ṣaḍāyatana) の縁が具足した後、意根が六塵を見ようと欲するため、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は五根を通じて外六塵を五勝義根 (indriya) の中に伝達し、六根は六塵に接触する。この触も阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が生じさせたものである。
触縁受とは、六根が六塵に触れることができる時、意根が六塵を了別しようとすると、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は耳識・鼻識・舌識・身識および意識を出生させ、共同して六塵境を了別する(母胎の中では、まだ眼識を出生して色を見ることはできない)。そこで六識は六塵に対して覚受を有し、苦・楽・不苦不楽の三種の受がすべてあり、意根もその中に自らの受を有する。これらの受も阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が出生させたものである。
受縁愛とは、六識の三種の受があるため、意根は六識の受に依って自らの受を有し、自ら塵境に接触する時にも受があり、あるいは貪愛の楽受であり、あるいは厭棄の苦受であり、あるいは捨受 (upekṣā-vedanā) である。これらの受のために、貪愛が生じ、特に意根の貪愛であり、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) はこれに依って後続の一切の身口意行を生じさせ、より多くの法を生じさせる。六つの識の受および意根の受は、すべて阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が識の種子を出力して生じたものであり、六識の愛も阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が識の種子を出力して生じたものであり、特に意根の貪愛は、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が意根の受に縁じて出生させたものである。
愛縁取とは、意根に貪愛があるため、執取 (upādāna) 性が生じ、三界六塵の万法に対して占有し執取 (upādāna) しようとする。この執取 (upādāna) 性も阿頼耶識 (Ālayavijñāna) が識の種子を出力して生じたものであり、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) を離れれば意根はないのであるから、まして意根の受・愛・執取 (upādāna) 性などなおさらである。
取縁有とは、意根の三界万法に対する執取 (upādāna) のため、阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は意根の心行に随順して絶えず三界世間の一切の法を生じさせる。有縁生とは、三界世間の法が生じた後、五陰の身の生存環境が具足し、こうして阿頼耶識 (Ālayavijñāna) は五陰の身を出生させるのである。
原文:若久习行当教言。无明缘行。行缘识。识缘名色。名色缘六入。六入缘触。触缘受。受缘爱。爱缘取。取缘有。有缘生。生缘老死。如是思惟不令外念。外念诸缘。摄之令还。
问曰。一切智人是有明。一切愚人是无明。是中云何无明。答曰。无明名一切不知。此中无明能造后世有。有者无。无者有。弃诸善。取诸恶。破实相。着虚妄。
解釈:もし長く修習した人であれば、彼に教導すべきは、無明縁行 (avidyā-pratyayāḥ saṃskārāḥ)、行縁識、識縁名色、名色縁六入処 (ṣaḍāyatana)、六入処 (ṣaḍāyatana) 縁触、触縁受、受縁愛、愛縁取、取縁有、有縁生、生縁老死である。十二の生死の環節をすべて仔細に思惟し、心念を流散外放させず、もし心念が散乱して外境に攀縁したなら、引き戻すのである。
ある人が問うて言う、一切智者はみな明を有し、一切の愚人はみな無明を有するが、この中で何が無明なのか、と。答えて言う、無明とは一切の事理を知らぬことを言う。この中の無明は後世の三界世間の出生を引き起こすことができ、後世の生命を絶えさせない。無明とは、あるべき智慧がなく、あるべきでない無明煩悩が存在し、一切の善法を棄捨して諸々の悪法を取ることである。実相を排斥して実相に愚かで、虚妄相に著することである。
原文:如无明相品中说:
不明白益法 不知道德业
而作结使因 如火钻燧生
恶法而心着 远弃于善法
夺众生明贼 去来明亦劫
常乐我净想 计于五阴中
苦习尽道法 亦复不能知
种种恼险道 盲人入中行
烦恼故业集 业故苦流回
不应取而取 应取而反弃
驰闇逐非道 蹴株而躄地
有目而无慧 其喻亦如是
是因缘灭故 智明如日出
解釈:無明相品の中に説くように、清浄にして増益する法を明らかにせず、道徳ある業行が何であるかをも知らないため、無明の結縛があり、火石で火を取れば火が生じるようである。心が悪法に著すれば、遠く善法を棄て去るであろう。これは衆生の心の明を奪う賊であり、無明が来れば、明は劫奪されてしまう。五陰 (pañca-skandha) こそが常楽我浄であり、恒常に存在し、清浄で愛楽すべきものであり、真実の我であると計執する、このような顛倒の想こそが無明の結縛であり、苦集滅道の四聖諦の法さえも知ることができない。まるで盲人が種々の険悪な道の中に入って行路するようであり、煩悩のために業行が絶えず積集し、煩悩業のために生死の苦が輪転して絶えない。執取 (upādāna) すべきでないものを執取 (upādāna) し、取著すべきものを棄捨する。闇の中で邪路を馳せ、低い木の根に蹴躓いて地に倒れる。目はあるが智慧がない、これが無明を譬喩したものであり、因縁法を修習して無明が滅した後は、智慧の光明が太陽のように出現するであろう。
原文:如是略说。无明乃至老死亦如是。问曰。佛法中因缘甚深。云何痴多人能观因缘。答曰。二种痴人。一如牛羊。二种种邪见。痴惑闇蔽邪见痴人。佛为此说当观因缘以习三昧。
解釈:このように簡略に説くと、無明から老死に至るまでも同様に思惟する。ある人が問う、仏法の中の因縁法は甚深であり、愚痴の多い人はどのように因縁法を観察できるのか、と。答えて言う、痴人には二種ある。一つは牛羊のような愚痴無知であり、二つ目は種々の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を有する人であり、愚痴迷惑顛倒で、内心が黯閉して明らかでない。邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を有する愚痴人に対して、仏はこれらの人のために、十二因縁法を思惟観察して三昧 (samādhi) を修習すべきであると説いたのである。
仏が説かれた坐禅は、まず思想知見の上で功夫を積むよう私たちに命じ、心を掃き清め、心地が清明になれば、禅定は自然に出現する。所謂功夫は詩の外にあり、禅定は腿の上にあらず。心を修めず、ただ盤腿して死に物狂いで座ることのみに頼る人は、禅定を修め出すことは難しく、たとえ修め出せたとしても、それは死定であり、闇に入るがごとく、一絲の光明もない。
総括:修行は、いかなる法門を修めるにせよ、すべて心を修めるのである。心は一切の法に通じ、心は一切の法に達し、心は一切の法を明らかにする。心が明らかになった後、修行は終わり、これより無学 (aśaikṣa) 無為である。