座禅三昧経講義
第十章 十六心を修習する果徳
原文:是れ世間の正見、是を名づけて忍善根と為す。是の人は多く一心を増進す。極めて世界の行を厭離す。四諦の相を了々せんと欲す。作証して涅槃に趣く。かくの如き一心中、是を名づけて世間第一法と為す。一時に四行(無常・苦・空・無我)に住す。一諦たる苦法を観ず。忍は共の縁に由るが故なり。何を以ての故に。欲界の五受陰は無常・苦・空・無我なりと観ず。是の中、心忍は慧に入り、亦た相応する心心数法なり。是を名づけて苦法忍と為す。身業・口業及び心不相応の諸行は、現在未来世に於いて、一切の無漏法の初門なり。是を名づけて苦法忍と為す(法無漏法忍信受なり)。
釈:この世間の正しい知見を、忍法善根と名づける。忍の善根を得たこの人は、一つの心(禅定力・専注力)を大いに増進し、世間の生滅変異する行法を極めて厭離し、四聖諦の相を明らかに知ろうと欲し、身をもって証し涅槃へと趣く。このように一心に四聖諦の法に専注することを、世間第一法という。一時に心は四つの行(苦・空・無常・無我)に住する。四聖諦の第一諦である苦法を観行し、衆生と共通の業縁を忍ぶ。何故そう言うのか? 欲界衆生の五受陰が無常・苦・空・無我であると観察し、この法の中で心に忍び認めることができれば、智慧を得る。これは相応する心法と心数法によって証得された智慧であり、苦法忍と呼ばれる。観行四聖諦の中で生起する身業・口業及び心不相応の諸行法は、現在未来の世において、一切の無漏法を得る最初の門であり、苦法忍と呼ばれる。
原文:次第に苦法智を生ず。苦法忍は結使を断じ、苦法智は作証す。譬えば一人は刈り、一人は束ぬるが如し。また利刀の竹を斫つが如く、風を得れば即ち偃(たお)る。忍智の功夫の故に、是の事は欲界に繋がるを断つことを得。見苦にして十結を断ずることを得(得とは成就の意)。爾の時、異等智を得、無漏智は未だ得ず。無漏慧は得たり。是の時一智を成就す(等智は未来に成就す)。第二心中に法智・苦智・等智を成就す。第三心・第四心を過ぎて、四智(苦智・法智・比智・等智)を成就す。
釈:世間第一法を証得した後、次第に苦法智・苦法忍が生じ、五陰世間が一切苦であることを知り、五陰世間が即ち苦であるというこの真理を忍可し、煩悩結使を断除し、苦法智によって作証される。譬えば一人が草や稲麦を刈り、もう一人が束ねるようなものである。また鋭い刀で竹を切るように、風が吹けば竹は即ち倒れる。忍智の功夫があれば欲界の生死の繋縛を離脱し、世間の苦を証見し、十種の結縛を断除すれば忍智の功夫は成就する。この時、異等智を得るが、まだ無漏智は得ていない。しかし無漏慧は得ており、この時一つの智慧(異等智)を成就し、以後に等智を成就する。第二心で法智・苦智・等智を成就し、第三心と第四心の後、四つの智慧:苦智・法智・比智・等智を成就する。
原文:習(集)・尽・道の法智中に於いて、一一の智は増す。離欲の人は他心智成就の増を為す。苦比忍・苦比智は十八結を断ず。是の四心は苦諦を得ることを能くす。習(集)法忍・習(集)法智は欲界に繋がる七結を断ず。習(集)比忍・習(集)比智は色界・無色界に繋がる十三結を断ず。尽法忍・尽法智は欲界に繋がる七結を断ず。尽比忍・尽比智は色・無色界に繋がる十二結を断ず。道法忍・道法智は欲界に繋がる八結を断ず。道比忍・道比智は色・無色界に繋がる十四結を断ず。道比智を是を名づけて須陀般那(下子・上子)と為す。諸法の相を実知する、是を十六心と為す。
釈:世間尽道法智を修習する中で、それぞれの智慧は増し、ついには円満具足して世間尽智を得、三界を出離し涅槃解脱を得る。既に離欲した人は他心智通を成就し、他心智が増し、また苦比忍智と苦比智を得て、色界と無色界の十三の生死結縛を断除する。尽法忍と尽法智を成就すれば、無色界の十二の生死結縛を断除できる。道法忍と道法智が成就すれば、欲界の八つの結縛繋着を断除できる。道比忍と道比智の成就は、色界と無色界の十四の生死結縛を断除する。道比智が須陀般那(預流果)であり、諸法の法相を真実に了知することを十六心という。
原文:十五心中に至ることを能う。利根は名づけて随法行と為し、鈍根は名づけて随信行と為す。是の二人は未だ欲を離れず。名づけて初果向と為す。先ず未だ結を断ぜず。十六心を得て、名づけて須陀般那と為す。若し先に六品の結を断ぜば、十六心を得て、名づけて息忌陀伽迷(秦の言、一来)と為す。若し先に九品の結を断ぜば、十六心を得て、名づけて阿那迦迷(秦の言、不来)と為す。先ず未だ欲を離れずして八十八結を断ずるが故に、名づけて須陀般那と為す。
釈:十五心に修めることができる者を、利根の者は随法行といい、鈍根の者は随信行という。この二種の人はまだ離欲しておらず、いかなる結縛も断除していないので、初果向(預流向)という。十六心に至れば、須陀洹(預流果)である。もし先に六品の結縛を断除し、十六心を証得すれば、斯陀含(一来果)である。もし先に九品の結縛を断除すれば、三果阿那含(不還果)である。まだ離欲せずに八十八結縛を断除することを、須陀洹(預流果)という。
原文:復次、無漏果の善根を得るが故に、得(預流)と名づけて須陀般那と為す。利根は名づけて見得と為し、鈍根は名づけて信愛と為す。思惟結は未だ断ぜず。余残して七世生あり。若し思惟結三種を断ぜば、名づけて家家三世生と為す。聖道八分・三十七品を名づけて流と為す。涅槃に流向す。是の流に随って行ずるが故に、名づけて須陀般那と為す。是れ仏の初の功徳子、悪道を得脱するを為す。三結を断じ、三毒薄きを、名づけて息忌陀伽迷と為す。
釈:また、善根によって無漏果の初果を証得するので、須陀洹(預流果)という。利根の者は見道を証し、鈍根の者は信受愛楽(随信行)である。初果須陀洹の思惑煩悩結は断たれておらず、七回の人間・天上での修行を必要とする。もし思惑煩悩結を三種断除すれば、家から家へと三世に生まれる(家家)という。八正道三十七品を修め成し、心々が涅槃に流れ向かい、この流れに随順して行くことを須陀洹(預流果)といい、すなわち仏の最初の功徳成就した初果の弟子であり、悪道を脱した者である。三結縛を断除し、貪瞋痴の煩悩が微薄な者を、二果斯陀含(一来果)という。
原文:復次、欲界の結に九種あり(上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下)。見諦断・思惟断。若し凡夫人、先ず有漏道を以て、欲界に繋がる六種の結を断じ、見諦道に入る。十六心中に得て名づけて息忌陀伽迷と為す。若し八種を断じ、見諦道に入る。第十六心中に一種、名づけて息忌陀伽迷果向阿那伽迷と為す。若し仏弟子、須陀般那を得て、単に三結を断ず。息忌陀伽迷を得んと欲す。是れ思惟断、欲界に繋がる九種の結、六種を断ずるを、是を名づけて息忌陀伽迷と為す。八種を断ずるを、是を名づけて一種息忌陀伽迷果向阿那伽迷と為す。
釈;また、欲界の結に九種(見結・取結・疑結・愛結・恚結・嫉結・悋結・慢結・無明結)があり、見道時に断つ三縛結と、修道時に断つ貪瞋痴等の思惑煩悩に分かれる。もし凡夫衆生が修行し、まず有漏の修行で欲界に繋がる六種の結縛を断除し、見道入道するならば、十六心中で二果斯陀含(一来果)と名づけられる。もし八種の結縛を断除して見道するならば、十六心中の一種であり、斯陀含向阿那含(一來果から不還果へ向かう位)と名づけられ、二果と三果の中間にある。もし仏弟子が初果を証得し、ただ三つの結縛を断っているだけの状態で、さらに二果を得ようとするならば、欲界に繋がる煩悩を如何に断除するかを思惟し、九種の結縛のうち六種を断除すれば二果斯陀含(一来果)であり、八種を断除すれば二果から三果阿那含(不還果)へ向かう位(斯陀含向)である。
原文:若し凡夫人、先に欲界に繋がる九種の結を断じ、見諦道に入る。第十六心中に名づけて阿那伽迷と為す。若し息忌陀伽迷を得て、進んで三種の思惟結を断ず。第九解脱道を名づけて阿那伽迷と為す。阿那伽迷に九種あり。今世必ず涅槃に入る阿那伽迷。中陰に涅槃に入る阿那伽迷。生を得て已に涅槃に入る阿那伽迷。勤めて求め涅槃に入る阿那伽迷。勤めて求めずして涅槃に入る阿那伽迷。上行して涅槃に入る阿那伽迷。阿迦尼吒に至りて涅槃に入る阿那伽迷。無色定に到りて涅槃に入る阿那伽迷。身証の阿那伽迷。行向阿羅漢の阿那伽迷。
釈:もし凡夫衆生が先に欲界に繋がる九種の結縛を断除して見道するならば、十六心中で三果阿那含(不還果)と名づけられる。もし二果斯陀含(一来果)を得た後、さらに三種の思惑煩悩結を断除すれば、第九解脱道(無碍道の次)で阿那含(不還果)となる。阿那含(不還果)には九種あり、分けて:一、今世必ず涅槃に入る阿那含;二、中陰身の中で涅槃に入る阿那含;三、再び生を受けた後に涅槃に入る阿那含;四、不断に勤めて求め涅槃に入る阿那含;五、勤めて求めずして涅槃に入る阿那含;六、色界天に生まれて再び涅槃に入る阿那含;七、阿迦尼吒天に生まれて後に涅槃に入る阿那含;八、無色界天に生まれて涅槃に入る阿那含;九、身作証の阿那含(禅定による身体的な証得がある)、行止が阿羅漢へ趣く阿那含。
原文:色界・無色界の九種の結。第九無礙道の金剛三昧を以て一切の結を破る。第九解脱道の尽智は一切の善根を修す。是を名づけて阿羅漢果と為す。是の阿羅漢に九種あり。退法。不退法。死法。守法。住法。必知法。不壊法。慧脱。倶脱(共脱)。鈍智。鈍進。
五種の法を行じて退く、是を名づけて退法と為す。利智利進、五種の法を行じて退かず、是を名づけて不退法と為す。鈍智鈍進利(鈍い智と鈍い進み)、厭悪の思惟により自ら身を殺す、是を名づけて死法と為す。鈍智大進、自ら身を護る、是を名づけて守法と為す。中智中進、増えず減らず、中に処して住す、是を名づけて住法と為す。少利智、勤めて精進し、能く不壊心解脱を得る、是を名づけて必知法と為す。利智大進、初めて不壊心解脱を得る、是を名づけて不壊法と為す。深き禅に入ること能わずして諸漏尽きる、是を名づけて慧解脱と為す。諸禅を得、亦た滅尽定を得て諸漏尽きる、是を名づけて倶解脱(共解脱)阿羅漢と為す。一切の有為法は常に厭離し満足し、更に功徳を求めず、時を待って涅槃に入る。
釈:色界と無色界には合わせて九種の結縛があり、第九無礙道の金剛三昧をもって一切の結縛を破り、第九解脱道の世間尽の尽智を証得し、一切解脱の善根を修得する、それが阿羅漢である。阿羅漢には九種ある:退法阿羅漢、不退法阿羅漢、死法阿羅漢、守法阿羅漢、住法阿羅漢、必知法阿羅漢、不壊法阿羅漢、慧解脱の阿羅漢、倶解脱(共解脱)の阿羅漢、鈍智阿羅漢、鈍進阿羅漢。
五種の法を修行して成就せず退失するのは退法阿羅漢である。深く利な智慧があり五種の法を修行して退かないのは不退法阿羅漢である。智慧は微少で、精進力も微少であり、厭悪思惟によって自殺し寿命を縮めて入涅槃するのは死法阿羅漢という。智慧は微少であるが大いなる精進力をもって自らを護持するのは守法阿羅漢という。智慧は中等、精進力も中等で、両方とも増減せずに住するのは住法阿羅漢という。少ない智慧をもって勤行精進し、不壊心解脱を得ることができるのは必知法阿羅漢という。
智慧は利根で、大いなる精進力があり、初めて不壊心解脱を得るのは不壊法阿羅漢という。二禅以上の禅定に入ることができずに煩悩を断じ尽くすのは、智慧解脱の阿羅漢である。各種の禅定を証得し、また滅尽定を証得するのは、倶解脱(共解脱)の阿羅漢であり、彼らは一切の有為法(仏法を含む)を常に厭離し、現状に満足し、寿命が尽きる時を待って涅槃に入る。
原文:阿羅漢有り。四禅・四無色定・四無量心・八解脱・八勝処・十一切処・九次第定・六神通・願智・阿蘭若那三昧(秦の言、無諍三昧。阿蘭若は無事或いは空寂と為す。旧く須菩提は常に空寂行を行ずと為すは非なり。自ら是れ無諍行のみ。無諍とは衆生を護り、諍いを起こさしめず。我に於いて諍いを起こすを為す。舎利弗・目連が夜、陶屋の中に宿りて拘迦離に諍いを起こさしめたるが如き是れなり)。超越三昧・熏禅・三解脱門及び放捨(放捨とは三脱門:空・無願・無相。空・無願・無相即ち十二門の念反著する者なり)。更に利智勤精進を為し、是の如き諸禅の功徳に入る。是を名づけて不退法不壊法を得ると為す。
釈:ある阿羅漢は、四禅・四空定・四無量心を求め、八解脱・八勝処・十一切処・九次第定・六神通を具え、寂静無諍三昧・超越三昧・熏禅(三解脱門:空・無願・無相)及び放捨を具足し、さらに猛力の智慧を求め、勤行精進し、これらの種々の甚深な禅定に入り、三昧の功徳力を具足する。これを不退法不壊法阿羅漢と名づける。
原文:若し仏世に出ずることなく、仏法無く弟子無き時、是の時離欲の人、辟支仏出ず。辟支仏に三種あり。上・中・下。下なる者は、本より須陀般那を得たり。若しくは息忌陀伽迷を得たり。是の須陀般那は第七世に人中に生まる。是の時仏法無く、弟子と為すことを得ず。復た応に八世生ずべからず。是の時辟支仏と為す。若し息忌陀伽迷は二世に生まる。是の時仏法無く、弟子と為すことを得ず。復た応に三世生ずべからず。是の時辟支仏と為す。
釈:もし仏が世に出ず、仏法がなく、また仏弟子もいない時、この時に離欲した人である辟支仏が世に出る。辟支仏には上中下の三種がある。下の者は、もともと初果須陀洹(預流果)または二果斯陀含(一来果)を得ていた。須陀洹は第七世に人間に生まれる時、仏法が世にないため、仏の弟子として仏に随って修学することができず、また天上や人間に再び生まれるべきでない(八度目の転生はない)、この時に辟支仏となり、独りで覚って仏法を悟る。二果斯陀含は天に上り再び人間に戻る二世の生を受ける時、この時に仏法が世にないため、仏の弟子として仏に随って修学することができず、また第三世に生まれるべきでない、この時に辟支仏となり、独りで覚って仏法を悟る。
原文:人有りて願って辟支仏と為らんとし、辟支仏の善根を種く時、仏法無く善根熟す。爾の時世を厭離して出家し、道を得て名づけて辟支仏と為す。是を名づけて中辟支仏と為す。人有りて仏道を求めんとす。智力進力少なく、因縁を以て退く(舎利弗の如き是れなり)。是の時仏世に出ずることなく、仏法亦た無く弟子も無し。而して善根行熟して辟支仏と為る。相好有り若し少なく若しくは多し。世を厭離して出家し道を得る。是を名づけて上辟支仏と為す。
釈:辟支仏になろうと願い、辟支仏の善根を種いた時、仏法が世にないが、辟支仏の善根が熟したならば、この時に厭世して出家し修道し、道果を得て辟支仏と名づけられる。これが中品の辟支仏である。ある者は成仏の道を求めるが、智力が足らず精進力も少なく、ある因縁で成仏の道を退失する(舎利弗のように)。この時に仏法が世に無く、仏弟子も世にいないが、辟支仏の善根が熟し、辟支仏となり、或多く或いは少ない相好荘厳を修め出し、世間を厭離し、出家して即ち得道する。これが上品の辟支仏である。
原文:諸法の中に於いて智慧浅く入るを名づけて阿羅漢と為し、中に入るを名づけて辟支仏と為し、深く入るを名づけて仏と為す。譬えば遥かに樹を見て能く枝を分別せず。少し近づきて能く枝を分別すれども、能く華葉を分別せず。樹の下に到りて尽く能く分別して樹の枝・葉・華・実を知る。声聞は能く一切の諸行は無常なり、一切の諸法は主無し、唯だ涅槃のみ善く安穏なりと知る。声聞は能く是の如く観ずれども、分別して深く入り深く知ることを能わず。辟支仏は少しく分別すれども、亦た深く入り深く知ることを能わず。仏は諸法を知り分別して究めて暢(の)べ、深く入り深く知るなり。
釈:諸法の修学において得た智慧が比較的浅いのが阿羅漢であり、智慧が中等なのが辟支仏であり、智慧が最も深いのが仏である。譬えば遠くから木を見ると枝がはっきり見えず、少し近づけば枝は見分けられるが、花や葉までは見分けられない。木の下に到って初めて花・葉・実を完全に見分けられる。声聞人は一切の諸行は無常であること、一切の諸法には実体がない(無我)こと、ただ涅槃のみが安穏であることを証得できる。声聞人はこれらを観察できるが、それ以上に深い内容を了知することはできない。辟支仏は声聞よりやや多く深く了知するが、さらに深い法を了知することはできない。ただ仏のみが一切の諸法を究竟円満に了知し、深く底まで入り、一切種智を具える。
原文:譬えば波羅奈国の王、夏暑熱の時、高楼上に処して坐し七宝の床に令して青衣(侍女)に牛頭栴檀香を磨らしめ身に塗らしむ。青衣の臂に多く釧を着す。王の身を摩する時、釧の声耳に満つ。王は甚だ之を患う。教えて次第に脱がしむ。釧少なければ声微なり。独り一つの釧のみならば寂然として声無し。王の時に悟って曰く「国家の臣民・宮人・婇女、多事多悩また是の如し」と。即時に欲を離れ独り処して思惟し、辟支仏を得る。鬚髪自ら落ち自然の衣(袈裟)を着し、楼閣より去る。己が神足力を以て出家し山に入る。是の如き因縁、中品の辟支仏なり。
釈:譬えば波羅奈国王が夏の非常に暑い時、高楼の上の七宝の床に座り、侍女に牛頭栴檀香を磨らせ、それを身に塗らせた。侍女の腕には多くの宝釧がついており、国王の身体を塗る時に宝釧が互いにぶつかり合う音が喧しかった。国王はそれをとても嫌い、侍女に一つずつ外させた。腕に残る宝釧が少なくなればなるほど音は微かになり、一つだけになった時は何の音もなく、とても静かであった。国王はこの時に悟って言う:「国家の臣民・宮中の人々・侍女たちは、人が多ければ事も多く悩みも多い。まさにこの宝釧が互いにぶつかり合って音を立てるようなものである」と。国王はこの時に離欲し、独りで思惟し、辟支仏果を証得した。即時に鬚髪は自ら落ち、袈裟が身に着き、楼閣から飛び去り、自分の神通力をもって出家し、ある山中に入って修行した。このように因縁法を証得したのが、中品の辟支仏である。