四念処の観行体験
第一章 四念処の観行理論
一、如何にして四念処を観行するか
観とは、観察し、観照し、発見し、気付くことであり、事柄がどのようなものであるか、その通りに即座に知ることであり、意識で加工しないことである。つまり、何事が起ころうともそれを観察し、例えば呼吸を観る場合、呼吸に関するすべての状況をできる限り観察し、それ以外は一切気にせず、分析せず、理解せず、推論せず、想像せず、推測せず、整理せず、帰納せず、概括せず、意識を忙しく働かせず、ただ静かに、心安らかに観察すればよい。ありのままに観察し、余計なことをしないことである。
観察後の事柄は、自然に意根が向き合い、考究し、思量するものであり、意識は意根に代わって諸法を覚ることはできない。したがって、意識を清浄に保ち、ありのままに観察すればよい。大事は意根自らが決断し、無明は意根自らが破らなければならず、真理は意根自らが発見しなければならない。呼吸を観察している時に呼吸の現象が観察できない場合は、禅定力が不足しており、心がまだ粗いことを示している。覚照力を強化し、注意力を集中し、散乱心を降伏させ、少しずつ深く細かく、全面的に観察し、四念処経の原文に従って観れば、観察力は向上する。
二、如何にして呼吸を観るか(一)
観行とは何か。観行とは、観察し、省察し、審議し、思量することである。例えば、目の前に一輪の花がある場合、花の全体の形態、部分的な形態、花の姿態、品種、色彩、花弁、趣、新鮮かどうかなどを観察する、これが観行である。四念処を観行するのも同様に観る。四念処とは、身は不浄と観じ、受は苦と観じ、心は無常と観じ、法は無我と観じることであり、第一の観は身の不浄を観じる。まず呼吸を観じ、仏経に説かれている内容に従って一歩一歩観行すれば、呼吸時の色身の種々の状況を観察できる。
例えば、吸気を観察していると、吸気の際に気がどこから入ってくるか観察すると、気は鼻孔から入ってきて、鼻腔を通り、肺に入り、さらに任脈に沿って丹田に入る。これが気が入る過程である。この吸気の過程で色身に現れる種々の現象および覚受、吸気が長いか短いか、息が冷たいか温かいかを観察する。次に呼気の際の色身の種々の状況を観察し、気がどこから外へ出ていくか、どこを通るか、どんな感覚か、どこまで出るか、息が長いか短いか、冷たいか温かいかを知らなければならない。呼吸全体の過程で、呼吸が深いか浅いか、順調かどうか、息がどこに達しているか、呼吸が長いか短いか、これらの現象をすべて知る。この過程を観行という。
観行の過程で定力は増長する。なぜなら、すべての精力が呼吸に集中し、雑念がなく、定に入りやすいからである。内面には一つの「知」があり、観ている法を知り、呼吸を知る。観ている法すべてに対して知を持つことで、心は散乱しない。観行の過程で、無明の知から次第に有明の知へと移行する。明知とは智慧である。定があり清らかな慧があるため、観行がある程度に至り、因縁の時節が来れば、呼吸が無常生滅の法であり、空なる苦の法であり、無我の法であることを知り、智慧が生じる。これにより我見を断ちやすいが、知ることは証得と同義ではない。
四念処経は禅定を修める経典であるだけでなく、智慧を修める経典でもある。四念処経は、止観を同時に運行し、定慧を等しく保つことを教える経典である。定の中に一つの知を伴い、知がある程度に至ると、無明の知から有明の知へ移行し、観ているすべての法が無常生滅変異し、空・苦・無我であることを知る。こうして解脱の慧が生じ、心には観もあれば知もある。無明の不知から有明の知へ至るには、一つの過程があり、その中で多くの思惟分析は必要ない。ただ一つの明らかな知があればよく、多くの意識心を用いて思惟し、考量し、比較し、推理し、帰納し、概括することは一切不要である。ただ現量の知を保ち、知を保つだけで、ある程度に至れば智慧が現れる。思考問題:なぜ現量の知を保てば智慧が生じ、それによって我見を断ち果を証することができるのか。
三、如何にして呼吸を観るか(二)
呼吸を観る際には、すべての精力を呼吸に集中し、身体がどうなるか、将来陽神が出るかどうかなどは気にしないこと。道家の陽神は我々とは関係がなく、多くのことは知る必要がない。気脈が色身に与える影響を理解すればよく、この理論を知っていれば十分であり、陽神は気にしない。我々は陽神を修めるのではなく、心を修め、証果を得て我見を断つためである。身体面で起こる状況は少し理解すればよく、深すぎる多くの修身の知識は心を修めることに関係がない。精力を不必要なことに使わないこと。
我々が四念処を修学する今、呼吸を観ることを主とする。呼吸以外の色身の面はできるだけ注目せず、注意力は呼吸のみに置く。呼吸を観ることがある程度に至り、定力が増すと、色身の空・虚妄・無常および無我などの客観的な理が発見できる。色身をあまりに注目すると注意力が分散し、呼吸を観ることに影響する。
観る際はできるだけ客観的で冷静に観察し、主観的な意識を加えない。この色身の状態がどうであるか、知っていればよく、過剰な思想や導きなどの観念を加えない。初期には調息してもよいが、その後は調息せずに随息すべきである。そうすれば心は自然に五陰身の外に飛び出し、振り返って五陰身と呼吸を観察し、制高点に立って色身の状態を振り返って観る。こうすることで一方では入定しやすく、他方では智慧が生じやすくなり、多くの真実を発見できる。以前は知らなかった真理が今は分かり、次第に色身がどれほど無常で、不実で、虚妄であるかと感じるようになり、徐々に無我の智慧が生じる。
四、如何にして身心を調理し素早く呼吸観の状態に入るか(一)
坐ったら合掌して三度「南無本師釈迦牟尼仏」と唱える。念誦はゆっくりとし、同時に仏光が全身を照らすことを観想する。念じ終わったら心を静め、呼吸を調整する。座ってすぐに心が比較的静かな人は、その時は呼吸を調整せず、直接坐禅の禅定状態に入ることができる。
初めから心が散乱して呼吸を観られない場合は、まず念仏するか真言を唱える必要がある。念仏する際も呼吸念仏の方法で念仏する。こうした念仏も実は呼吸を調整することであり、徐々に気体の通り道が開通し、気息が丹田に下がるようになる。気息が丹田に下がると、意念もそれに従って丹田に行く。あるいは意念が丹田に行くと、気息もそれに従って丹田に行く。この時、丹田は暖かく熱く感じられ、妄念が少ないと定に入りやすい。身体が静まると、心も静まる。
念仏の際は速度を遅くし、ゆっくりと唱えることに注意する。遅ければ遅いほど気息は調整され、心念も集中して散乱しない。こうして次の観行が効果を発揮する。深呼吸しながら阿弥陀仏と念じる際、念じる速度が非常に遅く、精力が非常に集中していると、すぐに禅定が現れる。この時は妄念が生じにくい。なぜなら注意力がすべて念仏号と聞くことに集中しているため、妄念を減らし他の妄念を止滅させるのに役立つ。念仏号だけの念となり、後に定が現れると声が出せなくなり、この時は身心が静止する。静止したらこの心念を呼吸観に移し、自分の呼吸状態を引き続き観行する。この方法は観行に役立つ。
もう一つの身心調理の方法は深呼吸である。深呼吸の時間の長さは個人の身体の具体的状況による。身体状態が良ければ、一回二回の呼吸、あるいは三回五回の深呼吸で定に入れる。十回行う必要がある人もいる。状態に入ったら呼吸観を始める。前述の呼吸はすでに調整されているので、この時は気血の運行が正常で、心念が集中し始めれば観に入る。具体的な観行方法は、仏経に説かれている観行方法と次第に従い、少しずつ深く観行する。例えば現に色身は壊れて長くは保たないと観じ、意識の覚知心は私ではないと観じ、思量し主宰する意根は私ではないと観じるなどである。この時は坐禅しても昏沈しにくい。なぜなら深い所縁境があり、心が専注して思考できるため、昏沈しにくい。
五、如何にして身心を調整し素早く観行状態に入るか(二)
坐禅観行する際、心を速やかに静めるためには、まず呼吸を調整し、気血の運行を順調にしなければならない。身が調って初めて心は静まり、心念が集中する。この時観行すれば頭脳は明晰になる。観行がまだ明晰でない場合は、まず念仏するか真言を唱えて身心を調整する。唱える際は語速を必ず遅くし、ゆっくりと唱える。遅ければ遅いほど気息は調整され、心念は集中して散乱しない。同時に仏を観想し、仏光が全身を照らすことを観想できれば、加持力が得られ、心は速やかに静まり、直接観行状態に入れる。したがって静坐観行の前に心念と呼吸を調整することは非常に重要な一歩である。
身体を調整し、気血の運行が良くなって初めて心は静まり、観行は効果を発揮する。心が静まらない時は、数回深呼吸して調整するか、呼吸念仏の方法で調整する。呼吸方法で念仏することも実は呼吸を調整することであり、徐々に身体前面の任脈が開通し、気息が丹田に達する。気が丹田に入ると心念は集中し、他の妄念は消える。意念が丹田に入ると、呼吸は自然に順調になり、丹田は暖かくなり、全身は快適で定に入りやすい。身体が静まると、心も静まる。
呼吸を調整する深呼吸の回数と呼吸の長さは、個人の身体状況による。身体素質が良く妄念が少ない人は、一回から五回の深呼吸で十分であり、多くても十回の深呼吸で十分である。多すぎると疲れ、効果はかえって良くない。心が静まったら再び呼吸を観察し、身の不浄を観じ、観行の順序に従って少しずつ観る。前の法が観行で熟練していなければ、後の法を観ない。前の観行の基礎が固まってから後の観行を行う。
呼吸念仏の方法で身体を調整する際は、すべて呼気の際に念仏し、吸気の際は念じられないことに注意する。後膛音で声を出して念じ、音流の振動で五臓六腑の詰まった部分が開き、気流が直下して丹田に達し、前面の任脈が開通して身体が調整される。念仏は非常に遅いため妄念が生じにくく、呼吸も調整されるため、最も定に入りやすい。遅いため注意力はすべて念仏号と聞くことに集中し、心は静まりやすく、妄念を減らし止滅させるのに役立つ。禅定が現れると声が出せなくなり、この時は静止する。心念が清浄であれば、呼吸をはっきりと観察できる。
こうして身心を調整し気血が通じると、再び坐禅しても昏沈しにくい。昏沈は主に気血が通じていないことが原因である。さらに深い所縁境があれば、心は専注でき、昏沈しにくい。気血が通じていないと栄養が脳の消耗に追いつかず、昏沈しやすい。昏沈の原因は、身体の気血が調整されていないことであり、調整されれば昏沈現象は現れない。こうして正常な観行状態に入る。
六、如何にして静から動への呼吸観を練習するか
坐禅観行の功夫が熟練した後は、日常活動の際に心を静止状態に保ち、なおも呼吸観を続ける練習をする。坐禅で非常に清浄に坐り、観行が非常に専注している時、ゆっくりと座を下りて地面で経行し、歩いたり散歩したり速く歩いたり遅く歩いたりする。この時自分の心念を観察し、まだ呼吸に縁することができるか、周囲の塵境に心念を転じないでいられるかを見る。心念が転じられなければ、呼吸観の定力が良いことを示している。それからいつでもどんな場面でも専注して呼吸を観る練習ができる。活動中にも呼吸を観察でき、心を呼吸の一点に制して移さなければ、この定力は非常に良く、坐禅時の定力よりも強い。こうなると呼吸観の功夫は相当深く、行住坐臥の功夫が連続して一体となる。
七、静定を基礎として動中の定を修める
動静結合の定は、単なる静中の定よりも智慧が生じやすい。なぜなら智慧を生じさせる縁が多く、外境の縁で頓悟しやすいからである。しかも大多数の人は生活に追われ、長期にわたり静坐しているわけにはいかない。活動中の定を良く修めることは非常に重要である。行住坐臥、心が常に定中にあるような定は比較的安定しており、身口意の行いも清浄で、利益が多い。静坐観行の功夫が熟練した後は、身体活動中に定力を保ち、観行をより専注にする練習をする。
静坐中の観行が非常に専注している時は、ゆっくりと座を下り、地面で経行、歩行、散歩、速く歩いたり遅く歩いたりする。この時再び自分の心念を反観し、まだ呼吸に縁することができ、周囲の塵境に転じないでいられるかを見る。しかし静中の定を起修の基礎としなければ、身口意の活動中に禅定を持つことは難しい。活動中に心念が塵境に転じられなければ、定力が増強したことを示している。活動中の定力は非常に重要であり、活用する機会が多く、悟道の機会も多い。活動中に心が散乱せず観行の定力を保てれば、呼吸観の功夫は相当成熟しており、行住坐臥の功夫が連続して一体となったことを示している。
八、一念相続と一念不生の二種の止の区別
止とは、停止、止息、止住の意味、つまり定、定まって動かない意味である。誰が止まり誰が定まるのか。身が止まり身が定まり、それによって六七識が止まり定まる。主に六七識を止め六七識を定まらせる。身行が止息すると、身識と意識は徐々に止息するが、滅ではない。なぜならこの時はまだ感知があり、ただ非常に微細に感知しているだけだからである。六識が動かなくなると、第七識はもはや動けなくなる。六識が第七識の攀縁に従わないため、第七識は法を縁し続けることができず、止まらざるを得なくなる。しかし第七識はその特殊な地位と作用のため、必ず法を縁し身を縁する。ただ縁する法が少なく、動きが比較的微細なだけである。
もし意識が一念に縁って動かない場合、心にはまだ一念がある。これは定中観の範疇に属する。もし意識に観があれば、第七識意根は必ず意識の観る法を縁う。時間が経つと意根も観るようになる。意根が一旦専注して観れば、正道に進み、遅かれ早かれ事実の真相を見る。この状態を一念相続といい、観行の状態である。
一念不生は、意識に念がなく、観もなく、完全に止息して動かない状態である。しかし第七識意根は完全に止息して動くことはできず、必ず念がある。何を念じ、どれだけ専一に念じているかによる。もし一つの法を専一に念じ、なお疑情があれば、参究の状態にある。これは深層の参禅方法として用いることができるが、修めにくく、普通の人はうまく把握できない。意識に念がある状態での観行の方が容易である。しかし修めにくい方法ほど、功夫はより得力し、道に進み証道しやすい。一旦証道すれば、その智慧の証量は非常に高くなる。
九、四念処を修め呼吸を観ると頑空に陥るか
四念処観行の結果は我見を断ち、声聞の解脱果を証得し、最終的には煩悩を断じて解脱を得ることである。すべての人に煩悩があり我見がある以上、凡夫である。したがって我見を断つ必要があり、我見を断つには四念処観の呼吸観から始められる。凡夫の心にはすべて我があり、一切の心があり、一切の煩悩がある。だからこそ無我を修め煩悩を断つ必要がある。修行は基礎から少しずつ始め、呼吸観から起修し、浅く入り深く至って、初めて無我を証得し、心が空になり煩悩が尽きる。
凡夫にとっては、どんな空でも、少しでも空にできれば非常に良いことである。できるだけ空にし、捨てよ。頑空や断滅空を恐れることはない。なぜなら凡夫は根本的に頑空や断滅空を成し得ないからである。だからできるだけ空にし、空であればあるほど良い。以前のすべての知解を完全に忘れ、心を空っぽにし、嬰児のようになり、少しずつ再び学び始める。以前学んだ知解はすべて葛藤であり、空中に横たわって心を隔て、上にも下にも行かず、詰まって苦しい。今はすべて空にして、心をきれいにし、再び清浄な法を満たす。以前学んで消化できなかったものは、一部は病になる。もし空にできれば病は治る。空にできなければ病のままでいるか、自ら方法を考えて病を治す。他人は提案できるだけであり、病を治すのは自らしかできない。
理論に触れれば触れるほど、消化が難しくなり、心に詰まって薬が病に変わる。消化吸収能力が良くない場合は、比較的深い理論を整理し、消化吸収しやすい法義を多く実践する。消化できない理論はどれほど良くても、一時的に脇に置き、基礎的な法義から起修すべきであり、高望みして遠くを追い求めないこと。
十、如何にして妄念を消失させるか
一切の念、思想、観念は無明から生じる。無明には来処もなく去処もなく、虚妄の法である。妄念、思想、観念が出所のない無明から来ている以上、真に受ける必要はない。それを見破り、妄念の生滅に従わず、如如不動であれば、徐々にこれらの無明の念は自ら消え、心は清浄で安寧になる。再び所縁を観れば、朗らかにはっきりとし、無明は薄くなる。人類の思想観念は行き来し、留めようとしても留まらず、常に変化して止まず、固定できない。それを見破り、構わず、それに従って動かなければ、心は自ずと清涼である。
呼吸観も同様である。客観的に呼吸を見つめ観察し、感情を動かさず、能動的に観念を加えず、理論と照合せず、ただぼんやりと見つめ、局外に立って観察する。そうすれば徐々に色身のこの事柄を見破れるだろうか。次第に五陰のこの事柄を見破れるだろうか。これだけのことであり、大したことではない。執着があるから、事が大きいと感じるだけである。
十一、観行の過程は定慧を同時に修める過程である
観とは何か。観とは法に対する観察、伺察であり、それから正しい判断を下し、理にかなった結論を導き出すことである。この完全な観行の過程は、意識から観を起こし、次第に深め、心念を専一にし、禅定が現れるところから始まる。ここまではまだ初歩的な観であり、比較的浅く粗い。結論が出ても、それは意識の粗い結論に過ぎず、細かさが足りず、内心にはまだ疑いが解決されていない。これは意根の疑いであり、つまりこの結論は意根にはまだ明らかでなく、はっきりせず、理解できていない。
さらに観を進め、心念がますます専一になり、禅定が深まるほど、意識の作用はますます小さくなり、意根の思量作用はますます大きくなる。最後に意根の智慧が十分に判断を下せるようになると、ありのまま理にかなった結論が導き出される。これが真の疑いを断ち法を証得することであり、意識と意根が協力して共同で観行した結果である。
四念処を観行するには、まず身の不浄を観じる修習から始める。身を観じるにはまず呼吸観から始め、具体的な観方は仏経に説かれている。ただひたすらその観行の手順に従って一歩一歩着実に修行すれば、ありのままに呼吸と身根の状況を観察できる。例えば今吸気していると、吸気の際に気がどこから入ってくるか、経路、その間の感覚を知る。心は気体が鼻孔を通って入り、鼻腔を経て肺に入り、さらに丹田に入ることをはっきりと知る。吸気はおおむねこのような過程である。心が静まれば静まるほど細部は明らかになり、感覚ははっきりする。
呼気の際は、気がどこから出てどこへ運行するか、息が長いか短いか、冷たいか温かいか、身体の覚受は何か、すべてはっきりと観察しなければならない。心念が清明であれば、呼吸が深いか浅いか、長いか短いか、気息がどこに運行しているか、どこが詰まって通じないか、気息がどのように呼出されるかが分かる。これが観であり、意識を主とする初歩段階である。
観の過程で心念が専一であれば定がある。なぜならすべての精力が呼吸観に集中し、他の問題を考えず、心中に雑念がなく、心は定まる。定を得た後も、一つの観を保ち、内心で呼吸に対する知を保つ。現在観ている法に対して、内心はすべて知らなければならない。もしはっきりと了知できなければ、心が散乱しているか、昏沈していることを示す。知は清らかな智慧による了知を表す。この知があれば、徐々に色身無我の智慧が生じる。
呼吸をはっきり了知すると同時に定があり、内心が非常に清明であれば慧がある。定慧が等しく保たれれば、空の智慧は次第に生じる。観がある程度に至ると、呼吸は生滅無常であり、身体は生滅無常であると認識できるようになり、空の智慧が生じる。これは意根の智慧である。意識の智慧はとっくに呼吸と身体が生滅無常であることを知っている。法を学んだ時点で知っている。しかしその知は決定的な作用を起こさない。観が最後まで進み意根の知が決定的な作用を起こす。これが真の智慧である。内心で知を保ち続ければ、日が経ち功が深まり、智慧が生じれば、法の実相を見ることができる。この知は無明の知から有明の知へと変わる。
十二、身の不浄を観じる
地球上のすべての衆生が一生涯に生み出す廃物と廃水は、最後にどこへ行くのか。物質不滅の法則あるいは質量保存の法則によれば、これらの廃物廃水にも来処がある。どこから来たのか。もし後世に再び地球上に生まれ変われば、享受するすべての物質はどこから来るのか。享受が完了すればすべて廃物廃水ゴミになる。これらのゴミはまたどこへ行くのか。
潔癖症の人は少なくない。非常に清潔好きである。しかし普段飲んでいる水はどこから来るのか。どんな水か。普段食べている食物はどこから来るのか。どんな成分か。食べ終わった生ゴミは最後にどこへ行くのか。どの国にも汚水処理場、廃物回収所があり、工場で処理された水とゴミは再利用され、何に使われるのか。例えば一鉢の汚水を地面に注げば、これらの水はどのように地面から消えるのか。どこへ消えるのか。工業廃水と生活排水は一部しか蒸発せず、残りは地球上に残り、人類に循環利用され、さらには腹の中に飲み込まれる。蒸発した部分は、雨が降ると再び地球に戻り、再び利用される。要するに、これらの四大物質は様々な形で人類に再び使用され、色身の中に入る。
したがって身の不浄は容易に観察できる。身内も身外も不浄である。潔癖症の人が少なくないが、身内外が清浄な人は一人もいない。衆生は皆、自身と他の類の有情衆生の色身を貪愛し、さらには衆生の肉を食べる。本当に道理がない。肉身はあまりに汚い。今生で自分がどれだけのゴミを生み出すか。後世に再び地球上に戻れば、これらのゴミを再び享受し、さらには子孫にも共に享受させる。衆生は皆、生命を愛し、色身と六塵が非常に好きである。しかしこれらは非常に汚穢で好ましくない。何を貪愛する必要があるのか。あるいはある種の心が好きだとしても、心も染汚され、煩悩に満ちている。何を執着する必要があるのか。