四念処の観行体験
第二章 観行日誌
一、観行中の方便法
青空の観行日記:座禅を組み十回深呼吸を行い、気道が長く通じ丹田が熱くなるのを感じた。その後『般若心経』を黙誦し、経文の始めから「究竟涅槃」まで念じるうちに、次第に経文へ意識が集中し、妄念が減少。腹部呼吸が深まり、呼吸を観じることに移行した。吸気時には長く吸っていることを自覚し、呼気時には長く吐いていることを自覚する。この時、定力が以前より増し、呼吸を保持できるようになった。呼吸に伴い両耳が外側に膨張する感覚が生じたが自然に消え、呼吸は自然で楽になり、悠長に。腹部は温かく柔軟で広々とし、心は安らぎ、座を下りた後も身心が愉悅した。
2021年7月6日
評:観行仏法は禅定が安定し観行の定力が具わって初めて可能となる。禅定が未だ安定せずば、先ず身心を修め定力を積むべきである。中間には自己の現状に適した方法を用い、身心を安定させ定力を増強すべし。定力が具わってからの観行こそ正観、さもなくば乱観となり時間を浪費し効果無し。
二、実修実証とは何か
如本の観行日誌:今朝座禅を組み、暫く呼吸を調えるも通じず散漫なり。ゆるやかに『般若心経』を黙誦するうちに止観の状態に入り、心は比較的安定。出入息を観じようとするも脚の痺れに心の焦燥が生じ、雑念が湧きそうになったため出入息観を止め、再び『般若心経』を黙誦して止観状態に入る。
用便時、この身体は「流動」するものと感じ、不変の身体相など存在せず。食事時に対面する家族を見るに、眼・耳・鼻・舌と五臓六腑が骨格に組み合わさった仮の存在と知る。しかし彼女は自らがこのような仮の存在と気付かず。この感覚を伝えれば不機嫌になる故、語れず。食事中の飯と野菜は四大より成り、体内に入り身体の一部となる。物質的身体と物質的飯粒に違い無く、共に四大物質。庭の花が土と水を吸収して成長する如し。
何故花を自己と見做さず、四大物質の色身を我と執着するのか。何故各人の身体は異なる形状を成すのか。心識と如何なる関係あるか。ここで思考を止め、従来の学識を当て嵌めて分析せず、意根に思量を委ね、不断の観察・尋伺・咀嚼により「意~~思」を生じさせ、疑問を抱きつつ深く探求する欲求を保持す。
外出時、街行く人々の動作や話し声も活動する仮人と感じるが、彼らは自覚無し。知人と挨拶を交わす際、額の下が白骨で内部に同様の物が詰まっていると観じる。言葉の音声は気流と物質的唇・舌・喉・気管の衝突に過ぎず、太鼓や鐘の音と大差無し。日常の是非善悪の議論に意味を見出せず、言葉を控え呼吸に安住す。
評:これは四念処修行の過程である。観行が次第に深まり広がり、生活全般に拡大。昼夜を問わず無間断に修行が続き、世俗相から離れ空性を増す。凡夫の骨を換え胎殻を脱するが如く、不断に精進すれば遅早龍門を跳び鯉が龍となる時が来る。
観行が日常生活全般に無間断に及ぶ時、初歩の三昧境地に入る。この三昧には禅定と智慧を含むが未だ不徹底。完全なる三昧は悟道時の三昧、法眼浄の三昧、三縛結を断じた三昧、三悪道に入らぬ三昧である。この観行は身心変容の過程に過ぎず、五根・五力・四正勤・四如意足・七覚支・八正道・四念処修行が次第に円満する。証道の条件が具われば我見を断ち、証道位に入り法眼浄を得る。
これこそ実修と呼ぶに相応しい。生活の隅々に至る実践、内心の一念一行一操守に至る実践、仏陀の説く修行過程と必要条件への厳格な遵奉。煩悩起こらず心念止息する所まで実践する。ただし止息するは意識の心念。意根の法に対する思量は絶え間なく続き、心心無間。故に最終的な見道は必ず意根の見道証道である。証果後も心念は無間断、転換する心行心所法も連続的。五品の粗重煩悩も無間断に滅除され、聖人と凡夫を行き来する状態とは異なる。
(中略)
二十九、捨受とは何か
白雪香の観行感悟:捨とは放棄、受は感受作用。捨受とは情緒的反応の鈍化。例えれば食事に「美味」「不味」の分別無く、単に摂取可能か否かの判断。親子の別離や再会にも喜怒無し。賞賛されても欣喜せず、非難されても瞋恚せず。他者の評価が心を動かさぬ状態。刀が虚空を斬り、拳が海綿を打つが如し。
捨受の本質は無我。捨る主体・受ける主体が消失した状態。我無ければ捨も受も成立せず。修行の極致はこの無心の境地。戒律は不要となり、無所求の状態で最高の徳行を具現する。徳行高き者こそ真の聖賢人なり。