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四念処の観行体験

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 1978

第二章 観行の記録

一、観行における方便法

藍天の観行日記:坐禅を組み、十回深く呼吸する。気道が長く通り、丹田が熱くなるのを感じる。その後、般若心経を黙誦する。心経の経文を初めから「究竟涅槃」まで黙誦し、意念が徐々に経文に集中し、妄念が減少し、腹部呼吸が深まる。次に呼吸を観じ、意念を経文の黙誦から呼吸の観察に切り替え、縁(対象)を呼吸に置く。息を吸う時には長く息を吸っていると知り、息を吐く時には長く息を吐いていると知る。この時、以前より定力が強まり、すでに呼吸を守ることができるようになった。呼吸に伴い、徐々に両耳が外側に膨らむように感じられたが、後に自然に消え、呼吸は自然で楽になり、かつ長く伸びやかになった。腹部は温かく柔らかく広々とし、心は安らかだった。坐禅を解いた後、心身ともに愉悦を感じた。

21年7月6日

評:観行の仏法は、禅定が安定し、観行の定力が具わった時に初めて観じることができる。必ずしも一途に観じ続けられるものではない。もし禅定がまだ安定していなければ、まず身心を修め、定力を集積すべきである。その過程では、自身の現状に適した様々な方法を用いて操作し、身心を安定させ、定力を増強する。定力が具わってから観行するのが正観であり、そうでなければ乱観となり、時間を浪費し、効果は得られない。

二、実修実証とは何か?   

如本の観行日記:今朝、坐禅を組み、しばらく呼吸を調えたが、あまり通じず、集中できなかった。その後、ゆっくりと般若心経を黙誦すると、一種の止観状態に入り、心は比較的安定した。次に出息入息を観じようとしたが、脚が痺れ腫れると心の浮つきが生じそうになったり、雑念が湧き出そうになったりしたため、出息入息の観察を止め、再びゆっくりと般若心経を黙誦した。するとまた止観状態に入り、心は比較的落ち着いた。

坐禅を解いてトイレに行った時、この身体は「流動」するものに過ぎず、不変の身体相などないと感じた。食事の時、向かい側に座る家族を見ると、ただ眼・耳・鼻・舌と五臓六腑が一つの骨組みに組み合わさった仮の存在に過ぎないと感じた。しかし彼女は自分がそのような仮の存在だと知らない。この感覚を彼女に伝えることはできない。彼女を不愉快にさせるのを恐れて。食事の時、四大(地水火風)の物質でできた碗の中のご飯と野菜を見ると、それらが自分の身体に入り、再び身体の一部になる。物質的な身体と物質的なご飯に違いはなく、どちらも四大の物質に過ぎない。それはまるでベランダの花が土と水を吸収して様々な植物に成長するようなものだ。    

なぜ花を自分自身だとは思わないのに、四大の物質でできた色身(肉体)を執着して「私」とするのか? なぜ人それぞれの身体は形が違うのか? 私の心識とどんな関係があるのか? ここまで考えて止め、これ以上は思惟を進めず、以前学んだことを当てはめて分析・思惟しようとはしなかった。この問題は意根に委ねて思量させ、絶えず観察・尋伺・咀嚼を続けることで「意~~思」(意味・味わい)が生まれる。疑問を持ってこそ深く探求したいという欲望が湧く。

今日、外出して活動している時、通りの向こうから歩いてくる人を見ると、その姿形や動作、話し方もまた動く仮の存在に感じられた。しかし彼らは皆、自分が仮の存在だと知らない。玄関で知り合いの顔見知りに挨拶し、相手の額を見つめると、額の下は白骨で、中には皆同じようなものが詰まっていると思った。本当につまらないと感じた。他人が話すのを見ると、相手の発する言葉の音声は、気流と物質的な唇・舌・喉・気管の気流の衝突に過ぎず、人が太鼓を叩き鐘を鳴らすことと大して変わらない。普段語ったり議論したりする正誤・是非・美醜は皆つまらなく、話したくなくなり、呼吸に安住した。

評:以上は四念処修行の一つの過程である。この過程で観行はますます深く、ますます広範になり、徐々に生活の隅々、朝から晩、睡眠に至るまで、無間(途切れなく)に広がっていく。その心は世俗の相から徐々に離れ、ますます空(くう)になり、徐々に凡夫の骨を換え、凡夫の胎殻を脱していく。このように不断に努力を続ければ、いずれ遅かれ早かれ竜門を跳び越え、鯉が竜に変わる時が来る。

観行が日常の起居の隅々にまで広がり、無間の状態に達した時、それが初歩の三昧(サマーディ)の境地である。この三昧の中には禅定もあれば智慧もある。ただし、まだ完全ではなく究竟(きゅうきょう)ではない。完全で究竟な三昧とは、悟道の時の三昧、法眼浄(ほげんじょう)の三昧、三縛結(さんぷくけつ)を断じた三昧、三悪道に入らない三昧である。このような観行は単なる過程であり、身心が変容する過程である。この過程の中で、五根(信・精進・念・定・慧)、五力(五根が発揮する力)、四正勤、四如意足、七覚分、八正道、四念処の修行が次第に具足し円満になる。証道の条件が具足した時にのみ我見を断ち、証道の位に入り法眼浄を得るのである。

これこそが実修と呼ばれるものである。実際に生活の隅々に至り、実際に内面の一つの心念、一つの行持(実践行為)、一つの操守(節操)に至り、実際に一つの段階に至り、実際に仏陀が説かれた全ての修行過程と必要条件の中に至り、一毫も疎かにせず焦らず、実際に煩悩が起こらず、心念が止息するに至る。もちろん止息するのは意識の心念であり、意根が法を思量する働きは決して途切れることはなく、心と心は無間である。だから最後に見道(けんどう)するのは必ず意根が見道し証道するのであり、証果した後もその心念は無間断であり、その転変した心行(心の作用)と心所法(心の働き)も無間断で連続している。五品(五下分結など)の粗重な煩悩も無間断に滅除され、聖人であったり凡夫であったりと行き来するようなことは決してあり得ない。意識を用いて意根を牽制し、空・無我の認知に戻す必要はない。

これに対し、意識が証果したとするのはこれと反対である。意識が清明な時は善人であるが、境界が来ると意根が煩悩に随って染汚意(けんない)が現れ、六識は気づかずにそれに従って染汚業を造作する。その後、意識は不適切だと感じ、再び意根を督励して煩悩を抑圧する。しかし再び抑圧しても煩悩は既に起こり、過ちは既に犯され、悪業は既に形成され、種子は既に残されている。未来はどうなるのか? ややもすれば貪欲の念が現れ、ややもすれば瞋恨の念が現れ、時折煩悩を起こし戒を犯し、悪業を造る。これは何たる聖人か? 後でまた過ちを知り、また正すが、このように絶えず循環を繰り返す。これは何を見たという道なのか? これほど頼りにならないものか? これほど心が疲れるものか? 意識が疲労を感じる時、もう際限なく意根を督励し続けることはなくなり、その時ブレーキは故障する。その結果はどうなるのか?      

仏法を学び修行する者は皆、解脱の法に出遇った以上、皆、真面目に着実に足元を固めて修行すべきである。小賢しい真似をしようという心理を持って、自分を欺き、さらに他人を欺いてはならない。紙は結局火を包みきれず、紙の家は結局風雨に耐えられず、遅かれ早かれ崩壊する。いっそ早いうちに永久の安楽止息の処(ところ)を見つける方が賢明である。

三、五蘊というこの車を如何に制御するか

如濤の観行日記:私が四念処の訓練を始めた初期段階では、坐禅中の妄念が非常に深刻で、観行が苦しかった。現在、この難関は過ぎ去り、坐禅を組む際に重い妄念を処理するのに労力を費やす必要がなくなり、呼吸に安住でき、浅い定(じょう)に入ることさえでき、軽微な身心分離感が生じた。

しかし、私は自分の意根と意識の定慧の力が依然として非常に微薄であることに気づいた。例えるなら、春になり、山間の小川が渇水期を過ぎ、さらさらと流れ始めたばかりで、小さな竹筏は浮かべられるが、木舟を載せるには十分でなく、まして大河のように水深があり波が湧き、巨艦大舟を載せられるほどの力は、まだまだ遠く及ばない。今はむしろ仏法でよく言われる「乾慧(けんえ)」という二文字の意味がより深く理解できるようだ。私のような初学の凡夫は、意識で般若の道理を少し理解しているが、定力はまだ非常に浅い。いわゆる「慧」は、浅い意識の情思意解(感情・思惟・意識的理解)に過ぎず、何の功徳も受用はない。師匠が言うように、このような「悟り」は、誤解の「誤」に過ぎない。私はかつての自惚れや誇張した言動を心から懺悔すべきである。

現在の訓練では、粗い妄念が降伏したことは、ただ意根という牛が以前ほど野性的ではなくなり、性質がより従順になったことを意味するに過ぎない。しかし彼(意根)は依然として活発で動き回りたがる。坐禅を組んで専心して呼吸を観じることは、呼吸というこの縄で彼をもう少ししっかりと繋ぎ、彼がより少なく攀縁(はんえん、執着して縁を求めること)するようにすることである。

意根というこの牛が動き回りたがる原因は、無始劫(むしごう、無限の過去)以来の無明(むみょう)にあり、六塵(色・声・香・味・触・法)の境界を真実と思い込み、それを自分の食物とし、津津(しんしん)有味に食べているからである。だから意識という牧童は暇な時に、絶えず意根の牛に提示し続けるべきだ。六塵の境界は偽物であり、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)は幻化、六塵は幻化であると。根と塵が触れ合う時、塵境を了別する六識もまた一連の識の種子に過ぎない。色法(物質)は空であり、心法(心)もまた空である。意識が了別する山河大地や自我身心は、内六塵(六根が感知する対象)が大脳で作り出す複雑な電気信号に過ぎず、重なる妄念は、意識自身が作り出した虚妄の独影法塵(どくえいほうじん、主観的な想念)に過ぎず、一法として真実と言えるものはない…。この情報を心の奥深くに埋め込み、意根の牛に十分に咀嚼反芻させ、いつの日か彼もまた豁然と開朗することを期待する!

評:一切の粗重な妄念も微細な妄念も、ただ意根が無始劫以来、境界を真実と認め、絶えず固執して形成された習気の慣性勢力に過ぎない。それはまるで猛スピードで走る車のようで、ブレーキをかけるのは容易ではなく、意識が制御するのは非常に骨が折れる。しかも多くの人は制御したくもなく、ただ一途に放縦し、馬力を増して走らせ続ける。その結果は何か、皆が想像できるはずだ。如何にこの車を制御し、徐々に減速させ、安全で安定した運行をさせるか。これは我々が深く考えるべき重要な課題である。

丁度今、四念処の観行目標がある。これによって意根が精力を徐々にそちらに移し、徐々にその中に安住させ、車の速度をゆっくりと落とし、もはや揺れ動かなくなる。注意を煩悩や瑣事から引き離し、呼吸という一つの事柄に向き合う。心が静まれば煩悩は沈殿し、表面の清水は五蘊の真の姿を映し出す。そうすれば、五蘊がそれほど真実で頼りになるものではなく、以前は全て誤認し誤執していたことに気づくかもしれない。この後、無明煩悩は徐々に心から剥離し、軽く安らかになり、苦痛は減少し滅除される。

四念処は、仏陀が開示された身心の病を治療する良薬の処方箋である。安心して服すれば、身の病も心の病も消え、智慧解脱を得る。疑ってはならない。仏陀は大医王であり、衆生を水火(すいか、苦難)から救うことができる。仏陀の導きに従えば、必ずや彼岸のオアシスに到達し、安住することができる。

意識は修習の全過程で、案内人のように意根に方向を示す。意根が一旦方向を理解し、正しい道を歩み始めたら、今度は自身の心力と智慧に頼って一切の境界に向き合い、思索し、探求し、真相を発見し、以前の誤った認知を転換しなければならない。そうして初めて新生を得ることができる。意識という副運転手は傍らで少し見守り補助すればよい。全てはやはり意根自身に掛かっている。五蘊の車は結局彼(意根)自らが運転するのであり、意識がその座を代わることはできない。

四、思想・念頭というものは一体何なのか

如本の観行日記:ここ数日、坐禅を組み、身心を調伏する過程で、観想念仏・黙誦心経・黙念仏号・念楞厳咒(りょうごんしゅ)・観身体三十二物(さんじゅうにぶつ)・観法塵の生滅変異などの方法を用いて、心念を集中させ、もはや浮つき落ち着かない状態にさせた。まるで一頭の野馬を調伏するようで、様々な方法で観察し、彼が何を好み、何を欲し、なぜ好むのか、原因を見つけ出し、その原因を解決して初めて、その方面の欲望と思いがなくなる。

個人的には、坐禅を組んだ後、身体の三十二物の変異生滅を一法一法観行することが非常に効果的だと感じる。ただ作意(心を向けること)を始める:「髪・毛・爪・歯・皮」の「髪」…。すると心念は静まり始める。三十二物を大まかに観行し終えた後、再びこの能く覚知し、能く観察し、能く分別する心とはどんな様子か、どこにあるのか、依所縁所(依る所・縁る所)は何か、作用範囲は、心識との違いは何か、を反観する。

観行している時は、ただ一つの疑念を保つ:「私は誰か?」。そして色身(肉体)と心識の中で一法一法、繰り返し体験し、択別(えきべつ)する。それぞれの法の状態特性・作用範囲・条件・区別などを。そして知らないうちに、ふと学んだ法義と合致する時が来る。学んだ知識の理解と観行体験後の感覚は、結論は同じでも異なることが分かるだろう。

時折突然妄念が来た時、それを圧伏しようとはせず、私の方法はこれらの法塵が浮かび上がる原因を観じ、法塵の本質・出所・依所縁所を観じることだった。後になって気づいたのは、私はそれらに皆一つのレッテルを貼っていた:「私・あなた・彼」。そしてそれらを正誤・是非・善悪で計り、それに従って喜怒・躁動・鬱憤不満・焦慮希求といった捨てられない感情が生まれ、まるで塵のように本来清浄な心を覆い隠し、抑圧し、繋ぎ縛り、束縛している。本当に自縄自縛(じじょうじばく)である。元々これらは過去の記憶が残した法塵に過ぎず、それは心ではなく、心を離れて存在するものではなく、自体性(実体)はなく、自分自身の心田(心の畑)に残った記憶名相(概念)に過ぎない。

法塵を解決した後、連動して色塵・声塵・触塵(五塵:色・声・香・味・触)の本質・出所・依所縁所も認識できた。これこそが妄念が生じる原因である。始めのうちは、常に繰り返し法塵を認識・択別しなければ、心の執取を捨てることはできず、捨てて初めて釋然(しゃくぜん、心が晴れる)し、収摂(しゅうせつ、心を収める)できる。圧制の方法では根本を解決できず、それはただ其の然るを知るだけで其の所以然るを知らず、妄念は降伏しにくい。

次に、観行の前には必ず聞思(もんし、教えを聞き思惟すること)が成熟していなければならない。そうでなければ智慧は生じず、如何に観じ択別するか分からず、止(サマタ、心を止めること)はあっても観慧(かんえ、観察による智慧)がない。例えば、医師は皆、身体の出生・変異・老死を一定の現量(げんりょう、直接知覚)で観察しているが、「身体は私である」という観念は変わらず、智慧がなく、生命の本質を探求しようともしない。だから個人的には、観行前に聞思が成熟していることが基礎だと思う。

その後、色身と心識の相互影響を観じ、そして心を動かし念を起こせば必ず果報があること、皆自業自得であることを深く信じる。すると内心はますます安寧になる。最後に再び鼻孔の呼吸に安住する。時々呼吸が微細になると、全身が呼吸しているように感じられ、身内と身外に境界がなくなる。定力が良い時は、身心が無我無主の状態にあるように感じられ、徐々に身体の概念がなくなる。現在、単跏趺坐(たんかふざ)で基本的に一時間は足を組み替えずにいられる。坐禅を解いた後は精神が充実していると感じる。ただし脚が痺れ腫れ痛む時は心力が弱まり、足を組み替えなければ続けられない。

坐禅を解いて外出し活動する時、太極拳を練習すると、坐禅観行と同じように、とても静かでゆっくりと楽に観行状態に入る。身心は無我無主の状態にあり、呼吸は均等で、誰もおらず、ただ腕がありただ脚がゆっくりと空中で動き、ただ鳥の鳴き声が空寂の中に起こり落ち、ただ形なく相なく処なき心が覚知しているだけであり、誰もいない。生活の中で、できるだけ三十二物の色身と心念を心に留め、色身の全体を見ようとしない。こうして色身の無常・無主を観察する。現在はまだ無間作意(途切れない注意)を形成することはできない。21年6月2日   

評:一切の念頭・思想・観念は、無明から来る。そして無明には出所がなく、去る所もなく、虚妄の法である。妄念・思想観念が出所のない無明から来るのなら、真に受ける必要はない。それを見破り見透し、妄念の起こり落ちに付き従わず、如如不動(にょにょふどう)であれば、徐々にこれらの無明の念頭は自ずから消え、心は清浄になり安らかになる。再び縁(対象)を観じれば、朗然として明らかになり、無明は薄くなる。人類の思想観念は行き来し、留めようとしても留まらず、常に変幻を止めない。固定できないものだ。それを見破り、構わず、それに従って動かず、心は自ずから清涼になる。

五、性障が軽微だと禅定を起こしやすい

藍天の観行日記:夜、坐禅を組み、十回深く呼吸した後、鼻息を観じ、徐々に腹式呼吸に入った。この間、腹式呼吸の初期段階では、息を吸う時の腹部筋肉の収縮度合いがそれほど強くなかったが、今日は息を吐く時に腹部が強く収縮し、呼吸時に丹田がとても熱い。終始鼻息を観じ、念を他に移さなかった。

約30分坐禅すると、気機(気の動き)が上昇しそうになった。師匠の教えを聞き、自然に任せて止めなかった。気機が瞬間的に胸の辺りまで達し、それ以上は上がらなかった。胸から下の部位全体が電流が走るように感じられ、瞬時に消えた。引き続き鼻息を観じた。この時はまだ腹式呼吸だった。さらに10分ほど経つと、再び気機が湧き上がり、両耳が同時に「ワン」と鳴り、頭部全体と顔の毛孔が立ち、痺れるような感じがした。すぐに感覚は消え、前後心(胸と背中)と腹部に微汗が出た。深呼吸は止まり、時計を見るとあと10分以上あったので、自ら深呼吸を続け坐禅終了まで行った。

坐禅を組み、十回深く呼吸した後、鼻息を観じると、すぐに腹式呼吸に入った。今朝も丹田部はとても熱く、特に息を吸う時に、気流がまるで熱流のように上腹部から丹田に入るのを感じた。時々息を吸うと、大腿の上が涼しく感じられ、まるで冷気が大腿から入るようだった。約30分坐禅すると、再び気機が上昇するのを感じた。今回は比較的遅く、それほど強くなく、胸と頭部に湧き上がるとそれ以上は下がらなかった。胸部の気の膨張により呼吸が短くなり、頭部も少し膨張したがはっきりとはしなかった。10分経過し、念を丹田に置くと、上記の不快感は徐々に消え、呼吸は通じやすくなり、両肩も沈み、腹部は柔らかく快適だった。

評:心が空(くう)であればあるほど、気機は速く長く発動し、定(じょう)に入るのは深くなる。性障(しょうしょう、悟りを妨げる煩悩)に覆われている者は、気機を発動しにくく、発動してもすぐに落ちてしまう。将来、初禅定が生じる時も、似たような気機の発動がある。心が空であればあるほど性障が軽ければ軽いほど、気機は速く深く発動し、全身に遍く行き渡り、持続が長くなり、禅定は深くなる。いわゆる性障とは、心に執念があり、身に執着し我に執着し、執着する法が多く、攀縁(はんえん)が絶えず、世間法を皆実と執着し、捨てようとしないことである。

六、格物致知(かくぶつちち)とは何か

八十二口の観行日記:私は師匠の言う方法に従って静中定(静座中の禅定)を修習した。呼吸を観じることから始め、心が静まった後、「色身は我にあらず」という念を心に置いて観じながら、同時にぼんやりと言葉を離れた状態に入った。徐々に身体が覚知心から遠ざかっているように感じられ、少し安立(安定)できなくなった。坐禅を解いた後、身体は軽快で安らぎ、まるで大夢から覚めたようだった。以前のように疲労を感じず、ただ頭部が少し締め付けられ痺れる感じがし、しかも10分以上続いた。師匠のご指導に感謝する。仏法を学ぶとは、まず決意して自身の意根の習気を変えることだ。目標ができた後、心は随分楽になった。

評:格物致知という言葉がある。意味は、心がただ境界と分離し、境界に粘着せず、境界に執着しなければ、境界に染められ局限されることはなく、境界の外に跳び出て客観的に境界を見返すことができ、客観的な結論と見解が得られるということである。心が境界とぴったりと貼り合っている時は、往々にして境界に心智を覆われ、ただ境界相だけを見て、真理や事実を見ない。

禅定中の観行はまさに格物致知である。心を法から引き離し、それによって無言語の状態で再び客観的に法を審視し観察する。主観性がなければ、徐々に以前とは異なる客観的な発見があり、客観的な真理を認識し、それによって解脱の境界の智慧を生み出すことができる。主観的能動性は意識のものであり、客観的感知審視は意根のものである。格物とは、意識を動かさずに、意根に自ら感知させることである。そうして初めて公正・客観・如理(真理にかなった)な発見が得られ、物事は皆そうではなかった、元々全て間違っていたと分かるのである。

禅定と観行を修めなければ、永遠に格物致知することはなく、永遠に意根の我見我執を変えることはなく、永遠に愚昧無知の中にあり、解脱の期はない。禅定と観行という難関は、どれほど難しくても突破し、必ず決心して突破しなければならない。そうしてこそ、自らが一生、多生にわたって仏法を学んだことに報いることができる。実証し解脱を得ようとするなら、他に道はない。ただこの一筋であり、迂回することはできない。遅かれ早かれ通らねばならず、早く通る方が遥かに良く、多くの苦しみを免れる。

七、禅定の功徳

如曌の観行日記:今日、左足を組んで30分、右足を組んで30分坐禅した。坐禅を組み、まず一遍、楞厳咒(りょうごんしゅ)を誦した。その後、心を凝らし気を静めて呼吸を観じた。まもなく全身が持続的に熱くなり、四肢と顔面に汗がにじみ出た。口の中には絶えず津液が分泌され、丹田の熱さは感じなかったが、一息ごとに非常に深く吸い込み、小腹は自然に膨らんだ。観察が深まるにつれ、より深く吸い込んでいるようだった。左足を組むのと右足を組むのとでは、身体の感覚や鼻孔の吸気量が異なるようで、身体の感受も完全には同じではなかった。個人的には現在、左足を組む方が心がより定まりやすく、観察時間も長い。

生活では非常に呆けて遅く、大部分の事は心に入らず、多くの瑣事は覚えていられない。時々、頭を使うべき時に突然詰まったように感じ、心の中で何を考えているのか分からなくなる。人と話す時、相手が何を表現し発散したいかは分かるが、相槌を打つ言葉さえ出てこず、むしろ口を開きたくなくなる。自他に苦受(苦しみ)がある時は、苦受の由来を思惟し、徹底的に集(苦の原因)を断ち苦を滅したいと思う。

評:心念が集中すればするほど、身体の中の気は集中し、エネルギーは集中し、それによって気機が発動し、全身が熱くなる。禅定が非常に深い人は、身体が寒熱に鈍感になり、冬は多く着る必要がなく、夏に多く着ても熱く感じず、冬夏一衲(いちのう、一枚の衣)、常に着替える必要はない。禅定はある種の浮ついた気を消し、重要でない事には心を用いなくなり、ましてや権勢に趨(おもむ)きへつらうことはなくなる。最初は言葉や動作が不器用に見え、行動力は弱いが観察力は深く透徹し、心細やかで敏感になる。人を見事を見るのは以前より正確で細かくなり、騙されにくく、大智若愚(たいちじゃくぐ、大いなる知恵は愚かに見える)のようだ。実は心が小事に用いられず、真の智慧が徐々に向上しているのである。

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