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四念処の観行体験

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 50

第一章 四念処観行の理論(2)

十三、どのように観行すれば心は空となるか

四念処を観じ、身念処を観じ、呼吸を観じて既にしばらく経ったが、自らの呼吸現象について何か発見や体得はあったか。部分的な呼吸から全身の呼吸へ、呼吸の微細な点から全過程の観察に至るまで、何か観じ取れたか。呼吸の生住異滅という無常を非常に明らかに感知できたか。身体全体の状態に対して、生住異滅の感覚はあるか。色身への認知が幾分か空じたと感じるか。

より真実の体得を得るには、観察過程において意識的な思考分析を極力伴わず、客観的に感知し、自ら体験し、学んだ理論知識を全て忘れ、純粋に個人の感知に徹することである。観行時には、高所から着眼し、全体を把握した上で、再び全体を一点に凝縮して観じる。感受と融合せず、受覚のみに注視せず、身心を分離して感知し、心を身体から跳び出させ、感受から跳び出させ、呼吸から跳び出させる。心と身を完全に分離させて初めて客観的真理と事実を発見でき、俯瞰し、見下ろし、鳥瞰するように、あたかも自分とは無関係な客体を観るが如くであれば、身体を客観的に見つめ、呼吸を客観的に見つめ、身体に現れる一切の現象を客観的に見つめることができ、そうすれば色身の生住異滅の現象を容易に発見でき、心は空じやすくなる。

十四、如何に修道の良好な習慣を養うか

一定の時間と精力を費やして修道の良き習慣を養うことは非常に価値がある。あたかも量産のために時間と精力とコストをかけて金型を製造するようなもので、この時は心血と時間を費やすが、一旦金型が完成すれば、その後製品を生産する際には極めて多くの時間とコストを節約でき、いわゆる事半功倍、少なくとも四倍から無数の倍の時間とコストを節約できる。これは非常に価値がある。修道の習慣を養う段階は非常に苦労が多く、成ったり敗れたり、進んだり退いたりし、堅持し続けるのは容易ではない。この時は傍らに人を置いて督促し、互いに伴い督促し合えれば幾分かやりやすい。養うべき良き習慣にはどのようなものがあるかは、各自が自身の状況に基づいて意図的に選択を加え、法理と修行に合わない世俗の習気を改め、修道者の良き習慣を養うことである。

観呼吸は観行の最初の着手点であり、正しい覚観と正知正念を養う比較的良い方法の一つである。細微に至るまでの観察力と反観力を養い出し、世俗の不良な習気を効果的に対治できる。日常生活において自らの心念にどのような変化があったか、人・事・物に対する態度に変化はあったか、心念は幾分か清浄になったか、色声香味触法への執取は軽減したか、いくつか意に沿わないことに出会っても幾分か随縁できるようになったか、あまり批判的ではなくなったか、人間関係は幾分か改善され親和力が生まれたか、心性は幾分か善良になったか、心境は幾分か平穏になったか、良からぬ心思いを用いることは減ったか、人は幾分か篤実になったかを点検せよ。

もし点検の結果、自身に確かに上述の種々の変化があったと分かれば、それは修行が正しい道を進んでいることを示し、四念処観行が効果的であることを示す。絶えずあらゆる面から自らの心行を点検し、適時にまとめ、善を知り悪を知り、良好な成果を保持し安定させ、不良な習気を改善し、良き習慣を養う。そうすれば善根と福徳はますます厚く積み重なり、戒・定・慧はますます増進する。

十五、昏沈定と清明定の区別

昏沈定とは坐禅時に一種の半睡半醒の状態にあり、ぼんやりとして朦朧とし、心は清明ではなく、所縁境がなく、覚照力・覚観力・覚知力がなく、あたかも一種の休息養心の状態のようで、身体は比較的快適に感じるが、観行の智慧はない。もし心中に所縁境がなければ、無念無想となるか、あるいは昏沈して思考力もなく、観行力もない。この定中に覚受を貪り執着すれば、禅定の進歩は非常に遅く、心境は幾分か良くなるかもしれないが、智慧の生起には何の役にも立たず、正定には属さない。昏沈定は正定ではなく、観行の智慧を生起させるのに十分な定力がなく、従って智慧力もなく、智慧力がなければ心中の無明煩悩を破ることができない。

一方、清明定とは坐禅時に内心が清醒かつ清明であり、心に所縁境があり、所縁境に対して覚照力・覚観力・覚察力があり、定慧等持であり、正定に属する。十分な定力があり、境界に対して智慧観照を生起させ、それによって無明を破ることができる。清明定は正定であり、定中に心は智慧の力を持ち、智慧の火花を生じさせ、煩悩を降伏・断除し、一念の無明を突破できる。

昏沈定中に心が正念を提起できれば、清明定に転換できる。清明定が長時間続き、心が疲労すれば昏沈定に転換することもある。心の清明を保持するには、第一に身体を調順にし、気血を円滑にし、精神を充実させ、心中に正念を保持して失わないことである。身心は相依し、身体の気血運行が円滑であれば、心は軽快で愉しく、入定しやすい。そして心力を丹田に集中させれば、丹田が暖まり、気血を全身に送り届ける。気血が通じれば、心は定まりやすくなる。

思惟観行中に昏沈定に入ると、観行は停止する。もし四念処経に従って修習し、心中に常に一つの所縁境を保ち、失えば再び拾い上げ、昏沈すれば清醒し、心中が常に清明であれば、禅定と智慧の向上は共に非常に早い。心に禅定がある時、観行の法義は明瞭である。禅定がない時はぼんやりとしてあまり明瞭ではない。禅定が阿含解脱や般若唯識の観行智慧を引生するのは、まさにこの原理である。ある者は曲解して、証果明心には禅定は不要だと主張するが、物を探す時でさえ禅定が必要である。定がなければ物がどこにあるか思い出せないのに、ましてや生死の大事を、どうしてごたごたした心で解決し処理できようか。

十六、何を正念入息、正念出息、正念而住というか

現在観修している法に対して、専注し、一心で、雑念がなければ、それが正念である。正念とはすなわち、現在保持すべき一つの念、現在の所観境と一致する念、また現量の念である。例えば観行入息の時、注意の全てが入息にあり、始めに鼻の穴から息が入ってきてから、息が丹田に運行するまで、全過程を専注して一心不乱に観じる。ただ客観的に単純に観じ、思考分析推理想像などの意識の活動はなく、ただ単純に知るのみである。他の法は一切気にせず、心を用いず、身体の覚受がどうかも観ず、心念は覚受に置かず、ただ入息に置く。出息の時も同様である。出入息の時は全てこのようにする。他のいかなる法を修する時もこのようにする。これが正であり、正しく理に適った用功の方法である。心を専一にし、定慧等持し、偏らず、初めて道に入れる。

十七、正知而住の結果は何か

毎日毎時毎刻に一つの知を保持し、定があり慧があり、正知而住する。これは四念処経において仏陀が教えた観行の方法である。一つの知を保持する、これは意識の自証分である。観る法を知り、絶えず観察し連続して知る。すなわち意識を観察する一つの所に拘束し、心を散乱させず、禅定の状態に置く。意識が散乱せず、一法に定まるため、意根は意識を引き動かせず、やむを得ず一法に定まり、再び多くの法に縁って散乱することはできない。すると意根は意識が観察し知る法を知り、意根はこの法を思量し、長い時を経てこの法の実質が何かを明らかにでき、真相を発見し真理を明らかにする。これは意識の知から意根の知への過程であり、また証法の過程である。意識の知は解であり、意根の知は証である。故に証法は必ず意根の証である。

意根が法を知り証して初めて実質的な作用力がある。例えば自ら犯した過ちについて、意根が知らなければ、ただ意識が知っているだけでは、こういう状況が現れる:意識は過ちを知っているが、繰り返し犯して改めない。もし意根が過ちを知れば、痛く改めて前非を悔いる。また例えば人に対する時も、人に対して真に良いのか偽りに良いのかを容易に発見しやすい。意識は人に対して偽心偽意であり、意根は人に対してこそ真心実意である。

もし真に自らの過ちを改め、貪瞋痴の煩悩を降伏させたいならば、時々刻々に覚察を保持し、自らの身口意行を省察し、長期にわたり冷静かつ客観的に観察し、局外に立って観察し、高所から俯瞰して観察すれば、自らの過ちと貪瞋痴の煩悩を観察し、自らの心行が非常に法にかなわないと感じ、法にかなわない結果が非常に良くないと知るだろう。意根も自らの煩悩習気に気づいた後、思量し、思量の後に得失を量り、得失を量った後に利害と因果を知り、そして貪瞋痴を改め、以前のようにはしないと決心するだろう。

もし長期にわたり一貫して観察思惟しなければ、意根を観察する法に定めることができず、意根は依然として至る所に攀縁して散乱し、法を知らず証せず、自らに煩悩があることを知らず、煩悩を降伏させることもできない。これが正知正念を保持する結果であり、意根の覚悟を呼び覚まし、意根に法を証させることができる。

ある者はなんと禅定を修めずに毎日観を叫んでいるが、このような観で何を観じ出せるのか。例えば一人で十人の子供の世話をするのと、専心して一人の子供の世話をするのとでは、その精細度はどれほど異なるか。一人で十方向の敵を観察するのと、専心して一方向一箇所の敵を観察するのとでは、その精細度はどれほど異なるか。一人で同時に十の問題を考えるのと、専心して一つの問題を考えるのとでは、その精細度はどれほど異なるか。もし禅定がなければ、意根は種々の法に至る所に攀縁し、祂は比較的価値ある一つの問題を専一に思考する心思いがなく、この価値ある問題に対して理に適った観察と思量がなく、正しく理に適って認知することができず、合理的に法に適って対処することができず、容易にいくつかの問題を看過し、抉択に誤りを生じ、結果は誤りとなる。故に心中に常に一つの知を保持すれば、次第に智慧の認知が生起し、それによって自らを改め自らの智慧を向上させることができる。

十八、観行の過程と結果

観行呼吸を観じて心が静まった後、呼吸システムが自動化プログラムのようであり、無情物とほとんど変わらず、あたかも身外の物のようであることに気づくだろう。ついには身体も無情物のように我ならず我所有ならずと感知するようになる。これが修道の進功であり、まさにこの効果を求めるものである。以後さらに多くの新たな発見があり、このような量変から質変へと移行する。質変の時には、五陰身が全て虚偽幻化のものであり、無常無我の空であることを発見するだろう。次第に心は肉身から離脱し、感覚から離脱し、自身は二つの部分に分かれる。一つは観じられる無情の色身組織システムであり、あたかも硬直した機械のようである。もう一つは観じる識心であり、動転は非常に遅く、情緒情執はますます微細になり、心境はますます安定して平静になり、受もますます少なくなり、ただ一つの単純な観と知のみとなり、覚察力はますます強大になり、心はますます細微に至り、発見する真相はますます多くなる。さらに後には、能観と所観がますます機械的になり、ますます空じ、ますます無我となり、無明はますます薄くなり、ついに無明を破り、我見を断除できる。

十九、観行の功夫と煩悩断除の関係

いかなる法を観行するにせよ、証得しようとするならば、観行の功夫を一片に連ねなければならない。どうすれば功夫を一片に連ねられるか。坐禅静止中に修得した禅定の功夫を、身体活動中に延伸し、一日二六時中に延伸し、心心念念、間断なくすることである。下座後もなお観行を継続し覚知を継続できるか、行住坐臥において全て観行を継続し覚知を継続できるか、まさに眠りにつこうとする時もなお観行を継続し覚知を継続できるか、さらには眠った後夢中でもなお観行と覚知を継続できるか、あらゆることをする時に全て観行と覚知を継続できるかを、自ら注意深く観察せよ。もし自らの観行の功夫が断続的であり、心念がしばしば思わず世俗法に流注していると観察したならば、絶えず自らに注意を観行に転じるよう促し、切れたら接続し、極力功夫を連続させるようにする。

もし行住坐臥において、心念の全てが自らの色身上の観行にあり、あるいは心念の大部分、主要な心念が自らの色身上の観行にあれば、そのような定力は相当に良い。もし一切時中に、覚知があり正念があれば、功夫は一片に連なり、そのような定力は未到地定を具足し、我見を断つに十分である。観行と覚知の功夫が一片に連なった時、心心念念自らの色身にあるため、再び心で戒を犯すことはなく、再び心で悪業を造作することはなく、この時心は清浄になり、煩悩は淡泊になる。故に禅定は煩悩を効果的に降伏・断除できると言う。

見道の前には、必ず未到地定を具足しなければならない。未到地定を具足した時、欲界の粗重な五品の煩悩は断除され、この時初果向となり、初果は遠くない。もし未到地定がまだ具足していないか、あるいは全く未到地定がなければ、我見を断ち初果を証しようなどと思うな。禅定なくして証果できるというのは戯論であり、現実にはなり得ない。

二十、実修は随時成果を点検せよ

観呼吸の全過程は身体のみに用功してはならず、心にも多く用功せねばならない。何しろ一切の法を修するのは全て心を修めるためである。心は身体の主人であり、身体がある程度調理され心に影響しなくなったら、心に用功せねばならない。心が調理され安らかになれば、身体もそれに従って調順になる。最終的な功用は全て心にあり、身体はこれ以上多くを顧みる必要はない。

観呼吸は心念心行と心性を改めるためのものである。下座後、人との交わりや縁に遭遇する境において、日常生活における自らの心行にどのような変化があったか、人・事・物に対する態度に変化はあったか、心念は幾分か清浄になったか、色声香味触法への執取は軽減したか、幾分か随縁できるようになったか、あまり批判的ではなくなったか、人間関係は幾分か改善されたか、心性は幾分か改善されたか、心境は幾分か平穏になったか、心思いを用いる人事は減ったか、人は幾分か篤実になったか、人に幾分か親和感を与えるようになったかを点検せよ。身心はどのような反応か、どのような心境か、煩悩はどうか、心態にどのような変化があったか。これらは全て観行後の結果であり、最も問題を説明し得る。

心量は大きくなったか、人を容れる度量は増したか、問題を長期的に巨視的に考えるようになったか、衆生への憐憫の度合いは増したか、責任感は強まったか、大菩提心は増したか、道心は堅固になったか。仏教と衆生に心を繋いだか。これらは全て修行を点検する内容である。もしまだ非常に遠ければ、見道はまだ遠く、引き続き努力し、精進して功を用い心を用いねばならない。要するに、あらゆる面から自らの心行を点検し、適時にまとめ、善を知り悪を知り、良好な成果を保持し安定させ、不良な習気を改善せよ。そうすれば善根福徳はますます厚く積み重なり、戒定慧はますます増進する。

二十一、四念処修行の功徳と受用

大念住経に従って修行すれば、定力が絶えず増強し、修するほどに益を得ると感じるだろう。行住坐臥において観呼吸、観色身を堅持すれば、心はますます静かになり、ますます細やかになり、ついには色身の頭から足まで、内から外までの全ての変化現象を観察でき、心は非常に鋭敏で智慧がある。これらは全て禅定があるためである。もし禅定を修めなければ、心は非常に粗雑で、色身の内外のいかなる状況も観察できず発見できず、特に自らの内心の貪瞋痴の煩悩、種々の無明は、第一に発見できず、第二に降伏させられない。故に必ず禅定を修め、四念処を修め、観行の智慧を増長し、煩悩を降伏させ、悪業を造らずあるいは少なく造らねばならない。

四念処の修行過程において、心はますます静かになり、ある程度静まると、因縁時節が具足し、一つの法一つの因縁に接触すれば、即時に反観と参究ができ、意根のあの言語文字や音声のない思量性が起用し、そこで直ちに霊感を得て、法を証得する可能性がある。禅定を良く修めれば、心は非常に伶俐で、専注力が強く、時々刻々に観る法に縁を置き、自らの身心の内外を了知できる。外にいかなる境界が現れても、心中ははっきりしているが、無視し動心せず、自我の存在感がなく、自らを大したこととは思わない。内心に煩悩が現れても心中にはっきりと了知しているが、煩悩に随って業行を造作することはない。これが禅定の功徳であり、心は清静で、煩悩を降伏させられる。

煩悩が幾分か微細になれば、世間への貪り執着は減少し軽減し、より多くの時間と精力を費やして再び世俗の事業に取り組むことを好まず、多くのことは全て重要ではないと感じ、一心に道に向かい、願力は広大になり、修行も正軌に乗り、見道は時間の問題となる。

二十二、四念処修行は無明の知から明の知への過程である

この四念処経はただ禅定を修める経典ではなく、止観が同時に運行する経典でもある。止観の結果、智慧が生発する。この慧とは我見を断つ智慧、法眼が清浄を得、心が解脱を得る慧である。いわゆる解脱の慧とは、観察を通じて、観る法に対して如実に正観がある程度に至ると、無明の知から明の知へと変わり、元の知は法に対して明らかでない無明の知であり、今の知は法の真諦を明らかにした明の知である。観るこれら一切の法、五陰身心が全て生滅し、無常であり、変異し、苦であり、空であり、無我であることを明らかにする。この時小乗の解脱の智慧が生じ出し、貪瞋の煩悩を断除した後は心が解脱できる。

故に四念処を観行するには、心中に時々刻々に一つの正知を保たねばならず、しかも心が止まっている時の知であって、心が散乱している時の知ではない。この二つの知には区別がある。心が止まっている知には意根の知があり、心が散乱している時は意識が散乱している知である。散乱の知は全て無明の知であり、心が止まっている知は、無明が次第に減少し、無明の知から次第に明の知へと転換でき、智慧を開き解脱を得られる。

心が散乱している時の知は、全て意識の機能作用が現れている。心が止まっている時の知は、意識がはっきりと知るだけでなく、意根が明らかに知り、意根の深い思量作用があり、そうして初めて我見を断ち、法眼清浄を得られる。これは仏が我々に教えた修行方法であり、意識心で思惟・分析・考量・比量・推理する方法は一切用いない。全ての法は現量で存在し、本来そのようなものであり、ただ了知を保持すれば、ある時点で世間の真諦を明らかにできる。

観る法に対する無明の知は、現象界に落ち込み、現象界を真実と認めることである。明の知は、現象界の生滅と真実でないことを知ることである。中間の観行過程が重要であり、無明から明への転換が重要である。現象界の背後にある理を観察するのは明の知であり、意根が明の知の時、必ず定慧等持の三昧が現れる。この過程は長くなるかもしれない。前世の基礎が弱ければ、今世はより苦労する。観呼吸の修習過程においては、楞厳経の周利槃陀迦の観呼吸方法を参考にせよ。周利槃陀迦は観呼吸において鼻端を離れず、非常に専一で、ついに四果を証得し、さらに四禅定を修得した。

二十三、明の知と無明の知の区別

無明とは内心の晦昧無知であり、五受陰の苦空無常無我を知らず、五陰世間の生滅変異を知らず、諸法の本質相貌を知らず、諸法が全て如来蔵から幻化されたことを知らず、因縁果報の理を知らない。要するに、無明とは真実の理法を知らず理解せず、一切の妄法を我と我所として執取することである。これらの無明を伴った知は、無明顛倒の邪知である。

もし観行を通じて五受陰の苦空無常無我を実証し、諸法の真実理を実証し、無明を断除し、再び迷惑顛倒して一切の法を執取しなければ、五陰に対する知、諸法に対する知は明のものであり、明の知と呼ばれる。もちろん明にも階級の差別があり、段階と程度があり、最初の明と最後の明があり、明は次第に明らかになり、ますます明らかになれば、ますます智慧が増し、ますます解脱する。

明はまた意識の明と意根の明に分かれる。意識の明は比較的容易で、仏法を理解し通徹すれば、意識は明らかになる。しかし意根の明は必ず実証の後に初めて現れ、意根の明は理解や単純な思惟によって現れるのではなく、必ず禅定の中で絶えず参究し、絶えず思量して、初めて頓悟し、頓に明らかになる。意識の明は漸明であり、漸修すれば漸明し、漸明は解の結果であり、真実の智慧ではない。

意識が理を通徹するのも相当に容易ではなく、故に意識の証果も同様に困難である。多くの者が思うように、思惟し解くだけで意識が証果するのではない。それは意識の証果には程遠く、意根の証果はさらに遠い。証果がそんなに容易なものか。無明はそれほど深重であり、遮障はそれほど大きく、煩悩はそれほど重く、智慧はそれほど浅薄である。良い凡夫となるだけで十分であり、自らを改めず、一部の煩悩と無明を消し去らず、生まれ変わらなければ、証果など語るな。証果からは実に遠い。

二十四、四念処の身・受・心・法と五蘊の間の対応関係

両者はまさに対応関係にある。四念処の身は五蘊中の色蘊であり、四念処の受は五蘊の受蘊であり、四念処の心は五蘊の識蘊・行蘊・想蘊であり、四念処の法は五蘊十八界の修行の法である三十七道品である。故に四念処を観行すれば、五蘊は解脱を得る。

仏法は全て相通じ、殊途同帰であり、全て一つの道理であり、ただ述べる角度が異なるだけである。述べる角度は異なるが、その結果は同じであり、それは我見を断ち解脱を得ることである。各自が修行時に選ぶポイントに差はあるが、結果に差はない。いかなる一点から入っても、全て目的地に通じる。方法さえ正しければ、必ず究極の目標である高山の頂上に到達できる。高山の頂上に立って山の下の四方を見下ろせば、全ての道が頂上に通じており、山全体を一周する必要はない。一つの道に沿って頂上に登れば、全ての道が一目瞭然である。故に成道の者は、何を尋ねても答えられ、いかなる道の衆生にも方向を指し示せる。大乗法、小乗法、世間法外道法、戒定慧、一切の修法を全て導ける。この時こそ名実相伴う善知識であり、徳と才を兼ね備える。

二十五、なぜ観行は我見を断つことができるか

例を挙げて観行という問題を説明する。例えば子供は皆玩具が好きである。ある子供は一つの玩具を得た後、手放さず、何年も好きで飽きない。このような知能は憂うべきである。一方ある子供は手に入れた玩具に好奇心でいっぱいで、分解して組み立て、組み立てて分解し、ついにこの玩具は所詮この程度だと分かり、興味を持たなくなり、そして別の玩具に替え、ついには他の全ての玩具に対して全てこのように、分解し分け、内から外まで見極め、見極めた後は好奇心も興味も持たなくなる。年齢と見識の成長に伴い、ついにはいかなる玩具にも興味を持たなくなる。これはこの子供の心智が既に成熟したことを示す。

衆生はあたかも子供のようであり、五陰という名色の玩具も好きで、多生多劫、無数の無量劫にも渡って手放さず、貪愛が止まず、五陰身に縛られて死死しく、自在を得ず、苦痛を味わい尽くした。如何にして束縛から解脱するか。心智が成熟した子供のように、五陰世間を分解し破解し、五陰の実質を見抜き、五陰は実は苦であり、空であり、無常無我であることを知り、それ以外は何もないと知るべきである。もし衆生に大乗の心智があれば、五陰の実質は空なる如来蔵であり、五陰のような法は全くなく、五陰は如来蔵から生じた因縁所生の法であり、因縁が滅すれば五陰身も滅し、自在でないことを見抜く。この心智が最も成熟したものである。

大多数の衆生は五陰に執迷し、五陰の中に浸り抜け出せず、あたかも玩具に執迷する子供のように心智が成熟せず、如何に五陰を分解するかを知らない。そこで仏は一つの方便法を設け、衆生に理に適い如実に観察するよう教え、四念処の呼吸から観を始める。目的はまず呼吸に着手し、合理的に細やかに五陰を分解するためである。理に適った作意で深く観行し、現地で現観する。これが最も簡単で効果的な観行方法である。

ある者は観呼吸を観じるうちに、五陰が観破られ、この一点から色陰を窺い破り、元来色陰は苦空無常無我であり、これ以外何もないことを見極め、そこで身見を断つ。ある者は身見を断つと同時に、一気に他の四陰も一緒に分解し、五陰全体が苦空無我であることを見抜き、そこで我見を断つ。心智がさらに良ければ、五陰を内から外まで明らかに透徹して観、煩悩を頓に断ち、直接に四果阿羅漢を証得する。

故にこの観行は五陰を分解して小乗解脱を得る非常に良い方法であり、衆生であるこれらの子供たちの心智を早く成熟させ、五陰を厭離し、生死の苦から解脱させる。肝心なのは観じることであり、観じるのは理に適い如実でなければならない。これも衆生の心智と定力による。衆生の定慧に差があるのは当然であるが、焦る必要はない。長く観行を続ければ、日久しく功深く、遅かれ早かれ五陰を透徹して観じ、再びそれに惑わされ縛られることはなくなり、解脱は遅かれ早かれのことである。

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