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四念処の観行体験

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 2108

第三章 白骨観の観行体験

一、三昧は意根の現量境界(一)

如峰の白骨観日誌:座禅の後半、眼前にはっきりと血管の中の血液が流れているのが見え、見たくなくても脳裏に浮かぶ。座を下りて目を閉じ手掌を擦る時、眼前に赤い塊が現れ、中は橘の房のようで、果肉がまだ蠕動していた。さらに手掌を擦り続けると、赤い塊は白く輝き始め、中に立体映像が現れた。拡大された汗孔と毛髪、皮屑、赤い腫れ物と炎症を起こした汗孔で、非常に不快に感じた。座を下りて手掌を擦ると映像が出るのは、これはどういうことか?

評:この観行日誌に描かれた現象は定中独影境に属し、定境法塵である。定境法塵は独頭意識が現量で了別したもので、比量ではなく非量了別でもない。最初に座禅に入り白骨観を観行する時は、独頭意識による非量的な白骨観の想像であり、長い年月をかけて意根を薫染し、意根が現量で白骨観の境界を呈するに至った。

意根が現量で呈する境界こそが三昧境界であり、三昧には禅定と智慧が含まれ、定慧等持の境界である。この観行の結果には必ず智慧が生起し、智慧のないものは最終結果ではなく中間過程である。定中独影境は意根が現量で呈したもので、独頭意識が再び現量で白骨現象を了別する。意根が薫染を受けると現量で自らが認知する境界を呈し、意根が何を認知するかによって如来蔵はその境界を現じ、独頭意識はその境界を了別する。これが三昧境界である。

三昧境界では定が非常に強く、慧も非常に強い。定は容易に理解できるように集中を意味するが、慧とは何か?ここでの慧とは、五陰身の肉体が白骨の集まりであると認めることである。意根が認めると白骨観は修得成就する、あるいは中間過程が成就する。最終段階まで修めると白骨は微塵となり、最後には微塵も消滅する。これらは全て意根が現量で証得した境界である。

座を下りた後もこのような定境法塵はあるか?心が散乱しなければ依然として定中にあり、三昧状態にある。行住坐臥には白骨が呈される。前五識は了別できず、五倶意識も了別できず、独頭意識のみが了別できる。三昧境界は全て独影境であり、個人が単独で修得したもので個人所有に属し、公共の外法塵や外五塵はないため、他人は見ることができない。

あらゆる三昧は、定境の三昧であれ、定と智慧が等持する三昧境界であれ、全て意根によって発起される。意根が薫染に成功していなければ智慧は生起せず、三昧境界は現れない。念仏三昧という定境を含め、意識が念仏し、意根を薫熟させると、意根は自動的に自覚的に念仏する。意識は念じずとも意根が念じる。定境で意識が疲れたと感じて念仏したくなくなっても、意根はすでに念仏に慣れているため、自ら念仏を続ける。無言語・無音声の念であり、これは独影境で独頭意識のみが聞くことができる。意根は意識が念仏したいかどうかに関わらず自ら念仏し、意識が制御しようとしても制御できなくなる。この時が念仏三昧境界に属する。

念仏三昧境界にある時、行住坐臥で何をしていても、念仏の声が耳元に現れるように感じるが、実際は心の中に現れ耳元ではなく、音声もなく、ただの意念に過ぎない。念仏の声は意識が唱えるのではなく、意識は唱えたくないのに念仏の声を聞かねばならない。この念仏の声はどのように現れるのか?意根が念仏し、如来蔵がそれに従って念仏の声を現じるのであり、意識の制御によるものではない。意根には言語文字がないが、独頭意識は念仏の声を了別でき、聞きたくなくても聞かねばならず、聞き続けねばならない。

我見を断って証果する時は、法眼浄を得る三昧境界の一種であり、そこには未到地定と苦空無常無我の無生智慧が含まれる。この智慧は誰が現じるのか?意根が現じるのである。意識が普段観行して意根を薫染し、意根が四聖諦の理を思量し、最終的に五蘊が苦空無常無我であることを証得する。すると法眼浄の三昧境界が現れる。禅定の中で意根が理にかなった結果を思量すると、智慧が生じる。この三昧は意根によって現じられ、独頭意識が現量で了別する。したがって、いかなる実証法も意根と意識の現量証であり、意根が現量と相応する。比量や非量はなく、意根が能動的に現じた法のみが現量であり三昧である。

意根が我見を断ち証果した後、三昧境界にあると覚明の現象が現れる。三昧がなければ覚明現象はない。覚明現象は意根がかつて知らなかった境界に触証し、心が興奮驚喜して引き起こされるもので、意識では起こせない。覚明が現れる時は禅定三昧状態にある時であり、禅定がなければ覚明はない。三昧では煩悩が非常に微細で、現起しないと言え、全てが降伏され、身心は軽安で覚受は非常に良く、睡眠は減少する。禅定中は気血が通暢で精満神満となり、欲望は降伏され、睡眠は非常に浅く、睡眠蓋がないと言える。一日に三、四時間の睡眠で十分であり、これが意根が現じる三昧境界である。

明心も同様であり、意根が本心を証得した後も三昧状態にあり、行住坐臥が全て定中にある。般若智慧が生起し、煩悩は非常に微細で、覚明も現前し、身心は非常に軽安で快適、自在であり、睡眠も非常に少ない。神満で眠くならず、心境は愉悦で、この状態にあることは全て三昧境界に属する。

もう一つ真如三昧があり、証得する時も同様である。実際、真如三昧は無生法忍の智慧境界、すなわち道種智・唯識種智に属し、悟りを開いたばかりの者が証得できるものではなく、初地に入って初めて証得できる。真如三昧とは何か?一切法の真如性と唯識性を証得すること、それが真如三昧である。

一切法において自らの本心の運転を見ると、一切法は真如の性質であると知り、一切法は真如であると知る。この時、初地に入り、法無我を分証し、無生法忍を分証し、一真法界を分証し、大乗の解脱を分証する。分証即仏とも呼ばれ、この時に初めて真如三昧がある。初地以前は一切法の真如性を証得できず、唯識種智がなければ一切法上の真如を見ることはできず、真如三昧の智慧は相当に深細である。これ以前には、無生忍の般若智はあっても唯識智はなく、無生忍の智慧は真如三昧の智慧に比べて非常に浅い。

思考問題:我々が普段全く見ることのできない現象が、座禅の時にはなぜ見えるのか?どの識が見るのか?見るのはどのような境界か?座禅をしない時も見えるのか?

二、三昧は意根の現量境界(二)

白雪雪の白骨観行日誌:朝、目を閉じて座禅すると、右足の踝の骨が少し痒く感じた。突然(目を閉じて見える)踝の骨の痒い部分が爛れているのが見えた。観想で指で一撫ですると、全身の肉が落ち、骨格だけが残った。しかし上には黒赤い血の糸と肉の糸が掛かっており、白骨観の最後に現れるような真っ白な骨ではなかった。

これは白骨観の中間過程に過ぎず、まず皮が落ち肉が落ち、まだ筋と骨が残っている。次第に現れるものであり、何もないところからいきなり白骨を観照することはできず、功夫は一歩一歩進む。これは中間段階であり、今後さらに進んだ境界が現れ、その後初めて白骨が現れる。その時、白骨観は成就し、証果する。

評:最初の観行では、独頭意識は非量の方法で少しずつ契入するか、非量の方法を用いて求証できる。眼識と意識は白骨を見ず、独頭意識が身体の白骨の様子を想像する。これは非量であり、この非量で意根を薫染する。困難ではあるが、最終結果は事実であるため、意根はいずれ事実を見る。薫染に成功すると、意根は身体が白骨であると認め、白骨境界が現量で呈される。これが意根が現量で観たものである。

五蘊を観行する際にも、独頭意識の非量から意根の現量証得の境界への移行がある。例えば過去世の色身や未来世の色身を観行するのは意識の非量想像に属するが、最終的に意根が薫染成就し、過去と未来の五蘊が空であることを証見し、五蘊無我を認めると証果する。

なぜ意根が現じるものは全て現量境界なのか?意根の全ての認知は如来蔵によって呈じられ、如来蔵が呈じる法が何であれ、意根は親縁する。何であるか意根はそれを知り認めるため、意根の了別は現量境界であり、比量も非量もない。この時、独頭意識も現量的に認知する。意識が観行する時は現量がないかもしれず、比量や非量があるかもしれないが、意根が薫染された後は必ず現量境界の認知である。

現起した白骨観境界から観察し、三昧境界から観察すると、誰が先に法を証するかが分かる。間違いなく意根が先に法を証し、独頭意識が後に現量で了別する。意根は瞬間の頓悟であり、頓悟後智慧が生起し、以前の智慧認知とは全く異なる。この時、腿を叩いて「なるほどそうだったのか」と言う可能性がある。腿や額を叩くのは驚きの表れであり、かつて知らなかった事理を知り、以前の認知を覆す。これを頓悟と言い、突然に悟るのである。

一切法の証得には三昧境界が現れる。頓悟の時は三昧境界が現前しており、頓悟ではなく次第に悟るのは、意識が思惟によって少しずつ悟るが、究竟まで悟ることはなく、法の奥義は依然としてはっきりしない。意根が証する時は一瞬で明らかになり、是は是、非は非であり、非常に確かで虚偽がない。

白骨観の三昧境界及びあらゆる三昧境界は、五識が如何に努力しても見えず、五倶意識も見えず、独頭意識のみが見える。現量了別するのは必ず現量境界である。白骨は五識が見えず、五倶意識も見えず、独頭意識と意根に現量智慧がある時に初めて見える。六識が白骨を見られない時、白骨観は非量的観行であり、白骨を想像している。白骨が実際に現前した時、独頭意識と意根が共に現量了別する。これにより、全ての証は現量境界であることが分かる。比量や非量で憶測された境界であれば、証はなく三昧境界もない。証果と明心、一切法の証得は全てこの原理であり、実証と推理思惟の関係は我々が非常に明らかにすべきであり、今後如何に用功すべきかも非常に明らかである。

三、定果色は意根の現量実証境界

白雪香の白骨観観行日誌:朝、目を閉じて座禅すると、右足の踝の骨が少し痒く感じた。突然(目を閉じて見える)踝の骨の痒い部分が爛れているのが見えた。観想で指で一撫ですると、全身の肉が落ち、骨格だけが残った。しかし上には黒赤い血の糸と肉の糸が掛かっており、白骨観の最後に現れるような真っ白な骨ではなかった。

これは白骨観の中間過程に過ぎず、まず皮が落ち肉が落ち、まだ筋と骨が残っている。次第に現れるものであり、何もないところからいきなり白骨を観照することはできず、功夫は一歩一歩進む。これは中間段階であり、今後さらに進んだ境界が現れ、その後初めて白骨が現れる。その時、白骨観は成就し、証果する。

評:以上の白骨観境界は全て定中に現れた境界であり、定果色と呼ばれる。禅定によって引き出された境界は全て現量境界であり、実証境界である。意識の想像思惟作用は一切なく、全て意根の現量観行境界である。意根がどのような思想観念を持ち、どの法を認めるかによって、その境界を呈する。偽りはできず、作主識はこのように威厳と勢力を持つ。定中で踝の骨の肉が爛れ落ちるという現象は、自発的に現れるものではなく、意根の現量認知境界であり、意識の想像では現せない。

白骨観が意識の思惟憶測によるものであれば、意識が身体はどのようであるべきかと思っても、身体は言うことを聞かず、決してそのようにはならない。なぜなら意識には勢力がなく、作主しないからである。定果色は意根によって起こり、決して意識によって起こらない。しかし意識は白骨観の前期において、意根を観行境界に導く役割を果たし、意根に対して導き薫染する作用があるため、意識も功績は大きい。

以上の観行は確かに観行の一過程であり、白骨観はまだ完成していない。骨はまだ十分に清浄ではなく、色彩も白浄でない。これは観行者にまだ消えていない業障があり、心がまだ清浄でなく、禅定力がまだ強くなく、さらに深い観行を進めて白骨観を完成させ、我見を断ち法眼浄を得る必要があることを示している。

四、問:白骨観が真に定境に入り、白骨が現前した時、まだ呼吸はあるか?末学は白骨観を長く試みているが、常に意識の中で妄想し、意根境界の骨相を現前させられない。薫習が足りないためか?

答:呼吸を断つことができれば、呼吸という身行がなくなり、必ず四禅以上の定境にある。四禅以下には呼吸現象があり、四禅は含まれない。白骨観を修習する過程は一般に初禅以下の禅定中であり、初禅を含む。もちろん呼吸があり、白骨観を証得し白骨観が現前しても、初禅以下の三昧境界であるため、当然呼吸もある。四禅以下の禅定中には呼吸があり、二禅以上には覚も観もないため白骨観は現前しない。したがって白骨観三昧が現れる時は必ずまだ呼吸がある。

白骨観の全観行過程は、独頭意識で観を始め、絶えず意根を薫習し、意根にも観を持たせることである。意根の観が成功した時、定果色が現れ、白骨観三昧が現前する。この時、白骨観を実証し法眼浄を得る。意根がどの程度薫染されたかによって、その程度の白骨観境界があり、薫染成就していなければ白骨観三昧境界は現れない。

五、観無量寿経の日観の方法で白骨観を修習できるか?

観無量寿経の日観と白骨観の修習方法は同じであり、難易度もほぼ同じで、それほど難しくない。全ての観想求証の方法はほぼ同じである。日観の後の地観と水観は比較的難しいが、日観はそれほど難しくない。しかし観想も容易ではなく、一年二年かかり、二年観ても成就したという話は聞かない。今では皆途中で断念したかもしれない。

真の修行はそれほど容易ではなく、いかなる三昧を証得するのも容易ではない。修行を放棄して生死を流転することはさらに苦しい。比較すれば修行は修行しないより容易で快楽も多い。修行の容易さは当人によるもので、全ては人為による。容易に断念する人は意志力が十分強くなく、修行上何の体験もなく、前途が漠然と感じる。往々にして世間法でも十分強くなく、容易に断念する人は仏法の修証でも同様である。

白骨観は数年観る必要があり、早ければ二、三年で観得できる。これは根器による。娑婆世界で根器が比較的良好な者は非常に少ない。また観像念仏の法門の観もあり、用功方法はほぼ同じである。方法は似ているが、結果として三昧が現れ、観る対象が異なるため証得も異なる。五陰空を観行する者は小乗果を証し、大乗般若唯識を観行する者は大乗果を証す。大乗観行は出発点が高く、小乗の観行基礎が必要である。日観が成就しても証果明心とは暫く関係ないが、禅定力は非常に良くなる。この禅定力で他の法を観行すれば成就は非常に早い。

観無量寿経十六観は第七観で初めて明心できる。前の幾つかの観では明心できず、第三観の三昧境界が現れれば命終時に極楽往生が保証される。白骨観成就は我見を断ち、初果から四果を証得できる。観像念仏観が成就すれば単なる明心ではなく、初地に至る可能性がある。これは各人の智慧証量と禅定証量、各方面の条件を総合して初めて判断でき、観行の着手方法は大差ない。

六、白骨観修行の過程

問:最近数日、全身の骨格像を想像し比較し、全身骨格写真を見ている。脳裏に現れる身体各部の骨格像は、家の様々な物品のように鮮明で、身体が動くと脳裏の全身骨格像も一緒に動く。心は落ち着いていると感じ、頭の散乱も軽減した。この観行は正しいか?

答:これは白骨観の最初の準備作業であり、全て意識が完了する。意識は資料を収集し、整理・分析し、白骨の形象を推導・想像する。しかし意識が如何に推導・想像しても三昧は現れない。これらの行為は現量ではなく、心が如何に白骨がこのようであると確認しても、現量の三昧境界は現れない。意識が如何に観無量寿経の十六観を想像しても、十六観のいずれの現量三昧境界も現れず、最も簡単な日没観三昧すら現れない。なぜなら意根が観熟しておらず、あるいは意根がまだ観を起こしていないからである。

意識が行うこれらの資料収集作業は小秘書の仕事に相当し、これらの資料を完全に詳細に整理した後、意根の上司に提出する。その後はあまりすることがなく、上司の次の指示を待つのみである。意根がこれらの資料を見た後、重要であると感じれば、手元の他の仕事を置き、専らこの資料を研究する。精力を集中して資料を思考すると、次第に資料の具体的な内容が明らかになり、事実を発見する。すると智慧が生じ、三昧が現れる。

上述の意識による初期の作業は基本的に正しい。骨格構造図を比較・観察し骨格を想像する時、意根に情報を伝え薫染している。今のところ少し効果があるが、さらに意識の観想を強化し、意根をさらに薫染し、意根の攀縁を減らし、注意力を集中させ、定力を強める必要がある。意識の観想が非常に鮮明で定力も強い時、意識は観想にあまり力を入れる必要がなく、思惟分析整理帰納のような簡単な初歩的なことは不要である。身念住に保って動かさず、意根に専ら思量させる。功夫は少しずつ積み重ね、次第に水到渠成で三昧境界が現れる。

意識の初期の推論・整理・分析などの作用を究極の証果方法とすることは、あまりにも浅薄である。意識のこれらの作用は我見を断ち証果するには程遠い。全て意識で用功する方法は、過去に現量実証のある禅宗の祖師たちが強く呵責した情思意解であり、智慧ある者はこれを究竟としない。意識の思惟方法が流行すれば、大乗であれ小乗であれ、必ず邪路に陥る。仏教の修証は必ず滅び、修証がなくなり、いくつかの知見だけが残る。次第に知見も不具足となり、仏教は滅びる。

今の人は福徳と智慧がなく、祖師たちがごみ箱に捨てたものを再び掘り出し、宝物のように推賞している。しかし意識証果を推賞することは仏法を破壊する行為であり、意識証果を推し進める者は速やかに懺悔し改めるべきで、これ以上邪路に歩むべきではない。さもなければ結果は想像に難くない。大丈夫は自ら頂天立地し、誤りは速やかに改めるべきで、虚名を求めず、果か否かは誰が言うのでもなく、全て如来蔵が決める。証果の事実に合致すれば、如来蔵は自然に聖人に相応する果報を現じ、誰が否定しても無駄である。同様に、証果の事実に合致しなければ、如来蔵は証果していない凡夫の果報のみを現じ、如何にしても証果聖人の果報は現じない。誰が果位を印証しても無駄であり、大妄語の不可愛果報もあり、最終的に得るより失うものが大きい。智者はよく思うべきである。

七、なぜ白骨観を修すれば我見を断ち初果から四果を証得できるのか?

凡夫衆生は無始劫以来、愚痴無明のため禅定と智慧がなく、五陰及び一切法の観察と認知は粗く表面現象に留まり、実質的で究竟的な意義での観察ができない。そのため色身を実有の法とし、識心の作用も実有の法とし、その苦空無常無我を知らない。これは五陰に対する誤った認知である。白骨観を修習することで定力が深まり、観察力が強く微細になり、色身の生滅変異を鮮明に観察できる。身空の真相が浮かび上がり、全身の肉体は白骨の様相を呈し、最後に白骨も空となる。これで身見と我見を断つ。

全観行過程は三昧状態にあり、色身骨肉の骨相と空相は自然に現れる現量境界であり、意識の空想推論による非量境界ではない。一切の三昧は意根によって発起され、全て意根の現量智慧認知境界であり、意識の比量・非量の成分は一切ない。意識は三昧中では受動的に知るのみで、意根に従って動き知る。三昧以前では意識は能動的な思惟観察作用があり、意根を導いて道に就かせると、禅定は次第に深まり、最初の定境三昧が現れる。意識の作用力は次第に小さくなり、意根の観察思量作用は次第に大きくなる。意根が如実に法を見た後、智慧が現れ、真の定慧等持三昧が現前する。この時証果する。

禅定がなければ意根は色身と五陰に専念して対処できず、如実に思量し法を見ることができず、色身五陰の真実の相貌を知らず、智慧は現れない。白骨観は禅定を生み、禅定は智慧を引き出し、最終的に我見を断ち証果する。最初は不可能に見えた白骨が最終的に心中に現れ、これが定果色である。定果色の白骨を見れば色身が我でないと知り、定慧等持の三昧が現れ、法眼浄を得て証果する。

八、相続不断の観行は意根の功夫

白雪香の白骨観観行日誌:最初に四念処観身不浄の法義を学んだ時、法医解剖のビデオを買い、チベットの天葬の写真も参考にした。夜静かにこれらのビデオや写真を見ていると、意根は意識の眼見に従い、肉体が私ではないという念が生じた。当時の本意は観身不浄を修することだったが、後に常に思惟して得た結論は肉身が非我・不是我・幻我・仮我であり、操り人形であるということだった。毎晩寝る時は身体が私ではないと思惟し、目覚めた時は肉身が私ではないと思惟した。

このようにして二年近く経ち、ある日昼寝から目覚めた時(まだ目を開けていない)、突然足の裏の肉が砂のように流れ去るのが見え、膝まで肉が流れ去った。夢だと思い目を開けると、自分は目覚めており夢ではないと気づき、再び目を閉じた。すると再び身体の肉が砂のように流れ続けるのが見え、頭蓋骨全体が残った。しかし骨は黒く白くなかった。分析すると、黒い骨が見えるのはおそらく情関(両親子供親族など)を突破していないためだろう(最近少し分かってきた)。先日は皆と共修で四念住を行い、単盤で座禅した。座って間もなく、腿の骨の肉が裂けるのが見えた。すると全身の肉が少しずつ落ち、鮮やかな赤い筋がまだ掛かっており、落ちきっていなかった。

評:白雪香の観行功夫は連続不断に行われており、法義が意根に落ちて初めて功夫は連続不断となる。昼は観行でき、夜は観行でき、寝る前は観行でき目覚めた後は観行でき、眠っている時も観行でき、夢があろうとなかろうと観行できる。夢がなければ意根が単独で観行し、夢があれば意根が意識に思惟観行を促す。意識の功夫は断続的で連続不断ではない。意根の観行功夫が連続不断であるため、長時間色身の認知が変わる。一度変わると、色身肉体が私ではないと覚り、肉は骨から落ち骨肉が分離する。これは初期の三昧境界であり、最終的に我見を断つ三昧境界までにはまだ距離がある。見道の因縁条件がもう少し円満になれば、見道は非常に早い。

これは白骨観の観行実例であり、皆に修行の模範を示し、各観行者を激励する。努力精進し観行を続ければ功夫は増進し、必ず我見を断つ。仏は私を欺かない。個人の様々な因縁条件次第であり、主に発心と福徳による。大菩提心を発し、苦を離れる心を持ち、福徳と戒定慧を勤修すれば、観行功夫は日増しに向上し、最終的に成果が現れる。

九、苦を滅する方法

問:この白骨観・不浄観の三十六物を自らの身体で観ると、観た場所は弛緩する。観た場所に対し、心の執取が薄れるため弛緩するのだと思う。そうか?

答:その通り。身体の緊張状態は心に執着があるために生じる。どこかを執取すれば、その部位は緊張し硬直する。したがって身体の状態も感情によるものである。感情を取り除き、心の状態をリラックスさせれば身体は弛緩する。身体の中の三十六種の不浄物を観る時は、客観的な心の状態で観る。観る時は自分の身体ではなく身体以外の物のように観、身体を執取せず、心が少し空になると身体は柔軟になる。心が空に近づくほど身体は柔軟になる。また、禅定が現れると身体も柔軟になる。

白骨観不浄観を修すれば苦を滅する。自らの身体の三十六物を観ると、観た場所は弛緩する。観た物に対し執着が薄れ、心が執着しなければ弛緩するからである。したがって身体の問題は結局心の問題であり、心を処理し心を空にすれば多くの問題は解決する。学仏者が日常生活に縁に随い刻意に追求せず、選り好みせず、執取しなければ、生活は非常に気楽で自在であり、どうでもよく、無関心で、万事縁に随う。一心に道に在れば、苦受など何があろう?得道の者が生活がどうであれ心に苦がないのはなぜか?五蘊世間が空であると知り、執取せず、縁に随って用い、有れば用い、無ければ無いで構わないからである。

身心が感じる苦受は全て意根の執取によって生じる。執取しなければ苦受はない。心の結縛も全て執取によって生じる。結縛は縄であり、結縛があれば滞り通じない。執取がない時、心境は空曠で通達し、天に上り地に入り、我が意のままである。苦受を感じた時は、自らかつて何を執取し今何を執取しているか、なぜこのような苦受が現れたかを考えねばならない。一切の苦には因があり、因を見つけ問題の根本因を解決して初めて苦果を滅する方法がある。

十、戒定慧を斉修する実例

耀霊の止観日誌:一昨日休暇で外出し活動し、親戚を訪ねた。毎日できるだけ白骨観を提起し、白骨の影像を心に掛けて観想した。人に接し物に接する時は心の状態が淡々としており、礼儀に合えば良く、寡黙で、感情を動かさず、多くの煩悩を減らした。後で気に掛けることもない。昼に煩悩に染まらなければ、夜の座禅で目を閉じると心がそれほど乱れておらず、身心が非常に緊張していないことに気づく。すると観呼吸と念仏は容易に状態に入る。もし昼に心に多くの執念が起これば、水が氷になるようなもので、夜の座禅で氷を水に戻すのに多くの功夫を費やす。

「観身不浄」が因であり、「我相無く人相無く衆生相無し」は果ではないか?『金剛経』はここで「観身不浄」を説いているのではないか?人我相がなければ、貪瞋痴には根本がなく、誰に対して貪瞋痴慢を起こすのか?心は容易に平淡安穏を保つ。『楞伽経』ではこの不浄観・白骨観を「愚夫の行う禅」と言う。私は愚夫ではないか、この正念を多く提起すべきである。

評:この修行は戒定慧を完璧に融合しており、効果は非常に良い。定慧は共に明らかである。戒の表現は心に念を起こさず煩悩を起こさず、人に接し物に接する時は礼儀に合い、心の状態は淡泊で平和である。定の表現は心の状態が淡く、心が乱れず、観呼吸と念仏が速やかに状態に入る。慧の表現は一つに速やかに観行状態に入れ、二つに金剛経と楞伽経の理を用いて対照薫習し自らを降伏させ、速やかに禅定功夫を向上させられることである。慧をもって定を引き、定をもって慧を生じ、定慧が円融する。このような修行は正軌に入り、戒定慧がさらに増強されると我見を断つ見通しが立つ。

多くの人は修行で戒を持てず、境に心数起し、心に起きる煩悩の多くは他人が与えたものではなく、自ら理由もなく煩悩を起こし、空の境界で法を実有と見て執念を生じ、人我是非が絶えず、自覚すらしない。他人が注意しても、納得せず嫌悪し怨言を抱く。これは修行とは程遠く、我性が重すぎる。このように戒を持たない結果、禅定は如何に修めても良くならず、世俗法でも仏法でも智慧がなく、したがって煩悩は智慧の天敵である。

十一、なぜ観想する時、実際に見たものは空想より容易に観想できるのか?

実際に見たものには、五識と五倶意識の現量見があり、意根の現量見もある。意識が見たため、意識は容易に思い出せる。実際に見ていないものは意識も意根も経験しておらず、現量認知がなく、全て意識の非量想像による。意根も力を発揮できず、観想は比較的困難である。以前白骨観を修習した人は実体白骨を参考にできず、定力による観想に頼っていた。今では多くの白骨模型があり現前で観察し参考にできる。模型を買う方法を考え、毎日詳細に観察し、日夜思いを巡らし深く観行すれば、白骨観を現前観行することは容易になる。

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