四念処の観行体験
第四章 観行における問題
一、修行中に現れる業障の消し方
誰もが多くの業障を抱えており、修行がある程度進むと、業障が現れて道を阻む。これは精進修行の段階で次第に顕れる遮断(障り)である。障る縁が現れると、修行は必然的に困難になり、懈怠(怠け心)の現象が生じる。修行の過程は進んだり退いたりするものであり、時に精進し、時に懈怠する。業障が現れた後は焦燥感が生じ、この時は集中できず精進が続かなくなり、懈怠に陥る。こうした時こそ業を消す必要がある。
では、どのように業を消すのか。第一に、仏前で無始劫(無限の過去世)以来の罪業を懺悔することである。朝夕の勤行課本にある懺悔文に従って懺悔すればよい。今生の罪業を仏前に告白し、二度と造らないと誓えば、業の種子の一部が消え、修行の障りが減る。第二に、『地蔵経』を読誦し、その功徳を無始劫以来の怨親債主(怨みある縁者・借りある衆生)や家内親族に回向すること。第三に、より強力に楞厳咒(りょうごんしゅ)を念誦して業障を消し、道心を堅固にし、修行を加速させることである。
咒(真言)の力は非常に大きい。自力のみで修行の成就を望むのは難しい。必ず諸仏菩薩や護法神の加護の力に頼り、彼らが我々の業障の一部を遮り、干渉されないようにしてもらわねばならない。一部の業障が排除されて初めて、精進を持続でき、最終的に何らかの成就を得られる。したがって、見道(悟りの境地を体得すること)以前は、楞厳咒の念誦を決して中断してはならない。自身で一定の数を決め、毎日堅持する。咒の加持力は非常に大きく、慣れると予想外の効果が現れ、知らず知らずのうちに自分が変化していることに気づくだろう。
二、坐禅観行における退屈感の対処法
坐中の観行で退屈で意味がないと感じるのは、意根(マナス、第七識)の習気が現れたためである。意根は世間法(世俗的な事柄)に執着し、活発な五蘊(色・受・想・行・識)の活動を好み、世間法を好み、賑やかなものを好み、何かを得ることを好む。寂静無為(静かで作為のない状態)を好まず、束縛されることを好まない。この時は、観行(観察修行)である四念処(身・受・心・法を観る)の利益を改めて考え、修行の目的を思考し、四念処経の末尾に説かれる修行の殊勝な成果を見れば、いくらか消極的な感情が消えるだろう。意根の習気は降伏(克服)し難い。子供のように接し、慈愛と威厳を併せ持って扱うべきである。普段から世間の無常と苦を多く思惟し、無始劫以来の業障と煩悩を懺悔し、大いなる志(菩提心)、長遠心(長く続ける心)、出離心(解脱を求める心)を発(おこ)し、願力の導きに頼って絶えず道業(悟りへの修行)を進展させるべきである。
観呼吸(呼吸を観察する)の利益は何か。世間法上の利益は、身体の健康を増進し、心を清浄にし、寿命を延ばし、身心を快適自在にし、心情を愉しく楽しくし、心を柔和にし、煩悩を降伏させ、教養と品德を高め、思考力を高め、心を細やかにし、智慧を増長させることである。人の生命は呼吸の間にある。吸う息と吐く息があってこそ生命がある。吸う息も吐く息もなければ、生命は突然終わる。呼吸は生命を表す。呼吸を観行すれば、それぞれの生命がいかに脆く、いかに頼りなく、いかに無常で、いかに苦であるかを観じることができる。呼吸に依存して存在する五陰(五蘊)が、果たして「私」であり得るだろうか? こうして定(サマーディ、精神集中)の中で観を起こし、観じ続けると、我見(「私」という実体視)は次第に薄れ、我執(「私」への執着)は弱まり、煩悩は減り、我見を断ち、部分的に解脱の果(悟りの段階)を証することが可能になる。
三、観行時の意識の覚受(感覚・知覚)の扱い方
四念処の観行は最初、観呼吸を主とし、他のことは暫く気にせず、注意力を分散させず、精力を呼吸だけに集中する。もし身体に痛みや痺れ、痒みなどの覚受が現れても、気にせず、常に呼吸に縁(よ)って、主題から離れないようにする。もし痛みなどの覚受にどうしても耐えられず、観行に支障をきたすならば、身体を調理(調整)し、少し快適にしてから、再び精力を集中して四念処を観行する。もし身体に軽安(軽く安らか)で快適愉悅、身体が大きく感じたり空無(空虚)であるなどの覚受が現れても、気にかけず執着せず、引き続き心念を呼吸に縁わせ、呼吸を観行し、他の一切は気にしない。
ただひたすら観じ続け、ますます集中し、ますます清明になり、知ることがますます深く透徹すれば、意根は次第に明らかになり、最終的に呼吸と色身(肉体)の生住異滅(生じ・存続・変化・滅する様)を真実に感知できるようになる。そうして身が空(実体がない)であり我が空であることを感知できてこそ、それは智慧の知である。こうして知った後は、身心ともに変わり、もはや以前の無明愚痴の人ではなくなる。
四、修行中に出会う苦痛への向き合い方
苦痛を感じた時は、その本質的属性を仔細に観察する。観察を長く続ければ、やがて苦痛はなくなる。生命の中に現れる一つ一つの出来事を、我々は特別なことだと感じる。しかし、これらのことを長く観察していると、何でもないことだと感じるようになり、何事も大したことではないと思える。五陰十八界(存在を構成する要素と認識の領域)を観察するのも同様で、長く観察すれば、五陰十八界は何でもなく、全てが空で無我(実体なき自己)であり、どう追求しても結局は空であると知る。歓喜も空、苦痛も空である。それならば、それに任せ、執わず取らず、そうして我見を断ち、我執の煩悩を軽減し、もはや苦しまなくなる。
五、坐禅後に生活で呆滞(ぼんやり)し動作が遅くなる理由
禅定(瞑想による精神統一)は一方で心識の活動を緩慢にし、いくらかの浮ついた気(落ち着きのなさ)を消し去り、重要でないことには心を用いなくなり、ましてや権力者に媚び諂うことなどしない。禅定は他方で心識を集中させ、思考を深く細やかにし、反応も鋭敏にする。最初は言葉や動作が不器用に見え、行動力は弱いが、観察力は深く透徹し、心は細やかで敏捷である。人や物事を見る目は以前より精確で細やかになり、大事なことで騙されにくくなり、いわゆる「大智若愚」(大いなる智者は愚かに見える)の状態となる。実は心は世俗法に用いられておらず、般若(はんにゃ)の智慧がゆっくりと向上しているのである。
六、坐禅中に頭が割れるように痛く感じる理由
これは気脈(生命エネルギーと経絡)が頭部に運行し、頭部の気血(気と血の流れ)が少し詰まっていて、頭部を突破できないために現れる反応である。少し深く呼吸し、同時に心の中で黙って念仏(仏名を唱える)し、金色の仏光が頭部を照らしていると観想し、病障の気を排除し、気血の運行を円滑にする。頭部が金色の仏光の中に入り、黒灰色の業障の気が全て消散し、それから頭脳の清涼感を仔細に感じ取る。頭部が清涼になった後、さらに数回深く呼吸し、安定してから、まずは定(集中状態)に入り、非常に安定してから再び呼吸を観る。
七、坐禅中に口が乾燥する場合の対処法
口に津液(唾液)がないのは、上焦(身体上部)と下焦(身体下部)が通じず、水(陰)と火(陽)が相い交わらないためである。太極八卦図に従って観想する。火が前胸の右側から丹田(下腹部)に降り、水が丹田の左側から前胸および喉元へと上昇し、行き来を循環させれば、水火は相い交わり、口内の津液が次第に増え、それを飲み下して身体の肺腑(内臓)を潤す。観想は非常に有用であり、定力が良ければ観想の効果も良くなる。観想はほとんど全ての問題を解決でき、それは巧みに、理に適った作意(心を向けること)で観想できるかどうか、そして禅定力の如何、また福徳と徳行の如何にかかっている。
八、観行中に散乱をいかに制するか
もし心がまだ止息(鎮静)しておらず、定力が不足しているならば、観(観察)はあまり効果がない。この時は観る法(対象)を少なくするか、観るのを止めるべきである。観る法が多いと、心はより散乱しやすくなり、禅定が進まなくなる。観行(観察修行)と止観(集中と観察)は程よく調節し、定力の増強に伴って、観行はますます深く入り、観る内容も次第に増やせる。心が散乱していると気づいたら、縁(対象)とする境(対象)を減らし、一つの内容に専念するか、ただ止(集中)のみを修し、観は行わない。もし心が散乱せず、ますます集中するならば、より深く観行し、ますます細やかに観行できる。一点に凝り固まって動かず、定力が非常に深くなるまで保ち、その経験をもとに、さらに一点を増やし、段階的に縁(対象)とする境を増やし拡大する。こうして定(集中力)と慧(智慧)は均等に深く増長する。
九、坐禅中に気機発動(生命エネルギーの活性化)の現象が現れる理由
坐禅中は縁(対象)とする法が少ないため、心が空(無心)になりやすく、禅定が生じやすい。一方、活動中は縁とする法が多いため、禅定は生じにくく保持しにくく、気機も発動しにくい。坐禅中に禅定が非常に強固になり、気機の発動が持続して初めて、活動中には慣性の作用によって禅定が現れ、気機も現れる可能性がある。坐禅中の禅定が強固でなければ、活動中には禅定は現れにくく、ましてや気機発動の現象は起こりにくい。身体の気脈は非常に通りにくく、心も空になりにくい。
心が空であればあるほど身体への障害はなくなり、気機は発動しやすく、しかも発動が速く長く続き、入定(深い瞑想状態)も深くなる。性障(煩悩による悟りの障り)の障りがある者は、気機を発動させにくく、発動してもすぐに落ちてしまう。将来、初禅定(初禅の境地)が生じる時も、同様の気機発動の現象がある。心が空であればあるほど性障は軽く、気機は速く深く発動し、全身に行き渡りやすく、持続も長くなり、禅定は深く長く続く。いわゆる性障とは、心に貪・瞋・痴の煩悩や執念があり、身体や自我に執着し、心が念じる法が多く、絶えず縁(とらわれ)を攀(よ)じ、世間法を全て実体があると執着し、捨てようとしないことである。
十、坐禅で自然呼吸する時、誰が身体を制御しているのか
自然呼吸の時は意根が主導しておらず、ましてや意識が主導していない。不自然な呼吸は意識と意根が制御しており、自主呼吸は意識が制御し導いている。身体自体の生命活動には、多くの法(作用)が如来蔵(阿頼耶識、根本心識)によって一手に操作されている。時に意根が制御しに行き、時に意識が制御しに行く。もちろん意識の制御は実際には意根に影響を与え、意根に制御させているのである。自然の運作で我々が感じられないものは、必ずしも意根が関与しているとは限らない。
十一、修行では良い習慣を身につけることに注意すべき
決まった時間と場所で坐禅すれば、時間が経つと習慣が身につく。習慣ができれば、周囲の環境が騒がしく干渉しても恐れず、坐禅中に心を空にでき、心を一か所に制して観行思惟できる。習慣は意根の慣性である。意根は比較的執着深く、よく行うことは、思惟せずに慣例に従って行う。習慣には良くない面もあるが、良い面もある。習慣をうまく利用して仏法を修習し、良い修行習慣を身につければ、努力の割に効果が倍増する。
一定の時間と労力を費やして、いくつかの修行の良い習慣を養うことは非常に価値がある。それは、量産するために時間と労力のコストをかけて型(鋳型)を製造するようなものである。この時は苦心と時間がかかるが、一旦型が完成すれば、その後は製品を生産するのに非常に多くの時間とコストが節約される。いわゆる「事半倍功」(努力半ばで効果倍増)であり、少なくとも四倍から無限倍の時間とコストが節約される。これは非常に価値がある。修行習慣を養う段階はとても辛く、成功したり失敗したり、進んだり退いたりし、堅持し続けるのは容易ではない。この時は傍らで誰かが督促し監督してくれる必要があり、互いに伴って督促し合えればやりやすい。では、養うべき修行の良い習慣にはどのようなものがあるだろうか?
十二、呼吸が浅く妄念が多い場合の対処法
もし呼吸が調和せず、妄念が多いならば、深呼吸を行い、息をできるだけ丹田(下腹部)に導く。息が長くなれば、身体は調和し、妄念は減る。深呼吸をする時は、息をゆっくりと十分に吸い込み、お腹が徐々に膨らむようにする。息を吸いきったら少し間を置き、それから外に吐き出す。吐ききった後はお腹がへこみ、再び少し間を置いてから息を吐く。こうして一呼吸の間に息を長くする。このように能動的に呼吸を導き、数回行えば、その後は正常に自然に呼吸できるようになる。
深呼吸をすると、息は各臓器を通り、鬱滞(うったい)を排除し、ついでに任脈(身体前面の気の経絡)を開通させる。こうすれば、もはや深呼吸をしなくても、息は次第に長くなり丹田に達し、妄念もそれに伴って減る。深呼吸の方法は妄念を制するのに比較的効果的である。
深呼吸念仏の方法で息を調和させ、煩悩と妄念を制することもできる。深呼吸をしながら念仏する。息を吸いきって少し間を置いた後、吐く息と共に鼻音または喉の奥の音で、ゆっくりと「阿弥」の二字を唱える。音の振動が大きければ大きいほど良い。こうすると五臓六腑が開き、再び吸う息・吐く息の時に、吐く息と共に「陀仏」の二字を唱える。こうして数回念じれば呼吸は調和する。心念を呼吸と念仏に集中させれば、定力は次第に増すことができる。この方法は毎回坐禅を始める時にも使える。空気が比較的清浄な時は、深呼吸を行えば、丹田の気が起こり、息が長くなり、身体は健康になり、妄念は減り、腹式呼吸は自然に成就する。