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四念処の観行体験

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 1412

第四章 観行における問題点

一、修行中に現れる業障を如何にして消除するか

誰もが多くの業障を抱えており、修行がある程度進むと、業障が現れて道を阻む。これは精進修行の段階で次第に現れてくる遮障である。障縁が現れる時、修行は必然的に困難となり、懈怠の現象が生じる。修行の過程は進んだり退いたりするものであり、時には精進し、時には懈怠する。業障が現れた後は、焦燥感が生じ、その時は集中できず精進が続かなくなり、懈怠に陥る。その時こそ業を消す必要がある。

如何にして業を消すのか。一つは、仏前にて無始劫以来の罪業を懺悔することである。朝夕の課誦本にある懺悔文に従って懺悔すれば良い。今生の罪業を仏前にて発露し、二度と造らぬと誓えば、業種は一部消除され、修行の遮障は減る。二つ目は、『地蔵経』を読誦し、その功徳を無始劫以来の冤親債主と家親眷属に回向することである。三つ目は、より一層の力を込めて楞厳咒を誦し、業障を消除し、道心を堅固にし、修行を加速させることである。

咒の力は非常に大きい。己の力のみで修行を成就しようとするのは難しく、諸仏菩薩と護法神の加護の力に依らねばならない。そうしてこそ、一部の業障を遮り、干渉されず、一部の業障を排除した後、ようやく精進を続け、最終的に何らかの成就を得ることができる。故に見道以前は、楞厳咒の読誦を決して中断せず、自ら一定の数を定め、日々堅持すべきである。咒力の加持力は非常に大きく、慣れると予想外の効果が現れ、知らず知らずのうちに自らが変化する。

二、坐禅観行中の退屈感を如何に対治するか

坐中の観行が退屈で意味がないと感じるならば、それは意根の習気が現れた証拠である。意根は世間法に貪着し、活発な五蘊の活動を好み、世間法を好み、賑やかなことを好み、得ることを好み、寂静無為を好まず、束縛されることを好まない。その時は、改めて四念処観行の益を思考し、修行の目的を思考し、四念処経の末尾に説かれる修行の殊勝なる成果を見れば、いくらかの消極的な情緒は消えるであろう。意根の習気は降伏し難く、子供のように接し、恩威を併せ用いるべきである。普段から世間の無常と苦を多く思惟し、無始劫以来の業障と煩悩を懺悔し、大いなる心、長遠な心、出離心を発し、願力の導きに依って、絶えず道業を増進させねばならない。

観呼吸の益は何か。世間法上の利益は、身体の健康を増進し、心を清浄にし、寿命を延ばし、身心を快適自在にし、心情を愉悦ならしめ、心を柔和にし、煩悩を降伏させ、修養と品德を高め、思考力を高め、心を細密にし、智慧を増長させることである。人の生命は呼吸の間のみにある。呼び吸いがあってこそ生命があり、呼び吸いがなければ、生命は忽然と止む。呼吸は生命を表す。呼吸を観行すれば、如何にそれぞれの生命が脆く、頼りにならず、無常であり、苦であるかが観じられる。呼吸に依存して存在する五陰が私と言えるだろうか。このように定中に観を起こし、観じ続けると、我見は微細になり、我執は弱まり、煩悩は減り、我見を断ち、解脱果を分証する可能性が出てくる。

三、観行時の意識の覚受を如何に処理するか

四念処の観行は、最初は観呼吸を主とし、他のことは暫く気にせず、注意を分散させず、精力を呼吸のみに集中させる。もし身体に痛みや痺れ、痒みなどの覚受が現れても、気にせず、常に呼吸を縁とし、主題から離れないこと。もし痛みなどの覚受にどうしても耐えられず、観行に支障をきたすならば、身体を調理し、少し快適にしてから、再び精力を集中させて四念処を観行すべきである。もし身体に軽安、快適、愉悦、身体の巨大化や空無などの覚受が現れても、構わず貪着せず、心念を呼吸に縁わせ続け、呼吸を観行し、他の一切は気にしないこと。

ただ一心に観じ続け、ますます集中し、ますます清明になり、知ることが深く透徹すれば、意根はますます明らかになり、最終的に呼吸と色身の生住異滅を真に感知し、身空我空を感知できるようになる。これこそが智慧の知である。このように知った後は、身心共に変わり、もはや以前の無明愚痴の人ではなくなる。

四、修行中に出会う苦痛に如何に向き合うか

苦痛を感じた時は、苦痛の本質的属性を仔細に観察すべきである。長く観察すれば、苦痛はなくなる。生命に現れる一つ一つの出来事を、我々は特別なことだと思うが、これらのことを長く観察すると、何でもないことだと分かり、何事も大したことではないと感じるようになる。五蘊十八界の観察も同様で、長く観察すれば、五蘊十八界は何もなく、皆空で無我であり、如何に追求しても空であり、歓喜も空、苦痛も空であると分かる。それならば、執わず取らずに任せる方が良い。そうして我見を断ち、我執煩悩を軽減し、もはや苦しまなくなる。

五、坐禅後に何故日常生活で鈍く緩慢になるのか

禅定は一方で心識の活動を緩慢にし、いくらかの浮ついた気を消除し、重要でないことには心を用いず、ましてや権勢に迎合したりしない。他方、禅定は心識を集中させ、思考を深く細やかにし、反応も鋭敏にする。最初は言語や動作が拙く見え、行動力は弱いが、観察力は深く透徹し、心は細やかで敏捷である。人や物事を見る目は以前より精確で細かくなり、大事には騙されにくく、大智若愚の如く見える。実は心を世俗法に用いず、般若智慧が徐々に向上しているのである。

六、坐禅中に何故頭が割れるように痛むのか

これは気脈が頭部に運行し、頭部の気血がやや滞り、頭部を衝き開くことができないために現れる反応である。軽く深呼吸をしつつ、心の中で黙々と念仏し、金色の仏光が頭部を照らし、病障気を排除し、気血の運行を円滑にするよう観想する。この頭部が金黃色の仏光に入り、黒灰色の業障気が全て消散し、それから頭脳の清涼感を仔細に感じ取る。頭部が清涼になった後、さらに数回深呼吸し、安定してから、まずは定中に入り、非常に安定してから改めて呼吸を観る。

七、坐禅中に口が乾く場合はどうするか

口中に津液がなく、上焦と下焦が通じず、水火が相済まない場合は、太極八卦図に従って観想する。火が前胸右側から丹田に降り、水が丹田左側から前胸及び喉元に昇り、行き来循環させれば、水火は相済み、口中の津液は次第に増え、それを飲み下して身体の肺腑を潤す。観想は非常に有用であり、定力が良ければ観想効果も良い。観想はほとんど全ての問題を解決でき、それは如何に巧みに、理に適った作意で観想できるか、禅定力如何、また福徳と德行如何による。

八、観行中に如何にして散乱を対治するか

もし心がまだ止まっておらず、定力が不足しているなら、観はあまり効果がない。その時は観る法を少なくするか、観るのを止めるべきである。観る法が多いと、心はより散乱しやすく、禅定は停滞する。観行止観は分寸をよく掌握し、定力の増強に伴い、観行はますます深く入り、観る内容も次第に増やすことができる。もし心が散乱していると気づいたら、縁とする境を減らし、一つの内容に専念するか、ただ止を修し、観は行わない。もし心が散乱せず、ますます集中するなら、より深く観行し、ますます細やかに観行できる。一点に凝住して動かず、定力が非常に深くなるまで続け、その経験を以て、更に一点を増やし、段階的に縁とする境を増やし拡大する。こうして定慧は等しく深く増長する。

九、坐禅中に何故気機発動の現象が現れるのか

坐禅中は縁とする法が少なく、心は空になりやすく、禅定は速やかに生じる。一方、活動中は縁とする法が多く、禅定は生じにくく保持し難く、気機も発動しにくい。坐禅中に禅定が非常に堅固になり、気機発動が持続して初めて、活動中は慣性作用により禅定が現れ、気機も現れる可能性がある。坐禅中の禅定が堅固でなければ、活動中に禅定は現れにくく、まして気機発動の現象は更に現れにくく、身体の気脈は非常に通りにくく、心も空になりにくい。

心が空であればあるほど、身体に対する障礙はなくなり、気機は発動しやすく、発動は速く長くなり、入定は深くなる。性障の遮障がある者は、気機を発動しにくく、発動しても速く落ちてしまう。将来、初禅定が生じる時も同様の気機発動現象がある。心が空であればあるほど性障は軽く、気機発動は速く深くなり、全身に遍く行き渡り、持続は長くなり、禅定は深く持続する。所謂る性障とは、心に貪瞋痴の煩悩や執念があり、身を執り我を執り、心に念じる法が多く、攀縁が絶えず、世間法を皆実であると執着し、放捨しようとしないことである。

十、坐禅の自然呼吸時、誰が身体を制御しているのか

自然呼吸時は意根が主導せず、まして意識が主導することはない。不自然な呼吸は意識と意根が制御し、自主呼吸は意識が制御し導く。身体自体の生命活動には、多くの法が如来蔵の一手による操作であり、時には意根が制御しに行き、時には意識が制御しに行く。無論、意識の制御は実際には意根に影響を与え、意根に制御させているのである。自然の運作で我々が感じられないものは、必ずしも意根が関与しているとは限らない。

十一、修行は良い習慣を養うことに注意せよ

決まった時間と場所で坐禅すれば、長く続けると習慣が身につく。習慣が身につけば、周囲の環境が騒がしく干渉しても恐れず、坐禅時には心を空にでき、心を一処に制して観行思惟できる。習慣は意根の慣性である。意根は比較的執着深く、よく行うことは、思考せずに慣例通りに行う。習慣には良くない面もあれば良い面もある。習慣を利用してよく仏法を修習し、良い修行習慣を養えば、努力半分で効果倍増である。

一定の時間と精力を費やして、いくつかの修行の良い習慣を養うことは非常に価値がある。それは、量産のために時間と精力のコストをかけて型を製造するようなものである。この時は心血と時間がかかるが、一旦型が完成すれば、その後製品を生産する際には非常に多くの時間とコストが節約され、所謂る努力半分で効果倍増、少なくとも四倍から数えきれない倍の時間とコストが節約される。これは非常に価値があることである。修行習慣を養う段階は非常に苦労が多く、成ったり敗れたり、進んだり退いたりし、堅持し続けるのは容易ではない。その時は、傍らで督促し監督してくれる人が必要であり、仲間と互いに督促し合えればやりやすい。養うべき修行の良い習慣にはどのようなものがあるか。

十二、呼吸が浅く妄念が多い場合はどうするか

もし呼吸が調和せず妄念が多いなら、深呼吸を行い、気息を出来るだけ丹田に導く。気息が長くなれば、身体は調和し、妄念は減る。深呼吸を行う時は、気をゆっくりと十分に吸い込み、お腹が徐々に膨らむようにする。気を吸いきったら少し間を置き、それから外に吐き出す。吐ききった後はお腹がへこみ、再び少し間を置いてから吐き出す。こうして一呼一吸の間で気息を長くする。このように能動的に呼吸を導き、数回行えば良い。その後は正常に自然に呼吸できるようになる。

深呼吸時、気息は各臓器を通り、鬱滞を排除し、ついでに任脈を通す。こうすれば、もはや深呼吸を行わなくても、気息は次第に長くなり丹田に達し、妄念はそれに伴い減少する。深呼吸の方法は妄念の対治に比較的効果的である。

深呼吸念仏の方法で気息を調和させ、煩悩と妄念を対治することもできる。深呼吸しながら念仏する。気を吸いきって少し間を置いた後、吐く息と共に鼻音または喉の奥の音で、ゆっくりと「阿弥」の二字を唱える。音の振動が大きければ大きいほど良い。こうして五臓六腑が開かれ、再び吸気・呼気を行う際、吐く息と共に「陀仏」の二字を唱える。こうして数回唱えれば呼吸は調う。心念を呼吸と念仏に専注させれば、定力は次第に増加する。この方法は毎回の坐禅開始時に用いることができる。空気が比較的清新な時は、深呼吸を行うと良い。丹田の気が発起し、気息は長くなり、身体は健康になり、妄念は少なくなり、腹式呼吸は自然と成就する。

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