日常法話集録
第四章 意根の機能と作用
一、意根の情報受容と処理機能
ある資料によれば、脳は毎秒大量の情報を受信するが、そのごく一部しか処理できない。もし全ての情報を処理すれば、脳は過負荷に陥る。正常に機能するため、脳は自動的に情報を濾過し、関心のない取るに足らない情報を無視し、自分にとって有用な重要な情報のみに注目する。各人の注目点が異なるため、同じ情報から見える現象も異なり、態度や処理方法も異なる。問題に直面した際、重点と主題を如何に記憶し、智慧を高め、問題を解決するか。それは能動的に脳に問題を提起することである。その問題は問題の核心と重点、及び解決方法に向けられるべきである。そうすれば脳はその方向に思考を向け、問題を解決する。
脳とは何か。世俗の者は脳が色法であり識心の機能を持たないことを理解しておらず、彼らの言う脳は一般に意根を指す。大量の情報を受容し選択的に処理するのは意根であり、脳でも意識でもない。なぜならこの時点では意識はまだ現れておらず、情報は全て意根に落ち込んでいる。意根は全ての情報に対処・処理する能力と精力を持たず、自分にとって有用で比較的重要な情報のみを選別する。選別の後、初めて意識が現れて意根を助け情報を処理する。
意根が一切法を黙って容れる性質と、意根の一切法に対する主宰性はここから窺える。一切法には当然、色声香味触の五塵と六塵が含まれる。もし意根が法塵にのみ触れ五塵に触れなければ、五塵の情報はどこに落ちるのか。誰が受容し選別するのか。誰が如何に処理するかを決定するのか。意根が五塵を予備選別した後、初めて五識が生じて五塵を識別・処理する。故に意根は五塵と五識に対して決定権と処理権を持つ。
情報を自動的に濾過し、自分に関連する有用な情報に自動的に注目するのは意根である。これは大量の情報に対する予備選別段階であり、この時点では意識はまだ現れておらず、意根の活動と一切の情報に対し無知無覚である。故に意識は参与・決定・主宰権を持たず、意根が与える情報を受動的に受け入れるのみで、意根に支配・調整される。もし意根が情報を濾過・選別しなければ、大量の情報に対処できず、崩壊さえする。選別後も残る情報は膨大で、全てに対処するのは困難である。これにより意根は同時に極めて多くの法を縁とし、これらの情報に集中して対処できず、智慧がないように見える。
如何にして意根に智慧を生じさせるか。当然、絶えず無用な情報を濾過・削減し、ただ当に処理すべき情報に作意し、他には一切注目しないことである。そうして精力が集中すれば、初めて作意した情報を智慧を持って処理できる。しかし精力を集中させるのは非常に容易ではなく、絶えず禅定による熏修で訓練し、意根が一法にしっかり定まって思考できるようにする必要がある。
重要な情報と主題を記憶し、注目・考量するのも意根である。これは一切の情報を受容できる主宰識の機能作用である。意根のこれらの機能が作動する時、意識は知らず、参与できない。意根が情報を記憶した後、初めて如何に処理するかを考量し、放棄するか深く了別するかを決定する。もし深く了別したいなら、六識が現れてこれらの情報を了別する。了別後、意根が理解し、再び如何に向き合い処理するかを決定する。ここから、各段階で決定と主宰を行うのは全て意根であり、具体的に了別・分析するのは六識であることが分かる。六識は意根に従属する。
誰が脳に問題を提起するのか。意識が意根に問題を提起するのである。意識は意根に大量の情報を考量・選択・処理させ、重点と有用な情報に注目させたいのである。問題提起のような行為は意根にはできず、なぜなら問題提起には無言の言語・文字・音声が含まれ、意根はこれに相応しないからである。意根は意識に暗示しかできず、意識は知らず知らず指示される。世俗の者が描く情報を受容・処理できる脳とは意根を指し、一時的に情報を保存できるのは勝義根である。意根は勝義根中の法に触れ、知り、処理できる。『楞厳経』に説かれる意根が一切法を黙って容れることと、意根の広汎な攀縁性が、この資料で十分に明らかにされている。
意根は忙しいか。受動的に大量の情報を受容するのか、能動的に受容するのか。能動的でもあり受動的でもある。能動的に大量の情報を受容することを広汎な攀縁といい、受動的な受容はやむを得ないものである。業種が成熟すれば、如来蔵は必ず変現し伝達せざるを得ない。例えば疾病や交通事故などの情報は避けられない。能動的に思考することは、受動的に受け入れることよりも智慧を高める。では誰が問題を提起し、誰が思考し、誰が問題を解決し、誰が智慧を高めるのか。解決すべき問題を知れば、誰が問題を解決すべきかが分かる。情報を選別し注目する問題を解決すること、これが意根の職責である。
二、五識が五塵を了別するのは何故意根の決定によるのか
問:私の身体が痒い時、思わず掻きたくなるが、直ちに気づく。これらは全て身識が触塵に触れたものであり、痒いものなどない。作為すべきではない。そこで此処に作意しなければ、痒みは直ちに消える。もし引き続き作意すれば痒みはまだあり、再び作意しなければ痒みは再び消える。二度往復し、中間の間隔が少し長くなり、再び作意しなければ痒みは完全に消える。痒みは真に消えたのか。
答:根と塵が触れ合って識が生じ、識が生じれば塵境を了別する。了別した後、受覚が生じ、冷熱触痛痒などを感じる。その後、苦楽憂喜捨の情緒が生じる。これが十二因縁における六入・触・受の運行次第である。根と塵が触れ合うか否かは意根が決定する。例えば身体が痒い時、意根が痒い所に作意せず注意を転移すれば、こうなると意識と身識は痒い所に現れず、痒みという触塵は了別されず、受覚も現れず、痒いかどうか感じない。これは意根の注意力転移により六識が此処に生じず、此処を了別しないのであり、痒みがないわけではない。もし意根が注意を転移しなければ、身根と痒みの触塵が相まみえ、身識と意識が生じて痒みの触塵を了別し、痒く感じる。その後、意根は掻くことを選択し、身識と意識は痒みを掻く。
これは意根が主宰識であり、根塵の接触を主導し、六識の生滅去来を主導し、六識の了別を主導し、身口意行を主導することを示している。同時に、五根(眼耳鼻舌身)が五塵(色声香味触)と触れ合うか否かは、全て意根が主宰して決定し、五識の了別も意根が主宰して決定することを示している。ここに問題がある。意根は何故五識の生起と了別を主導するのか。五識が五塵を了別するのは何故意根の決定によるのか。意根がこのような決定ができるなら、必然的にまず五塵を了別し、その後で取捨し判断し決定する。それは意根が六塵を了別でき、単に法塵だけを了別するのではないことを示している。そうでなければ五根が如何に五塵に触れ、五識が如何に生じるのか。
三、心念によらず円明に了知するのはどの識心か
『楞厳経』に一つの言葉がある:この会中の摩訶迦葉は、久しく意根を滅し、円明に了知して心念によらず。問:大迦葉が久しく意根を滅したとは、どの識を滅したのか。如何にして滅したというのか。
答:他心通を持つ者は、相手が心念を持つ限り、いつでもどこでも他人の心念を感知できる。もし相手が深沈で心念がなければ、あるいは相手が禅定にあり随意に念を起こさなければ、相手の心念を感知できず、他心通は役に立たない。この心念とはどの心の念か。
他心通が了知するのは意識心の心念である。意識心の心念には言語文字あるいは音声があり、音声には心の声も含まれる。こうなると意識の心行には形相があり、了別しやすい。一方、意根の心念には言語文字や音声がなく、明らかな行相がなく、了別されにくい。意根の心行を了別するには身口意行を通じて了別し、身根と意識の造作を通じて了別する。
では大迦葉が久しく意根を滅したとは、何を滅して円明に了知し心念によらないのか。当然この心念は意識の心念を指す。大迦葉の円明に了知することは意識による知ではなく、意根が直接知ることである。六塵内外の境界を直接知り、六識の知を直接代替する。故に大迦葉が滅したのは意識と意識の心念であり、意根ではない。もし意根を滅したなら、大迦葉の五蘊は存在せず、無余涅槃に入っている。
四、意根に反観力と証自証分はあるか
或る者は意根には証自証分がなく反観力がなく、自らの過去を全く知らず、全て意識の観察に依存して初めて自らの過去を知ると言う。この言葉は甚だしく誤っている。なぜなら意根と如来蔵のみが生生世世連続して滅せず、意根は知を有し如来蔵が変起する一切法を知ることができ、また業種に相応するからである。無量の前世から今世に至るまで、経験した一切法は決して忘れず、知っている法は意識よりはるかに多い。一生一世の意識が知る情報はあまりに少なく、意根とは比較にならない。そして過去の経験は今世の意識は経験しておらず、意識は如何にして意根の依り所となれるのか。むしろ多くの情報は意識が意根に依存して初めて知るのであり、特に過去世の情報は意識が全て意根に依存して初めて知る。神通なき者もそうであり、神通ある者も同様で例外はない。
例えば、或る人が或る場面で別の人に出会い、この人に非常に親しみと馴染みを感じ、久しく別れた親族のように一瞬で心潮が沸き立ち自制できず、感激して熱涙さえ流す。実際この二人は前世家族で縁が深く、今世会って格別に親近感を感じる。これは決して意識が了知して感じるのではなく、意識は何も知らず、意根に依存して初めて知る。後知後覚のものであり、しかも意識に智慧がある時でなければ知らない。意識に智慧がなければ熱涙を流しても何故か分からず、ぼんやりしている。意識は何故熱涙を流すのか分からないが、当然意根が自らを制御できず熱涙を流すのである。もし意根が感激しなければ、意識が感激しても熱涙は流れない。演じる者を除く。
また別の例として、或る人が別の人に会った途端に心が落ち着かないと感じ、意識は理由を知らないが、意根は知っている。ただ表現して意識に明らかにすることができない:実はこの人はいつも陰で自分の悪口を言っている。これらの事は意識は見ていないので、当然知らない。落ち着かないと感じるのは当然意根が意識に注意を促した結果である。
では意根に反観力と証自証分はあるか。当然ある。これは全く曖昧ではない。修養ある者は、意根が常に反観・省察し、過ちを犯したか、他人を傷つけたか、言行は適切で規範に合っているかなどを絶えず行う。修養なき者でも、意根は重大・緊急の事柄や非常に重要な人に遭遇した時、自らの言動が適切か、何か良くない結果があるかなどを反観・省察する。極めて愚痴な者のみ、意根に反観・省察力がなく、常に無知無覚で大禍を招いても知らないことがあり得る。
意根の反観は意根の反観であり、意識の反観は意識の反観である。二者は互いに代替できず、なぜなら二者はそれぞれ自らの心所法を持ち互いに用いないからである。ただ互いに影響し合うに過ぎない。意根は意識の反観を自らの反観として確認し、自ら省察・反観しなくなることはあり得ない。たとえそのような状況があっても、それは意根の智慧が不足する特殊な状況下であり、その後意根が一旦自らを反観できれば、多くは以前の決定を後悔する。また別の例として、或る人が或る事をして、終えた後その事を忘れ、もう考えない。しかし間もなく、或る縁に遭遇してその事を思い出し、そこで腿を叩いて言う:あの事は間違っていた。この後悔は意識の後悔か意根の後悔か。意識が反観して間違いを発見したのか、意根が反観して間違いを発見したのか。
ここには意識が分析する時間と機会がなく、意根が非常に速やかに腿を叩いて後悔を表す決定をする。腿を叩くのが速ければ速いほど、意根が反観して誤りを発見したのであり、たとえ腿を叩くことが意識と身識の共同造作の行為であっても。腿を叩くのが強ければ強いほど、意根は後悔する。熱湯が手に掛かった時直ちに手を振るうように、意識が分析する時間はない。もし意識が分析してから手を振るえば、手は既に酷く火傷して振るうかどうかも意味がなくなる。もし何事も意識を用いなければならないなら、多くの事は後の祭りとなり、取り返しがつかない。過ちを犯し深く反省し懺悔し、真摯に懺悔し、誠実に懺悔し、真心を込めて懺悔する。これらは全て意根の懺悔・反省・反観である。意識の懺悔は全く真摯ではなく、口にしても実行しないとは意識の言うことに信がなく、このような不作主性を指す。
五、意根に証自証分がある証拠
第一に、悔い改めと後悔の行為から、意根に証自証分があることを証明できる。悔い改めという行為は、以前意根に智慧がなく分別できなかった時、盲目的に意識の分析と指示を信じ、軽率に決定したためである。その後意根はそうではないと気づき、当初の決定が間違っていたので悔いの念が生じる。意根が自ら下した決定が間違っていると発見する。これが意根の証自証分の機能作用であり、自らを観察した後、自らの誤った決定を発見する。
第二に、意根の心行の転換から見て、意根に証自証分がある。意根は仏法を学び修行し、意識の絶え間ない熏染を通じて次第に真理を認識し、自らの以前の愚痴さを認識し、自らを修正し成仏の道を歩むことを発願する。修行過程で絶えず自己認識を高めること、これが意根の証自証分の機能作用である。絶えず自らを修正すること、これが意根の証自証分の機能作用である。自ら心行を変え、心所法を変えること、これが意根の証自証分の機能作用である。
もし意根に反観力がなく証自証分がなければ、意根は自らを修正できない。意根が意識の熏染と導きに頼るのは確かだが、最終的に真理を認識し自らを変えるのは必ず意根自身であり、意識ではない。もし意識が意根を変えられるなら、意根を熏染し導く必要はなく、直接変えればよい。熏染とは意識の思想観念が意根に受け入れられ同意され、意根も同じ思想観念を持ち、変えられた思想観念で正しい決定と行為を行い、身口意行が変化することを意味する。
意識は意識自身を変えるだけで、意根を変えられない。意根が自らを変えたくなければ、意識が強引に変えることは不可能である。もし意識が強引に意根を変えられるなら、仏法を学び修行し、成仏さえ容易である。しかし自らを変えることは必ず能動的行為であり、受動的行為ではない。受動的では一時的であり、決して永続的ではない。そうでなければ誰もが諸仏菩薩に変えられ、六道輪廻の苦しみから離れ成仏の道を歩み、皆成仏に近づくはずだが、事実はそうではない。この理を仔細に思惟すれば明らかであり、理解は難しくない。
六、諸法に主なく作者なし
仏説十善業道経原文:諸法集起。畢竟無主。無我我所。雖各隨業。所現不同。而実於中。無有作者。故一切法。皆不思議。自性如幻。
釈:世間の一切法の積集生起は、畢竟として主宰者なく、主人もなく、我性も我所性もない。これらの法は皆それぞれ異なる業種と業縁に随って生じるが、現起する法相は異なる。そしてこれらの法が現起し滅する過程には、確かに造作者はない。故にこの一切法は全て不可思議であり、法の自体性は幻化された如きものであると説く。
法の集は、業行が集まって業種を形成し、業種が成熟した後、業縁の補助の下で諸法が生じる。しかし法の生起には、その中で誰かが主宰し諸法の生住異滅を操る者はなく、支配者はない。これらの法には我性がなく、無我であり、また我の所有にも属さない。例えば色蘊の集起は、誰が色蘊を集起させるのか。如来蔵には集起の心行がなく、色蘊を主宰しない。意根も幻化されたものであり、色蘊を主宰しない。業種業縁も幻化されたもので、いずれも集起の心はなく、色蘊は不可解に現れる。色蘊は我か。我ではない。なぜなら自主性がなく空だからである。色蘊は我の所有か。我の所有にも属さない。なぜなら空だからである。受蘊・想蘊・行蘊・識蘊も皆同様であり、六根・六塵・六識も皆同様である。
甲乙丙丁の衆生は、皆それぞれの業行・業種に随って六道輪廻に現れるが、現れる相貌・身分・地位・福德・種族などはそれぞれ異なる。しかし確かに現相の中に、造作者は一人もおらず、誰かが衆生の六道輪廻相を造ったわけではない。故に甲の天堂相は不可思議であり、天相の自体性は如幻如化で実質の天人はいない。乙の人相は不可思議であり、人の自体性は如幻如化で実質の人はいない。丙の地獄相・丁の餓鬼相も皆同様で不可思議であり、自性は如幻如化で実質がない。
これらの法は意識で理解するのはあまり難しくないかもしれないが、意識は大まかな状況しか理解できず、内在する細部は知らない。つまり意識は具体的な原因と法の具体的な運営状況を知ることができない。霧の中の花を見るようにぼんやりとして影のようにかすんでいる。ただ禅定の中で意根を用いて深く思量して初めて悟りを開き、一切の細部を余すところなく見渡し、その所以を知り、ここに至って法を実証し、法の底源に徹し、再び霧の中の花を見たり隔靴掻痒の思いをすることはない。如何なる法に対しても、意根が思量すればするほど興味深く、探明したくなり、智慧が増し、禅定が深まる。人はまるで酔うが如く陶酔するようになる。これが真理を探究する楽しみである。意識の浅薄な解釈を捨て、意根の深い思惟を学べば、ますます智慧が増し、思考と論理がますます明瞭になり、人はますます沈着で聡明になる。一切の難題はもはや難事ではなく、全て刃迎氷解する。
七、意識の忍耐と意根の忍耐の区別
如何なる心境や情緒、心理活動、人事物理に対する認知・見識・分別などの識心の機能作用も、意識と意根の二種類に分かれ、浅深の次元が異なり、二者の間には一定の区別があり、完全に一致・相同ではない。
例えば忍耐は、意識の忍耐と意根の忍耐の二種類に分かれる。二者とも忍耐を持つかもしれないし、一つだけが忍耐を持つかもしれない。意根に忍耐がなければ、意識の忍耐は長続きしない。例えば一つの事を長時間行うと、意根は忍耐がなくなり、もう続けたくなくなるが、意識の方はまだ仮に堅持している。所謂仮にとは、意識と意根の二つの心理が一致せず、それぞれに考えがありながら、一時的に現状を維持していることである。実際には意根は別の事を考えており、考えがまとまれば別の事を行うことを決定し、意識は堅持し続けることを主宰できず、意識の忍耐は終了する。
意識に忍耐がなく意根に忍耐がある時は、意識が心ここにあらずで心に様々な考えがあっても、意根が堅持して変わらないため、他の決定をせず、意識は選択の余地なく続けざるを得ない。なぜなら主宰できないからである。二者とも忍耐がある時は、物事を行う態度が変わらず、数年が一日の如く、数日が一日の如く同じ事を続け、心は倦まず弛まない。
八、修心時の傍観者・監督者は意根か意識か
問:私の行住坐臥と心念の流転の中に、一つの傍観者・監督者がおり、これらの行為を死ぬほど凝視している。この傍観者・監督者は意根か意識か。
質問者自身は確かに自らを傍観・監督している。一定の修行に至らなければ自らを監督・傍観できず、このような覚醒と自律は、自らに煩悩や不足があると認識して初めて自らを変えようとし、この考えを持って初めて自らの言行と心念を傍観・監督できる。
一般的には意識が自らを傍観・監督している。この自らとは五蘊であり、これらの心念と身行・語行は意根が主宰して造作したものである。意識も参与しているが主導ではなく、受動的に参与することが多い。故に意識は自らの心行を観察・理解する必要があり、意根の心行を観察・理解する必要がある。何故意識は常に自らを反観・監督できるのか。やはり意根が修行を通じて覚醒したため、意識に自らを反観・監督させるのである。もし意根がまだ悟っていない時は、深く自らの心念・心行を分析・理解することを非常に好まず、一般的には自らを隠すことが多い。
意根の煩悩が重くまだ悟っていない時は、常に自らを欺き人を欺くことを好む。自らを欺こうとしているのに、如何にして意識に自らを反観・監督させ、自らを理解・分析させることができるのか。故に尚更他人に自らを理解・分析されることを望まない。このように悟らない者は非常に短所を庇い、短所を庇う者は自らを褒め自慢することを好む。他人が自分を褒めなければ自ら褒める。自らを持ち上げてそこから自我の慰めと満足を得る。このような人の心は脆く、故に自他に肯定される必要があり、そうして初めて安らぎを感じる。一人でも短所を庇う行為があれば、他人の勧告や提案に従うことを好まない。この時、彼と議論・勧告しても効果はあまりなく、ただ正しく認識し自らを変えようとする者に対してのみ、勧告は意義と効果があり、人に嫌われず、衝突に至ることもない。
九、意根の表現方法
問:夢の中で甲乙二人が対話する。甲が問う:受と識の中に我はあるか。乙が答える:我はない。問いと答えは共に意識が言語を用いた表現方法である。では意根は問答に参与したか。
答:夢全体は意根が現出したものであり、甲という人物を借りて自らの疑問を提起し、自らの意識に考えさせ、代わりにこの問題を解決させることが目的である。意根が意識に問題解決を必要とするのは、既に疑問を持ち解決したいと思い、この夢を弄んだのである。
言語文字を用いて表現するのは意識の機能である。意識の表現の背後には意根の決定と促し、意根の思想がある。意識は意根に促されて表現し、表現するのは意識自身の観点かもしれないし、意根の観点かもしれないし、二者共通の観点かもしれない。もし意根にこの問題に対する疑情がなければ、答えを知りたくないなら、この夢を見ることはない。
もし意根が既に問題の答えを知っているなら、相手が質問した時、如何に表現するか。意根には言語文字の機能がないため、表現するには、一つは意識の言語文字音声を通じ、かつ意識は考えずに速やかに答える。まるで頭を使わず思考しないように。もし思考して躊躇すれば、表現されるのは一般に意識自身の観点が多い。二つは意根は意境を通じて表現するかもしれない。あるいは境界と呼ぶ。意根は意根の思想観念と心理状態を代表する一つの境界を現出する。そして最も深い境界は通常三昧境界と呼ばれ、我見を断ち明心見性には定慧等持の三昧境界が現れ、意根が空と無我を証得したことを代表する。意根が三昧境界にあれば見道である。
もし意根が受と識に我なしと解了・証得した後、日常生活ではどのような表現があるか。以前と何が異なるか。どのような心性と習気が変わったか。
白雪香の体験:日常生活の変化は非常に大きい。ただ習性は時折湧き起こるが、瞬間的に覚照され、次第に習気はますます力がなくなる。この習性とは即ち業力である。
如舍の体験:受と識がもたらす認知の煩わしさを気にせず、貪念妄念を動かす動機もなく、心中に煩悩が生じることは稀である。生活のリズムは非常に遅くなり、人と事を経験することは全て外から見ているように、疎遠感がある。しかし慈悲心が増すかどうかは分からない。
人と事に疎遠感があるとは、人と事がある程度切り離され、あまり密着・依存しないことである。これは空に近い心理状態であり、修行は一定の成果を収め、四加行の段階に入った。この段階を過ぎれば我見を断つ。
十、死の真相
心臓死と脳死の区別は何か。何故首を斬られた瞬間にまだ瞬きができるのか。何故首と体が分離した瞬間にまだ四肢と体があると感じ、ただ感覚が言うことを聞かないだけなのか。何故人は皆身体の最も重要な所は脳にあり、危険を感じると無意識に頭を抱えるのか。
心臓死は心臓・脈拍が動かず、血液が送られず、呼吸が停止することである。脳死は大脳中枢神経系に反射活動がなく、眼耳鼻舌身に何の反応もなく、神経活動がなく、眼の瞳孔が開き光に反応せず、耳鼻舌を検査しても何の反応もなく、身は筋肉に力がなく弾力性がなく、大小便のコントロールができない。これらの現象は大脳勝義根が完全に機能を失ったことを示す。心臓死の時、脳は必ずしも死んでおらず、大脳にはまだ気血の供給があり、六塵は勝義根に伝送され、微弱な六識が存在し得る。しかし脳死は必ず心臓死である。脳死こそ真の死であるが、脳死の検査が不十分であれば誤診の可能性もあり、死んでいないのに死んだと判断されるかもしれない。
首を斬られた瞬間、まだ気血が大脳勝義根に供給され、六塵はまだ大脳勝義根に伝送され、意根はまだ中枢神経系の活動を制御し、五根六識を指揮できる。故にこの時はまだ瞬きができる。この時六塵情報はまだ勝義根に留まり、身体の情報も勝義根にあるため、意根意識は習慣的に身体がまだ存在すると考え、意根はまだ身体活動を制御しようとする。制御できないと感じた時、初めて身体が頭部(自分)から離れたと知る。意根は多くの事を知っており、一部は意根本来の機能だが、大部分は純粋に経験である。経験が多すぎて生まれながらに知っており、これらの知を表現できないため、意識は全く理解しない。無明は、意根の方が多いか、意識の方が多いか。
もし自然死でなければ、如何に死ぬのが最も痛快で時間が極めて短く、苦痛が最小か。それは直接首を斬ることである。脳活動に必要な気血は勝義根にあるこれだけであり、消耗し尽くせば死ぬ。非常に速い。気血がなくなれば六塵は勝義根に伝送されず、六識は消滅し、苦痛は止み、人も死ぬ。もし身体の他の部位を斬れば、大脳と心臓内臓から遠ければ遠いほど、気血が大脳に供給される時間が長く、死は遅い。最も残酷で苦痛な死は凌遅処死であり、一刀一刀を急所でなく斬れば、六識は滅せず、絶え間なく痛みを感じる。
最も快適な死はどのような死に方か。善業福業に支えられて天道に昇る死は非常に気持ち良く楽しい。身心柔軟で容貌は生きている時より美しく、天境が現前し、天楽が迎え、天香が室を巡り、心が歓喜すれば即ち息絶え、識神は天上に現れる。より快適な死は諸仏菩薩が迎え、中有身が蓮華に乗り弾指の間に極楽世界や他の仏国土に往生する。しかしこれにはより多くより大きな善業と福業の支えが必要で、一般の者は修められない。