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日常法話集録

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 514

第八章 大乗如来蔵篇

一、八つの識心は色身のどのような処にあるのか。

八つの識心は形も相もなく、物質的な色法ではなく、物質的な色法との間には物理的な属性としての触れは存在しない。したがって、識心は物質的な色法である色身の内側にも外側にも中間にも存在しない。もし識心が色身の内側にあるならば、色身という物質的な色法を分解し、一片ずつ切り開けば、識心を見ることができるはずである。しかし、たとえ色身を切り刻んでも、いかなる識心も現れ出てくることはなく、後脳の勝義根を分解しても、八つの識を見つけることはできない。ゆえに識心は色身の内側には存在しない。

もし識心が色身の外側にあるならば、色身の外側は虚空である。識心は虚空の中に存在することはできず、虚空とは属性が異なり、互いの中に存在することはできない。たとえ識心が虚空の中にあったとしても、それはあなたとは関係のない、誰にも属さない識心であり、すべての人々が共用することもできない。もし識心が他人の身上にあればそれは他人のものであり、もし無情物の上にあれば、その物を打ち砕いても見つからない。ゆえに識心は色身の外側には存在しない。

もし識心が色身の中間にあるならば、中間の位置を見つけることはできない。もし色身の表面にあるならば、それも色身の内側に属し、中間ではない。位置がある限りそれは色身の内側であって、中間ではない。したがって、識心は色身の内側、外側、中間のいずれにも存在しない。

具体的には『楞厳経』第一巻を参照されたい。世尊が説かれた六識が色身の内外中間に存在しないという説法である。七識と八識も六識と同様に、色身の内外中間のいずれにも存在しない。色法と非色法は物理的な属性としての触れを持つことはできず、非色法は色法の内外中間に存在することはできない。

では、ある人が尋ねる:では八つの識は一体どこにあるのか?どこにも存在しないとは言えないのではないか?八つの識はもちろん、それぞれの作用する処にあるが、目で見えるものではない。なぜなら形も相もないからである。八つの識がそれぞれどのような作用を持っているかは、自ら努力して思惟し、ある時点に至れば各識を証得し、そうして初めて各識がどこにあるかを知ることになる。その中で前六識は証得しやすいが、七識と八識は非常に困難であり、相当の因縁条件を具足しなければ証得できない。

二、如来蔵は万能の法ではない

問:真の大神通は如来蔵を証得する必要があり、自ら如来蔵識の妙用を運用できてこそ真の大神通であり、これは少なくとも阿羅漢以上の境地である。一般衆生の小神通は理屈の上では如来蔵の妙用であるが、彼らはまだ如来蔵を証得しておらず、如来蔵の妙用はないはずである。では、これらの小神通はどこから来るのか?如来蔵は一つの宝蔵であり、どれだけ開発すればどれだけ運用でき、大神通は如来蔵を100%開発したものであり、小神通はほんの少し開発したものだと言うべきではないか?

答:一切の衆生は常に如来蔵を運用しており、使わない者はいない。細菌や蟻のような衆生も含まれる。違いは、証悟した人は知って用い、証悟していない衆生は知らず知らずのうちに用いている点である。実際にはどちらも受動的な用い方であり、使わざるを得ず、如来蔵が能動的に助けているのである。仏菩薩のような智慧ある人は善く用い、心が染汚されている人は悪く用いる。しかし、善く用いようが悪く用いようが、それはすべて如来蔵が意根と五蘊に能動的に配合して起こる用い方であり、意根と五蘊が善であれば如来蔵は配合して善法を造り、意根と五蘊が悪であれば如来蔵は随縁して悪法を造る。鍵は意根と業種にある。したがって修行とは、意根を善く修め、善の種子を蓄えることであり、そうすれば如来蔵は善縁に随って善法を造る。我々はただ修行に専念すればよく、如来蔵をどう使うかは気にせず、意根を善く用いれば如来蔵を善く用いることになる。

一般に言う神通は五つの神通:天眼通、天耳通、神足通、他心通、宿命通であり、すべて四禅八定から生じる。憑依のようなものは神通に属さない。如来蔵の機能作用を方便的に神通妙用と言う。衆生の意根の心量と智慧が開かれ、禅定が現れると、神通や大神通が現れる。これは如来蔵が意根に随って顕現したものである。したがって修行は主に意根を修めることであり、まずは意識を修めることである。

一般の神通はすべて禅定を修めた結果であり、如来蔵を証得しているかどうかに関わらず、神通は世俗法であり、定学の成就である。世俗法上のことは、如来蔵に結びつける必要はない。例えば、ある技術を学びたいなら、その技術に専念して研鑽すればよく、如来蔵を結びつけても無駄である。料理を上手に作りたいなら、如来蔵を結びつけても無益であり、むしろ事を遅らせる。小乗の空や外道の空でさえ、如来蔵を結びつけても無意味であり、何事も如来蔵と結びつける必要はない。しかし、地上の菩薩の大神通は如来蔵の証悟と関係があり、それは禅定と大智慧の結合であり、どちらか一つが欠けても大神通は現れない。

三、如来蔵に帰属性があることは如来蔵が共用できないことを説明する

一切の法には帰属性がある。物質的な色法は数量で区分できるが、識心は数量で区分することはできない。如来蔵にも帰属性があり、七識五蘊に帰属するが、数量で区分されることはない。あたかも眼識、耳識、意識、意根などの識心は、すべて帰属性を持ち、五蘊に帰属するが、どれも数量で区分することはできない。識心はどれも数えることはできないが、すべて帰属性を持っている。そうでなければ衆生は共用でき、混乱する。もし帰属性がなければ、善悪の業も帰属性がなくなり、それは因果がないことに等しい。甲が業因を造り、乙が業果を得るなら、世間も出世間も正理がなくなる。

まさに如来蔵に帰属性があるからこそ、仏の如来蔵は常楽我浄の性を持ち、衆生の如来蔵には常楽我浄の性がない。五蘊七識が異なり、業因が異なり、業果も異なるため、如来蔵も異なる。等覚妙覚菩薩の如来蔵でさえ常楽我浄の性はなく、凡夫の如来蔵は常楽我浄の性とは全く縁がない。したがって、仏と衆生それぞれの如来蔵には大きな違いがある。凡夫は三大阿僧祇劫の修行を必要とし、如来蔵が初めて常楽我浄の性に変わる。如来蔵はどのようにして仏地のあの常楽我浄の性になるのか?これには七識心を修め、七識心を完全に清浄にし、無明がなくなれば、如来蔵に蓄えられた染汚がすべて除去され、常楽我浄の性に変わる。したがって衆生の修行の時劫と程度が異なれば、その如来蔵の功用にも差が生じる。

実際には、衆生と仏の如来蔵の本体はすべて平等である。しかし七識五蘊が不平等であるため、如来蔵の機能が制限され、差が生じる。七識とは前七識を指す。衆生の七識と仏の七識には大きな違いがあり、それによって如来蔵にも大きな違いが生じる。七識の識性を智性に転じれば、第八識如来蔵は大円鏡智に変わり、衆生は仏となる。仏の如来蔵は大円鏡智と呼ばれ、凡夫の如来蔵は阿頼耶識と呼ばれる。機能に違いがあるため、名称が異なるのである。本来、阿頼耶識と大円鏡智の神通妙用は二つとして別ではない。しかし前七識の業が異なり、染汚の業が阿頼耶識の広大な功用を制限し、大円鏡智のあの広大無辺の神通妙用を発揮できないのである。

四、俗諦に執着すれば真諦を見ず——無道

手に青い苗を把って田を満たし植うれば、頭を低くすれば便ち水中の天を見る。心地清浄なる方こそ道たり、退歩もとより前に向かうなり。

この四句が体現しているのは、あの特別な、形も相もない道であり、明らかにしているのはすべて如来蔵の運作である。未悟の人は、心がすべて境界の中に入り込み、その中の意境を考え、人を見、境を見、事も見て、景に触れて情を生じ、感慨無量である。実際には境界を考えるのは大間違いであり、実は琢磨すべき境界などない。この詩は何の境界も表現しておらず、人もなく境もなく事もない。すべては一文字:道である。問う:道はどこにあるか?人と境が接するすべての事の上にあり、人にもあり境にもあり、至る所に存在する。しかし凡夫は道を見ず、ただ俗相のみを見る。金沙が天に満ちても、目に落ちて翳となる。金沙は目で見るものではない。見ればすべて砂土である。心で体得すれば、すべて金である。

ある人が言う:あなたのこの言い方は悪取空ではないか?これは悪取空ではない。悪取空とは、如来蔵というこの道さえも存在を認めず、一切の法をすべて空じ、何もなく、因果すらなく、因もなく果もなく戒律もなく、一切の身口意の行いに顧みることがないことを指す。この四句が示しているのは、人もなく境もなく事もないこと、まさに空ならざるあの道——如来蔵であり、人・境・事に執着することこそ、まさに空に執着することである。凡夫はまだ道を証得していないため、どのような見方も正しくない。人・境・事に執着しているときに、どうして如来蔵を見て、如来蔵を証得できようか?

そして空とは、大乗小乗の法の指し示すところである。色受想行識の五蘊人は空であり、内外の六塵の境界は空であり、人もなく境もなければ、事もない。これらの虚妄の法を空じて初めて、あの空ならざる如来蔵を見ることができる。空の法に執着すれば、慧眼が覆われ、どうして空ならざる如来蔵を見ることができようか?

五、声聞縁覚は第一義空を見ない

『大般涅槃経』原文:中道なる者を名づけて仏性と為す。この義をもっての故に。仏性は常恒なり。変異すること無し。無明の覆うが故に。諸の衆生をして。得て見ることを能わざらしむ。声聞縁覚は一切の空を見て。不空を見ず。乃至一切の無我を見て。我を見ず。この義をもっての故に。第一義空を得ず。第一義空を得ざるが故に。中道を行ぜず。中道無きが故に。仏性を見ず。

釈:中道を仏性と名づける。したがって仏性は常恒で変異がないと言う。無明が心眼を覆っているため、諸々の衆生は仏性を見ることができない。声聞縁覚の修行はただ現象界の中に留まり、現象界の外に超脱できない。したがって彼らは現象界の一切の法が空であることのみを見て、現象界の外にある空ならざる仏性を見ることができない。さらには声聞縁覚は現象界の中の一切の法がすべて無我であることのみを見て、現象界の外にある仏性の我を見ることができない。したがって声聞縁覚は第一義の空を証得できない。第一義の空を証得できないため、声聞縁覚は中道を行じているのではない。中道がないため、中道の仏性を見ないのである。

仏性の中道性については、『楞厳経』で仏が説かれた如来蔵の中道性を参照されたい。如来蔵と仏性はどちらも有法であり、実在し、本体は空ではなく、性質は空である。衆生は無明のため、世俗界の現象法に執着し、現象界の背後にある実法・真法を探究する智慧がなく、如来蔵と仏性を証得できない。

声聞縁覚にも大乗の法の無明があり、やはり現象界の背後にある実法・真法を探究せず、如来蔵と仏性を実証できず、ただ現象界の空のみを見て、背後にある真法の不空を見ず、まさに真法の第一義の不空があるからこそ現象界の空があることを知らない。したがって彼らの行いは空に偏り、中道がない。そしてあの真法こそが衆生の本体、本来の面目、すなわち衆生の我、真我であり、真我から五蘊世間の仮我が派生するが、仮我は我ではない。したがって声聞縁覚の空は究竟ではなく、したがって中道的ではなく、偏っており、純粋な空に偏り、空と有が円融しないのである。

六、本有の種子と新熏の種子の関係は何か?

本有とは、無始劫の昔から本来として存在していた、何の理由もなく存在しているものを意味する。それは如来蔵の中の七大種子——地・水・火・風・空・見・識であり、これらの種子は不生不滅である。本有の七大種子は、五陰七識が造作しなくても天然に存在し、何の理屈もなく、それを生じる法もなく、それを滅する法もない。清浄本然で、法界に周遍して現れ、熏されず、変異せず、永遠に清浄である。

新熏とは、五陰が出生した後、七識の業行が現れて落とした種子を意味し、業種とも呼ばれる。後天的に生じたものであり、生滅し絶えず変異する。新熏の種子は、後天的に五陰七識が業行を造作して形成されたものであり、因縁によって生じた法である。善・悪・不善不悪の業種に分かれる。七識が清浄になった後、業行を造作し、残すのはすべて清浄な業種である。悪業の種子がすべて消滅した時、如来蔵は識を転じて智と成し、仏道を成就する。

本有の種子と新熏の種子の関係は、本有の種子が三界の中に出生し、五陰七識・世間万法を形成する。七識は因縁法を借りて業行を造作し、それによって業行の種子が如来蔵の中に落ちる。本有の種子がなければ、後天の新熏の種子もない。

心に疑問があるときは、問題の中の概念をはっきりさせれば、問題は半分解決したも同然である。概念の内包がはっきりしていなければ、たとえ他人が答えても、自分は混乱しやすい。概念がはっきりしていなければ、問う問題自体が不明確で問題があるため、普通の人は答えにくい。もし甲・乙・丙・丁が、本有と新熏についてそれぞれ異なる理解を持ち、一緒に弁論するなら、いつの年何月に観念を統一し、共通認識を形成できようか?

七、阿羅漢の如来蔵は異熟識と呼べるか?

阿頼耶識、異熟識、無垢識——この三つの名称は、すべて第八識如来蔵を表す。名称が異なるのは、含蔵する業種が異なるためである。業種の変化は、生死をもたらす無明が相当な程度に軽減されたか、あるいは滅尽したことを示している。その中で阿頼耶識という名称は分段生死があること、悪業の種子がまだ重く多いことを表す。分段生死がなく変易生死だけがあるとき、すなわち煩悩の現行がすべて断じ尽くされたとき、悪業の種子が消滅し、三界の分段生死を感召しなくなる。これが小乗の四果阿羅漢の境地である。この時の如来蔵は異熟識と呼ばれる。如来蔵を何と呼ぶかは、含む生死の業種、煩悩が断じ尽くされているかどうか、習気が断じ尽くされているかどうかによる。異熟識の最低基準は煩悩を断じ尽くすことであり、最高基準は煩悩を断じ尽くすだけでなく、相当な程度の習気を断ずることである。これは同時に八地菩薩の唯識種智を持つことも示している。

阿羅漢は煩悩を断じ尽くしたため、もはや分段生死がなく、すなわち三界の六道輪廻はない。六道の中で輪廻しないが、六道の外の聖人の身分と修道の道場はあり、この身分で引き続き三界の中で修行し、成仏に至るまで、三界の外に出ることはない。したがって阿羅漢が煩悩を断じ尽くせば、六道輪廻の分段生死から脱し、阿頼耶識は異熟識と改名される。その解脱の境地は八地菩薩に相当するが、習気はまだ断ち始めていない。八地菩薩は習気を断じているが、まだ断じ尽くしておらず、断じ尽くしていなければ変易生死がある。その如来蔵も異熟識と呼ばれる。

ここから見ると、生死は煩悩と煩悩の習気から来ており、修行の指し示すところは煩悩を断じ、習気を断ずることである。大乗の修行であれ小乗の修行であれ、目標は同じである。ただし小乗の修行は煩悩を断じ尽くす程度にしか達せず、習気を断ずることはできない。それでは引き続き大乗を修学し、一切の無明を断じ尽くして仏果を成就することを期す必要がある。小乗の法理は深くなく、究竟でもないため、行人を導いて習気を断ずることはできず、大乗の法義は次第に深く入り、深く細かく微細に至り、漏れがなく、行人を導いて一切の無明習気を断じ尽くし、最終的に仏となることができる。この道理を明らかにした後は、学仏修行の中で常に自らの心性を検査し反観し、煩悩が軽減されたか、心が少しでも清浄になったかを見て、学んだ理論を究竟と見なしてはならない。理論は煩悩と習気を断ずるために奉仕するものであり、習気を断じ尽くせば、一切の理論は用いる場所がなくなる。

阿羅漢が無余涅槃から出てきた後、菩薩の六度の中で、大乗如来蔵の智慧は具わらず、福德も不足し、大乗の戒行も完全ではない。しかしもし修めるならば、おそらく非常に速く修め尽くせるはずである。阿羅漢が一旦開悟して如来蔵を証得すれば、その果位は七住位ではなく、初地前後にあるはずである。初地に入るのは非常に速いはずである。何しろすでに煩悩を断じ尽くしており、禅定は初禅定以上である。初地菩薩の果位に達するのはさほど困難ではない。初地以上の菩薩は煩悩をまだ断じ尽くしておらず、解脱の智慧と禅定の面では阿羅漢に及ばないが、福德は非常に大きく、阿羅漢は遠く及ばない。結局どちらが先に成仏するかは、一概には言えない。

総じて言えば、小乗の極果は大乗八地菩薩の解脱智慧の証量に相当するが、八地菩薩の甚深な唯識種智はなく、識を転じて智と成すこともない。智慧の面では、阿羅漢と八地菩薩は非常に差があり、初地菩薩とも非常に差がある。大乗の無生智慧は三賢位の菩薩とも非常に差がある。もし行人が小乗の解脱だけを修め、大乗を修めなければ、その解脱は依然として不究竟であり、生死の大事は結局本当に解決されていない。涅槃に入ることはできても、依然として生死があるのである。

八、衆生はなぜ豚肉を食べられないのか?

ある学人が問う:「いかにして階級に落ちないようにするか?」黄檗禅師は言う:「終日飯を食いて未だ曾て一粒の米を咬まず、終日行けども未だ曾て一片の地を踏まず。かくの如き時は人我などの相無く、終日一切の事を離れず、諸の境に惑わされず、方に名づけて自在の人と為す。更に時時念念一切の相を見ず、前後三際を認めざれ。前際は去ること無く、今際は住むこと無く、後際は来たらず。安然として端坐し、任運にして拘わらず、方に名づけて解脱と為す。努力努力!この門中千人万人、ただ三つ五つを得るのみ。若し将に事と為さずんば、殃を受くる日有り、故に着力と云う。今生は須らく了却すべし、誰か能く累劫に余殃を受くべきや!」

ここでの「階級」とは修行の次第を指す。「階級に落ちない」とは、直接法の最も根本的で究竟な処に到達することを意味する。どうすれば直接に空性を証悟したと言えるのか?黄檗禅師は答えて言う:もしできるならば、終日飯を食っても一粒の米も食ったようには思わず、心空にして我に執着せず、終日歩いても一片の地も踏んだようには思わず、心空にして我に執着せず、自らが飯を食い歩く相に落ちない。この境地に達した時、心中に人相も我相もなく、終日一切の事を離れないが、諸々の境界に迷わされず、諸々の相に縛られない。そうして初めて自在の人と言える。さらに時時念念一切の相を見ず、一切の法に前際・現際・後際があると思わない。なぜなら前際は去っておらず、現際も念念止まらず、後際も来ないからである。一切の時に安然として端坐し、任運に行い、法に縛られない。これが解脱と呼ばれる。

これは禅宗の般若証悟後の境地であり、五蘊空の境地である。何が空なのか?如来蔵によって生じたから空と言うのである。この境地は小乗の空の境地より一歩進んだものであり、凡夫の有の境地とは比べ物にならないほど高いが、それでも唯識の空の境地ほど究竟ではない。小乗と般若のレベルは人空であり、唯識のレベルは法空である。法空は人空の基礎の上に、さらに細かく微細に、範疇がより広く深い。

例えば飯を食うという事柄について、般若のレベルでは我が飯を食うことはなく、飯を食う我もなく、我は飯を食う我相に執着しない。しかし唯識では飯の相すらない。例えば皆が興味を持つ豚肉を食うという事柄について言えば、五蘊は根本的に外相分の実質的な豚肉には接触できず、ただ後頭部の中の内相分の豚肉にしか接触できない。しかし豚肉を食った後、内相分の豚肉がなくなるだけでなく、外相分の豚肉もなくなる。これはなぜか?

実質的な豚肉を食えないということは、豚肉を食っていないことに等しい。では口に入れ、腹に飲み込んだものは何か?口が飯を食うが、飯は後頭部の中の飯であり、口と歯と舌も後頭部の中のものであり、飯を食うあなたも空である。あなたは飯を食ったと言えるか?飯を豚肉に置き換えれば、あなたは豚肉を食ったと言えるか?あなたが食ったのは内相分の豚肉であり、外相分の豚肉はなくなった。どうやって消えたのか?秘密、特大の秘密である。一生かけて参究する価値があり、幾大劫も参究する価値がある。

この法は深く、たとえ小乗の我見を断ち大乗の明心の基礎があっても、参究は容易ではない。内外相分の生滅はすべて如来蔵が用を起こしており、六識の機能も如来蔵が用を起こした結果である。法法ことごとく如来蔵であり、開悟しなければ根本的に参究できない。

無始劫以来、色声香味触法の六塵境界について、衆生はついぞ一つも接触したことがない。しかし毎時毎刻六塵境界を我がものとし、心と口で念念有詞:これは私のもの、あれは私のもの、私の身体、私の家族、私の言う言葉、私が聞く音、私が食う肉、飲む水、寝る床、私の権力地位名声など、この香りあの味、あなたはどれも接触できない。どれがあなたのものか?生生世世追求し追い求め、実はすべて空と争い、空と奪い合い、空と遊んでいるのである。しかも自分も空であり、空と空が争い、ゲームの主役すらいない。いわゆる争いも空である。皆が世俗法のゲームに時間を浪費するくらいなら、真にこれらの真理を探求したほうがましである。そうすれば生生世世ゲームを無駄にせずに済む。真理はあなたを引きつけられないのか?

ある人が木の棒を持ってドンドンと机を叩き、そして非常に確信を持って言う:見ろ、私は机を叩いた、私は威勢を振るった、私は鬱憤を晴らした。実際には、木の棒は後頭部の中の木の棒であり、手は後頭部の中の手であり、机は後頭部の中の机であり、行為は後頭部の中の行為であり、この行為を見るのは後頭部の中で見ており、音を聞くのは後頭部の中で聞いており、鬱憤が晴れたと思うのは後頭部の中で思っている。すべての五蘊の活動は後頭部の中で造作されている。

後頭部はどれほど大きくてこれほど多くの法を収容できるのか?これらだけではない。億万の法、無量数の法がすべて後頭部の中で起こっている。空の法、実質的な性質のない法だけが後頭部の中に落ちる。実質のある相の法は後頭部の中に落ちない。世間の一切の法には実質がなく、すべて空であり、すべて影像であり、すべて影である。だからこそすべて後頭部の中の法である。豚肉も同様であり、豚肉を食うことも同様であり、私が豚肉を食うことも同様であり、その人もその事もない。何を執着し、何を追求するのか?愚者たちよ!

この理を証得するには、まず我見を断ち、次に明心する必要がある。我見を断ち五蘊空を証得することは非常に重要である。内外相分の問題は、開悟してから参究する。禅定と智慧が非常に深くなって初めて、少し道筋が見える。如来蔵という角度から参究して初めて見当がつく。なぜなら一切の法の実質は如来蔵の機能作用だからである。

如来蔵も五蘊の私も、世間のいかなる法にも接触し所有したことがない。しかし世間の一切の法の外相分と内相分はあのように絶えず生滅し変化し、絶えず造作されている。この現象は確かに人に受け入れられにくく、空の法は世間の人が信じにくい。有に執着する習慣がついているからである。しかし仏法は大乗であれ小乗であれ、すべて空を指し示す。空に至り、一糸も掛からず、究竟に空が徹底すれば、仏となるのである。

九、六祖の頓悟と神秀の漸修の関係

唐朝の南宗門派は六祖を首として頓悟を主張した。六祖の有名な偈:菩提本樹無く、明鏡も亦台に非ず、本来一物も無し、何れの処にか塵埃を惹かん。一方、北宗門派は神秀を首として漸修を主張した。神秀の偈:身は是れ菩提の樹、心は明鏡の台の如し、時時勤めて払拭し、塵埃を惹かしむること勿れ。六祖の偈は彼がまだ小乗の空の境地に留まっており、大乗はまだ悟っていないことを示している。神秀の偈は彼がまだ身心を修理する段階にあることを示している。当時の人々と後世の人は多く六祖を称賛し、神秀を貶めたが、その中にそれぞれ道理があり、根基が異なり、因縁が異なるため、修める法も同じであってはならないことを知らない。両者は頓悟と漸修の関係であり、無理に一致させることはできない。

漸修と頓悟の関係について、私はかつて例を挙げた。あたかも大木を鋸で切るようなもので、大木が倒れる時が頓悟に喩えられる。大木が倒れる前の作業が漸修に喩えられる。漸修の後に初めて頓悟があり、頓悟の後も漸修が必要である。前の修と後の修で修める法は異なり、悟後の修と悟前の修では、修めるものは確かに異なる。神秀の言う漸修は頓悟の前の漸修であり、基礎を固める段階にある。このような漸修がなければ後の頓悟はない。一方、六祖の「本来一物も無し」は、まだ大乗の頓悟ではないが、彼の前世の修行の功徳がすでに完成しており、いや何世も何劫も前から完成しているため、今世内心はすでに空であり、身心を修理し時々払拭する必要がない。

六祖の立場に立てば、六祖の根性は完全に直接空に行くことができる。大乗の空に達していなくても、禅宗の頓悟に属さなくても、六祖には空の能力がある。この境地は確かに神慧よりはるかに高く、すでに漸修の段階を過ぎており、因縁が来ればいつでも頓悟の境地に至ることができる。一方、神秀は頓悟からはるかに遠く、彼は必ず漸修し、時々払拭し、心の上の汚れを除かなければならない。そうしなければ頓悟できず、小乗の空さえ不可能である。

どこに至れば何を言い、どの段階にいるかによって修める法が異なる。各人がいる境地が異なれば、修める法は同じであるはずがない。小学生には小学生が修める法があり、大学生には大学生が修める法がある。すべての人に大学の課程を学ばせることはできず、ほとんどすべての人は前の小学校と中学校の段階を経なければならない。道は一歩一歩歩むものであり、中間の過程は飛び越えることはできない。時間の長短は人によって異なるが、この過程は必ずある。たとえ一瞬の過程であっても必ずある。このすべての過程を歩み終えて初めて、最後のあの頓悟の境地に至る。これが六祖と神秀の頓悟と漸修の弁証法的関係である。

十、金剛経第三品の真実義

第三品原文:大乗正宗分

仏、須菩提に告げたまわく。諸の菩薩摩訶薩は、応に是の如くにして其の心を降伏すべし。所有一切の衆生の類。若しは卵生。若しは胎生。若しは湿生。若しは化生。若しは有色。若しは無色。若しは有想。若しは無想。若しは非有想非無想。我は皆な之をして無余涅槃に入りて滅度せしむ。かくの如く無量無数無辺の衆生を滅度せしむれども、実に衆生を得て滅度せしむる者無し。何を以っての故に。須菩提よ。若し菩薩に我相・人相・衆生相・寿者相有らば、即ち菩薩に非ず。

金剛経第三品の中心思想は、仏が菩薩に如何にしてその心を降伏させるかを教えたことである。なぜ心を降伏させる必要があるのか?菩薩の心に我相・人相・衆生相・寿者相があるからである。四相ある者は真の菩薩ではない。菩薩は如何にして心を降伏させ、四相を滅除できるのか?仏は言う:たとえ四生九有の一切の衆生を無余涅槃に入らせても、あなたは衆生を度したと思ってはならない。衆生が度されたと思ってはならない。なぜなら法界には確かに衆生もなく、我もないからである。我がないため、私が衆生を度したと思ってはならない。衆生がないため、無量無辺の衆生があなたに度されたと思ってはならない。こうして四相を滅除し、その心が清浄になり、降伏を得るのである。全文は衆生を無余涅槃に入らせることに重点を置いておらず、仮にあなたが本当にこれほど多くの衆生を無余涅槃に入らせたと仮定している。実際はそうではない。

もしある人に我相があれば、私は如何に、私は何をしよう、私は必ず何をしようと思うだろう。重点はすべて彼のあの我にあり、常に我を中心とし出発点とし、我性は必然的に顕現する。

もしある人に人相があれば、人の善悪是非に執着し、かつ人々から離れられず、至る所で人々に依存して世俗の利益を得、人々から離れれば如何に安住すべきか分からなくなる。もしある人に衆生相があれば、自分が衆生に取り巻かれ追い求められることを望み、衆生の首となり、名聞利養を追い求める。もしある人に寿者相があれば、自分が長命百歳、長生不老、寿命が長く続くことを望む。

そしてこの四相はすべて虚偽の相、幻化して実在しない相である。心に四相があれば我見を断ち、結縛を断つことができず、生死輪廻を止めることができない。したがって菩薩はまず我見を断ち四相を破らなければならない。四相を破った後、菩薩は初めて心空となり、無為となり、福德が初めて広大無辺となり、この広大無辺の福德によって無上正等菩提を成就できるのである。

ある人が問う:仏はなぜ無量無辺の衆生を無余涅槃に入らせるのか?全文から見ると、仏は衆生を無余涅槃に入らせてはいない。全文の宗旨とその中の一言一句は非常に差がある。仏は衆生に法を学び経を読むには義に依り語に依らずと教えられた。義は完全な一書・一章・一節・一段の中で初めて如実に現れる。もしその中からある一部分を抜き出せば、その意味は歪められないか?経を読むには仏経の全貌と宗旨を完全に充分に理解しなければならず、断章取義、あるいは断句取義してはならない。義に依り語に依らず、そうしなければ三世の諸仏に申し訳ない。

十一、一切の法は皆菩提にして二相無し

『楞厳経』原文:仏、文殊及び諸の大衆に告げたまわく。十方の如来及び大菩薩は、其の自住の三摩地の中に於いて、見と見縁、及び想う所の相は、虚空華の如く、本より所有無し。この見及び縁は、元是れ菩提の妙浄明体なり。云何ぞ中に是と非是と有らんや。

釈:仏は文殊および諸大衆に言われた:十方の如来および登地の大菩薩たちは、彼ら自身が住する甚深の三摩地の中で、諸法を見る見性と、この見性が依る縁、および彼らの相、心中に現れる一切の六塵法相は、すべて虚空の華のようであり、本来は何の世俗法相もない。この見性および見性を生じる縁は、本来が菩提の妙浄明体である。どうしてこの一切の法相の中で、是れ菩提、非れ菩提というような二相を生じることができようか?

ここでさらに説明すべきは、諸仏菩薩は常に各自の三摩地の中にいる。この三摩地は禅定に唯識種智を加えた定慧等持の境地であり、智慧が足りない者は推し量ることができない。三摩地の中にいる諸仏菩薩も法を見る。世俗界の六塵境界を見る。これは七識の虚妄心の見であって、仏性の見ではない。もちろん七識の見は仏性の見を離れることはできない。離れれば見ることができない。そして七識の見は、様々な縁によって初めて現れる。縁がなければ見はなく、縁に頼って生じる見は当然虚妄で実在しない見である。

諸仏菩薩は六塵法相を見た後、心中に法相の影像が現れる。これは見の対象と結果であり、五蘊の中の想蘊の機能作用であり、様々な法相の認知と確認である。仏は諸仏菩薩の七識の見性と、見性を生じる縁、および心中に現れる法相、この三つはすべて虚空の華のようであり、本来存在せず、この見・縁・相という三つの世俗相はないと言われる。ではこの見性と縁は一体何なのか?明らかにあるのに、ないと言う。仏はこれが本来清浄な微妙な明浄な菩提の本心であり、真心自性とも呼ばれ、如来蔵とも呼ばれると言われる。どうして見と縁が菩提自性そのもの、あるいは菩提自性そのものではないと言えようか?

あたかも黄金が金器に打ち造られ、金の皿、金の碗、金の腕輪になったようなものである。これらの金器は黄金ではないとは言えず、またこれらの金器が黄金そのものだとも言えない。何しろ黄金が形を変え、俗用を持ったからである。しかしそうであっても、金器にも黄金の価値と影がある。一方、凡夫は金器を完全に俗物と見なし、皿や碗や腕輪の機能作用に執着し、毎日金の碗を持って物乞いをし、飯を盛り、飯を食い、碗の俗用を捨てようとしない。

ここに至って黄金は完全に俗物と見なされ、黄金そのものの価値を覆い隠した。黄金そのものの価値が一旦覆い隠されると、所有者は大富長者から物乞いの乞食に変わり、流離失所、窮困潦倒、悲苦交々となる。金の碗を捧げて街頭で餓死するとは、なんと不幸で、なんと愚痴なのか?凡夫が一旦慧眼・法眼・仏眼を開き、金を識れば、即時に凡夫から仏菩薩の本尊に回帰する。では我々は如何に参禅し実相を参ずべきか、皆明らかになったのではないか?

原文:文殊よ、吾れ今汝に問う。汝が文殊の如く、更に文殊有りて是れ文殊なるものは、為に文殊無きか。かくの如く世尊よ。我真文殊なり。是れ文殊なるもの無し。何を以っての故に。若し是れ有らば、則ち二文殊なり。然るに我が今日は文殊無きに非ず、中には実に是非二相無し。

釈:文殊よ、私は今あなたに尋ねる。あなた文殊について言えば、もう一人の文殊がいて文殊本尊であるというのか、それとももう一人の文殊が文殊本尊であるということはないのか?文殊菩薩は答えて言う:その通りです、世尊、私は真の文殊であり、もう一人の文殊が文殊本尊であるということはありません。なぜそう言うのか?もしもう一人の文殊が文殊本尊であるなら、二人の文殊がいることになるからです。しかし私は今、文殊本尊である文殊がいないわけではありません。この事柄の中には、確かに是と非という二つの法相はありません。

文殊本尊がどうして是非二相を生じることがあろうか?文殊は文殊であり、もう一人のはと非はない。これは偽命題であり、戯論である。同様に、一切の法はすべて菩提であり、もう一人のはと非という二相はない。全体が即ち真如である。この理を証得すれば、即時に三界本尊の身分に回帰し、もはや物乞いの乞食ではない。一切の衆生よ、早く目に付いた塵を払い、厚い目隠し布をはがし、宝を識り自性の家園に回帰せよ!

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