衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話集録

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 32

第十二章 因果雑談篇(2)


十一、過ちを犯した時は直接謝罪すべきか、それとも心の中で懺悔すれば十分か?

自分が間違ったこと、人に申し訳ないことをしたと気づいたなら、懺悔と謝罪をしなければなりません。謝罪とは、相手に対して誠実に自分の後悔と申し訳なさを伝え、相手の心の傷を癒し、不快感を取り除くことです。同時に、わだかまりを解き、心のしこりを消し去り、関係を円満で調和のとれたものにします。そして、懺悔と謝罪には目標と対象が必要です。なぜなら、人に申し訳ないことをしたなら、その人に対して直接自分の過ちを明かし、懺悔と謝罪をして誠意を示すことが、自分が他人に申し訳なく思っていること、改めたい気持ち、そしてその人を補償したいという真の認識を示すことになるからです。

もしその人に直接謝罪や懺悔をせず、心の中でだけ懺悔し、その人に直面する勇気がないなら、そのような懺悔には誠意がなく、相手の心のしこりを取り除くことも、心の傷を補うことも、双方の関係を変えることもできません。相手が傷つき不当な扱いを受けたのですから、自分がそれを認識した以上、相手に対して何らかの補償をしなければなりません。少なくとも心理的・感情的な面での補償は必要です。直接、事の次第を説明し、相手の心を解放してあげることが、最低限の尊重と懺悔です。こちら側には様々な心理や感情があっても、相手はそれを全く知らず、二人の意根(心の根幹)が繋がっていなければ、心のわだかまりは完全には解けず、隔たりも完全には消えません。そのような懺悔は徹底しておらず、根本的ではなく、問題から逃げて過ちに直面する勇気がない心理的傾向があるのです。

十二、悪人をどのように処置するのが適切か?

世俗の世界では、人間の本性は本来善なのか悪なのかという議論が絶えず繰り返されています。この問題は仏教から見れば問題ではなく、明らかです。もし人間の本性が本来善ならば、三悪道の衆生は存在しないはずです。もし人間の本性が本来善ならば、衆生に貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)という三毒の煩悩は生じず、社会にこれほど多くの重大犯罪はなく、刑務所にこれほど多くの人はいないはずです。それどころか、何度も刑務所に入っても悔い改めない人さえ少なくありません。天人の心性でさえ、すべてが善いわけではなく、煩悩、特に愚痴(ぐち)は非常に大きな煩悩です。煩悩のない衆生は輪廻しません。輪廻がある限り煩悩はあり、人間の本性は悪が多く善が少なく、ある者は全く善を持っていません。

なぜ人間の本性は本来悪なのでしょうか? 無明のためです。この無明は、衆生が存在する時から備わっているものであり、後天的に生じたものではありません。無明のために、衆生は皆、悪業を造り、無量劫また無量劫の生死輪廻があるのです。すべての衆生は、ほとんどの時劫を三悪道で過ごしており、人間として人間界に生まれる時劫は、その生命の長い河の百分の一、千分の一、万分の一に過ぎません。中には畜生道の衆生で、今に至るまで人身を得たことがなく、畜生道から出たことがない者さえいます。これらは極めて愚痴な衆生であり、愚痴とは悪そのものです。

無始劫以来、ちょうど三悪道から生まれ変わって人間界に生まれたばかりの者は、極めて愚痴で、極めて劣悪であり、全く人間の本性とは相応せず、心性は畜生と非常に似通い、非常に相応しています。彼らはただ愚痴なだけの者もいれば、愚痴で残忍、殺戮を性とする者もいます。彼らは人間界に生きている限り人を害し、人を害することが彼らの本性であり、殺生性や傷害性こそが彼らの畜生としての本性です。このような者が人間の本性、善性を持つようになるには、人間道の中で多生多劫にわたり絶えず人間の中で善法を薫習(くんじゅう:繰り返し触れて染まること)し、徐々に畜生の悪性を取り除き、人間の習性を染み込ませるしかありません。人間の習性もそれほど善いものではありませんが、畜生性よりはましです。こうして累生累世にわたる薫習によって、ようやく完全な人格と完璧な人間性を備えるのです。

しかし、この過程で、多くの人がこれらの者たちに残忍に傷つけられ、殺害されるでしょう。善人と悪人が共にいれば、当然ながら善人が災難に遭い、善人が損をします。法界では永遠にこの規則であり、善人と悪人が混在すると、永遠に悪人が悪を造り、善人は悪人の悪に耐えなければなりません。絶えずトラブルや事件を引き起こすのは、その多くが悪人や底辺の人々であり、問題を起こすのは常に教養のない人々です。なぜなら、善人は悪業を造らず、あるいは大悪業を造らず、故意に人を傷つけないので、傷つけられる側にしかなれないからです。悪人は必ず悪業を造り、必ず人を傷つけます。最初の本性は変えられません。では、これらの悪人が極めて大きな悪業を造った場合、彼らの生命を奪い、これ以上人を傷つけ続けないようにすべきでしょうか?それとも彼らの生命を残し、人間界で善法を薫習させ続けるべきでしょうか?

二つの選択肢にはそれぞれ長所と短所があります。もし彼らの生命を残せば、次々と人が傷つけられ殺害され、他の生命が脅かされます。もし悪人の生命を奪い、彼らが同類を傷つけ続けるのを阻止すれば、これらの悪人は善法を薫習する機会を失い、悪性を改める機会がなく、心性の進化が阻害されます。これも大きな損失です。この件について、いったいどうすれば良いのでしょうか?善人と悪人をそれぞれの場所に落ち着かせ、互いに平穏に過ごさせるためのより良い方法はないのでしょうか?極楽世界では阿弥陀仏はどのように善人と悪人を管理しているのでしょうか?

解決策は、類は友を呼び、人は群れをなす、つまり善人と悪人を分けることです。異なるレベル、異なる属性の有情はすべて分け、共に住み混在してはいけません。法界では皆この規則であり、極楽世界などの仏国土が娑婆世界のような仏国土と分かれているように、二つの世界の衆生の心性は異なり、境界を接することも、混在して共に住むこともできません。そうすれば面倒を避けられます。衆生のレベルは多く、各レベルの衆生の思想や観念はそれぞれ異なり、千差万別で、統一や調整は不可能です。混在すれば絶えずトラブルが起こりますが、すべてを隔離すれば問題は起こりません。

仏教の戒律でも同様の要求があります。同戒同行の原則を守り、受ける戒が異なれば共に住むことはできません。出家と在家は混在して共に住むことはできず、同じ出家でも戒律と修持が異なれば共に住むことはできません。同じ在家でも戒律と修持が異なれば、なるべく共に住まないようにします。そうしなければ面倒が生じ、仏戒に背くことになります。世俗界でも、大体は自動的にこのようにして集団が形成されます。福徳と智慧が異なり、社会的地位が異なり、教養と素質が異なれば、一般的には分かれて住み、共に住みません。そして犯罪を犯した悪人は刑務所に収監され、犯罪を犯していない人々から隔離されます。衆生は全体として、その業行と心性の違いに基づいて六道に分けられ、善悪の衆生は共に住みません。

十三、死に臨んだ時の奇妙な体験

1. 私は気絶した時、特別に心地良く感じ、とても軽く、頭の中には思考が全くなく、すぐに一生の経験が思い出されました。

2. 私は車に跳ねられ空中にいる時、一瞬で自分の一生を思い出し終えました。

3. 私は溺れた時、窒息の苦しみは感じず、むしろとても平静で、数十秒で一生を思い出しました。

4. 私は交通事故に遭った時、ほんの数秒の間に、小さい頃から大きくなるまでを思い返し、忘れていたことさえも思い出せ、まるで神の視点とスライドのようでした。

5. 人は死ぬ前に、脳の記憶データを削除しているように感じる。順に削除していく。結局のところ、ただの悪夢に過ぎない。

6. こういうことは柔道を習った者が一番よくわかる。絞め技で気絶するその一秒で、一生のすべてのことを思い出し、格別に鮮明だ。目が覚めた後、長い時間が経過したように感じるが、実際には数秒に過ぎない。

7. 子供の頃、風邪で熱を出し、42度まで上がった。医者が私の指を針で刺したが、私ははっきり覚えている。その数分の間に、私が覚えていることをすべて思い出した。

8. 夜、眠れない時も一生を思い返すことがある。まるで傍観者のように、自分が経験したことではないように感じる。

9. 子供の頃、誤って川に落ちた。助け上げられる前のほんの数秒の間に、私はたくさんのことを考えた。自分が死んだ後、私を育ててくれた祖母がどうなるかさえ考えた。その時私はまだ三、四歳だった。

10. 以前、ある見解が述べられた。人が瀕死の状態にある時、記憶が再生されるように感じるのは、この最後の瞬間に、あなたの脳が全力で記憶を再生し、一生の記憶の中であなたを救うことができる方法を探そうとしているからだ。

11. 一度温泉に入った時、立ち上がった後、眩暈がして倒れた。頭の中ではスライドショーのように小さい頃からの出来事が次々と映し出された。長い時間を経験したように感じたが、実は水に倒れた後すぐに目が覚めた。友人は私が突然倒れたのを見ただけで、たった2、3秒だったと言った。

12. 私は二度溺れた経験がある。一度は比較的短く、一度は比較的長かった。最初は水を飲み込んで痛みを感じたが、その後突然痛みは消え、頭の中は真っ白になり、目の前では走馬灯のように私の人生が再生された。そして私は幸運にも、たまたま出かけてきた人に助けられた。本当に運が強く命も大きい。

思考問題:死に接近した時、なぜ稲妻のように一生を思い出すのか?なぜたった数秒の事故を経験しただけなのに、とても長く感じるのか?

十四、非器は器に変われるか

いわゆる器とは物を載せる容器のことで、この物は物質であることもあれば、智慧、思想、観念であることもあります。仏法で言う器とは後者、つまり道器(どうき)を指し、仏法の道を受け入れる度合いのことです。多くの人は無始劫(むしごう:無限の過去世)以来の福徳が不足しているため、蓄積された経験が足りず、自分の認識の範囲外の法を受け入れることができません。そこで、これらの人は根器(こんき:仏法を理解し修行する素質)が良くなく、深い法を修学するのに適していないと言われます。

では、非器(ひき:器ではないもの、受け入れられない者)は本当に非器のままで、器に改造することはできないのでしょうか?法に定まった法はなく、永遠に変わらない法は一つもありません。因縁と時節が到来すれば、どんな法でも変わります。ある非器は大器(たいき:大きな器、優れた素質)を秘めており、巧みに障害を取り除き、因縁を集めさえすれば、非器は大器に変わります。石でさえ黄金に変わるのに、ましてや非器である人間の心の度量や心性がどうして固定されたままでいられましょうか?

正直に言えば、衆生は本来皆、非器です。無始劫以来、生死の苦海に自ら進んで沈み込み、全く覚ろうとせず、どんな法も受け入れることができません。諸仏菩薩が密かに衆生のために法の種を蒔き、また因縁が早く熟するように促し、衆生が徐々に器となり、仏法を受け入れられるようにしたのです。衆生は最初、皆、五蘊(ごうん:色・受・想・行・識)を我(が:自我)と執着し、堅固で緩みません。小乗の非我(ひが:自我は存在しないという教え)の法から見れば、すべての衆生は非器です。しかし、衆生が非器であるからといって、小乗の我見を断つ道理を説かないでいられるでしょうか?もちろん、できません。仏陀は12年の歳月をかけて衆生を器に作り上げ、無数の衆生が四果の大阿羅漢(だいあらかん)を証得しました。その中には非器であった外道の衆生も含まれています。ですから、器と非器は、磨く者の智慧と磨く技量にもかかっているのです。磨き方を知らない者は、往々にして器を非器に磨き、器を壊してしまいます。

仏法には、非器の者に深い法を講じると、相手が信じ受け入れることができず、誹謗(ひぼう)の言動を生むという説があります。この説はもともと仏陀が説いたもので、仏陀は衆生が法を謗(そし)って悪業を造り、長劫にわたる地獄の苦報を受けることを心配したのです。仏陀は衆生を慈悲深く思っていますが、同時に大いなる智慧もお持ちです。ですから、仏陀のこの説は死んだ教条ではなく、人や時によって柔軟に用いるべきものです。

大智慧の文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は非常に柔軟に用いることに長けておられます。かつて文殊菩薩は、小乗の根器である五百人の比丘(びく:修行僧)に般若(はんにゃ)の大法を講じました。しかし、この五百人の比丘はこの大法を信じなかったため、命終すると皆、地獄に堕ちてしまいました。ある人が文殊菩薩に尋ねました。「あなたはこの結果を承知の上で、なぜこの五百人の比丘に般若の大法を講じたのですか?」と。文殊菩薩は答えられました。「私は、彼らが地獄に入った後、自分が地獄に堕ちた原因は般若の大法を信じなかったためだと反省し、それによって般若の大法がこれほど威力のあるものだと知り、心から畏敬の念を抱き、真心から懺悔することを知っているからです。そうすれば彼らは地獄から出てきます。地獄から出た後、まず天に昇り、後に人間界に戻り、般若の大法に出会い、そして般若を修学する機縁を得て、智慧が急速に増進し、まもなく大乗の菩提(ぼだい:悟り)を証得し、修行の時劫(じこう:時間)を短縮して、早く仏陀となるでしょう」と。

さすがは等覚(とうがく:仏に次ぐ菩薩の位)の菩薩です。大智慧をもって非器を無理やり大器に作り上げました。文殊菩薩は非器を磨く能工巧匠(のうこうこうしょう:優れた職人)であり、智慧は非凡で、法眼(ほうげん:真理を見抜く眼)は無量劫の因縁を見通します。まず非器を壊し、溶かして断ち切った後、直接大器に造り上げます。まるで使えない非器の物を分解し、再び組み立て直して使える器にするようなものです。五百人の比丘が文殊菩薩に出会えたのは、なんと幸運なことでしょう。この大いなる因縁は、大いなる福徳を持つ者でなければどうして出会えるでしょうか?もし智慧のない師匠(阿師:あし)に会い、大乗の般若について口を閉ざしていたなら、五百人の比丘の運命にこれほど大きな転機はなかったでしょう。最後にまとめると、器と非器、法に定まった法はなく、もし善き縁(善縁:ぜんえん)に遇えば、非器もまた器となる、ということです。

十五、我が咒願(じゅがん:誓願)

私はすでに皆さんに、仏法の高峰に登るための天の梯子を用意しました。この梯子は、あらゆる大智慧を得るための最も直接的で最も秘密の通路であり、日月に最も近く、ほとんど手を伸ばせば届くほどです。皆さんは体力と心力が許す限り、自ら登って行き、高い所から仏法の運営状況を観察すれば、大智慧を得ることができます。世俗の法において私はこの秘密の通路を提供しました。私はどれだけの特許料や使用料を徴収するのが公平で合理的でしょうか?実は、私がどれだけ徴収しても少なく感じられ、世界中のすべての宝石を私に与えても、元は取れません。今、どれだけ徴収するのも適切ではない上に、私もあまりお金を使いこなせず、それほど多くのお金も必要としません。それならば、私は長い目で見て最大の利益を得る(長い目で見て大魚を釣る)ことにします。

私は今、咒願を発します:私の法恩(ほうおん:仏法の恩恵)を一滴でも浴びた者は、未来三大無量劫(さんだいむりょうごう:三つの計り知れないほどの長い時間)の間、私の足跡を踏み、私の道を倣い、私の行いを行い、いかなる個人的利益も顧みず、菩薩の万行(あらゆる修行)を行い、救い得る一切の衆生を救済せよ。三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎごう:三つの無数の長い時間)の後も、辛苦を厭わず、代償を顧みず、救い得る一切の衆生を救済せよ。いささかでも不本意や背くことがあってはならない。

咒願はすでに発せられた。誰も逃げ出すことはできず、逃げようとしてももう遅い。たとえ以前に逃げ出した者でも、私のこの咒願の威力から逃れることはできない。一切の人々は、願おうが願うまいが、一律に私の咒力(じゅりき:誓願の力)の中にあり、自覚的であろうとなかろうと、咒願を履行する。どれほど遠い劫(ごう:長い時間)であろうとも、逃れることは許されない。あなたは一日、一年、一生、一世を怠けることはできるが、私の咒力のもとで永遠に怠け続けることはできない。咒力が許さない。仏陀となるまで、苦しむ衆生を救い尽くすまで。

文殊菩薩は仏陀とならず、菩薩の身をもって七尊の仏世尊(ぶっせそん:仏陀)を教え導き出し、さらに菩薩の身をもって無数の仏世尊を教え導き出すことさえあるでしょう。しかし、ひとたび文殊菩薩が仏陀となる時、そのおられる仏国土は一切の諸仏国土を覆い、一切の諸仏国土は文殊菩薩の仏国土の中にあるのです。しかし私は今、収穫を得たくない、星ほどの報いも得たくない。私は未来の最大最大の報いを得たい。私の恩を受けた者は、必ず無量劫また無量劫の間、私の行いを倣い、私の恩に報いよ。あたかも私が無条件に仏陀の行いを倣い、仏陀の恩に報いるように、怨言なく。たとえ怨言があっても、怨んだ後は、なお代償を顧みず、永遠に辛苦し続けよ。仏陀となる前であろうと、仏陀となった後であろうと。

我が咒力は、魔の咒力の百倍、千倍、万倍も大きい。我が咒を受ければ、魔の咒から脱し、永遠に魔の妨げを受けない。我が咒力は魔の咒を摂伏(せっぷく:制圧し従わせる)し、魔力を仏力に変え、共に行人(ぎょうにん:修行者)を加護し、道を歩ませる。勇敢に精進し、退転(たいてん:修行を退くこと)せよ!

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