衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
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仏道無上誓願成

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日常法話集録

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 26

第三章 意根の実修実証(2)


十、学んだ理論との照合による推測は証得と無関係である

問:掻痒みを例に取ると、根塵が接触した後、作意すれば識が生じる(ここでは意根の作意が先の場合もあれば、意根の作意が後になる場合もある)。この時、意根は身識の動作を指揮している。そこで私は思う:七識と八識は互いに依存し合い(八識九縁)、意根が現れた以上、第八識は近くにあるはずだ。すると、根塵が接触し、意根が作意した瞬間に、第八識が身識を顕現させ(三能変)、その後、意根が身識を指揮して掻痒みの動作を行わせるのだろう。ここで述べた第八識の存在は、私の倒錯した妄想なのか、それとも単なる問題解決の思考法に過ぎず、第八識を証得するにはまだ程遠い状態なのか?

答:あなたは現前において意根の働きを観察しておらず、第八識の働きも観察していない。したがって、あなたが述べていることは事実ではなく、学んだ理論的知識を照合して思考し、臆測し、推論し、推測しているに過ぎない。これらは非量の境界であり、現量による観察がないため、真に受けるべきではない。禅定を得ていない者はこのように法を学ぶものであり、意識の機能が旺盛で先走っている。実際には推測であり、たとえ一切の法を正しく推測できたとしても、所詮は推測に過ぎず、真実として認められない。

私はこのような学法の状態にある人々に多く出会ってきた。一見賢そうに見え、問題の核心や着眼点を見つけ出すが、その後近道を選び、意識による思考・分析・整理・推測を用いる。しかし、このような行為は自らの修行の道を妨げ、実修実証を阻害し、結果として「賢さが災いする」ことになる。また、多くの人々がこのような臆測推論を実証と見なし、悟りを開いて聖者になったと至る所で宣伝しているが、これはまだ初学の段階であり、禅定は生起しておらず、戒定慧、菩薩の六波羅蜜、ひいては三十七道品も修得されていない。証悟の因縁と条件はまだあまりにも不足している。末法の時代の衆生は福徳が薄く、禅定を修めることができず、戒律を守ることができず、福徳を修めることも望まず、ただ乾いた智慧(乾慧)を弄ぶだけである。まさにこの乾慧が最も道を障り、事を遅らせるものであり、往々にして自ら悟りの門を塞いでしまう。

十一、如何にして意根が一切の法を変化させるか

問:もし私が絶えず観想し、あるいは絶えず念仏や読経を続け、功夫が十分に達した時、第七識が薫習されると、自動的に薫修された種子が転じ、外在の環境を変化させるのでしょうか? 外在の環境も第七識が転じたものだからですか?

答:種子も境界も、意根が如来蔵に促されて転化して現れたものであり、意根本身が種子を現行させることはない。修学の過程において、意根の力が十分に強く、得られるエネルギーが十分に大きければ、如来蔵が意根の心意に随順するため、一切は問題ではない。境界は意根の心に随って転じる。意根が訓練され心力が非常に強くなり、非常に強固に一心に境界を変えようと望むか、あるいは何らかの目標を達成しようと望めば、必ず願いを満たすことができる。もしまだ願いが満たされていないならば、それは力がまだ不足しているためであり、引き続き薫習して力を集める必要がある。石を指して金と為すように、それは意根の心力が強大であるがゆえに、無理やり石を黄金に変えてしまうのである。

仏法を良く学び、心が善くなり、心が柔軟になると、長くはかからずに相貌が変化する。これらは全て心が変化した結果であり、この心は主に意根を指し、意識も含まれる。いわゆる意根を薫染するとは、自らの心を変えることである。自らの心が変わったかどうか、どのように変わったか、どの程度までかは、自らが仔細に観察すれば、おそらく分かるはずである。人に対しても事に対しても、一切の法を修めるにあたり、真心からなのか、それとも応じて見せかけているのかは、自ら観察できるはずであり、凡そ真心実意なるものは全て意根を用いている。念仏には真の念仏と偽りの念仏があり、修行する時、真の修行なのか、それとも修行しているふりをして見せているのかは、自ら観察できるはずである。何事を行うにせよ、意根が真に至る程度に達するのは容易ではなく、戒律、禅定、智慧、福徳などの条件が必要である。

一切の心行は意識と意根の二つのレベルに分けられる。例えば、布施が真の布施なのか、それとも形式を踏んで目立とうとしているのかを判断するには、仔細に観察すれば見分けられる。両親に対するのが真心からの孝養なのか、それとも見せかけなのかは、じっくり味わえば見分けられる。心を変化させる修行は、大多数が量変から質変への過程であり、量の蓄積は意識にあり、質の変化は意根にある。故に意識は浅く、意根は深いと言われる。もし意根の善根が深く、力が強く、特に誠心があれば、直接質変を起こし、一切を変化させることができ、力を蓄える必要はない。

意根を薫修するには長い間の堅持が必要であり、恒常的に戒律を保ち、大菩提心を発し、絶えず禅定を修習し、事に専心一意に取り組み、雑念を排除し、専心思惟し、福徳などの資糧を多く集めることが必要である。心を降伏させようとする場合、大多数は意識が法理や世間の苦を深く思惟し、それによって意根を薫染・導く必要がある。ごく一部の場合、南牆(行き詰まりの壁)に頼って、自らに強制的に方向転換を促す必要がある。故に苦難は成長に必要不可欠であり、もし苦難を経験しなければ、出離心も勇猛心も生じず、修行は怠惰になりやすい。

十四、AIロボットの機能と作用

貪・瞋・痴は識心が持つ煩悩であり、識心を持たない物質的な色法には貪・瞋・痴の煩悩はない。ロボットは物質的な色法であり、識心を持たないため、それ自体には喜怒哀楽もなく、貪・瞋・痴の煩悩もない。しかし、ロボットは物質的属性を持つだけでなく、同時に粗浅な識心に類似した機能も付与されており、粗浅な識心の作用を果たすことができる。それは文字を識別する機能と作用である。その識別は単純式、無脳式、非自主的受動式、限定式に属する。要するに、その識別機能は智慧によって思考されたものではないため、智慧性を具えず、方便的に愚痴の属性を持つと言える。

ロボットの識別機能は人の意識機能の一部に相当し、しかもその機能は比較的単純化されており、文字情報しか識別できず、情報の収集、整理、帰納、概括、保存、および出力などの種々の単純な機能を持つ。そして、これらの情報は他のルートから得られたものであり、全て既存の古い情報であって、ロボット自身が開発した新しい情報ではない。出力されるものは常に他人の情報であり、常に既存の古い情報であって、自ら創造した新しい情報はない。したがって、ロボットは智慧性を具えず、方便的に愚痴性を持つと言える。

ロボットがどれほど多くの法を出力できたとしても、決して言うことと行うことを一致させることはできず、言うだけで行うことはできず、永遠に言葉を真似る類に過ぎない。全ての情報内容について、それを証得したことはなく、永遠に証得することも不可能である。それゆえ、AIロボットは意根の機能と作用を全く持たず、作主性も自主性もない。

一部の学仏者はAIロボットに類似しており、智慧が不足しており、意識の部分的な機能しか使えず、比較的粗略である。意識は他から学んだことを用い、集約、加工、整理、帰納、抽出し、その後一つの結論を導き出し、これを自らの智慧であると思い込み、同時に慢心も生じる。もしこれが自らの智慧であるならば、AIロボットも同様に智慧を持ち、しかもその智慧は非常に広大で、人類の現存する知識の範囲内ではほぼ無所不知に近く、人類はその知識の広博さに及ばない。同様に人類は「百度(Baidu)」の知識の豊富さにも及ばない。それではロボットと「百度」は、全ての人類に先んじて成仏すべきではないのか?

この答えは皆が明らかにしている通り、それは不可能である。不可能である以上、ある人々の意識上の高談闊論、筋道立てた論述は、全く自らの智慧によるものではなく、ましてや真実の智慧ではなく、言行を一致させることは不可能であり、言うことはできても行うことはできず、意根に智慧がなく法を証得していないならば、依然として凡夫である。ただ言行一致の者こそが聖者の現量の智慧であり、自らの胸中から湧き出た、個人が所有する智慧である。この智慧こそが極めて貴重であり、この智慧があって初めて識を転じて智と為し、最終的に仏道を成就することができる。仏法を如何に学ぶべきか、修行を如何に修め如何に行うべきかは、皆の心に明らかであるべきである。

十五、心念心聴の原理

心念心聴は心念耳聞ではない。心念耳聞は耳で聞くとされるが、実際には耳で聞くのではなく、耳識は内心の音声を聞くことができず、声に出して念仏する口念の外在的な音声しか聞くことができない。意識は内外(心と口)の音声を共に聞く。意根は定力の状況に応じて、聞くことへの参与の深さが異なる。心念は声に出さずに念じることであり、念仏に身識はなく、意識のみ、あるいは意根と意識が共に念仏する。この意識は独頭意識である。心念の音声を聞く識心は独頭意識が聞いており、意根も共に聞く。

もう一つの心念の状況は、意根が単独で念仏する場合であり、この時観察できるのも独頭意識であり、意根も共に反観する。一般的に、定力が深くなく反観力がない時は、独頭意識は意根の念仏を観察しにくい。定力が深くなって初めて自ら心が念仏しているのを観察できる。心で念仏する時、定力が深ければ深いほど、意根が念仏に参与する度合いが深くなり、意根自身と独頭意識が自ら念仏する心念をより明瞭に観察できるようになる。これはすでに念仏三昧の境界に達している。

意根の心念は咒を念じる上にも現れる。経典を読み咒を誦する時も、意根を一緒に読誦させることができる。これには禅定が必要であり、禅定が深ければ深いほど、意根の参与度合いが深くなる。心が静かな時、独頭意識は意根の心念を観察できるが、意根には言語・文字・音声はなく、心念のみである。心念とは念心所法である。経典を読み咒を誦する時は、ゆっくりと黙読・黙誦すべきである。これは意根が専心して一緒に念じられるようにするためである。定力が深い時、意根は念じることが深く専心であるだけでなく、反観力も強い。ここでは独頭意識と意根の両方に反観力があり、両者を区別するのは難しく、非常に深い禅定と心の静けさが必要であり、そうして初めて弁別力が生じる。したがって、両者の反観力については誤解が生じやすい。

定とは即ち集中力である。集中でき、雑念がないようにするには、二つの方法がある:一つは非常に速く誦することであり、これにより雑念の時間がなく、雑念が追いつけず、現れなくなる。二つ目は非常に遅く誦することであり、心に雑念の考えがなければ、専心一意となる。しかし、最初の非常に速い方法は一時的にしか使えず、長くは続けられない。なぜなら気と力を消耗し、体力が追いつかないからである。定力の強弱は、意根の一切の法への参与度に直接影響する。意根が参与すればするほど、事を成し遂げやすくなり、これが智慧である。したがって、禅定や定力があることは、仏法の修行に役立つだけでなく、世俗法の中で生きる上でも非常に大きな利益がある。

修行は心を用いさえすれば、一つの難関を越えると飛躍的に進歩する。皆が世俗法を放って、一心に仏法に向かい、根本を求め、浮華を取らないことを望む。

十六、なぜ虚妄と知りながらも一切の法が非常に真実に感じられるのか?

問:私は一切の法が虚妄であると明らかに知っているのに、なぜ山河大地や花草樹木を見ると、相変わらずあれほど真実に感じられるのでしょうか? 冷熱や触痛の感覚も相変わらずあれほど真実に感じられるのはなぜですか?

答:自ら一切の法が虚妄であると考えるのは、学んだ仏経の理論に基づいて知ったことであり、学んだ知識であって、まだ実証しておらず、現量による体験や観察がない。したがって、このような知は知らないことに等しい。実修を経て実証を得た後、各法に接触するその時に初めて自ら体得・体験でき、その時の感知・感覚・認識こそが真実であり、現量的であり、信頼でき、依拠できるものである。学んだ知識には信頼性がなく、依拠できず、疑惑が絶えない。一切の法が虚妄であると証得した後、一切の法を変え、一切の束縛を受けないようにするには、四禅八定を修行し、色陰区宇、受陰区宇、想陰区宇、行陰区宇、識陰区宇を超越しなければならない。そうして初めて一切の法から解脱し、一切の法を超越し、一切の法を変えることができる。

多くの人々はたとえ仏経を逆さまに暗唱できたとしても、我見を断つことができず、明心見性することもできず、ましてや一切の法の虚妄を証得することはできない。それでは一つの講義を聴いただけで我見を断つなど、全くの空想に過ぎない。たとえ百万回講義を聴いても、おそらく我見を断つ端緒にすら触れられないだろう。なぜなら、これはただ耳で聴くだけで実証できるものではなく、耳で聴くのは知識理論である。理論を実際に変え、自らの現量の智慧とするには、その間に多くの工程の加工を経る必要があり、これらの工程の完了には相当な代償を払う必要があるからである。何の代償も払わず、ただのんびりと講義を聴いているだけでは、それらの法は耳元の風の音のようで、一瞬で過ぎ去り、ほとんど痕跡を残さない。前提として、それらの法が正しく誤りなく説かれていることが必要であり、もし誤りがあれば、我見を断つことはさらに見当違いの事柄となる。

小乗の我見を断つことと大乗の明心見性は、いずれも智慧による認識であり、以前の誤った邪見を正したものである。智慧による認識はまだ法自体の状態を変えることはできない。法自体の状態は禅定と神通力によって変化させられる。その中には三種類の修行方式が含まれる:奢摩他、三摩鉢提、禅那である。三種類の修行が全て円満に成じた後、身心世界が初めて全て転変し、仏の清浄円満な境界に転じる。ここに至って仏道は成就する。具体的な修行方法は全て円覚経の中にある。

十七、悟りを開いたばかりの時の総相智の智慧のレベル

弟子問:悟りを開き如来蔵を証得したばかりの時に生じた総相智で、この総相智を用いて如来蔵を観察する場合、どの程度の範囲で観察できますか?

答:この範囲は悟りを開いたばかりの時はそれほど大きくなく、観察も普遍的ではない。範囲は五蘊が単純に作用する範囲内であり、比較的粗略である。複雑な作用の中では如来蔵を観察するのは非常に難しい。その中で色蘊と行蘊が主であり、受蘊・想蘊・識蘊は若干観察できるが、多くなく深くもない。なぜなら色蘊と行蘊は明らかであり観察しやすく、受蘊では粗略ながらも観察できる。想蘊と識蘊では観察が困難であり、全て粗略な概略的な観察であって、細部に深く入り込むことはできず、観察は深く細かくない。

しかし、この観察は現量の観察、すなわち現前の観察である。五蘊が作用しているまさにその時に、見えれば見え、見えなければ見えないのであり、一刹那の思考に落ちることはない。その間に言語・文字・音声は現れず、思考・思惟・分析・琢磨の相状に落ちることはない。一旦思惟に落ちれば、それは現量の現前の観察ではない。参究の中で、一旦言語・文字・音声が現れたならば、必ず禅定が不足しており、意識の情思意解の作用が優勢となり、意根の機能が弱まっている。現量の智慧ではない。したがって現量とは必ず意根が現場に臨んで観察・発見・証見することであり、意識の脳による思考や脳内補完ではない。昔の禅師が弟子を試す時、弟子が少しでも躊躇し言葉で説明しようとすると、禅師は往々にして一棒で打ち据え、思惟意解に落ちることを許さなかった。

意識の思惟は行相が明らかであり、特に意識が単独で思惟するのは現量ではない。意根と共に同時に観察されたものこそが現量である。意識は補助的な役割を果たし、主導的な役割ではない。その占める比重が少なければ少ないほど、智慧は深くなり、より現量的であり、否定し難く、後悔することもなく、躊躇することもない。非常に強固で決然としており、疑いがない。これにより、このような現量の観察は非常に容易ではなく、功夫と智慧の両方が高いことを要求することが分かる。

唐宋の時代、六祖以降、悟りを開いたと伝えられる者は千人以上おり、禅宗の公案として残されているものは千七百則ある。しかし、その中には純粋な証悟ばかりではなく、解悟も含まれている。具体的な数は調査・統計できない。それらの開悟の偈のわずかな言葉や、簡略な対話と暗示による記述からは、細部がないため、証悟なのか解悟なのかを区別することはできない。たとえ彼らに皆禅定があったとしても、禅定がある者が必ず証悟しているとは言えず、もちろん禅定がない者はさらに証悟できない。禅定中に、まさに意根が深く参究している時に悟る場合、即時に見ることであり、意識の思惟に落ちないものだけが証悟とされる。意識に偏ったものは全て解悟であるか、あるいは解悟ですらない。もちろん、もし真の解悟であれば、禅定を修め、意根の参究功夫を強化することによって、証悟に転じることができる。

このような参究功夫を得るには、禅定が不可欠である。禅定を得るには、色身に気が集まらなければならない。気が集まれば身が定まり、身が定まれば心が定まる。気を集めるには、一つには色身が健康でなければならず、気脈の運行が円滑で、強力な勢いを形成し、心の思いを凝集させることができる。二つには散乱・雑思せず、幻想せず放心せず、つまり諸法に攀縁せず、世俗の雑事を放下できることである。色身の気が不足していれば、気を集めることができない。気を満たすには、気を練るか気を補うか、食補や薬補も可能である。気が生じた後は、必ず気の動きに随順し、身心を共に静かにさせなければならない。気勢が一旦形成されれば、禅定が現れる。したがって修行はやはり早い内に、身体が健康で気力が満ちている内に始めるべきであり、年老いて色が衰え、何も役に立たなくなってから、ようやく修行すべきだと気づくのを待ってはならない。その時はおそらく遅く、功夫を積むことができなくなる。修行は身体を修めることではないと言っても、身体の協力を離れて、どうして修行ができようか?

七十五歳の老居士が私と通話した。声は鐘のように力強く、中気が非常に満ちていた。私はこれを聞き、この気勢は私を超え、多くの二、三十歳の若者も超えていると感じた。声を聞く限り、あと二十年は生きられそうだ。私は禅定はどうかと尋ねると、彼は禅定は非常に良く、意根を用いて参究する程度に達し、雑念がなく、気感が強いと答えた。私は智慧の境界はどうかと尋ね、彼は私に悟りを開いたばかりの時の総相智で、如来蔵の作用をどの範囲まで観察できるかと尋ねた。私はこれを聞いてすぐに理解した。ここ数年、彼の功夫と智慧は大いに進歩し、心量と格局も大きく、善根が深く厚く、大器となる人材である。

十八、真の智慧を得て初めて直ちに仏道を成じる

仏法をゆっくりと味わうこと、あるいは深く参究すること、一つの言葉を参究するだけで入定できる。これを慧を以て定を引くという。定中において、参究する智慧が絶えず深まり、法義がますます透徹する。これをまた定を以て慧を引くという。定と慧が互いに引き合い互いに増長する。これが真の修行であり、最も深遠な修行であり、最も根本的な修行であり、また最も究極的な修行である。得られるのは真の智慧であり、自ら修めた智慧である。ただ、このような参究は表面的には比較的遅く見え、得られる知識量が少ないように見えるが、実は修行が最も速く、最も直接的な直径である。なぜなら修行は智慧を得ることを究極とし、智慧が仏となるからである。

逆に、修行を理解していない者は比較的浅薄で、表面の知識量のみを追求し、知っていることが多いこと、理解していることが多いこと、学んだことが多いことに満足し、真の智慧の重要性を理解せず、ついには真の智慧を求めない。数量と速度を追求し、学び得たものは自らが開き出した真の智慧ではなく、実は修行の素人である。精進に努めているように見えるが、実は速度は逆に最も遅い。真の智慧がないからである。多く知り多く理解し多く得ることを智慧と見なすのは、実は初めて仏法を学ぶ者の愚痴である。

十九、意識と意根の見るものの違い

問:昨夜、座禅を終えて寝ようとしていたら、間もなく雨が降った。雨がガラスに当たって澄んだ音を立てた。それを聞きながら寝ようとし、眠りに落ちかけた時、その雨がまるで私の頭蓋骨に当たっているように感じられ、やがて半分を打ち砕かれ、真っ暗な穴が開き、頭蓋骨が半分だけ残った。心では分かっていてあまり驚かなかったが、そのまま眠ってしまった。これは座禅を終えたばかりで定力がまだ消散していなかったためか、それとも幻覚が現れたためか?

座禅を終えて立ち上がる時、心は静まり、意識は念を動かさない。特に寝る前は意識も動かさず、意根が直接雨音を感知し、音が非常に大きく感じられたため、誇張して、頭蓋骨の半分を打ち砕いたと表現した。それは雨粒の音が非常に大きいことを表している。意根が感知するものと意識が感知するものには差があり、おそらく非常に大きな差がある。したがって、我々が普段見ている法と、実相を証得した時に見る同じ法は完全に異なり、時には正反対で、初めて以前の見解や考えが全て間違っていたと知り、悔しさで腿を叩くのである。

なぜ観行を修めた後、同じく呼吸を見、身行を見、六塵相を見るのに、見道以前と見道以後では、同じ一つの法を見ても大きく異なるのか? 同じく水を飲み、沐浴し、色を見、声を聞き、香を嗅ぎ、味を味わい、触を覚え、法を知るのに、見道以前と見道の時では、内心の覚受や見方が完全に正反対なのか?

見道以前はあれほど確信していた。色は色、声は声、香は香、味は味、触は触、法は法、我は我であると。見道以後は、一切が非となり、色は色にあらず、声は声にあらず、香は香にあらず、味は味にあらず、触は触にあらず、法は法にあらず、我は我にあらず、人は人にあらず。なぜこれほど大きな差があるのか? 意識の見るものと意根が三昧の中で見るものは完全に異なる。したがって、意識が証果するなどは笑い話であり、このような証は証でないことと少しも変わらず、痴人の見解である。衆生は愚痴であればあるほど往々にして自信過剰である。何を自信にしているのか? 愚痴を自信にしているのである。

見道以前は、意識が妄想が飛び交い、種々の知見、長文大論、得意満面である。見道以後は、意識はようやく静まり、一切は逆転しなければならない。誰が最もよく話すか、誰が最も知見が多いか、誰が最も頑固か、それが最も倒錯している者である。

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