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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年04月12日 閲覧数: 3833

第二章 禅定をいかにして修めるか

一、煩悩を降伏して初めて禅定を修める障りがなくなる

煩悩を降伏し、心性を改め、心を法に縁少なくしてこそ、禅定を修める障りが減り、心に定が生じる。禅定の成就は必ずしも長時間の座禅の功夫によるものではなく、最も重要なのは心性を改善し、貪・瞋・痴を減らすことにある。心が清浄になれば世間への過剰な思いがなくなり、定力は自然に向上する。戒律が厳格であれば心の攀縁が減り、煩悩も減るため、禅定は自然に早く向上し、単に長時間の座禅に依存して禅定を得る必要はない。心性は非常に重要であり、持戒と煩悩の軽微さは、禅定の生起に決定的な作用を及ぼす。

貪・瞋・痴・慢・疑および不正な知見はすべて煩悩である。各人の煩悩の重点は異なり、道を障げる因縁も異なる。ある人は非常に貪欲であり、ある人は非常に瞋恚に富み、ある人は非常に愚痴であり、ある人は非常に傲慢で、ある人は疑心が非常に強く、ある人は知見が非常に正しくない。しかし総じて言えば、これらはすべて愚痴・無明によって引き起こされる煩悩であり、愚痴は総ての煩悩であり大いなる煩悩である。愚痴がなければ、貪・瞋の煩悩や我慢の煩悩も存在せず、疑や不正見の煩悩も存在しない。仏法を学ぶ者は普段から注意深く観察し、自らの最大かつ主要な煩悩を見つけ出し、主要な煩悩を降伏することを主とし、主要な矛盾を解決すれば、他のすべての矛盾は解消される。煩悩を降伏するのも同様で、主要な煩悩を降伏すれば基本的に障りは除去され、他の煩悩はそれに従って消滅する。大きな主要な煩悩は他の煩悩の起因であり、起因を見つけ出し解決すれば、縁は存在しなくなり、禅定を修める障りは除去される。

二、座禅中いかにして速やかに禅定に入るか

禅定に速やかに入りたければ、心身をできる限りリラックスさせなければならない。座につく際には身体を弛緩させ、心も空(くう)にする。必ず心身を放ち空にし、腕・手・肩をリラックスさせ、脚と足をリラックスさせる。肩・腕・手を固めず、全身を弛緩させる。頭もリラックスさせ自然に真っ直ぐに保ち、少し垂れ下げる程度にする。背中は自然に真っ直ぐにし、曲げたり反らしたりせず、肩は軽く垂らし、後ろに少し背負うようにする。力を入れずに軽く楽に、全身に力を入れない。力が入ると身体を真っ直ぐにしようとする証拠であり、身体を真っ直ぐにすれば硬直し、気機(きき)が動かなくなり、気脈が動きにくくなり、身体が通りにくくなる。

身体を完全にリラックスさせた後、心もすべてリラックスさせ空にする。軽く楽に、観じる法以外は心に何も考えず、思い焦がれず、何にも気にかけず、たとえ天が崩れ落ちても構わず、一切を捨て放つ。身体はそのままの状態に任せ、一切気にかけない。気にすればするほど執着が強くなり、気機が発動しにくくなり、気血が通りにくくなり、禅定が生じにくくなる。逆に、心身が空に近づけば近づくほど、リラックスすればするほど、禅定は良くなる。座禅を練習する際には自らの心身をすべて放ち空にし、捨て、空にし、そうして初めて速やかに禅定に入ることができる。

三、いかにして速やかに禅定に入るか

座禅中に法義を思考することは、黙って心経を唱えるよりも禅定に入るのが速く、かつ深く、呼吸を調えるよりも禅定に入るのが速く、他の方法を用いるよりも禅定に入るのが速い。これは煩悩が軽微で妄念が少ない利根(りこん)の人にとってはそうである。なぜなら既に禅定を修める基礎があり、前行方便(ぜんぎょうほうべん)は省略できるからだ。しかし攀縁が重く心の動きが多い初心者にとっては、思考すればするほど心は乱れ、禅定がない状態は雑念であり、雑念は心を乱すため、禅定の基礎ができてから思考する方が良い。私が座につく際には脚を組み、何の前行方法も用いず、直接深い思考に入る。意識的な思惟はなく、すべて意根(いこん)の思量である。脚を組んだ後、まず思考すべき法に注意を向け、次にその法に定まって動かなくなり、一点の妄念もない。これが意根が参禅し参究する状態である。

意根の思量は深く遅いが徹底的である。意識の思惟は速く浅く、徹底的で深くない。意識の思惟は前行方便であり、目的は意根の思考を引き起こすことである。最初は必ず経なければならない過程である。意根の思量参究の中では、得る知識はほとんどなく、知識量は増えないが、非常に興味深く、何かを発見しようとする探求の面白さがあり、ぼんやりと何かを発見しようとする楽しみがある。開発されるのはすべて自心の智慧であり、智慧は外から得るものではない。外から得るのは知識である。この程度に至ると、疲れを感じなくなり、私は午前中座っていても、一日中座っていても良い。ただ心に気掛かりがあれば、座を下りざるを得ない。

四、いかにして禅定を修めるか

最初に禅定を修める方法は多くあり、『修定と参禅証道』という本の中である程度述べられている。例えば呼吸を調え、呼吸を整えてから拝布団の上で礼拝の動作を行い、身体が整ってから座禅をするなど、これらの小方法は比較的取り組みやすく非常に実用的である。また座禅中に心を如何に観想すべきか、心が特に散乱している際に如何に呪文や経典を唱えて心を調整すべきか、心が定まってから如何に工夫して参禅すべきか、方法は本の中に全て書かれている。見て一歩一歩練習に従うことができ、音声ファイルもある。音声ファイルの方がより詳細に説明されている。

心が少し定まって真に我見を断ちたいと思うようになったら、坐禅三昧経と四念処経に従って修行する。経典の中に述べられている修行方法には定も慧もあり非常に優れている。四念処をよく修めれば、将来大乗のどの段階の見道(けんどう)もその方法に従って工夫することができ、その工夫方法は定慧等持(じょうびょうどうじ)である。功夫が十分であれば見道を保証し、仏法を証得することができる。

ある者は長い間禅定を修め、修定の方法はおそらくよく用いられ、禅定も比較的深いが、その定の中は死水の如く智慧が生まれない。定力が良くなると何もしたくなくなり、終日座禅ばかりしたがり、色身(しきしん)の快適な感覚を貪り求める。そうなると智慧がなく参禅できず、観行(かんぎょう)の智慧がなく、仏法の知見は非常に浅い。

ある者はただひたすら禅定を修めるだけで、覚照(かくしょう)を生じず智慧が良くない。臨終の際にも業に従って転じる。何故なら畢竟(ひっきょう)我見を断っておらず、生死を出離する智慧もなく、明心見性(みょうしんけんしょう)の大乗菩薩の智慧もないからであり、後世は生死輪廻を免れない。ただ定力をもって観行し参究してこそ、我見を断ち明心見性でき、生死の問題が解決される。これが最も重要である。現在仏法を学ぶ者の修行には二つの極端がある。一つの極端は専ら禅定を修め智慧を備えず、観行をしたがらないこと。もう一つの極端は全く禅定を修めず、ただ意識心で広く学び多く聞き、あるいは意識の散乱した思惟を用い、解(げ)に心を用い証(しょう)に心を用いないこと。この二つの極端を融合して初めて仏法を証得できる。

五、菜食は禅定を修める助けとなる

仏は楞厳経(りょうごんきょう)の中で、衆生が葷腥(くんせい)の食物を食することには種々の害があり、修道に大きな妨げ作用があると説かれている。したがって禅定をよく修めたいならば、葷腥を断除しなければならない。葷とは身体に入ると良くない匂いがする食物、例えば韮(にら)・葱(ねぎ)・蒜(にんにく)・蒜台(にんにくの茎)・蒜苗(にんにくの若芽)・圓葱(たまねぎ)などを指す。腥とは衆生の肉体的な食物を指す。

これらの葷腥を身体に入れると心が清浄でなくなり、欲念や瞋恚(しんに)が生じやすく、鬼神が近づきやすくなる。鬼神は葷腥を好み、あなたの口を舐めて匂いを嗅ぐ。こうなると修行に不利であり、災難にも遭いやすく、また間接的な殺生にも属し、将来は千百倍にして返済しなければならない。楞厳経における仏陀の開示に依れば、速やかに葷腥の飲食を断除し、速やかに道に入るべきである。

六、いかにして未到地定(みとうじじょう)を得るか

未到地定を得て保ちたいならば、日常生活の中で心を専ら自らが現在行っていることに集中させなければならない。しかも主要な事柄に集中し、些細な雑事にはあまり心を用いない。重要でないことをする際には、自らの内心に専念し、外の事は少し知っているだけでよく、気にかけず心配もしない。失うものがあって初めて得るものがある。あれこれ気にかけると何事も精緻でなくなり、結局は何も成し遂げられない。必ず自らを訓練し、いつでもどこでも雑事の束縛から抜け出し、主要な事に専心し、心に余計なことを考えなければ禅定が現れる。

人が一生涯で成功したいならば、必ず集中することを学び、主要な事を選んで行い、役に立たない事には心を用いない。禅定が修持されて現れた後は、事を行う智慧が増し、その後は何事も良く行うことができる。あれこれの事に興味を持ち心を用いれば、あれこれ通じる可能性はあるが、精緻にはならない。精緻であることは通じることよりもはるかに重要で意義深く、精緻は智慧を表す。智慧があれば何事も成し遂げられないことはなく、成仏という事も含まれる。

現代人は比較的貪欲で、何にでも興味を持ち、何でも知りたがり、何にでも参加したがり、求めるものが多すぎ、注目点も多すぎる。しかし結果は往々にして何も成し遂げられず、何も得られない。取捨をわきまえない人はこうである。得たいならば専心して求め、多くの不必要な人や事を捨ててこそ、心ゆくまで願いが満たされる。人は総じて両手しかないのに何でも掴みたがり、結果は熊がトウモロコシをもぎ取るように、一つの穂を取っては一つの穂を落とし、最後に一つの穂を得られれば良い方である。

あなた自身のスマートフォンの中の様々なアプリと注目している内容の多さを点検すれば、自分が到底禅定を修め出せるかどうか、心に定があるかどうかを判断できる。それらのものを一生涯注目したところで、どうなるのか? 世の中の様々な新鮮な出来事を全て知ったところで、どうなるのか? 何が得られるのか? あなたはこの一生で結局何が欲しいのか? また、十年二十年も仏法を学んだのに、自分に相応しい仏法をまだ見つけられない人もいる。あらゆる法に触れ、あらゆる法を学び、博学のように見えるが、実は何も身に付いておらず、何の法も理解しておらず、目的もなくあちこちで手当たり次第にぶつかり、どうしても帰着点が見つからない。

七、いかにして初禅定を得るか

ある人は毎日数時間座禅を続ければ、初禅定を証得できると言う。これは必ずしもそうではない。初禅定に入ることは座禅の時間の長さにあるのではなく、心が欲界の貪欲を捨てられるかどうかにある。多くの人はたとえ一年半座禅に入って飲食しなくても、初禅定に入ることはできない。なぜなら欲界の貪心が重く、欲界の法を捨て離せないからである。欲界の法は、捨て離せるだけ捨て離し、捨てるほど禅定は深くなる。

初禅定は色界初禅天と相応する。心が初禅天人の心性に似たとき、初めて初禅定が得られる。色界天人の心性を持たねばならないならば、心の中に欲界の種々の法があってはならない。毎日努めて欲界の法を捨て離し、欲界の法から遠ざかれば、心は色界天の境界と相応するようになる。この時必ず初禅定が生じ、しかも初禅定は招かざるに自ら来る。欲界の法を捨て離したいならば、どの法が欲界に属するのか、欲界にはどのような法があるのか、如何に捨て離すのかを思惟しなければならない。

八、落日の写真を観るという修定方法は良いか?

二年前、私は如何に落日を観るかを話した。その落日を観る方法は主に自ら西方の空の落日を観察し、虚空に懸鼓のように懸かっている金紅色の太陽を観察し、見た後目を閉じて自らが目撃した落日を回想することである。こうすれば記憶に新たで、観想の効果は最も良く、観想を修めるのも比較的容易である。畢竟自ら目撃したものであり、根拠があり、空想のように困難ではない。実はこれらのすべての観行方法は似たようなものであり、どれがより取り組みやすいか、どの方法が自分に相応しいかだけである。

どの方法を用いるにせよ、ただ一つの方法で定力を成功裡に修め出し、はっきりと現量(げんりょう)で観行できれば良い。ただ観行を意根に落とし、意根が専注して思量できれば、あなたは修めることに成功したのである。意根を専注して思量することを会得した後、いかなる法に出会っても、意根を用いて思量し、意根に法を証得させることができれば、すべて大智慧三昧(だいちえさんまい)を得られ、修める法に対してすべて円融無碍(えんゆうむげ)となることができる。

華厳経の中の善財童子の五十三参(ごじゅうさんさん)は、善知識(ぜんちしき)を一人参訪するごとに、善知識の教導を得た後、三昧定の中で参究する。すべて意根が専注して思量し、意識の意解(いげ)はない。こうして定慧等持の三昧を証得し、最後に等覚菩薩の位に至る。善財童子は多くの理論を学ぶ時間を費やさず、理論に専心して豊富な理論知識を得ようとせず、ただ一つの法を求め、禅定三昧の中で求め証し参究し、最後に定慧等持の甚深三昧を得た。定にも偏らず慧にも偏らず、こうして初めて実証であり、最も究竟(くきょう)の実証である。したがって私たちの修行もできるだけ定慧等持の修行状態を保ち、狂慧(きょうえ)にもならず愚定(ぐじょう)にもならず、一つの方法を掌握したならば定の中で参究しなければならない。もしひたすら理論を学べば、禅定も修め出しにくく、すべての理論が消化吸収できず、心の中に詰まって慢心を増長させる。

理論が多い人は急いで心を落ち着けて実証に向かい、どれほど理論を説いても自らの経験ではなく、説いても無駄である。ただ実証したものだけが自らの智慧であり、未来世に持ち越せ、生々世世で利益を受ける。修行の道筋がまだ見えていない人は、禅定を修めながら道筋を探求する。両手で掴み、両手とも堅固にし、一方を偏重してはならない。

観無量寿経の第一観がもし完成できれば、禅定はすでに未到地定を超え、初禅に至ることもできる。これは真実の修行であり、容易か? 非常に容易ではない。未到地定を完成できる人は非常に少ない。それには多くの世俗法を失って初めて達成できる。初禅に修めるには極めて多くの貪欲の煩悩を降伏し、世間への求めが非常に少なくならねばならず、誰ができようか? ましてや在家者(ざいけしゃ)は世俗の習気が非常に重い。したがってこれが四禅を得た、あれが四禅を得たと信じてはならない。未到地定は非常に大きな試練である。

人間界の世俗の欲望を降伏して初めて未到地定が得られる。欲界天人の欲望を降伏して初めて初禅定が得られる。最低の欲望すら降伏できないなら、未到地定を期待してはならない。人は何でも得たがり、権力・金銭・勢力・名誉をすべて得たがり、目立ちたがり、自らを誇示したがる。どうして禅定が得られようか? 美味しいもの・飲み物・衣服・快楽を好む。どうして禅定が得られようか? 世の中の何事も気にかける。どうして禅定が得られようか? 修行を自らの心身と結び付け、自らの一切の身口意(しんくい)と結び付け、絶えず照らし合わせ反省し、絶えず自らを修証してこそ自我を降伏でき、禅定を修め出せ、道業(どうごう)は絶えず進歩する。

九、定中の妄念に如何に対処するか

常に「念起るを恐れず、ただ覚ゆる遅きを恐れる」と言う人がいる。しかし如何に覚めても、念は既に現れ、定はなく、その一瞬は畢竟覚めていない。後知後覚(こうちこうかく)、亡羊補牢(ぼうようほろう)、畢竟羊は既に逃げている。座禅中にうまく行い、清らかに明らかにしている際に、突然一つの念が生じたら、それを無視し、過ぎ去るに任せ、再び禅定に戻る。もし気にかければ、また一つの念が生じ、二つの妄念が現れる。念が妄念であると覚る念は往々にして長引き、再びこの念が生じたことを悔やめば、定は保ちにくくなる。

一切の法を無視すれば自然に過ぎ去る。遅かれ早かれ過ぎ去る。一つの法も一つの現象も長く存在し続けることはできず、生々滅滅(しょうしょうめつめつ)である。生じれば自然に滅する時がある。滅する時、その法は全く何ものでもない。生じた時も本来何ものでもない。無視すれば心は自ずと清浄である。万法が来ればその来るのを見、去ればその去るのを見、自生自滅に任せ、自ら遊ばせる。あなたはただ劇を見るようにすれば、禅定が現れないことを心配する必要はない。

十、呼吸念仏の正しい方法

念仏する際、声が胸腔・口腔の外に流出するのは、気体が丹田から身体の外に向かって運行する、気体を放出する過程である。したがって吸気の際には念仏できず、念仏の音流と対向するため念仏できない。ただ呼気の際にのみ念仏できる。吸気の際には一心不乱に吸気し、注意力をすべて吸気の過程に置く。気がどこに行くか、注意力はどこに行くか。こうすれば気血が通暢し、心身が快適になり、心は非常に速く定まる。

吸気は鼻腔から入り、丹田に至る。心力が足りれば、四肢・全身の各毛孔に至らせることができる。同時に身体の感覚を注意深く体得し感受する。再び呼気する際、呼び出す息は少なく軽微である。なぜなら全身の細胞はすべて新陳代謝を行い、すべて廃気を排出する。これらの廃気は全身の毛孔を通って排出され、毛孔も呼吸できる。呼吸念仏の方法は心気を合一させ、心身を協調させ、気血を通暢させ、定を得るのが速く、定が深く、禅定に入る時間が長い。初心者が禅定を修める際にはここから入るべきである。具体的な念仏方法は『修定と参禅証道』という本を参照されたい。

十一、禅定は不良な習気を降伏できる

仏法を学ぶ者は皆、努めて禅定を修習し、旧来の世俗の習気を克服し、心をすべて修道に向け直し、世俗法に過度に注目してはならない。累生累世(るいしょうるいせ)経験してきたものを再び注目しても生死の大事は解決できない。大事をしっかり掴めば、世俗の一切の事は取るに足らない。皆は智慧を持ってこの理を認めなければならない。

一つの習気を降伏し改めることは非常に困難であり、自らに某方面の習気があると反観(はんかん)できることも容易ではない。習気が習気と呼ばれるのは、長く熏習(くんじゅう)され、積習(しゃくじゅう)が深く、根深いからである。私たちの各思想観念はほとんど習気に順っている。相当に良い定力で反観し覚らなければ、自らの考えや観念は存在すべきでない習気であり、したがって大多数の人は自らにどんな習気があるか知らず、自らが思うところ考えるところがすべて誤りであり、無明の業障(ごうしょう)であり煩悩であり、それに順ずることは即ち生死に向かうことだと知らない。

たとえ無明の習気を認識しても、改めるのは難しい。これには私たちが時々自らを警戒し鞭打ち、一心に道に向かい、猛烈な修道心を発起し、絶えず自らの生死の業障を反省し、人生の真諦を思惟し、真の価値体系を認め、世俗法の虚偽と不実を認め、急いで生死の火坑から飛び出し、再び振り返って多くの同胞道友を救済しなければならない。

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