衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年06月04日 閲覧数: 2742

第四章 戒定慧の三学

一、定慧を共に修め偏りを避ける

仏道修行をより速やかに進めたいならば、修行の理路を明らかにし、修定の方法と参禅観行の方法の区別を弁え、その上で現在の修行の重点を正しく定め、時間を無駄にしないようにすべきである。例えば、前五識と意識を調伏し、六識を清浄に保ち、五塵の境界を分別せず感受しないようにするのは、修定の方法である。この方法で修定を行い、定力が向上した後も、やはり五識と意識を用いて塵境を観察し、塵境を参究し、塵境と五蘊世間の生滅変異性およびそこに含まれる真実相を見極め、悟りの智慧を得なければならない。このような智慧があって初めて生死の苦から解脱でき、修行は願い通り成就する。

また例えば、修行においてただひたすらに境界を不要とし消滅させようと考える者もいるが、これは単純な修定の方法である。しかし定力が具足した後、仏法を実証する段階では、五蘊の境界上で観行を行わなければ我見を断ち明心することができず、智慧を得ることは境界から離れることができない。修行はまず定を修め、その後慧を修め、仏法を観行し参究すべきであり、定慧を等しく保ちながら修行して初めて仏法を証得できる。もし定力がないのに無理に観行すれば、観るものはすべて成就せず、最良の結果としても解(理解)に留まる。しかし解は、靴の上から痒い所を掻くようなものであり、遠くの水では近い渇きを癒せない。なぜなら解は自ら得たものではなく、意根が無明を破っていないため、実証の智慧を得られず、解は何の実益もないからである。

禅定を修めた後は、理にかなった方法で観行すべきである。小乗では五蘊十八界の苦・空・無常・無我を観じ、大乗は小乗の観行を基礎として、誰が色を見て声を聞くのか、誰が参禅し参究するのか、誰が死屍を引きずるのかを参究する。観行参禅は必ず塵境の上で観察し注視するものであり、注意力を不要な法に分散させず、定中で観行参禅を行うのである。

修行は外道のようにひたすら修定に偏ってはならない。周囲の一切の法を見ず聞かず、覚えず知らず、これでは智慧が開けない。修行は心を定めるだけでなく、知(智慧による知)を持たねばならず、一つの法を知らなければそれは愚痴であり、成仏は望めない。外道はひたすら修定に励み、心は清浄で一切の境界に出会っても動ぜず、八万大劫もの間入定し、何事も知らず痴れ呆けているが、出定後に悪業が現前すれば、そのまま地獄に堕ちる。釈迦仏の師匠もそうであった。たとえ全世界の人が集まっても、このような外道の心の静けさには及ばないが、解脱の智慧がなければ、結局は六道を輪廻する。もし五陰が無我であることを明らかにできず、世間の真相を理解しなければ、解脱の智慧を得られず、生死輪廻の中で苦しみ続けることになる。したがって仏道修行は定慧を兼ね備え、戒定慧を共に修めなければ偏りを避け、涅槃の城へ直ちに至ることができる。

二、戒定慧の三無漏学の功用

漏とは貪瞋痴の煩悩と種々の無明を指す。煩悩と無明が漏らすのは善法・善願・善心・善根である。心が善であれば輪廻の苦から離れられ、心が善であれば仏道を成就できる。善法が漏れれば、悪不善法が盛行し、生死輪廻の苦は断絶できない。したがって修行によって無明煩悩を取り除き、心を無漏に達せしめ、善法を増進させ、苦を滅し輪廻を止めねばならない。

心を無漏にする主な道は三つあり、それが戒定慧の三無漏学である。戒を持することにより心を無漏にし、定を修することにより心を無漏にし、慧を修することにより心を無漏にする。なぜ戒を持すれば心が無漏になるのか。戒を持てば心は戒律に背かず、悪をなさず、貪瞋痴の有漏煩悩業を造作せず、善法に慣れれば自然に悪業を造作しようとは思わなくなり、煩悩は調伏され、善法は増長し、四正勤が修される。長期にわたり戒を持てば、心は効果的に収められ、あちこちに攀縁せず、禅定が現れる。

なぜ禅定は心を無漏にするのか。心が定中にあれば作為がなく、攀縁せず散乱せず、貪瞋痴の染汚業を造作しないため、煩悩を調伏できる。出定後も慣性作用により定力はある程度保たれ、攀縁を好まず、心安らかで妄に造作せず、依然として煩悩漏を調伏できる。もし未到地定が具足すれば、欲界の五品煩悩を断除し、初果向となり、現世で初果に入る因縁条件が得られる。

外道の四禅八定は定力がさらに強く、欲界九品の煩悩惑だけでなく色界九品の煩悩惑、さらには無色界九品の煩悩惑までも調伏できる。ただしこの調伏は断除や断尽を意味しない。なぜなら五蘊無我の智慧が不足しているからである。もし四聖諦の理に遇い、深甚な禅定力を依り所として念を収め少し思惟すれば直ちに証道し、煩悩は即時に断尽し、身心脱落し、我相も四相もなくなる。四果阿羅漢を証得する時には、髭や髪が自然に脱落し、袈裟が自然に身にまとう。これは煩悩が断尽し、自然に出家者となることを表す。

三果以前は煩悩が残っているため、髭や髪は自然に脱落せず、袈裟も身にまとわず、自然に出家者とはならない。したがって在家の身でありながら、比丘戒や比丘尼戒を受けることなく出家者になろうとするならば、煩悩を断尽し、髭や髪が自然に脱落し、袈裟が身にまとう必要がある。人による剃度は不要である。在家の身にわずかでも煩悩があれば在家者であり、無理に自分を出家者と称するのは、強引に出家僧宝の身分を盗み取り、僧と俗を混同する極めて重い罪である。

なぜ智慧は心を無漏にするのか。無我の四聖諦理と大乗真理の智慧を証得すれば無明を破ることができ、心中に我がなければ再び我のために煩悩業行を造作せず、我がなければ私心がなく、私心がなければ善となり、善は煩悩を破り、心は無漏となる。我があれば善法が漏れ、我があれば罪があり、我があれば煩悩がある。この無漏慧は戒と定を基礎とする真の慧であり、戒定のない慧は乾慧(乾いた智慧)で実用価値がない。戒定慧の三者が一体となり、共に一切の煩悩を断尽し、善法が永遠に漏れ出ることがなくなる。善法が円満に具足した後、成仏するのである。

三、観行と禅定の関係

禅定は止であり定であり、観行は観であり慧である。二者を合わせて止観といい、定慧ともいう。禅定と智慧観行は相互に補い合う関係にある。いずれの法を証得するにも、定慧を等しく保ち、止観を双運しなければならず、どちらか一方が欠けてはならない。仏法の修証過程において、禅定は先行する方便法であり、その役割は非常に重要で欠かせない。そうでなければ乱観や盲観となり、主軸がなく、一心に深く観ずることもできず、法の表面的な情思意解に留まり、実質的な法を観行できず、如実の結論を得られず、多くは意解(意識的理解)に過ぎず、如実観察や現量証によるものではない。

世尊が最初に弟子たちに小乗果を証させる教えを説いた時は、常に理論を教えると同時に禅定を教え、弟子たちが定慧を等しく保つようにし、偏りがないようにされた。弟子たちは禅定をしながら思惟観行し、このように工夫すれば非常に力強く、煩悩は効果的に調伏され、思惟も緻密となり、まもなく小乗果を証得した。その中で世尊が教えた修定と観行を同時に行う法には、四念処経や坐禅三昧経、禅法秘要経などがある。禅定によって煩悩や雑念を調伏した後で初めて観行は正軌に乗り、如理如実の観行が可能となり、心が転変し、三十七道品を具足して証果に至るのである。もし禅定を修めず、禅定の功徳がなければ、三十七道品も八正道も満たされず、煩悩は依然として重く、心は清浄でなく、身心世界も転変せず、証道の因縁が具足せず証道できない。

外道が仏陀に出遇うと、なぜあれほど速く証果し、瞬時に四果を証得できたのか。その理由は、外道たちは皆禅定の証量があり、煩悩は調伏され、心も清浄で、出離心も強く、ただ正しい法義が欠けていただけである。仏陀が法を説けば心に入り、たちまち心開き意解し法眼浄を得て、即座に解脱する。それほど速いのである。したがって誰もが禅定を修めない言い訳はなく、僥倖を抱き、労せずして果を得ようとするならば、仏教界に本当にそんな都合の良いことはない。得をしたように思える所で往々にして失うことになる。大乗菩薩が法を証するにも相当の禅定が必要であり、修めた禅定もまた、この世や前世で小乗を修めた時に築いた禅定の基礎による。大小乗の禅定に大きな違いはなく、基礎禅定の修行は共通である。

禅定は煩悩を調伏する先行方便である。煩悩を調伏するのは煩悩を圧伏するのに似ており、煩悩を断尽するわけではない。初禅定に我見を断つ智慧が加わって初めて煩悩を断除し、さらには断尽できる。まず煩悩を調伏圧伏し、悪を起こさず善を生じさせて我見を断ち、さらに深く定を修め、初禅を得て初めて煩悩を断除し、心解脱の三果人となる。煩悩を断除した後の三果・四果人を初めて聖人と呼べる。仏教では常に定慧等持による証果、定慧等持による煩悩断除、定慧等持による解脱であった。もし煩悩が重く雑念が多い時は、禅定を修めることもできず、観行はなおさら乱雑であるが、まず世間の苦を思考し、心が落ち着いたら再び定を修め、その後観行する。観行する時には定力も絶えず増長し、定力が増せば観行はさらに深まる。したがって禅定と智慧は相互に補い合うのである。

四、禅定が増強した後は参究観行に着手すべき

問:座禅中に念頭が次第に減り、意識がますます清明になります。このように内守幽閑(ないしゅゆうかん)に守ることは何の役に立つのでしょうか?この時、もし法義を思考すれば意識による解悟に陥りやすく、将来悟りを証得できなくなるのではないでしょうか?内守幽閑に至った後、どのように工夫すべきでしょうか?

答:禅定が養生の内守幽閑に達した時、心念が専一になれば、四聖諦理や大乗の般若など仏法を思惟すべきである。もし大小乗の理が既に明らかであれば、五蘊を観行して我見を断つ段階であり、この時はもはや意識の思惟を用いず、意根で思量し、五蘊無我に関する疑情を意根の心に懸け、時処を超えて意根に思量させ続ける。これが仏法を参究する工夫である。

禅定の功徳受用は多く、例えば智慧を増長し、煩悩を調伏し、心を清浄にし、福徳を増し、業障を軽減するなどがある。禅定中に観行参究すれば我見を断ち明心見性できるが、これは凡夫位の大多数の衆生にとっては一時的な最終かつ最高の功徳受用である。しかし他にも功徳受用はあり、例えば内心が穏やかで、身心が快適安泰となり、体質が変わり、色身が健康長寿となり、善心が増し、悪心が減り、なす善業や不善不悪業が増え、悪業が減り、後世は善道に向かう。

初めて禅定に入った時、多くの人は思惟力がなく、仏法を思惟できず、心は無念の空定にあり、内守幽閑の定と呼ばれる。思惟がなければ当然悟ることはできない。しかし禅定から出た後は慣性作用があり、定の状態が持続するため、身心は依然として定を修めない時よりも快適で愉悦し、心は平時よりも深沈となり、浮動性が低下し、思考力が深まる。身心が愉悦で充実しているため、心は温和・穏和・安寧・無煩無悩となり、人に接するには寛厚仁慈となり、事に遇えば思惟が深く透徹し、事を処理するには柔和・中道・偏激でなく、人事物理を見抜きやすくなる。こうして自然に福徳が増し、智慧が増長する。この功徳受用は禅定のない者には比べるべくもない。

禅定中に絶えず自らの思惟力を訓練し、思惟の習慣を養えば、次第に如理思惟、如法思惟観行ができるようになり、智慧を高められる。しかしこのような思惟が必ずしも仏法の解悟につながるわけではない。解悟を懸念するならば、最終的な観行と参究の段階では意識の思惟を避け、意根で思量することを学ぶべきである。仏法の脈絡がまだ明確でない時、学んだ法義がまだ十分に通じていない時は、まず意識の思惟が必要であり、仏法の脈絡と綱領を整理し、それによって意根を薫修し、意根に仏法を証得するにはどのような修行が必要か、どのような工夫が必要かを明らかにさせる。

この基礎が固まった後、最終的に実証する段階では、禅定を深め未到地定を満たす必要がある。この時は意根の思量を主とし、意識は意根に協力し、思惟分析推理などの情思意解活動を少なくし、できるだけ意根自身に参究考量させれば、最終的な証悟に達し、意識による解悟を避けられる。これは定慧等持の修行手順と方法であり、これを掌握すれば熟練して巧みになり、工夫が固まれば後世も意識解悟の偽りの修証パターンを避け、仏法の真実の受用を得られる。

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