禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)
第七章 禅の参究方法(2)
十三、真の聞性を如何にして証得するか
十八界の中から一門に深入して修行するとは、十八界の一界を観じ、この一界より法界の実相に悟入し、三昧を証得して大智慧を開くことである。例えば耳根の門より修行を始め、禅定が具足した時には、聞性の上で観行を行い、耳根の聞性の生滅する起処に何があるかを反観し、不生不滅の真の聞性を証得するのである。参究と反観の中では、心念を音声に落としてはならず、音声の内包する意味を思惟してはならず、虚妄の法に落ちてはならない。そうでなければ聞性の根本と実質を証得できず、音声の外で参究し、音声の源と起処を参究し、根底を究めなければ聞性の本源を見出せない。
十四、霊感は如何にして現れるか
研究によれば、突発的な生命の脅威に直面すると、恐怖感が瞬間的に脳を支配するため、多くの哺乳類(人間を含む)はその場で動かなくなる——これを定格(フリーズ)という。定格時には体内のエネルギーが集中し、場のあらゆる情報を全面的に受け入れ始める(瞳孔拡大、目を見開くなど)。したがって、後で描写する際、当人は恐怖感が襲ったこの瞬間の記憶を異常に鮮明かつ詳細に覚えている。しかしこの瞬間直後の記憶は曖昧であったり、全く覚えていなかったりする。そこで以下の問題が生じる:(一)身体のこれらの現象は誰が掌握しているのか?(二)定格と定住・禅定は同じか?(三)なぜ定格時の出来事は記憶が非常に鮮明なのか? その後は記憶が曖昧で覚えられないのか?
答:(一)意根は如来蔵に随って色身が遭遇するあらゆる状況を常時了別でき、常に色身を調節できる。意根の心が動くと、大脳中枢神経系から全身の神経系に信号が送られ、全身に神経反応が現れ、意根の思想情緒が表現される。
(二)定格時は短い瞬間の禅定であり、注意力が高度に集中した状態で、定住とも呼ばれる。身体は動かず、意識思想も動かないが、意根は非常に専注して思量し、対策を探り、危険を脱する機会を探るため、しばしば窮地で知恵が湧く。これこそが定の特徴と結果であり、定は慧を生じ、定中の意根は非常に鋭敏で思路が敏捷なため、しばしば危機を転換できる。
(三)定格時には意根が高度に注意力を集中し、心念が分散せず、六識が乱れず動かないため、意根の思量を妨げない。この時、塵境に対する観察はより微細になり、観察力が向上するため、記憶力がより良く定着する。したがって定格時の情景は記憶に刻まれる。定格段階を過ぎて禅定が消失すると心は散乱するため、記憶力は低下し、その後ははっきり覚えられない。
過去の禅師たちが悟道した際も、自身の疑情が正に濃厚な時に突発事件に遭遇して霊感が現れ、悟道した例が多い。学人が参禅中に疑情が非常に濃い時、師匠が突然大喝一声したり他の方法を取ったりすると、学人の霊感を触発して開悟する可能性がある。過去に禅堂で坐禅の合間に行者たちが下座して禅堂を歩き回ったり小走りしたりしている時、師匠が突然「止まれ」と叫ぶと、突然止まった瞬間にも開悟することがあった。不意打ちの時は霊感が現れやすく、こうした開悟は真実の用功の結果であり、全て意根が直接悟り、直接体験するもので、親証と呼ばれ、意識の悟りだけではない。この時は思考する余地がなく、悟るなら即座に悟り、思考して念を動かしてはならず、あれこれ考えず、直接悟るのであり、これが意根の悟りである。
十五、第二月に循って第一月を求めることが即ち参禅である
もし誰かが私に悟りを示そうとするなら、私は彼に一棒を与える。この一棒は第二月であり、空谷の反響である。聡明な人はこれに依ってこの第二月の根源——本真の第一月を探し求めることができる。これは何と痛快で、胸のすく思いである。盲猫が死んだ鼠に当たるように、終日そこに静坐して、妄想念が無くなり、清静になった一瞬を捉え、それから第八識の清浄体性と照らし合わせ、「これが私の本心である第八識ではないか? これが私の法身如来仏ではないか?」などと言う必要などない。
誰がお前にこうして如来仏を認めろと教えたのか? もしそうなら、お前に妄想念・念想がある時、お前の如来仏は死んでいて、まだ生まれていないのか? お前が後に定力が消失し、念頭が生じ、妄想念が現れた時、お前の如来仏は消え失せ滅びたのか? もしそうなら、お前の如来仏はなぜ有生有滅なのか? どうして有増有減なのか? どうして変化できるのか? なぜ一瞬有り一瞬無く、絶えず見守る必要があるのか? 事実、お前のこの念頭や妄想念のない清静な境界は単なる第二月であり、第一月から転じたものである。お前はこの第二月に留まらず、急いでその経路を追って第一月を探し求めよ。あの第一月は本来清浄であり、いつでも清浄で念想がなく、坐禅などしなくても本然として存在している。それがお前の真心であり、法身如来仏である。
また、パッと一瞬、前念が断たれ後念が未だ生じていない中間の空白を誤って認める者がいる。この空白が歴歴として孤明で、了々分明・清清楚楚・明明白白であることを感じ、「これが自分自身のあの無念無想・本自清浄・不生不滅の本心如来仏である」と考える。しかしもしそうなら、お前がパッと妄念を断ち切る前、仏主はどこにいたのか? まだ生まれていなかったのか? しばらくして妄想念が現れた時、お前の仏主はまたどこへ行ったのか? 滅したのか? 妄想念がない時の清清楚楚とは何か? 明明白白とは何か? 何が清楚で明白なのか?
事実、お前のこの前念が断たれ後念が未だ生じていない中間の空白も、ただ第二月に過ぎず、第一月が幻化したものである。お前は歴歴孤明の境界に循って背後にある本尊第一月を探し求めよ。これが参禅である。本心自性如来は決してお前の現在の清浄無妄念の境界を清楚明白にすることはなく、またいかなる世間の五陰境界をも清楚明白にすることはない。彼は何も知らず、無見無聞・不覚不知であり、孤でも歴でもなく、中間にも両端にもいない。生滅増減の虚妄法である意識こそが、時に妄想念があり、時に妄想念がなく、時に清楚明白であり、時に糊塗して明白でなく、時に孤歴であり時に喧騒である。真に自心仏を認めた時は、何をしていようと殺人放火であっても、自心法身仏は依然として存在し、妙用を起す。彼は滅したことがなく、刹那毎に相応の機能作用があり、空っぽで呆けた何もしない愚かな仏ではない。
彼はお前の目の前でただ揺れ動くだけではなく、同時にお前の背後で黙々とお前を支えている。彼はお前の心が清浄で妄想念や煩悩がない時だけ現れるのではなく、お前が無茶苦茶な時にも現れ、お前が天宮を大騒ぎし山岳を崩す時にも現れる。彼はお前が天国に昇る時だけ現れるのではなく、地獄に堕ちる時にも現れる。もしお前が真に彼を発見すれば、至る所で彼を発見できるようになる。もし別の場所で彼を発見できないなら、お前がこの場所で発見したのは彼ではない。真にある人を知れば、その人がどこへ行ってもお前は知っている。人を間違って認めれば、他のいかなる場所でも、お前は真人を知ることはできない。
十六、何時になって末後句を参究できるか?
末後句とは、生死の衆流を截断する句である。生死流とは何か? 生死流は如何にして截断するか? 末後句を会得するにはまずこの問題を思考しなければならない。初禅定を得た後、二果を証得した後、如幻観と陽炎観を過ぎて初めて末後句を参究する。末後句を参究し通し、有余依涅槃を証得すれば、生死の牢関を過ぎることができ、三果人となり、三界の生死流を出る能力を得る。
末後句に関する公案や句は全て暗号のように、生死問題解決の鍵を示している。これは自ら参究しなければならず、人に明言させてはならない。たとえ明言されても、自らは微塵の益も得られず、自悟の門を塞いでしまう。初禅定がなく、前の関門を過ぎず、煩悩を断たなければ参究できない。前段階の基礎がなければ末後句を理解できず、小乗では必ず二果人でなければならず、大乗では如幻観と陽炎観を過ぎて初めてある程度理解できる。その後参究を行って初めて、少し道筋が見えてくる。
もし禅定を修めなければ、いかなる法も証得できず、初禅定がなければ陽炎観は証得が難しく、その後各種の観行はなおさら望めない。多くの法に対する自身の解がどの程度に至っているか、証得との距離が果たしてどれ程あるかを明らかにすべきである。ある法を事前に解してしまうと、再び証得するのが難しくなる。禅定などの因縁条件が不足している時は、避けて解しようとせず、そうでなければ証得できない。全てが解だけであれば、生死を如何にして断つのか? 解と解悟にはなお大きな差があり、これらは全て自ら了解し、智慧による判断と選択が必要である。仏法は絶対に曖昧にできず、毫厘の差が千里の誤りを生み、結果は大きく異なる。
十七、啐啄同時(そったくどうじ)
未だ道を成していない各修行者は、割れていない卵の如きものである。この卵をいつ割るか、如何にして割るかは、確かに大学問であり、大文章である。割る時機を誤ると、割った後は腐った卵となり、食用にもならず、まして雛が孵ることは望めず、全く外力に頼って卵を割ると、往々にして腐った卵を割ることになり、何の役にも立たなくなる。
したがって修行は主に自力に頼り、外力は少し温度を与えればよく、内面は自ら変化し自ら改める。腐った卵の廃材になりたくなければ、他人の引き立てを余り当てにすべきでない。ある者は学び始めて間もなく、卵がまだ非常に生硬な内に、師匠に早く導いて開悟させてくれと要求する。これで悟れるものか? 何を悟っても無駄で、廃材同然である。生卵が温まり始めたばかりで、焦って殻を破れば、せいぜい炒め物にして食べられるだけで、大したものにはならない。
卵殻内の生命が次第に成熟に近づくと、種々の特徴が現れる。最終的に雛は必ず自ら殻をつつく。どうしてもつつき破れない時、雛の嘴がまさに破れんとする所で外力が加われば、軽く破れて生命は成功裡に誕生する。こうした雛は強壮で力強く、生命力が頑強である。雛の誕生は、極めて大部分が自身の努力の結果であり、一小部分は外部の温度環境と母鶏の保護による。
修行もまた同様で、極めて大部分は自らの精進努力にあり、一小部分は師匠の教導と助力による。過去の祖師たちが弟子を接引したのは、皆啐啄同時であり、時機をよく掌握していた。なぜか? 祖師は真の祖師・真の禅師であり、真に道を得ており、道力だけでなく道眼も持ち、明察秋毫で機を見て教えを導いたからである。当時の学人は幸運であり、非常に幸運であった。もし学人の三十七道品が修まっておらず、六度も具足せず、因縁も熟していなければ、禅師は決して下手に接引せず、弟子の法身慧命が最も重要であることを深く自覚し、責任感が非常に強かった。もし誰かがでたらめに接引し、数を揃える嫌疑があれば、自らその者に道が無いことを知り、避けるのが最も安全である。卵を守り、安易に割ろうとせず、誰が進んで割ろうとしても一律に拒絶せよ。
十八、臨済禅宗の四料簡(しりょうけん)
臨済禅師の四料簡とは:人を奪って境を奪わず、境を奪って人を奪わず、人境ともに奪う、人境ともに奪わず、である。奪とは、剥奪・剥離・遣除・消除・消滅を指す。人とは、主観的な我、能く攀縁する識を指す。境とは、攀縁される塵境を指す。この三文字の意味は参禅過程でなすべき功夫を包括し、根塵境界を降伏させ、能と所を剥離・消除し、次第に身心五陰の我見を断除する。我見があることは遮障であり、障碍であり、慧眼が開けず、人と境だけを見て真心を見ない。
凡夫衆生は皆我見を持つが、修学過程において我見の重点は異なり、ある者は主観的な能に偏重し、識に執着し、ある者は客観的な所に偏重し、境に執着し、ある者は両方に執着する。我見・我執があるため、心が空でなく、参禅に成果が無い。この時、眼ある禅師が機に応じて接引し教えを示し、面と向かって空を迫り、学人の執着する能所を奪い去り、眼障を除き、その法眼を浄らかにする必要がある。これが前三料簡である。
法眼浄を得た禅者は、人境ともに空で、空処に落ちる。向上の一路で実相を悟るため、禅師は再び機に応じて教えを示し、学人に空処から身を転じさせ、人と境の上で有を悟らせる。こうして「柳暗花明又一村」で境界が転折し、大事は初步的に解決される。しかし月明簾下(げつみょうれんか)で身を転じるのは難しく、空から有への転換は容易でない。これは小乗から大乗への跨ぎであり、大菩提心を発し、広く菩薩道を行じる必要がある。第四料簡は大乗見道を完成し、向上の路を開く。したがって我見を断たなければ悟れない。
十九、釈究能法師の参禅要訣
釈究能法師:禅宗の参禅法門は皆、我々に識を用いず根を用いることを求めている。禅宗はお前の妄想念の有無を気にせず、そんな余計なことには構わない。ただお前が意根まで修め、意根で話頭を参究する能力を持ち、悟道できることを求めている。禅宗の参禅は話頭を参じることであり、これは中根・上根の者に参究できる能力があり、下根の者は参じられない。なぜか? この話頭参究を見よ。例えば「念仏する者は誰か」と参じ、我々の父母未生以前の本来の面目は何かと参じる。多くの人は話頭を参じる——「念仏する者は誰か」と参じ、あちこちでこの「誰」を探すが、これは話頭を参じるのではなく、話尾を念じているのである。話頭を参じるとは何か? 話頭とは話の前頭を参じることであり、話の前頭とは何か? お前は話そうと思うか? 南無阿弥陀仏と思えば、話したことになる。話頭とは、南無阿弥陀仏を念じる前の状態である。
したがって話頭を参じる功夫はこうである:阿弥陀仏を念じたいと思うが、あえて念じ出させず、念じ出せば話尾になる。だからお前はこの話の前頭を参じるのだ。阿弥陀仏を念じたいと思うが、あえて念じ出させない。この時はどんな様子か? 念じたいと思うが、心の中の阿弥陀仏を出現させてはならない。出現すれば話尾になる。これが話頭を参じるということだ。話頭を参じる功夫は非常に綿密に行わねばならない。その綿密さはどの程度か? 話頭を参じる功夫が純熟した時は、熱い団子を飲み込むようである。熱い団子を口に含み、飲み下せば火傷で死に、吐き出せば惜しい。喉に引っかかっている状態だ。猫が鼠を捕らえる譬えがある。猫は鼠を見ると追い詰め、鼠が穴に逃げ込むと、猫は四本の爪で地面を掴み、尾を立て、全神経を集中して穴口を凝視し、鼠が出てくるのを待ち、出てきたら捕まえる。話頭を参じるのもこれと同じで、自心の内面を見守らねばならない。話頭を出現させず、しかし必ずそれを思わねばならない。
話頭を参じる者はこうして用功し、心に話頭を秘めながらも念じ出さない。この程度にできれば、必ず中根か上根の人である。もしできないなら、真面目に先ず念仏し、念仏の功夫が次第に深まり、心が静まって妄想念がなくなった時、念仏は意根に達する。これは話頭を参じる功夫に類似する。したがって話頭を参じることは実際には意根で功夫を行うことである。話頭が未だ出ていない時、心にははっきりとこの話頭がある——これが意根のレベルに至るのである。
評:釈究能法師は参禅の用功状況を比較的正確に描写し、参禅時には正に意根が専心一意に参究しており、その功夫は意根を主とする参禅功夫であることを明確に指摘している。お前が意根で思量し話頭を参究できるまで修めると、話頭を参じることが確かに非常に味わい深く意味深いものであり、また人を魅了して離さないものであることを感じるようになる。したがって参禅する者は不眠不休で日夜精進して用功し、功夫を連続不断に行い、持続的に昇温させることができる。参禅はまた猫が鼠を狙うように、鼠が穴口でうろつくのを見て、捕まえる確率が非常に高く、成功が目前にあるため、猫は警戒し、細心に守り、離れず、時機を待って一挙に捕らえるのである。
なぜ一言、あるいは阿弥陀仏の四文字が未だ出ず将に出んとする際が話頭であり、意根の参究状態なのか? 意根の念には言語・文字・音声の相が無く、話頭が将に出ず未だ出ない時は、未だ言語・文字・音声が形成されておらず、この時が即ち意根の念と思である。次の段階で言語・文字・音声が現れ、意識心に落ちると、話頭を参じる状態ではなくなり、話尾を念じる状態、即ち意識の情思意解の状態となる。したがって一切法の運行の中では、永遠に意根の思念が先で、意識の思念が後である。意識の思念は再び意根の思念に転換できるが、ただ意根の思念は極めて観察・把握し難い。
覚醒時の各種状態には皆意識と意根の知と念がある。ただ各種状態の中で、意根と意識のどちらの知と念の作用がより強く顕著かという違いに過ぎない。二つの識の機能作用は区別し難い。意根を甲、意識を乙と譬える。我々の知は乙の知である。我々が意根を弁別するとは、乙が甲を弁別することである。乙は如何にして甲の知と不知を知るのか? 如何にして甲にどんな心念があり、どんな覚受や思想があるのかを知るのか? 某甲の心境を某乙が如何にして理解するのか? 某乙の某甲に対する判断は如何にして真実正確無誤たり得るのか? 某乙が某甲の心理状態を知らない時は、某乙が某甲を判断する智慧をまだ持っていないことを示す。意識はいつ智慧を持つのか? いつ意根の運作を真実の現量で観察できるのか? 証悟を得て道種智を有するまで修めなければできない。
今のところ、まず意識が意根の心理状態を真実に観察できるかどうかは気にせず、参禅の知見を確立し、上記の功夫と用功状態に照らし合わせ、正しい参禅功夫を修持し出すべきである。これが当面最も急いでなすべきことである。この参禅功夫さえ修持し出せば、今生たとえ悟らなくても、後世には如何に用功するかを知り、再び参禅の功夫を修持し出し、邪路に走らず、証悟は遅かれ早かれ訪れる。
二十、如何にして菩提を求めるか?
菩提はただ心に向かって求めよ、何ぞ労して外に向かって玄を求めん。聞く、此れに依って修行すれば、西方はただ目の前にあると。
釈:なぜ菩提は心に向かって求めるのか? 菩提とは即ち心であるからだ。どのような心か? どんな特徴・特質があるのか? 菩提はどの心に向かって求めるのか? どの心から菩提を求め得るのか?
心は身の内、あるいは自心の内にあり、心は虚空中・外相外塵境・他人の身にはない。したがってこの心を求めるには外に向かって探求する必要はなく、玄を説き妙を説く必要もない。ただ振り返って心の内を探せばよい。しかしこの心は時処を超えて一切法と関わり、他人・外境・虚空宇宙器世間も含まれる。お前がこれらの外境と関わる時、回光内斂(光を内に返し収める)し、自心を反観すれば、この菩提心を照見できる。菩提は有用であり、常に作用を起しており、暇な時はない。したがって種々の作用の中で彼を求めると同時に、外境に目を曇らせてはならず、ただ外境を見て外境を真実と見なせば、菩提心を照見できない。
これを参禅と呼ぶ。このように修行して初めて自心を証得し、光現大千界の菩提心を証得し、一切法を円満成就できる菩提心を証得し、本来仏陀である自心如来を証得できる。如来を証得し、それに依って七識の染汚心を改め、菩提心のように清潔に、菩提心のように無我無私に、菩提心のように清浄無為に、菩提心のように一切有情を利楽するようにする。このような修行は仏道を円満にし、内外通透・光明揮発・無辺際の三千大千界を徹照する如来となり、自心如来と合すれば、極楽世界のように輝かしく美妙な無数の大千世界を変現する。極楽世界は時処を超えて目の前にあり、一切苦衆生を度尽して寂滅道場に帰し、常楽我浄を得る。
二十一、真心を凝守すれば妄念生ぜず、我所心滅すれば涅槃法顕る。
評議:もし修道過程で真心を証得したなら、最初は静心のために真心を凝守し、真心を帰依所とすることができる。修道が深まるにつれ、真心を守ることが虚妄法であり余計であり、守る心行は妄心の心行であり妄念を生じたものであると知るようになる。なぜ真心を守るのか? やはり真心を我や我の所有と見なすから守るのであり、そうであれば我所の心は滅しておらず、心はまだ空でない。この時心は以前より清浄で、真心のように他の念頭が無いが、これは禅定境界であり、真心の念頭のない境界に類似すると言える。涅槃の真心が現れたと言っても通じるが、やや強引である。涅槃の真心はいつでも現れており、真心を証悟した者は皆知っているからである。
凝然として心を守ることは可能だと言うなら、この守心とは妄心が虚妄に造作するのを許さず、まして貪瞋痴の業を造作せず、清浄に回帰する、あるいは真心自性に回帰することを指す。真心を守るという説法は検討の余地がある。真心は守る必要がなく、証悟した者が真心を守るのは余計なことで、煩悩執着を増し、牢関を過ぎられない。証悟していない者は守ろうとしても彼を見つけられず、どうやって守れるのか? しかし「守」という一字が、念頭と主観があることを示す。真心を守ろうと妄心を守ろうと、守る限り妄念である。この時はただ意識の妄念が生じないだけで、意根は絶対に念があり、念がない時は心が空で、何も守らず、守ることもできず、守る心行もない。念があり心がある時は、涅槃の真心と妄心が共に存在する。どちらが現れた涅槃心なのか? 守る心行がある以上、心行は滅せず、守護されるものは我所である。何を守護しようと、皆我所を守護しており、我所心は根本的に滅していない。
禅宗と唯識の境界は比較にならない。禅宗を修める段階では心がまだ空でなく、たとえ禅宗第三関を過ぎても、心は唯識段階の人の心空には修まっていない。一つの心行さえ空でなければ、禅宗第三関を過ぎられず、第三関に至ることもできない。心が空でなければ有余涅槃を証得できず、禅宗第三関生死牢関を過ぎる能力を得られない。真心を守れば真心に縛られ、なお生死業があり、涅槃できない。守ることは生死業であり、守れば余計なことで心が寂静でない。四禅は捨念清浄と呼ばれ、念を捨てて初めて清浄となる。念を捨てれば守ることはなく、心は空で守ることも住することもない。守っても無想定には入らず、まして滅尽定には入らない。なぜ滅尽定に入れないのか? 意根にまだ受と想があるからだ。守ることは想に類似する。無想定中にも意識の守はなく、意識は作用を起せない。守ることは制心一処の修定に類似し、制とは置くことであり、対治であり、動作があり運行がある。
我々が今話しているのは最終的な修行結果であり、修行過程ではない。修行過程ではなすべきことをなすべきであり、各種の方法措置を採ることができ、皆用功に必要なものであり、避けられない。しかし最終結果に至った時は、必ず心行寂滅である。例えば戒を守ることが守る必要のない程度に至れば、戒に於いて自在となり、戒を越えず、全く意根の習慣習気となり、心行が天然のままであり、思考や監督・規範を必要とせず、自ずから戒律に合う。
二十二、六根円通
朝起きて静坐す。鼓声・風声・念誦声・鳥鳴声、声々耳に入るも、心は塵寰を絶ち、微塵の漣漪(さざなみ)も無し。
心声また起これども、世界・家国・有情・弘法・度衆、事事浮かぶも、心は諸相を離れ、微塵の波も興らず。
世間の人事、蛙鳴蝉噪、蟻斗蜂争、人を博して一笑せしむるのみ、死を除いて大事無し。死生の事も大ならず、水泡の生滅、全て空幻なるのみ。
出世間の事、衆苦解脱、弘法利生、真剣に得ず、皆夢中の事。名聞利養、毀誉称譏、誓願任責、過ぎたる空相のみ。
一切音声は空谷の跫音(あしおと)の如く、皆取らず。一切色相は海市蜃楼の如く、皆着せず。一切事理は亀毛兎角の如く、皆執せず。世人の威逼利誘は皆陷阱なり。世事の繁華乱舞は皆芒刺(とげ)なり。言笑語黙・挙手投足、諸有の造作は皆苦業なり。六根対境、声色犬馬、一毫でも執すれば砒霜(ひそう)口に入る。
眼・色・見の三者空なり。耳・声・聞の三者空なり。鼻・香・嗅の三者空なり。舌・味・嘗の三者空なり。身・触・覚の三者空なり。意・法・思の三者空なり。能く空空、所く空空、心中の空もまた空なり。空空もまた空なり。微塵も立つ可き無く、微塵も得可き無きに至るまで。立つも立たず、得るも得ず。立たず破らず、得ず失わず。方にて到着の消息なり。家に四壁無く寸草無く、卓錐(たくすい)の地も無し。畢竟微塵無く、微塵無きもまた無く、無もまた無し。此処に到る者、何ぞ耳根円通のみならんや。眼根も円通、鼻根も円通、舌根も円通、身根も円通、意根も円通、六根皆円通なり。何が通ずるか? 参ぜよ!
二十三、仏と衆生の見るもの異なり
諸仏はなお妄法を見るか? 見は見るが、妄法とは解せず、妄法とは用いない。諸仏の慈悲大人相、泥に入り水に入りて衆生の為にす。心は蓮華の如く純潔にして妄無し。如来蔵は妄相を見るか? 見ず。如来蔵は組合相を見ず、和合相を見ず、一合相を見ず、変異相を見ず、ただ原相・種子相を見る。如来仏祖は原相の中にあり、衆生に一切法を供養し、泥に入り水に入るも、絲毫も沾(つ)かず、熏染を受けず!
衆生はなぜ山河大地の妄法のみ見るのか? 心盲眼瞎(しんもうげんかつ)、無明の遮障なり。なぜ心盲眼瞎で無明に遮障されるのか? 無始劫来即ち此の如し。なぜは無し。無明に因無し。無始劫以来、幾つかの眼を瞎(つぶ)したか? 眼・耳・鼻・舌・身・意・末那、総計七つの眼、全て瞎(つぶ)せり。末那が一たび瞎すれば、六つの眼は皆それに随って瞎し、明眼無し。衆生は如何にして真を見て妄に入らざるを得るか? 大菩提心を発し、一切無明を破らんと願い、一切衆生を無明より救い出さんと願い、戒定慧と三十七道品を修行し、広く菩薩六度を行じ、諸悪莫作・衆善奉行し、無我を観行し、自性を証悟せよ。