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禅定の修めと参禅による悟りの道(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2026年06月11日 閲覧数: 4150

第七章 禅の参究方法

一、禅宗が文字を立てないとはどういう意味か?

禅宗は宗門とも呼ばれ、仏法の宗とは真実心である如来蔵であり、禅宗とは禅を参究して真実心である如来蔵を証悟する法門である。文字を立てないことには二つの理由がある。第一に、参禅の全過程において言語・文字・音声を用いないことである。なぜなら、この時は甚深の禅定の中で禅を参究し、意根と意識が同時に参究するため、言語・文字のない状態にあり、言語・文字・音声があると思考が浅く、意識が単独で意解する状態になり、意根が力を発揮できないからである。第二に、宗門である如来蔵自体には言語・文字・音声がなく、言語・文字とは相応せず、言語・文字で伝えられるものは何であれ如来蔵そのものではないからである。

したがって、禅を参究する際には、法を伝える者も受ける者も、言語・文字・音声は役に立たなくなり、あらゆる書籍や理論も役に立たなくなる。参究する者は心の中で念々有詞(ねんねんゆうし)に唱えたり、くどくど喋ったり、うめいたりする必要もなく、対比可能な外縁の参照物が剥離される。こうなると、海闊天空(自由奔放)に情思意解(感情と思いで理解)し、比量・非量(推論や誤った認識)を存分に発揮することはできなくなり、意識が発揮する余地がなくなり、ひたすら意根の現量(直接知覚)による思惟と参究に頼ることになる。苦しく、徹夜で眠れなくとも、成果は豊かであり、意根の潜在能力と智慧が十分に発揮され、いったん証悟して自家の宝蔵を掘り当てれば、以後は自由で豊かな日々を送り、流離失所(流浪)して苦しい日々を乞食で過ごす必要はなくなる。

この時、外の文字も心の中の音声も役に立たず、力を発揮できず、ただ自身の智慧に頼るのみである。こうして初めて、自らの大智慧を開発できるのであり、推理も分析も整理も帰納も分解も統合も臆測も想像も比対も教量(経典の教え)も理論も知識も学問も、すべて役に立たなくなり、意識は休息して忙しく働く必要がなくなる。この時、責任ある禅師は「経典をどけ、経を読み書物を見ることを禁ず」と告げ、違反者には戒尺(けいしゃく:警策)で応じる。いったん参究が重要な局面に至ると、打たれることは絶対に良いことであり、言語・文字が役に立たなくなっても、打たれることは可能であり、打たれる時にはやはり言語・文字と思惟はないが、意根の霊感を触発することができる。

師匠が棒を与える時、もし意識が活発であれば、すぐに「これがそうかもしれない」と思考分析するが、結果は「間違い!」である。意識がさらに分析推理して「真妄和合(真実と虚妄が和合)、これは間違いない」と言っても、結果はやはり「間違い!」である。さらに排除法で推論臆測し「これは眼識ではなく、耳識・鼻識・身識でもなく、意識・意根でもない、きっと第八識だ」と言っても、最終結果は依然として「間違い!」である。意識を動かそうものなら、どうあろうと一文字「間違い!」である。三度の「間違い」の後、それでも悟らなければ、禅師はあなたを禅堂から追い出し、あるいは禅院・禅寺から追い出し、もう相手にしない。なぜなら、あなたはまだ道器(仏道を容れる器)ではなく、禅を参究する資格がないからである。もちろん、資格を備えた禅師はむやみに棒で打つことはせず、必ず参究者の心理状態を見極め、最も適切な機会に棒を与える。これを「当機一棒(機に応じて一撃を加える)」と言い、一切の塵境(対象世界)と情懐(感情)を投げ捨て、現量(直接知覚)で塵境でも情懐でもないそれ(如来蔵)を識得するのである。

過去の祖師大徳は常に「偷心(とうしん:盗む心)死なざれば道を悟れず、賊心(ぞくしん:盗賊のような心)死なざれば道を悟れず」と言った。偷心と賊心はどちらも何を指す心か? どちらも意識心を指す。何を盗んでは悟れないのか? 答えを盗んでは悟れない。禅を参究する時、いかにして偷心を取り除くか? 未到地定(まだ禅定に至らない定)を修め、定中で意根に深く参究させ、意識の解(理解)を排除する。禅を参究する時の偷心とは、つまり抜け目ない心、近道をしようとする心であり、他から得た知識理論を直接持ってきて実証・親証として当てはめようとする心である。意根自身が親証したものではないため、意識が抜け目なく持ってくることを「盗む」と言うのである。過去、真実の証量(悟りの境地)を持つ祖師方の説法を形容する時、よく「これらの法はみな自らの心の奥底から陶(す)き出されたものである」という言葉が用いられた。これは、祖師方の説く法はすべて自ら実証したものであり、自らの智慧の結晶であって、意識が他から持ってきた既成の理論知識や、学んだ理論を整理・帰納・加工して、見た目を変えて自らのものにしたものではない、という意味である。こうしたものは悟道とは見なされず、悟道の妨げにもなる。

自心現量(自心による直接知覚)とは何か? 自らの胸襟(心の奥底)からすくい出したものこそ自心現量と呼ばれ、胸襟・心の奥底とは深く潜む意根の主人(如来蔵)を指す。これと反対なのは、意識が苦労せずに解き出したものであり、戒定慧や三十七道品を修めずに解き出したものであり、学んだ理論知識や他人の見解と比べて参考に推測したものであり、これはほとんどただ取り寄せたようなものである。意識のこうしたやり方はほとんど盗みに近く、偷心が死ななければ、意根は思量参究できず、道を証することはできない。意識が大量の法を学んでも、その実質はみな「盗み」に属する。なぜなら、胸襟から出たものではなく、自家のものではなく、すべて他処の法であり、耳から入り口から出る法や、その場で学びその場で売る法であり、自家の宝蔵ではないからである。

二、教外別伝の正法眼蔵涅槃妙心

世尊が霊山会(りょうぜんえ)で、天人から捧げられた一枝の花を手に取り、大衆弟子に向かってほほえまれた。人天の大衆は皆ぼんやりしていたが、ただ大迦葉(だいかしょう)だけが笑みをもって世尊に応えた。世尊は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼をもって大迦葉が禅宗の心を頓悟したのを見て、遂に言われた。「我に正法眼蔵涅槃妙心あり、実相無相、摩訶迦葉に付与す」。これによって大迦葉の頓悟が印証され、大迦葉は娑婆世界の初代禅宗の祖師となった。

涅槃妙心とは、それぞれの衆生自身の真実心の自性であり、常に涅槃に在って微妙に現法(げんぽう:現れとしての法)を顕し、最も真実の法相である。しかし、この法相にはいかなる世間相もなく、色・声・香・味・触・法の相がない。衆生の七識は無明の覆いによってこの涅槃妙心を認識できない。この公案においては、世尊の涅槃妙心が常に顕現しているだけでなく、大迦葉の涅槃妙心も常に顕現しており、さらに無数の人天大衆の涅槃妙心も常に顕現している。なんと衆生はただ認識しないだけなのだ! 心が無明に覆われ、霊性の智慧が開かれず、慧眼が現前しない。どうしようもない。

ただ大迦葉はさすがに仏陀の第一大弟子であり、黙って仏の心を察し、仏陀が手に花を持って大衆に示された時、慧眼で仏陀の妙なる精妙な心を見破り、そこで微笑んだ。自らが玄機(深い機微)を見破った微妙な智慧も仏陀に見透かされ、師弟の間に心の交流が生まれ、以心伝心、文字言語を用いずに伝わった。禅宗の妙法は衆目睽睽(しゅうもくきき:大勢が見守る中)のもとで伝授を終え、後に世尊の言われた「我に涅槃妙心あり、実相無相、摩訶迦葉に伝う……」という言葉が付け加えられた。

禅宗の法はなぜ教外別伝(経典の教えの外で別に伝える)できるのか? 伝える妙心妙法は以心伝心で理解でき、言語・文字に拘束されないからである。もし文字言語にのみ局限されるなら、それは妙ではなくなる。妙心の妙たる所以は、一切の法の中で行じられ、いかなる法も選ばず、妙心妙法は言語・文字に関係なく、どんな法の上でも行じられ、至る所に存在することである。どこに存在しないというのか? 清浄なものも汚れたものも、音のあるものもないものも、文字のあるものもないものも、一切の法の上に活き活きと存在している。

世尊は四十九年間言語・文字を用いて三蔵十二部の経典を説かれ、至る所で涅槃妙心を顕現された。これは教門・理門(教えと理の門)である。しかし、やや回りくどい。今回は世尊が大衆に最も直接的で、最もあっさりした、最も痛快な、直指人心(じきしにんしん:直接人心を指し示す)のものを示現された。一言も言わず、ただ大衆の前で一枝の花を揺らしたのである。ああ! 大衆はただ焦るばかり! 「これは何をしているのか? 世尊の葫蘆(ひょうたん)にはどんな薬が入っているのか?」と思い悩む。大迦葉は考えず、一瞬で頓悟した。これは意根の頓悟である。意識は漸悟である。なぜなら意識は考えなければならないからだ! 凡そ考えるものは真実ではない。祖師が見れば一撃のもとに打ち殺すであろう。情思意解(感情と思いで理解)の漢(おとこ)に、何の将来があるというのか?

教外別伝の法は、痛快であり、素早く、考えさせる暇を与えない。考えている間に雁はもう飛び去ってしまい、キュウリの料理もとっくに冷めてしまう。この時、誰がなおも搔首弄姿(かいしゅろうし:頭をかき姿を弄ぶ)・抓耳挠腮(そうじそうさい:耳をかき頬をかく)などしているだろうか? 直接一撃である。ここは何の場所だ、あれこれ思案を巡らせることを許すとは? 道器でなければ、打ち殺されても文句は言えない。

正法眼蔵とはどういう意味か? ただこの眼のみが最も正しく、その他の眼はすべて正しくない。生滅し、無明煩悩に覆われ、自ら独立できず、何かに頼らなければならないものは、確かに正しくない。蔵とは含蔵(蔵する)の意味であり、涅槃妙心は一切の法の種子を含蔵し、一切の法を生じさせ、万法をその中に蘊(ふく)んでいる。これは非常に妙であり、無から有を生じ、世間を幻化し、大衆に依り所を与え、進んで万法を執取させるのである。

三、尋(じん)と伺(し)の定中でこそ禅を参究する

問:浅い定(じょう)の下で、意識と意根を非常に鋭敏な伺の状態に置く。この状態では、自らの身体をかすかに見ているように感じ、周囲数十メートルで起こる微細なことを鋭敏に覚知できる。識心が伺の状態にあるとは:意識と意根がともに集中し、受動的に周囲で起こることを感知するが、識心は起こっていることに対して故意に注意を向けたり了別(区別認識)したりせず、ただそのことが起こっていることを知っているだけである。冷眼傍観(れいがんぼうかん:冷ややかに傍観)して心念を動かさないような状態に似ている。この状態は如法(正しい方法)か?

答:伺の状態はもちろん禅定に属し、しかも定の程度は比較的深く専一である。心に尋(粗い探求)がない時は粗く散漫である。尋の状態も禅定であるが、定は比較的浅い。なぜなら心が散漫で、動きが多く、定が浅いからである。伺の状態では、心は動かないが知覚があり、長時間にわたって知覚されるものに対して智慧的な認知が生まれ、知覚される法を見破り、法が空であると知れば、心も空に達し、捨(しゃ:執着を離れた平等の心)の状態に到達できる。

尋も伺も目標があり、しかも目標が専一でなければ禅定は現れない。ある禅定には慧(え:智慧)がなく、ある禅定には慧がある。禅定に所縁(対象)があって初めて慧があり、空で所縁がなければ観察慧はなく、純粋な空定である。尋も伺も清浄明瞭な定であり、ともに正定に属する。しかし尋の段階では定が浅く動きが多く、静かでない。伺の状態は参禅の後期の状態であり、最も智慧が生じやすい。この時は意根を主とする思量の段階であり、意識は動かず、あるいは動いても少なく軽微である。

問:非常に静かな環境でこの伺の状態を保つと、周囲の時空が凝固したように感じられ、身体もあたかも有るか無いかのようになり、識心は身体の外に遊離して静かに一切を感知しているように感じられる。この状態から出た後、自らの思考力と感知力が普段よりかなり強くなっていることに気づく。これは識心が集中を保った後の効果かもしれない? この伺の状態にあり、時間が徐々に長くなると、意識・意根の集中力がますます大きくなり、覚知力もますます鋭敏になり、さらに呼吸と心拍がますます緩慢で、ますます細長くなり、いつか呼吸と心拍が止まって人が死んでしまうのではないかと心配になる。

答:伺の状態では、意識はただ一つの「知る」を保ち、余分な心念がなく、意根が妨げられなければ、深く微細に専一に思量し、慧が生じやすい。意根の慧が生じれば、所縁境を見破り、所縁境を空と見ることができ、道を証しやすい。もし伺の状態に達していなければ、意識の思考が活発になり、意根の思惟は妨げられ、真の智慧は生じない。意識が思考・推理・分析・判断した結果は、意根のところに落ちず、意根は受け入れない。そうなると、この人の意識がどんな見解を持っていても、最終的には見解は見解、心行(心の働き)は心行のままで、互いに交渉せず、修行は依然として道にかなわない。

多くの人が自分は証果した、明心したなどと言うが、身心世界には微塵も変化がなく、反対に煩悩はますます重くなり、慢心はかえって盛んになる。それは意識が分析思考して一つの理を導き出したが、意根が認めず、思うこと考えること行うことは相変わらずで、昔と同じ人同じ行履(行い)であり、名は聖人の名でも心は凡夫の心であり、その後次々と退転・退道するのは、とても哀れである。

四、いかにして心意識を離れて禅を参究するか

禅定がないか、あるいは禅定が不足している観行(観察修行)や参禅では、意識を離れることは到底できず、ましてや意識の分析・推理・想像・推測を離れることはできない。これは過去の禅宗の祖師方が最も忌み嫌い反対した参禅の方法であり、祖師方が常に反感と嫌悪を抱いた情思意解(感情と思いで理解)である。したがって、心意識を離れて禅を参究し、参禅の結果をより究竟(くっきょう:究極的)でより現量的(直接知覚的)にするためには、努力して禅定を修め、未到地定を具足させてから、さらに仏法を参究観行しなければならない。こうすれば意根が多く力を発揮し、実証が保証され、意識の解(理解)ではなくなる。

観行や参禅において、意識を多く使えば使うほど、その効果はますます割引され、ますます思わしくなく、ますます役に立たなくなる。意根を多く使えば使うほど、その作用は大きく、爆発力は大きく、持続力は大きく、遠くまで行き、悟りは深く、三昧力は大きく、智慧は鋭く、煩悩は軽く、心は解脱する。

五、二禅以上の禅定でいかに思量参究するか

諸仏はみな四禅定の中で成道する。一般の人は二禅ではもう参禅できなくなる。なぜなら、この時は意識が非常に微弱で、意根を補助して思惟考量することができず、ただ意根自身の単独の思量作用に頼るしかないからである。では、諸仏が四禅定の中で悟道し、しかも極めて深い大悟・徹悟・究竟悟、徹法底源(法の底源を徹する)の悟りを得るとは、意識の補助なしに、意根はどのような智慧を持つべきなのか? 二禅以上では法義を参究できないというのは、一般の人に対する言葉である。実際には二禅およびそれ以上の禅定でも思考参究でき、入道できる。

では、いかにして二禅以上の定中で思量参究するか? 入定前に、意根に極めて深い疑情(ぎじょう:疑いの念)を持たせ、心の念々がすべて疑情であり、他の思想念頭がなく、他の法はすべて遮断する。こうすれば一心一意に一法に縁(よ)り、深く疑い、深く参究し、法義をはっきりさせようと一途に思う。こうなると、座禅に座って足を組み始めたばかりで、意識は明らかな心念を滅し、心は清浄になって意根の思量を妨げず、五識はやることがなくなるため滅し、二禅定が現れる。そこで意根は一心に参究する。因縁が現起すると、意根に雑念が生じ、意識に念頭を生じさせ、五識が現れて二禅定から出る。

意根が二禅から四禅定の中で思量参究するには、五遍行心所法(触・作意・受・想・思)が具足するだけでなく、五別境心所法(欲・勝解・念・定・慧)も具足しなければならない。その勝解力(確信力)と慧力は普通ではなく、非常に強大でなければ悟道できず、法義を参究通達し、三昧力を生じ、三昧の中に住することができる。定慧・勝解力・念力が少しでも不足すれば悟道できない。意根の五別境心所法が強大な人は、普通の人ではなく、聖人でなければできない。普通の凡夫や賢人は精進修持し、努力して意根の五別境心所法を増強し、道力をより強大にし、修道を迅速にすべきである。

六、未到地定と初禅定でこそ話頭(わとう:公案の核心)を参究できる

問:見道(悟り)には未到地定・初禅・二禅・三禅・四禅が必要だとすれば、禅宗の話頭を参究して開悟見道するのは、仏理に合致するか?

答:話頭を参究するには未到地定と初禅定がなければ参究できず、ただ心の中で話頭を念々(ねんねん:繰り返し唱える)するだけで、実は話尾(わび:公案の末尾)を念じているに過ぎない。話頭は見つからず、どうして開悟見道が語れようか? 未到地定と初禅定の中でこそ禅を参究し、悟道できる。二禅以上では五識が滅し、意識が微弱で参禅できず、話頭が意根に極めて深く染み込んでいれば、単独で参究できるかもしれない。過去の禅宗の祖師が悟道したのは、みな初禅以前の定の中であり、彼らは座禅で静定を修めると同時に、日常活動の中でも禅を参究し、二つの定が相乗効果を発揮して悟道が早かった。どちらか一方だけでは悟道は難しい。

七、事修(じしゅ:現象面の修行)と理修(りしゅ:理体面の修行)の関係

一切の法は事(現象)と理(理体)の二部分に分かれる。事とは相(現象)であり、理とは如来蔵の理体である。事を論じる時は、相の上から相の実有性を破らなければならず、この時は理――如来蔵の角度から論じてはならない。そうすると、ある者は相が真実であると思い、執着が生じ、心が束縛され解脱できなくなる。

小乗の法はすべて相の上から有を破る。大乗の法は理と事の両面から修行し、理の上から相を破る。理を認めれば事は容易いが、しかし相を廃することはなく、理に執着して事を廃することはない。事理が円融(えんゆう:調和融合)することを求め、どちらか一方に偏ってはならず、そうでなければ仏法は成就しない。究竟まで事理が円融する程度に修めれば、それが仏である。事理が円融しても究竟でないのは、地上の菩薩と等覚・妙覚の二覚(菩薩の最高位)である。明心後の菩薩はほんの少し円融できるかもしれないが、もし観察力が備わっていなければ、まったく円融できない。

もし証果も明心もしていない人に、「五陰十八界の法、世間の一切の法はみな不生不滅である」と告げれば、彼は五陰十八界が真実であると思い、これらの法に執着することに何の間違いも悪いこともないと考え、自らの貪愛と執着を滅除しようとしなくなる。そうなると、衆生の生死の問題は解決できなくなる。一切の法はことごとく真如である、これは地上の菩薩および仏の現量観行の結果である。凡夫は一歩一歩、基礎である五陰十八界の生滅相の上から修行しなければならず、直接五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできず、この理を現量で観察できる者はいない。

四禅八定は事修であり、相を修めることである。相には必ず生滅があり、不生滅の相はない。第八識の空相を除いては、空相は無相であるため不生滅である。四禅八定の中の六識は相の上から見れば生滅変異であり、第七識も相の上から見れば生滅変異である。生滅変異の法を論じ、相を修める時には、生滅変異の相がなければならない。もしこの時、七つの識と四禅八定はすべて不生滅であると言えば、それは不倫不類である。すべてが不生不滅で固定不変なら、我々には修行すべきことが何もなく、すでに完璧である。事実はそうではないので、修学には次第があり、事理が円融していなければならない。

八、我見を断たずに直接禅を参究できるか?

問:必ず先に我見を断ってから禅を参究し真実心を証悟しなければならないか? ある人は我見を断つことについてほとんど認識がなく、直接禅を参究したいと思っている。もし参究に成功して真実心を証悟すれば、自然に世間のすべてが無常であると見えるようになるのではないか? 一つの真実を知れば、他のものは自然にすべて仮のものになるからである。

答:もし我見を断つことについてほとんど認識がなく、依然として仮の我を真実と認めているなら、どうしてその真実の真実を取って明心証悟できようか? 極めて少数の人は前世の基礎が非常に良く、空と無我について一定の認知と体悟があるため、直接禅を参究でき、参禅の過程で先に我見を断ち、その後明心できる。しかし大多数の人は基礎が薄弱で、内心の我執が重く、参禅時の障りも重いため、真に明心開悟することはできない。大多数の人はおそらく先に我見を断たなければならず、その後でなければ参禅できない。我見を断たずに直接参禅すれば、最良の結果は解悟(理解による悟り)であり、見た目は良く香りも良いが、実用価値はあまりなく、良くない結果は無駄骨で時間の浪費である。

解悟の時は、二つの我が平行して存在し、衝突せず、かえって我見と煩悩が増す。解悟の解は推理に相当し、実証ではないため、我見は断たれず、真実心がもう一つの我であると感じる。こうなると修行の妨げは非常に大きい。したがって、我見が比較的重い人は、まず我見を断つことに重点を置き、我見を断って障りがなくなってから、初めて真実心を証得しやすい。

大多数の人は解悟ではなく、解悟も容易ではない。もし真に解悟すれば、禅定を修めることを加え、禅定中で意根に再び禅を参究させたり、あるいは自らの理解を検証したりすれば、因縁の時節が来て、証悟に変わることもある。前提条件は戒定慧をすべて修め円満にすることであり、三十七道品と菩薩の六度を含む。真に解悟すれば、大筋はすでに明確であり、修行は早くなる。ただ、真に解悟できる人がほとんどいないことを恐れる。みなただ解するだけで悟らないのである。

理論知見を立てることは、実際に努力することに比べてはるかに容易である。もし知見が他から学んだものであれば、両者の難易度は一対十以上である。もし知見が自ら修行しながら模索して得たものであれば、両者の難易度は一対十以下である。修行時は主に自らの定慧に頼って修め、模索する時こそ実際に努力する時である。模索して方法が見つかれば、功夫(修行の成果)も熟達し、見道は早くなる。

九、五陰死なざれば法身活かず

禅宗の祖師は言う:「五陰を打ち殺してこそ、汝に法身を活かすことを許す」。これはどういう意味か? 死ななければ活きないとはどういう意味か? それぞれの人の法身は時々刻々運行し、五陰身の活動を維持し、十八界を執持している。しかし衆生は法身を識らず、あっても無いのと同じであり、こうして法身は死んだようである。衆生はなぜ法身を識らないのか? 心が五陰身の黒雲に覆われ、目前の五陰身だけを見て、五陰身の背後にある法身を見ないからである。法身を見、法身を活かすためには、般若智慧で五陰の黒雲を払いのけなければならない。そうすれば背後にある法身が活き活きと顕現する。これも修行の次第である。

十、禅定中で疑情を呪文と置き換えて参究できる

問:普段、楞厳呪(りょうごんじゅ)を黙念し、深く心に刻む習慣ができた後、もし心の奥深くで法に対して疑情が生じれば、疑情で呪文を置き換えれば、行住坐臥(ぎょうじゅうざが:歩く・止まる・坐る・臥す)すべて参究の中にいることができるのではないか?

答:楞厳呪を黙念する功夫が深くなると、禅定が得られ、意根は意識に従って一心専念に呪を念じる。禅定が深く修まると、意根は法に専一となり、智慧が生じて疑情が起きやすい。そこで心の中の楞厳呪を念じる念を、参禅の話頭、あるいは疑情に換え、定中で専注して参究し、ほんの少しも気を散らしてはならない。そうして初めて効果的に疑情を解決し、智慧を生じさせることができる。智慧を生じさせること以上に重要なことは何もない。呪を念じることもこの最終目標のためであり、呪を念じることは入道の最初の方法に過ぎず、呪を念じることを修行の目標とすべきではなく、道具として使用すべきである。

十一、好雨滴滴(こううてきてき)別処に落ちず

窓の外で大雨が降り注ぐ。この雨は心の中の雨か、心の外の雨か? 雨滴はどこに落ちたのか? 大雨の滴が心霊を打つとは、如来蔵という心霊を打ったのか、それとも七識のどれかの心霊を打ったのか? 心霊の窓を打ち壊せるか? もちろん、色・声・香・味・触・法は如来蔵に触れることはできず、如来蔵は塵境(対象世界)を受けず、塵境を受けるのは七識心であり、七識心が雨水の打つことを感知できる。大暴雨の時、心は驚かされるかもしれない。

この雨はどうやって来たのか? 人の意志で変えられるか? もしできると言うなら、なぜあれほど多くの人が水害を受けるのか? もしできないと言うなら、なぜある人は一滴の雨も浴びず、しかも風を呼び雨を降らせ、陰雨を止めて晴天にすることができるのか? 誰が雨の相を見て即座に雨の相を離れ、雨の相に執着しないか? 誰が雨の相を見て即座に心の相とし、念念(ねんねん:刹那ごと)に相に住しないか? 雨が心の中にあるなら、なぜあなたの心はそんなに大雨を降らせるのか? もし雨が心の外にあるなら、心とは無関係であり、心はどうやって雨を感知できるのか?

七識が了別するのは虚偽の幻影であるが、この幻影はあまりにもリアルに思え、色・声・香・味・触のすべてが立体的で活き活きとしている。どうして人に真実だと思わせないことがあろうか? しかし、身心を解脱させるには、どうすればよいか?

十二、開悟に対する種々の誤解

多くの人が修定の境界を開悟と見なす。またある人は、開悟とはすべての識心を滅し、意根さえも滅して作用させないことだと考え、こうして初めて真の開悟の境界であるとする。これにどんな過失があるか考えてみよう。このような開悟は、誰が開悟したのか? 何を悟ったのか? この境界には人もなく、五陰七識もなく、ただ如来蔵だけが残る。明らかに阿羅漢の無余涅槃の境界であり、開悟とは関係ない。しかも凡夫が修定によって倶解脱大阿羅漢を証得し、直接意根を滅して直ちに無余涅槃に入ることは不可能である。凡夫は五識を滅するのも極めて困難であり、意識を滅するのはさらに難しく、ましてや意根を滅するなどなおさらである。

ある人はいつも根塵脱落(こんじんだつらく:感覚器官と対象の分離)が開悟の境界だと執着する。しかし根塵脱落の時は根もなく塵もなく、根塵が一緒にならない。それではもちろん六識心もない。もしこれが開悟なら、何を悟るというのか? 虚空を粉砕し、大地を平らに沈める境界を開悟と見なすとは、いったい何を悟るというのか? この境界が如来蔵とどんな関係にあるのかも分からなければ、これが開悟の境界であると証明することはできない。一部の人が仏法を誤解する原因を究めると、根本的な問題は虚妄法と真実法がはっきり分かっておらず、理解しておらず、福徳智慧がまだ不足し、さらに煩悩業障が深刻に遮止(妨げ)し、福徳と智慧の増長を障害しているため、真妄の法を真に理解し貫通できないのである。

真実心と妄心はそれぞれ異なる体性がある。例えば、覚には真実心の覚と妄心の覚がある。平等には真実心の平等と妄心の平等がある。清浄には真実心の清浄と妄心の清浄がある。離相には真実心の離相と妄心の離相がある。有為には真実心の有為と妄心の有為がある。無為には真実心の無為と妄心の無為がある。などなど多い。要するに、皆が法を学ぶのは、真と妄を区別することが非常に難しく、しばしば混同し、往々にして誤解が多い。これは菩薩の六度の条件がまだ具足しておらず、具足して初めて真妄両者の体性を弁別する智慧が生まれ、悟道の境界を誤解しなくなるからである。

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