衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 4181
<h2 style="text-indent: 2em;">第一章 極楽世界篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、阿弥陀経における往生の条件</h3>

原文:もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説き聞かせられ、名号を執持し、一日あるいは二日、三日、四日、五日、六日、七日に一心不乱ならん。その人、命終わらんとする時、阿弥陀仏と諸の聖衆、その前に現在せん。この人終わるとき、心顛倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。舎利弗よ、われこの利を見るがゆえにこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞く者は、まさに願いを発してかの国土に生まるべし。

釈:もし善男子・善女人が極楽世界に阿弥陀仏がおられると聞き、往生を願って阿弥陀仏の名号を唱え、あるいは一日で一心不乱の境地に達し、あるいはそれぞれ二日、三日、四日、五日、六日、七日と唱えて一心不乱の境地に達したならば、この人が臨終の時、阿弥陀仏と諸聖衆がその者の前に現れるであろう。この人が命を終える時、心が乱れず、娑婆世界の一切の人・物事に執着しなければ、阿弥陀仏の極楽国土に往生できる。舎利弗よ、私はこのような殊勝な利益を見たからこそ、この言葉を説くのである。もし衆生がこのような説を聞くならば、まさに願いを発して阿弥陀仏の極楽国土に往生すべきである。

仏はここで往生の条件を明確に説かれている。一心不乱に修め、念仏三昧が現れ、かつ命終の時に心が乱れず、娑婆世界を執着してはならない。もし娑婆世界を執着すれば、たとえ阿弥陀仏と諸聖衆が面前に来られても、お帰りになり、接引することはできない。この意味は、念仏を唱えてたとえ予知時至(往生の時を知る)に至っても、往生が保証されるわけではないということである。なぜなら臨終時の禅定は変数であり、固定不変ではなく、心念と業力もまた変数だからである。定力が一度消え、心が散乱し、雑念が現れれば、何も語ることはできない。そして定力に影響を与える要因は多く、臨終時に何らかの因縁が現れ、心が散乱すれば、往生は不可能となる。

一心不乱は達成可能であるが、臨終時に心が乱れないこと、これが肝要であり、これは非常に容易ではない。臨終時に、もし業障が現前し、怨親債主(怨みを持つ親族や借財の主)が訪れれば、心が乱れない者はおそらくほとんどいないであろう。わずかでも貪りの一念が起これば往生できない。信とはどう信じるか、どの程度まで達するか、願いにはどのような心願を持つべきか、行いにはどのような行動があるべきか、何をなすべきか。信願行の内容は豊富である。もし往生を望むならば、まず坐禅三昧経の冒頭で仏が説かれた各種の心を治める内容に触れ、心を調えて乱れないようにしてこそ、往生の望みがある。

高齢者や病を患う者は、行門(実践面)に多く力を注ぎ、不必要な法を解く(理解する)時間を減らすべきである。なぜなら臨終時はこの世の行いが後世の趣向(行き先)を決定し、解いた法は決定作用を持たないからである。浄土を求める最も重要なのは願力と願行であり、心願・心念力が重要である。願力を堅固にするには、世間の苦を深く認識しなければならない。もし世間の苦を知らなければ、心は貪愛によって懈怠(怠り)を生じる。多くの学仏者は、学ぶ期間に関わらず、心は悠々として緊迫感がなく、毎日あちこち見て回り、何にでも興味を持ち、乱雑に知識を吸収し、修行に対する正しい認識と計画がなく、後世に対しても無知で畏れない。このような者は往々にして初心の学仏者であり、初生の牛は虎を恐れず、初心の学仏者は苦も死も恐れない。

念仏法門を修学しようとする者は、まず浄土初祖である慧遠大師の修行事跡を見て、大師がどのように修行され、なぜ三度も三昧中に聖像を見ることができたのかを知るべきである。我々はどのように努力修行すれば、命終時に浄土往生を保証できるのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、往生後、蓮華台において何の法を薫習するか?</h3>

阿弥陀経原文:かの国には常に種々奇妙なる雑色の鳥あり。白鶴・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命の鳥。これら諸の鳥は、昼夜六時に、和雅の音を出だす。その音は演暢して、五根・五力・七菩提分・八聖道分、かくの如き等の法なり。その土の衆生はこの音を聞きて、皆な悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず。

釈:これは極楽世界国土における衆生の修行の境況を紹介している。極楽世界には常に種々の奇妙で色彩豊かな鳥類がおり、白鶴、孔雀、鸚鵡、舎利、迦陵頻伽、共命の鳥がいる。これらの鳥は昼夜六時に和雅な音声を発し、その内容は三十七道品である。和雅音は極楽世界で蓮華台に住む衆生に向けて歌われ、衆生はそれを聞いた後、三宝の恩徳と功徳を念じる。

したがって、衆生が極楽世界に往生しても、なお四聖諦法および助道の法を修め、まず五蘊無我を薫習し、我見を断つ基礎を築き、明心見性・花開見仏の基礎を築かなければならない。我々が娑婆世界で仏法を学び修行する際、阿含経を学ばず、四聖諦を理解せず、三十七道品を修めなければ、果たして可能であろうか? 法を多く修め、理を多く明らかにすれば、往生の保障が少しずつ増し、極楽世界に往生してからの修行がより迅速になる。極楽世界に往生した衆生は、以前の願力、発心、修めた法によって大小乗に分かれるが、大乗であれ小乗であれ、蓮華台において四聖諦と三十七道品を薫習し、煩悩を降伏して初めて蓮華台の外に出て、仏や菩薩に会い法を聞き、証果の機会、明心見性の機会を得ることができるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、臨終時にいかにして心乱れず極楽世界に往生できるか?</h3>

仏説阿弥陀経原文:もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説き聞かせられ、名号を執持し、一日あるいは二日、三日、四日、五日、六日、七日に一心不乱ならん。その人、命終わらんとする時、阿弥陀仏と諸の聖衆、その前に現在せん。この人終わるとき、心顛倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。

釈:もし善男子・善女人が、西方極楽世界に阿弥陀仏がおられ、往生を接引してくださると聞き、ただ阿弥陀仏の名号を唱えることができ、かつ一日、あるいは二日、三日、四日、五日、六日、七日と連続してそのような時間内に絶え間なく念仏し、かつ一心不乱であれば、この人が臨終の時、阿弥陀仏と極楽世界の諸大菩薩および阿羅漢などの聖人大衆が、この人の前に現れるであろう。この人がまさに命を終えようとする時、心が乱れなければ、ただちに阿弥陀仏と諸聖衆に随って極楽世界に往生するであろう。

前の文:(念仏七日)一心不乱、その人臨終の時、阿弥陀仏と諸聖衆、その前に現在せん。後の文:この人終わるとき、心顛倒せず、すなわち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得ん。この二文の意味には差異がある。前の文はただ臨終時に仏と諸聖衆が念仏者の前に出現することを示すが、この念仏者が必ず往生できることを表すわけではない。なぜなら後の文にはさらに往生の条件として心不顛倒があるからである。後の文は前の文を補足し、臨終時に心が乱れなければ往生できることを示している。前の文は阿弥陀仏と諸聖衆が念仏者の面前に来て接引の準備をするが、まだ連れ去ってはいないことを示し、後の文はこの者が心乱れない時に初めて連れ去られることを示す。もし心が乱れれば、連れ去られることはない。

阿弥陀仏と諸聖衆がこの人の前に現れても、もしこの人が臨終の時に心が乱れ散乱すれば、結果として往生できない。普段の念仏がたとえ一心不乱の境地に達しても、臨終往生は保証されない。もし業障が現前し、心が乱れ乱れれば、阿弥陀仏と極楽世界に相応しなくなり、極楽世界に行くことはできない。したがって極楽世界に往生することは、行きたいと思えば行けるものではなく、膨大な福徳が必要なだけでなく、業障を消除し、清浄な大願を持ち、願力を業力より大きくし、深心と至誠心を持たなければならない。

一心不乱は、心不顛倒と等しくない。予知時至(往生の時を知る)であっても往生できるとは限らない。阿弥陀仏が接引に来られても、必ずしも連れ去れるとは限らない。往生の根本は、往生を準備する者が臨終時に心が乱れているかどうかにある。臨終最後の一念が非常に重要である。この一念の前は一心不乱で心乱れなくても、最後の一念が保持できなければ、どうしようもない。この最後の一念が後世の趣向を決定するのである。兵を千日練るも用は一時にあり、生死の試練は最後の一念にある。もし以前に念仏で一心不乱の境地に至っていなければ、最後の一念はほとんど乱れ、自ら制御できず、業力が主導する。もしこの時、願力が業力より大きければ、状況は異なり、願力に牽引されて後世に趣く。

一心不乱は定を主とし、少量の慧がある。心不顛倒は慧を主とし、少量の定がある。定慧が具足し欠けることがなければ、往生できる。心不顛倒の智慧を持つには、どう修めるべきか? 浄土を修める者が往生しにくいのは、単に功夫(修行の力量)が修めにくいだけでなく、主に智慧が不足しているからである。何の智慧が不足しているのか? 世間の苦に対する智慧が不足しているため、普段から業障が消除されず、臨終時に心が乱れるのである。もし普段から苦聖諦を修習し、娑婆の苦を知り、五蘊世間を貪らず、真心から往生を願い、万縁を放下し、一心不乱を得て初めて、往生の望みがある。

一心不乱の後も、心はなお乱れることがある。乱れるとはどのような心念か? 乱れないとはどのような心念か? 阿弥陀仏が面前に現れて接引しようとする時、あるいは臨終の時には、一心に阿弥陀仏を念じ、一心に極楽世界を念じ、仏の功徳と相好を念じなければならない。そうして初めて阿弥陀仏と極楽世界に相応し、これが乱れない状態である。

もしこの時に突然、家の親族眷属を思い、五欲六塵を思い、娑婆世界の良さを思い、心にわずかでも未練や未練があれば、阿弥陀仏と一心ではなくなり、少し三心二意(心が揺れ動く)となり、これが乱れる状態である。ある者は臨終の時に思う:私は菩薩である。菩薩は常に衆生を度すべきである。私は今、極楽世界に行こうとしている。これはまさに衆生を度す好機である。私は大衆に私の往生の殊勝な様子をよく見せ、彼らの往生の信心を増すべきだ。このように思う時、心はすでに乱れており、一心不乱ではなく、心が乱れ、往生できなくなる。

往生を願うならば、普段の功夫(修行)を十分に行い、理を明らかにし、五蘊世間が苦・空・無常・無我である理を明らかにしなければならない。理を明らかにした後、業障を消除し、自らの苦を知り、衆生の苦も知る。自らの苦を解脱したいと願い、同時に衆生の苦も解脱したいと願う。そうして初めて真誠心・至誠心が生じ、菩薩の清浄大願を発起でき、阿弥陀仏と諸聖衆に相応し、極楽世界に相応し、臨終に乱れず、極楽世界に往生できるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、下品下生往生の条件</h3>

観無量寿経原文:下品下生の者は、あるいは衆生ありて不善の業を作し、五逆十悪、諸の不善を具す。この如き愚人は悪業の故に、悪道に堕つべきが、多くの劫を経て、苦を受くること窮まりなし。この如き愚人、命終わらんとする時、善知識に遇い、種々に慰められ、妙法を説き、念仏を教え令す。彼の人は苦に逼られて、念仏に遑(いとま)あらず。善友告げて言く、汝もしかの仏を念ずること能わざれば、応に無量寿仏を称うべしと。かくの如く至心にて、声を絶えしめず、十念を具足して、南無阿弥陀仏と称う。仏の名を称うるが故に、念々の中に八十億劫の生死の罪を除く。命終の時、金蓮華を見る。日輪の如く、その人の前に住す。一念の頃の如く、すなわち極楽世界に往生することを得ん。蓮華の中に於て、十二大劫を満てば、蓮華方(まさ)に開く。観世音・大勢至、大悲の音声を以て、その為に諸法実相を広く説き、罪を滅する法を説く。聞きて已に歓喜し、応時にすなわち菩提の心を発す。

釈:下品下生の情況は次の通りである。ある衆生が不善の業行を作り、あるいは五逆十悪の罪業を作り、一切の不善業を具足している。このような愚痴な人はこれらの悪業の故に、三悪道に堕ちるべきであり、多くの劫の時間を経て、限りない苦しみを受ける。このような愚痴な人が臨終の時に善知識に出会い、彼に対して種々の教導と慰め励ましを与え、彼のために妙法を説き、念仏を教えるが、その愚痴な人はすでに苦痛に身体を苛まれ、念仏ができなくなっている。

善知識は彼に言う:もし阿弥陀仏を念じることができなければ、無量寿仏の仏名を称えなさい。そこでこの人は非常に誠心をもって仏名を称え、声を絶やさずに十遍の南無阿弥陀仏名号を十分に唱えた。彼が至心に仏名を称えた故に、一念一念の中に八十億劫の生死の罪を除滅した。命終の時に金色の蓮華が日輪のように大きく、彼の前に浮かんでいるのを見、この人は一念の間に極楽世界に往生した。蓮華の中にまるまる十二大劫住み、蓮華が開き、蓮華から出た後、観世音菩薩と大勢至菩薩が大悲の音声で彼に諸法の実相を広く説き、彼の罪業を除滅した。この人はこれを聞いて大いに喜び、ただちに菩提心を発した。

至心に念仏できる者は、皆真誠心をもって念仏する者であり、心の奥底から念仏するのであって、口で念じ心で念じない念仏ではない。ただ意識で信受し念仏するだけでなく、意根も信受し念仏してこそ、一念一念に八十億劫の生死の罪を消除できる。この罪が消えれば、障害がなくなり、極楽世界に往生する。なぜなら罪業は皆意根と相応するからである。ただ意根も念仏して初めて、一念一念に八十億劫の罪業を消除できる。もし単に意識で仏を信じ念仏し、至誠でなければ、業を消すことはできず、ましてや往生はできない。大悪業を作った者が、臨終にちょうど善知識の摂受に出会えることは非常に容易ではない。至心に念仏できる者は、娑婆世界ではなおさら見つけにくい。念仏を一生唱えても意根に薫習されなかった者は、どこにでもいる。したがって大悪業を作った者が、臨終に極楽世界に往生できることは稀有で得難いことである。

下品下生は、大悪業を造り、かつ仏を信ずる機縁がまだない者を摂受する。このような者は臨終時にまさに地獄に堕ちようとしており、あるいは地獄の悪相がすでに現れている。この時、この悪人は恐怖心を生じ、善知識が彼に極楽世界浄土念仏の法門を開示する。この人はなお若干の善根があり、内心の恐怖と無力感に加えて、ただちに非常に信受し、ただ十遍の念仏を唱え、その場で極楽世界に往生できた。ただこのような条件を備えた者のみが下品下生できるのである。以前にすでに仏を信じていた者が、再び悪業を造れば、往生できなくなる。なぜならすでに仏を信じ学んでいたため、念仏に対してすでに懈怠し誠心がなく、これほど大きな罪業を造ったため、臨終に悪相が現れても至誠心を発起できず、したがって往生できないからである。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、極楽世界往生を保証する条件</h3>

仏が衆生の極楽世界往生を保証するのは、ただ三条のみであり、いずれも観無量寿経の中にある。第一条、十六観の第三観で水観が修成されれば、命終必ず極楽世界に往生することを保証する。後の第四観から第十六観は、さらに命終極楽世界往生を保証し、第三条と合わせて一条と数える。第二条、我見を断った者は、命終必ず極楽世界に往生することを保証し、中品上生する。第三条、明心(心を明らかにした)の者は、命終必ず極楽世界に往生することを保証し、上品上生する。その他の修行方法でも極楽世界に往生できるが、保証されず、確定せず、往生する可能性もあれば、往生しない可能性もあり、最後の一息の情況による。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、極楽世界往生に必要な善根・福徳・因縁とは何を指すか?</h3>

善根の善とは、仏法において善心と清浄心をもって修めた善業、行った善行を指す。例えば深く心から三宝に帰依し、三宝を供養し、正しく仏教を信じ、精進して戒定慧を修持し、相当程度の福徳と仏法の理念を持ち、もはや世俗法を帰依所・重要視せず、大菩提心を発し、一切衆生を救度せんと誓願する。三宝の教導に背かず、仏の説かれた一切の経典を深く信じ、教導に随順し、修習を願楽し誹謗せず、仏に化導され、仏の深恩を感じ、身心の一切をもって仏法僧三宝に報いようと願うなどである。善根の根とは、根器の意味であり、すでに種となった意味であり、基礎が堅固で確実で揺るがない意味であり、善法が心に深く種付けられた意味であり、また善法善果を生長させられる意味である。この善根がなければ、極楽世界及び諸上善人と相応せず、相応しなければ極楽世界に共住できない。

以上は善根の定性的な記述であり、定量的な記述はできない。善根の深浅程度を判定する基準は具体的に表現できず、相当の経験と智慧を持つ者のみが理にかなって真実のままに判断できる。経験と智慧がなければ、たとえ基準を与えられても、それに基づいて真実に判断することはできない。これは世間法の判断とほぼ同じである。例えば大学教授と講師の等級評価は、基準に依拠するものがあるとしても、小学生や中学生はやはりそれに基づいて真実に判断できず、素人は玄人を判断できず、低レベルの者は高レベルの者を判断できない。

仏法修持の程度の判断はなおさらそうである。大多数の者は素人や低レベル段階にあり、どうしてある者が善知識かどうか、開悟し入地(菩薩の地に入る)しているかどうか、説く法が真に仏の説かれた意趣に合致するかどうかを判断できようか? たとえ基準答案と照らし合わせても、真実のままに判断できない。したがって、衆生を深く害する邪魔外道に対しては、仏菩薩護法神が密かに処理すればよく、衆生にその中にある事情を説明する必要はない。ある者は後で長く思考を重ね、徐々に理解するようになる。

福徳の面では、もちろん極楽世界の衆生の福徳に相当し、天人の福徳に相当し、極楽世界の福を享受する資格がある、すなわち自らすでに膨大な福徳資糧を集積し、命終して初めて往生し、最後に極楽世界でこれらの福徳を享受するのである。もしこれほど大きな福業を種付けていなければ、大福を享受できず、往生できない。この類の福は主に清浄福を指す。例えば持戒の福、禅定の福、念仏の福、智慧の福、恭敬信楽三宝の福などであり、これらの福は皆学仏の功徳と相応し、娑婆世界で享受できる栄華富貴の世俗の福ではない。

往生の因縁とは何を指すのか? 因縁はすなわち条件である。因は修められた善業の種子であり、例えば念仏の功徳一心不乱、心中で娑婆世界を捨てる縁心不顛倒、戒定慧を具足し、貪瞋痴を降伏し、一心に極楽世界を向往し、成仏度衆生を向往する。縁は善業の縁が熟し、善友が相助け、悪業が現前せず、怨親債主が遠く離れ、障害がなく、修めた福徳と功徳が、命終に諸仏菩薩聖衆が来て手を授けて迎えることを感得する。ただ善根・福徳・因縁がすべて具足した者のみが極楽世界に往生でき、一般の者は修持が不足すれば往生できない。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、極楽世界往生の真相</h3>

明心し上品上生する者、証果し中品上生する者は、極楽世界に至れば即ち仏に会い、十方世界に随意に行き、蓮華に包まれる必要もなく、ただちに十方諸仏に会い供養する。その他の品位の往生は、すべて蓮華宮殿に包まれる必要があり、徐々に煩悩を降伏し、悪業の種子を枯れさせなければならない。阿弥陀仏は最もこの煩悩を持ち機会があれば悪業を造作する衆生に対処し、彼らを一人で蓮華宮殿に住まわせ、少しも悪業を造る機会を与えず、もちろん善業を造ることも不可能にする。ただ以前の業種が徐々に枯れ萎縮し、自らも造業の考えがなくなり、心が清浄になり、善根が深くなって初めて、蓮華宮殿から出て、阿弥陀仏あるいは観世音菩薩・大勢至菩薩、あるいは仏菩薩の化身に面会し、直接法を聞き、明心開悟できるのである。

観無量寿経の中の下品往生する者が、どのような待遇であるかを見れば、智慧ある者は行くべきかどうかを考慮するであろう。たとえ地獄に堕ちて再び出て修行しても、極楽世界の十二大劫を一人で蓮華宮殿に住むより何倍も速い。地獄は非常に苦しいが、出てから再び修行すれば、成仏の速度は極楽世界よりはるかに速い。肝心なのは、各人が自ら何を追求するかである。

下品下生は極楽世界の蓮華の中に十二大劫住むが、これは娑婆世界の十二大劫ではない。コンピュータで計算してみると、いったいどれほど遠い劫の時間であるか。この長い時間は確かに非常に享受できるが、毎日餃子を食べても飽きるものであり、慣れれば餃子もそれほど香ばしくは感じられなくなる。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、凡夫が極楽世界に往生すると、なぜ蓮華台に包まれるのか?</h3>

明心開悟した者は、極楽世界に上品上生し、蓮華台に包まれる必要がない。証果した者は中品上生し、蓮華台に包まれる必要がない。しかし証果も明心開悟もしていない者が極楽世界に往生すると、必ず蓮華台に何劫も包まれる。これはなぜか?

この問題は次のように思惟すべきである:極楽世界と娑婆世界は何が異なるか? 極楽世界と娑婆世界の衆生は何が異なるか? そして再び思惟する:既然このような違いがあるならば、娑婆世界の衆生が皆極楽世界に至って四方に自由に活動すると、どのような結果が現れるか?

なぜなら凡夫は煩悩が重すぎるため、蓮華の蕾の中に包まれなければ、極楽世界は徐々に別の娑婆世界になってしまうからである。阿弥陀仏はなぜ極楽世界を建立したのか? なぜこのように極楽世界を設計したのか? なぜなお衆生を選ぶのか? なぜ大慈大悲で一切の人々や三悪道の衆生などを摂受しないのか? 衆生は常に他人が自分に対して大慈大悲であることを望むが、もし真に自らの望み通りになれば、結果はおそらく悪果であり、それはかえって全く慈悲ではない。衆生が好む慈悲は往々にして禍害を生みやすい。

証果も明心もしていない者は、極楽世界で四方に活動できず、十方世界に諸仏を供養することもできない。これはこれらの衆生の煩悩が極楽世界を乱すのを防ぐためである。ここから我々は知ることができる。証果や明心の者は極楽世界の修行道場を乱すことはない。なぜなら彼らの粗重な煩悩はすでに降伏されており、断除されていなくても、阿弥陀仏の加持摂受の下では、現行には出てこないからである。

では、娑婆世界で証果や明心した者は、必ず煩悩を降伏した者であり、必ず深刻な煩悩が現行していない者であり、必ず他人を滋擾(悩ませ乱す)しない者である。もし深刻な煩悩が現前している者、あるいは随意に他人他処を滋擾する者がいれば、必ず証果も明心もしておらず、自ら証果や明心を認めることは大きな誤解である。

したがって道場は三六九等に分けるべきであり、各種のレベルの者は混在すべきではない。そうでなければ道場は混乱し、煩悩が熾盛(盛ん)となり、一切の修行は成就できず、道場は煩悩の事件発生地となる。一つの道場に六和敬がなければ、必ず混乱する。見解が和合しない者は、集まるべきではない。修行レベルが異なる者は必ず集まるべきではなく、そうでなければ必ず大悪業を造る者が現れる。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、西方極楽世界は三界の中にあるか</h3>

この問題を明らかにするには、まずこの三つの問題を思考しなければならない:三界とは何か? 三界各々の界の特徴は何か? 三界の中には何があるか? 三界の外には何があるか? そして再び極楽世界には何の特徴があるかを思考し、三界の中の各々の界と照合し、比較を通じて初めて正しい結論が得られる。この思考順序は主題に緊密に結びついている。学校で作文の上手な学生は、作文を書く際に必ず主題に緊密に結びつき、特に試験の時は、もし脱線すれば、どれほどよく発揮しても合格せず、零点を取ることもある。

三界の特徴は何かと問えば、欲界の特徴、色界の特徴、無色界の特徴を考慮し、次に西方極楽世界の特徴は何かを思考し、三界の特徴と照合する。比較すれば西方極楽世界が三界の中にあるか外にあるかが分かる。これが問題の考え方であり、非常に簡単である。もちろんこれは比量(推論)による知であり、結果が正しい可能性があり、あるいは完全に正しい可能性さえあるが、現量(直接知覚)による観察による知ではなく、実証による知ではない。現量知は意識が禅定中の現前観察によるだけでなく、意根も意識に随同して観察し、あるいは単独で深く思量し、最後に事実に合致する結論を導き出す。禅定がなければ、これらは語れない。

欲界の特徴は何か? まず欲界の衆生には五蘊十八界法があり、色法器世間の山河大地などがあり、心法の八つの識心がある。識心には善悪無記の心所法があり、無明があり、貪瞋痴があり、貪欲を主とし、欲界の一切の法に貪着する。色界の特徴は何か? 色界の衆生には四禅八定があり、最も基本的なのは初禅定である。色法の色身と器世間があり、心法の八識あるいは七識、六識、五識、四識、三識があり、心所法には善と無記の二種類があり、悪心所法はない。悪心所法は降伏・圧伏されており、必ずしも断たれていない。定心所法が比較的突出し、身心は常に定中にあり、煩悩は現前しない。

無色界の特徴は何か? 無色界は文字通り色がなく、器世間の宮殿や山河大地などもなく、色身もない。ただ六七八の三識が四空定中にあり、心所法は不善不悪で、一切の煩悩は降伏されており、必ずしも断たれていない。定心所法がより突出し明らかである。

西方極楽世界の特徴は何か? 極楽世界の凡聖同居土には、阿惟越致(不退転)以上の全ての階位の菩薩がおり、また阿惟越致以下で明心も証果もしていない凡夫衆生がいる。これらの衆生は皆五蘊十八界を持ち、色法の色身と宮殿、花草樹木、大地河池などがあり、心法の八識があり、心所法は皆善と無記で、悪心所法はない。菩薩たちは皆禅定を持ち、たとえ凡夫衆生でも長期にわたり蓮華宮殿中にあるため、心識はすでに転換し、もはや悪がなく、散乱せず、皆禅定を持ち、心は定中にあり一心に仏法を思考する。菩薩たちの貪欲はもちろん降伏あるいは断除されている。凡夫衆生の貪欲は断除できないが、降伏されている。

既然このようであるならば、極楽世界には色界の特徴もあり欲界天界の特徴もあるが、無色界の特徴はない。したがって極楽世界は三界中の法に属し、三界外に出ない。ただ無余涅槃後の阿羅漢のみが三界外にあり、三界中にいない。仏菩薩でさえ三界外に出ず、しかも衆生を度し尽くさずに永遠に三界外に出ず、涅槃に入らないことを誓願する。なぜなら三界外には一切の世俗法がなく、色法がなく、七識の心法がなく、五蘊十八界などの法はすべて滅し、ただ第八識が滅しないからである。諸仏菩薩はどうして自らの五蘊十八界を滅し、五蘊身を用いて衆生を度すことができようか。したがって極楽世界と諸仏国土は皆三界中にあり、諸仏菩薩たちも皆三界中にあり、永遠に五蘊衆生と共にある。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、いかにして極楽世界に往生できるか?</h3>

各人の業力が異なるため、臨終の時に色身に現れる状態は異なる。業障が比較的重い者は臨終の時に四大が調和せず、身体が硬直し、死後は三悪道で報いを受ける。業障がさほど重くなく、一生の間に多くの善業をなした者は、心が善法と相応し、四大は調和し、身体は柔軟で、死後は三善道に生まれ、臨終の時には苦受を感じない。末法時期の大多数の者は煩悩が重く、一生の間に善業が少なく悪業が多く、臨終時には非常に苦しく感じる。善道に往生できるように、家族は人を請じて助念(念仏を助ける)をし、一部の業障を消除し、若干の福徳を増すことを期待する。助念の過程でこの四大が調和すれば、身体は柔軟になる。ある者は死者が確かに極楽世界に往生した、少なくとも天道に行ったと考える。しかしこれは必ずしもそうではなく、身体が柔軟になったのはただ業障が軽減し、善根と福徳が増したことを表すに過ぎない。

私はある実例に遭遇した。ある女性居士がおり、彼女の夫は仏を信じるが修行せず、長く病んで死んだ後、寺院の出家者に助念を頼んだ。七日間、四組の人が交代で助念し、一分も途切れず、助念すればするほど死者の身体は柔らかくなり、ついには全身が丸められるほど柔らかくなった。皆は彼が極楽世界に行ったと思い、たとえ極楽世界に行かなくても天道に昇ったと思った。しかし七日が過ぎ火葬した後、死者は女性居士に夢を託した。夢の中の表情は彼が非常に不満であることを示していた。この女性居士は私にどういうことかと尋ねに来た。私は言った:彼は自らが置かれた境遇に満足しておらず、まだ苦受がある。おそらく往生しておらず、天道にも昇っておらず、人身にも生まれ変わっていない。もしすでに生まれ変わっていれば、夢を託すことはできず、たとえ夢を託しても喜びの表情であり、愁い苦しむ様子ではない。

またしばらくすると、彼女の家のバルコニーでパチパチという音がした。後日、女性居士は再び夫が家に帰ってくる夢を見た。これは死者が、第一に往生していない(一般的に極楽世界または天・阿修羅・人の三道への往生を指す)、第二に生まれ変わっていない(広く六道輪廻の一期の生命を受生することを指す)、第三に彼女のいる境界は中有(死後の存在)の環境にあることを示している。この事は、他人がどれほど助念しても、もし死者の善根福徳が深くなく、心が極楽世界と相応しなければ、極楽世界に往生できないことを示している。もし心が天道と相応しなければ、天に昇ることもできない。ただし助念する者の功徳が非常に非常に大きく、彼の業種を変えることができれば、彼は天に昇るか、往生するか、あるいは人道に生まれ変わることができる。

なぜ身体が柔軟になっても善道に往生できないのか? 助念はただ彼に若干の福徳を増し、若干の業種を変えただけで、往生できる程度にははるかに及ばない。往生を願うならば、自ら心を修め、心を極楽世界と相応するように変えなければならない。数日の助念では死者の心を変えることはできない。修行はそれほど容易ではなく、生きている者が一生修行しても心を清浄な程度に変えられるとは限らない。自ら修行せず、他人の助念に頼っては、心を極楽世界と阿弥陀仏に極めて堅固に信受し、娑婆世界の一切の業縁を放棄するほどに変えることはできない。死者が往生したかどうかを正確に判断するには、天眼を持ち、人の神識が蓮華台に乗り、諸仏菩薩が来迎するのを見、極楽世界に至るのを見なければならない。そうでなければ、判断はすべて不正確であり、推測であり、信頼できない。

修行の問題は功徳に関わる。功徳は誰が修めたか誰が得るかであり、修めなければ得られない。父母子女の間でも互いに代わらない。仏陀とその家族の間でも互いに代わらない。楞厳経には、阿難は仏の従弟であることを頼りに、自らはあまり修行しなくても、仏の威神力と加持力に依って自然に成就できると思っていたが、結果はそうではなく、受けるべき磨難はやはり受けるとある。仏の家族も皆そうである。修行の功徳は外から来るものではなく、自らの心から生じるものであり、他人は与えられない。死者が往生できるかどうかは、自らに念仏の功徳があるかどうかにかかっている。この功徳は助念者が彼に与えることはできず、自ら念仏修行しなければならない。修行の功徳がなければ、相応する業果報もない。

現在、多くの浄土法門を学ぶ者は、全ての希望を臨終の一念に託している。もし普段から修めが良くなく、心が変わらず、業種が清浄でなければ、臨終の一念に頼ることは、賭けに相当し、信頼できない。必ず普段から自らを修めて成就し、臨終時に初めて往生の確信が持てる。もし普段、夢の中の念すら制御できず、把握できなければ、臨終時には病苦が交錯し、業障が現前し、怨親債主も討債に来て、最後の一念はなおさら把握しにくい。したがって臨終だけを当てにせず、普段から何らかの成就をし、心を変え、業障を消除し、福徳を増し、心念を制御できるようにしなければならない。

極楽世界に往生しようと願うならば、福徳は極楽世界と相応しなければならず、相応しなければ共住できない。どこに行こうとしても、福徳はその環境と相応し、その業種を持たなければならない。その業種を種付けしていなければ、福徳も相応しなければ、どうしてその場所に行けるのか? 心がもし極楽世界と相応しなければ、極楽世界を変じ出すことはできず、どうして極楽世界に往生できるのか? いかなる修行の法門も、皆心を修めることである。心がどの程度修まったか、どの程度変わったか、どの境界と相応するかによって、初めて相応する環境の中で共住し生存できるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、観像念仏の方法</h3>

観無量寿経第八観原文:諸仏如来は是れ法界身なり。一切衆生の心想の中に入る。是の故に汝ら、仏を想う時、是の心すなわち三十二相・八十種の随形好なり。是の心仏を作し、是の心仏なり。諸仏の正遍知海は、心想より生ず。是の故にまさに応当に一心に念を繋げて、彼の仏を諦観すべし。多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三佛陀(如来・応供・正遍知)。

釈:これは観像念仏の方法を紹介している。第七観から観像念仏を修め、修成されれば、仏像が心中に自然と現れ出る。これは臆想したものではなく、仏像自らが現れたものであり、これは一種の定慧等持の三昧境界である。身心が観像念仏三昧中にあり、明心証悟する。第七観は仏の坐す蓮華座を観じ、第八観は仏像を観じる。初めは意念の方式で観像するが、禅定力と慧力が具足した時、三昧が現れ、仏像自らが現前し、独頭意識(深い意識)で見ることができ、他人には見えない。この仏像は形相のある像であり、五蘊身を持つ仏像である。観像念仏は仏の五蘊報身を観じ、仏の法身を証することである。

したがって衆生が仏を想う時、仏像は衆生の心中に出現する。仏像は衆生の心念が生み出し、想い出し、感応し出したものであり、衆生の心が変化して現れたものである。この仏像は如来の法界身であり、五蘊・十二処・十八界を持ち、三十二相八十種の随形好を具足する。像は心が生じる。どのような心があれば、どのような像が現れる。どのような像が現れれば、どのような心がある。心と像は一如である。もし衆生の心が念念に五欲六塵・色声香味触法・財色名食睡であり、念念に六道中の事であれば、衆生は六道生死の衆生像であり、心と像は一致し、心と境界は合致する。衆生の心が善であれば、像も善で境界も善である。衆生の心が悪であれば、像も悪で境界も悪である。同様に、衆生の心が仏を想い、念仏すれば、衆生は三十二相八十種の好を持つ如来仏である。まさに衆生の心が仏を作ることができ、衆生の心は仏である。

仏の十大名号の一つに、正遍知と呼ばれるものがあり、正しく誤りなく一切法を知り、一切智を具足することを指す。十方諸仏が集まれば、正遍知海である。もし衆生が心に十方諸仏を念ずれば、正遍知海は衆生の心の中から出生する。例えば念仏三昧が現れた時、十方諸仏は面前に立ち、正遍知海が出生し、自らの独頭意識で見ることができ、他人には見えない。諸仏は皆衆生の心想が生み出したものであり、心外に仏はなく、心を離れても仏はない。したがって衆生は一心に仔細に彼の仏像を観じ、雑思乱想せず、世間妄想を混ぜず、世間を妄想すれば世間が現れ、仏は現れない。仏を見て悟りを得ようと願うならば、一心に念仏観仏しなければならない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、認知症や記憶喪失の者は往生できるか?</h3>

認知症になったり記憶を失ったりした者は、業障が比較的重い。主に脳に障害が現れ、これは意識の機能を障害しているが、もし普段の念仏がすでに意根に薫習され、業障を大部分消除し、念仏三昧中にあり、常に阿弥陀仏を思い出せるならば、どうして認知症になったり記憶を失ったりできようか? 福徳があり、業障が軽微な者が、どうして認知症になり、記憶を失うことができようか?

認知症や記憶喪失の時、もし最も親しい息子さえも認識できず、自らの姓さえも分からなければ、なおさら仏を思い出せず、彼はまだ念仏できるだろうか? 仏と彼の息子を比べて、彼は誰と最も親しいか? もちろん息子と親しい。最も親しい息子さえも思い出せないのに、どうして仏を思い出せようか? 彼が認知症や記憶喪失症になったのは、心に阿弥陀仏がなく、念仏を通じて業障を少しでも消さず、念仏が意根に薫習されていないからである。もし念仏が意根に薫習されていれば、心は仏ばかりであり、業障が大部分消除され、仏力の加持力があれば、どうして記憶を失うことができようか? 既然仏を思い出せないのに、どうして往生できようか? たとえ正常人で、禅定のある者でも、往生できるとは限らない。往生は非常に容易ではなく、証果や開悟に劣らず難しい。

ただ自らが親しく経験した後に初めて説く法こそが信頼できる。経験がなければ、文に依って意を解し、自ら想像して如何如何と、実践したことがなければ、どうして保証があろうか? それは信頼できない。もし私が浄土や往生について説こうとしても、仏経のあの几条に従って説くべきであり、仏経を離れては敢えて説かない。なぜなら私は往生したことがなく、具体的にどのような情況で初めて往生できるかを知らないからである。ただ仏経に頼って説くしかない。ただし念仏を唱えて仏が保証してくださる場合、あなたの臨終はどうであれ、必ず正念を保ち、必ず往生できると言われれば、これは信頼でき、残りは信頼できない。

では浄土宗が法を説き衆生を往生に摂受しようとするならば、最も適格で適した者はただ浄土宗の初祖慧遠大師のみである。彼が皆を率いて浄土を修めれば、法法皆人を信受させ、法法皆信頼できる。彼がこのように行持すれば必ず往生できる、あのように念仏すれば必ず往生できると言えば、彼の言葉は信頼できる。それ以外の者の説法は信頼できない。なぜ浄土初祖慧遠大師の言葉は信頼できるのか? なぜなら彼が親しく浄土の行門を実践し、しかも成功したからである。彼が浄土を修めた時、身心は常に三昧中にあり、阿弥陀仏は彼の三昧中に親しく数度出現され、極楽浄土の境界も彼の三昧中に若干回現れた。彼は常に三昧境界中にあり定から出ない。彼は必ず往生するに違いない。

では彼の修持した禅定と智慧の経験をもって、どうすれば往生できるかと彼が言えば、彼の言葉は確定して信頼できる。なぜなら彼はその程度に修めたからであり、経験がある。経験のない者は皆信頼できない。同様に、ある者が明心開悟を説くが、真実の開悟を経験していないため、説く明心開悟も信頼できない。彼らの説く明心開悟の理論は正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。しかしたとえ理論が正しくても、実際には真に開悟できず、何しろ親しく経験しておらず、行持が正しくないため、説くことは信頼できない。いかなる者も法を弘めるには、必ず自ら修行し終え、その道を歩み終え、説くことが初めて信頼できる。それ以外は信頼できない。浄土を弘める者は、念仏往生の事について、少しの経験もない。したがって彼らの説く如何如何念仏すれば必ず往生できるということは、信頼できず、ただ仏経が最も信頼できる。浄土経を離れて往生を説くことは、皆臆想と幻想である。

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、南無阿弥陀仏と阿弥陀仏を念ずることに違いはあるか?</h3>

南無は帰依の意味であり、真誠に依止帰順することを表す。阿弥陀仏は仏本尊の名号である。仏名号を念ずるのは、仏に感応し、仏に相応し、仏の加持を求め、手を授けて救済度脱するためである。二種の念仏方法に本質的な違いはないが、二文字多いと、心念が宛転(回りくどく)なり、阿弥陀仏を念ずる方がより直接的で、心思が単純であり、三昧を得やすい。

念仏は純粋に念仏のためではなく、心を摂め、真誠に阿弥陀仏に帰依し、念仏三昧を得るためである。念仏三昧の中で初めて阿弥陀仏に感応し、阿弥陀仏に相応し、往生の確信が持てる。したがって念仏も心をできるだけ定め、心を専一にし、仏号を唱える時は心に仏を持ち、恭敬心をもって念じなければならない。心を摂めて定を得るためには、仏号を唱える時の声はあまり高く上げてはならない。そうすると気を消耗し、心が散乱しやすく、収摂しにくい。声を低くし、集め、気を聚め、心神を安寧にし、心を専注にし雑念なく、定を得やすくし、念仏三昧を得、仏の加持を得る。

心で念仏し念仏三昧を得るために、次のように念仏を試みることができる:徐々に「阿」の字を念じ出し、「阿」の音を長く引き、「弥陀仏」は念じず、同時に心には阿弥陀仏本尊がある。「阿」の字は外に現れ、「弥陀仏」の三字は心底に隠れ、一文字の音が仏全体を代用し、心に雑念なく、全て仏である。このように念仏すれば三昧を得やすい。

<h3 style="text-indent: 2em;">十四、いかにして意根で念仏するか?</h3>

意根念仏は真心実意で念仏することで、形式上のスローガン式の口だけ心のない念仏ではない。これを行うには、念仏という事を認識し、思想を徹底的に変え、深く信じ切に願い、一切の行為が仏に趣き、身心世界が全て仏となり、娑婆の縁を放下し、念念が極楽でなければならない。心法と行門が具足すれば、命終必ず極楽世界に往生する。

仏法の中のいかなる法門の修行にも二つの層面がある。一つの層面は内在的な心門、もう一つの層面は外在的な行門である。心門は心を修め性を養う門であり、道とも呼ばれ、意根の門である。行門は功夫(修行の力量)の門であり、術とも呼ばれ、六識の門である。もちろん意識は行門だけでなく心門でもあるが、ただ意識の慧は浅く、容易に得られるため、重点ではない。道は根本であり、内在的な駆動力である。術は末であり、道に制約され、道を補助する。二者が結合して初めて法門は成就する。

念仏法門も同様であり、全体は信・願・行の三資糧を修める。信願は道に属し、行は術である。念仏に成就しようと願うならば、まず道心が成就し、思想認識が転換し、覚悟心が生起し、大願が発起し、さらに精進の念仏行門功夫を補助すれば、往生の希望は非常に大きい。その中で行門業は戒定慧、菩薩六度、三十七道品の修行を含む。心門は意根で念仏する門である。意根に仏を念じさせようと願うならば、意根に仏の無量の功徳、仏の無量無辺の偉大な事跡、仏の慈悲喜捨の四無量心、仏の宏大な願力、仏の三大阿僧祇劫の修行の経緯を理解させるべきである。これらを理解した後、仏に対して自然に無比の崇敬と向往が生じ、自然に精進念仏でき、行門が容易に成就し、最後には心心念念が仏となり、念仏三昧を修成する。

信願が具足した後、意根が降伏し、世俗法を念じず、心が収摂され、禅定が徐々に現れる。この時、意識念仏が意根を薫染し、徐々に意識の言語・文字・音声のある形相の念仏から、意根の言語・文字・音声のない形相のない念仏に移行し、功夫は徐々に成就する。もし意根を収摂せず、彼が方々に攀縁(縁を求める)し、世俗法に貪着し、心が散乱し、専心念仏できなければ、念仏三昧は現れない。

もし心門を修めず、ただ行門の道だけを機械的に念仏し、数量を追求し、数量で勝とうとすれば、功夫が深まれば意根を薫染し、量変が質変に達し、意根の思想観念を転換させ、心念が仏ばかりとなり、三昧を修成する。このように修めるのは非常に困難で、成功しにくい。大多数の念仏者は皆このように修めている。ただ多くの時間を費やして長期にわたり念仏し、念仏が非常に純熟し、脳を過ぎず、いかなる境界に遭遇しても、口を開けば阿弥陀仏が出てくる、自動化されたロボットのようになる必要がある。しかし煩悩は相変わらず煩悩であり、散乱は相変わらず散乱である。このように念仏して何の実質的利益があるのか? 多くの寺院や団体で念仏七(念仏修行会)を行い、一週間で百万洪名(百万遍の念仏)を唱え、仏号の声が声々耳に入り、念念絶え間ないが、世間の雑事も事々心に入り、それほど妨げにもならず、貪瞋痴の三毒は一つも減らず、業障もそれほど消除されていないが、念仏三昧は影さえもない。

一切の法門は心門である。念仏法門も心門である。心を修めなければ、成就は難しい。心を修めるとは意根を修めることであり、意根を主として修行する。意根が修まれば、一切の法門が成就できる。ただこの心は無始劫以来染汚が重く、煩悩が熾盛(盛ん)で、把握が難しく、降伏しにくい。しかし苦海を離れるためには、どれほど難しくても方法を考えて捻じ伏せ制服しなければ、依然として生死の苦海に沈没し自ら抜け出せない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十五、仏と諸聖はなぜ神通力で衆生を強制的に連れ去らないのか?</h3>

仏は心中の仏、聖は心中の聖。心中に仏あれば仏即ち現れ、心中に聖あれば聖即ち顕る。もし心中に仏聖なければ、仏聖現れず心の咎(とが)。

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、心清浄ならざれば相も清浄ならず</h3>

維摩詰経に言う:その心の浄きに随えばすなわち仏国土も浄し。心が清浄でなければ仏国土も清浄でない。なぜなら見が清浄でなければ、相も清浄でなく、国土がどうして清浄でありえようか? 心が清浄でなければどうして清浄な仏国土がありえようか? 確かに心が清浄であって初めて見が清浄になり、見が清浄になって初めて相が清浄になる。凡夫衆生の心が清浄でなければ、見も清浄でなく、見る相は清浄にならない。したがって衆生が仏を見ても、仏を自らと同じ貪瞋痴煩悩を持つ者と見なし、仏の種々の欠点を探し出し、仏の清浄な行為を汚れた行いと見る。

例えばある外道の女が仏法会で法を聞き、毎回最後に離れ、朝はまた法会に最初に到着した。皆はこの女が仏陀と共に住んでいるのではないかと誤解した。数ヶ月後、彼女は木の盆を腹に置いて妊娠を装った。皆はこれを見て、仏陀が確かにこの女と染まったと思い、議論が飛び交った。後に四天王が見かねて、鼠に変身して木の盆を噛み壊し落とさせた。皆は初めて恍然大悟した。もし衆生が真に仏陀を理解し信じれば、異心を持って仏陀を疑うことができようか? 結局は衆生の内心が汚れ穢れており、自ら仏陀がこのようなことをすると思い込んだのである。心の清浄な弟子たちは、皆仏陀に対して何の異議も不恭もなく、完全徹底的に仏陀の清浄を信じていた。

衆生の心がどのようなものであれば、どのような相を認め、自らの心の認知範囲を超えることはない。したがって心が染汚された者は、心が非常に清浄な者がいることを信じず、自らの行為見解と一致しないため、事に遇えば疑いを起こし、あるいは疑いを起こす必要さえなく、直接相手の欠点を確認する。この事例から、衆生の心は確かに汚穢で、正知見がないことが分かる。心清浄な者は事に遇えば、あいまいにして過ぎ去り、念想せず、心清浄でない者は種々の揣測、種々の知見、種々の疑念が胸に横たわり、放下せず、是非の風が起こり、矛盾が重なる。したがって世俗界は毎日乱れ、安寧の時はない。家庭から社会の大小様々な団体まで、皆そうである。原因は衆生の心が汚れすぎ、染汚が深刻で、誤解が多く、是非が非常に多いからである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十七、浄心して初めて浄土となる</h3>

一切の法は生滅無常苦空、一切の法は如幻如化、一切の法は如梦如露、一切の法は如風如影、一切の法は如泡如沫。いかに執し取ろうとも、結局は空、空、空。空以外は空。庭に静かに坐し、風雲の起こるを見るに如かず。一切の法の来るを見、一切の法の去るを観よ。一切の法の起こるを見、一切の法の落ちるを観よ。一切の法の生ずるを見、一切の法の滅するを観よ。しかし汝の心は一切の法の生に随い一切の法の滅に随ってはならず、一切の法の来るに随い一切の法の去るに随ってはならず、いかなる法も執してはならず取ってはならない。一切の法は一切の法、汝は汝。一切の法は本より一切の法にあらず。故に汝は心を空にせねばならぬ。

娑婆世界に人のあるところ、事あり。事あれば非事あり。事事非非は凡夫にとっては本より正常な事である。もし正常でない、べきでないと感じれば、汝は凡夫ではない。凡夫は事事非非を事事非非と見る。心空の人は事事非非を見れば即ち非事事非非、あるいは事事非非の生滅変異無常苦空を見、あるいは事事非非の如幻如化を見、あるいは事事非非の如影如響を見、あるいは事事非非の如梦如露を見、あるいは事事非非即ち菩提を見、あるいは事事非非即ち道を見、あるいは事事非非即ち真如を見、あるいは事事非非即ち仏性を見る。このようにすれば、どこに事事と非非があろうか? どこに禍乱があろうか?

世界は本より太平である。汝の心が太平でなければ、一切の法は太平でなくなり、世界大乱は汝の心から起こる。汝は世界大乱に対して責任を負わねばならず、汝が世界大乱を引き起こしたが、根本的に責任を負いきれない。どうするか? 修行せよ! 心を浄めよ! 心の貪瞋痴を滅せよ! 心の多事を滅せよ! 心の事非を滅せよ! 心の上の相を滅せよ! 心の執取を滅せよ! このようにして何事と非があろうか? 世界は静かになったか? 太平になったか? 空になったか? 汝の心を浄めれば、一切の法を浄化し、世界を浄化し、衆生を浄化する。このようにして衆生を度したか? 浄土を成就したか? これが修行、これが修行の結果、これが修行の功徳。まだ何を求める? 何を執する? 何を取る?

ページトップへ戻る