仏法雑談(第二部)
人が無求となるとは、あらゆる法に対して意図的に追求せず、得ようと策を弄することなく、何事にも心を用いないこと、これが無為である。内心が無為である人は、いかなる手段をもってしても何事をも謀ろうとせず、たとえ正当なことでも意図的に得よう争おうとはせず、ましてや不正なこと、不正な手段を用いることなどは決して行わない。このようにして、人は事ごとに人と争わず、世とも争わず、事とも争わず、争う心がなければ、ましてや奪う心、騙す心、盗む心などはさらに起こらず、事ごとに無求で、縁に随って日を過ごすならば、その人の品德品格は極めて高尚であり、思想の境地も渾然として我を忘れた境地に至る。
普通の人はただ時折こうした境地に至ることができ、ある事柄についてのみそうできるに過ぎない。もしその人が常にこうした行いができ、心の行いが常にこのように清浄で淡泊、無欲無求であるならば、その人はもはや普通の人ではない。ではいかなる人か。必ずや我見を断った人であり、心中に我がなく、しかも単に我見を断った初果や二果の者ではなく、煩悩を断除した三果・四果の人である。もちろん阿羅漢たちの品格は皆高尚であり、その德行修養は人の中で第一であり、天人の上にさえも勝り、人天の大衆の師であり、人天から供養を受けるに値する。
もしこうした阿羅漢がさらに多くの衆生を利益することを行い、内心に常に衆生を度脱しようとする志願を抱き、常に衆生の苦を思い、常に衆生が苦難から超脱するのを助けたいと願うならば、その阿羅漢は菩薩摩訶薩、初地から八地に至る菩薩となる。もちろん八地以前の菩薩の心は、いかなる時も無為であり、自然のままに為し、因縁に順応することはできず、またいかなる時も無欲無求であることもできず、まだ煩悩習気の影響を受けている。ただ八地以上の菩薩の心のみが、時を刻むごとに無為であり、任運自然で、意図的に作為する必要がなく、心は空、法は空であり、禅定は極めて深く、智慧も極めて深く、永遠に因縁に随順し、自然のままに衆生を度脱する事業を成就し、我にも執着せず、法にも執着しない。
いかなる人の品格品德もその修証と関係があり、修証が高ければ高いほど、心はますます空であり、心が空であればあるほど心量は大きく、ますます無為となり、品德は高くなる。修証の結果はすべて世俗法の中に現れ、その無為の心行も世俗法の中で表現され、衆生を度脱する過程の中で表現され、あらゆる事業を行う中で表現される。したがって、人に修証があるかどうか、道があるかどうかは、智慧ある人がその身口意の行いを観察すれば、観察し検証することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、辱めを受けても驚かないことこそが道器であり、師の法を受けるに値する</h3>古語に云う:凡そ人を験(ため)すには、辱め罵られても受け入れられる者をもって可しとし、抑え挫かれ求めても与えられずとも順受できる者をもって可しとす。先ずその重みを担うことができれば、後にその栄えを享受することができる。仏法の修証において、凡そ道器たる者は必ずや一切の重みを担い、一切の辱めを受け入れることができる。なぜなら心が空で我がなく、道に相応しているからである。常に己の意に順おうとする者は器ではなく、用いることができない。なぜなら我の心が空でなく、道に相応しないからである。何事も己を先とし主とし、他人を後とする者は皆我が重く、道器ではない。大器たる者は必ず大量であり、心量が大きいからこそ一切を担い載せることができ、宰相の腹には船が浮かぶ。心の狭い者はただ糞尿を入れることしかできない。志願があり担当する大心大量の者に対しては、機会があれば苦難を与え、その心性を鍛錬する。百錬して初めて鋼となる。様々な逆境の鍛錬と試練を乗り越えてこそ、器は練り上げられ、以後は一切の苦楽の境界もどうすることもできず、心は頑石の如くとなる。将来、初禅が到来した時、魔王が乱しに来ても心は動かず、初禅の関門を突破し、証果後に必ず煩悩を断つことができる。
禅定の功夫がある人は定力が強く、往々にして心性が柔軟で、己に加えられるいかなる屈辱も気にせず、屈したと叫ばず冤罪と訴えず、心が空に相応している。昔、修道の人はある程度修めると、師匠は彼を試し、その耐受力を高めた。辱め罵り、理不尽に打ち、根も葉もない罪を着せても、弟子は屈辱に思わず、弁明もせず、ましてや怒って逃げ出すこともなかった。打たれても去らず、罵られても逃げない人こそが真の弟子であり、度脱可能な道器である。心が空の人はいかなる欺辱も気にせず、学ぶべき法があり、修めるべき道があれば、心は寄る辺を得て、その後間もなく道を証する。ここに道には目があることがわかる。
趙州和尚は言った、上等人は禅床上で迎え、中等人は門口で迎え、下等人は山門の外で迎える、と。下等人であればあるほど心量は小さく、視野は狭く、我は重く、ますます柔軟な言葉と愛語を必要とする。たとえ間違っていても直接指摘できず、ましてや呵責してはならず、もし少しでも呵責すれば逃げ出し手を引いてしまう。さらには師匠を辱め誹謗することさえある。上等人は心量が大きく、自我の観念は微かで、情が少なく執念が少なく、心は道の中にあり、道の外の人事物理は無視する。したがって自尊心が重ければ重いほど、尊重と包容を必要とし、言葉遣いは婉曲で丁寧である。一方、内心が強い人は、ただ直截に、頭ごなしに、遠慮する必要はない。なぜなら器量が大きいからである。道があるかないか、修めがあるかないかは、一目瞭然である。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、大乗の人が持つべき修行とは何か</h3>現在、多くの人が自分は実修であると言うが、いったいどうすれば実修と言えるのか。戒定慧を修行することは小乗の修行に属し、大乗の修行は戒律や禅定に拘泥する必要はなく、ただ正知正見があれば道を見ることができると言う人もいる。いわゆる「只だ子の眼の正しさを重んじ、汝の行履を重んぜず」である。これは大乗実修の問題、すなわち仏法の実修の問題に関わる。なぜなら仏法を修行するには大乗も小乗も分け隔てなく、凡そ無明があれば必ず断じなければならず、一つの無明があれば成仏できず、最初の無明を断たなければ、どうして続く無明を断てようか。前の無明を断てば遮障も断たれ、後の無明が初めて断たれる。粗浅な無明を断たなければ、どうして深細な無明を断てようか。
大乗はどう実修すべきか。実とは何か。修とは何か。大乗は小乗を離れて存在する大乗か、小乗に背いて存在する大乗か、それとも小乗を含んで初めて大乗となり、小乗より高くて初めて大乗となるのか。小乗が備える一切の修行を大乗菩薩は持つ必要がないのか。小乗の戒定慧を大乗菩薩は修める必要がなく、菩薩たりえるのか。小乗は煩悩を断つが、大乗菩薩は煩悩を断つ必要がなく、煩悩を帯びて深く修め続け、成仏できるのか。小乗には定があるが、大乗菩薩には定が全く必要ないのか。小乗人は悪を断ち善を修めるが、大乗菩薩はそうしないのか。小乗の人の人品修行を大乗菩薩は全く必要としないのか。大乗菩薩は小乗の人品修行より劣っているべきなのか。
小乗人が備える資質は大乗菩薩も皆備えているべきである。すべての大乗菩薩は一歩一歩小乗の修学から歩み出てきたのである。大乗の実義菩薩は如来蔵を証得し、現前に如来蔵の体性と運作を観察したため、心行はさらに清浄無為である。この点は小乗で証悟していない者には想像も理解もできない。学人が大乗菩薩を自任するならば、小乗の修行を備えるべきであり、戒定慧を具足し、粗重な煩悩を降伏・断除し、必ず定慧を具足し、心は善であり、品性修行は絶対に凡夫や小乗人より高くなければならない。そうでなければ大乗人であると自己矛盾を来たし、かえって小を蔑み大を掴めない狂人愚人となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、仏法の理論を修学する目的は何か</h3>法を学ぶ目的は、五陰の束縛から解脱し、様々な法の束縛から解脱するためであるべきである。誰が解脱するのか。六・七識が解脱し、前七識が解脱する。前七識には五陰の我の束縛があり、我執があり、法の束縛があり、法執がある。したがって法を学び理論を学ぶのは、七識が十分完全に五陰の虚妄不実、執着の生死過患を認め、十分完全に法の虚妄不実と法の束縛を認め、それによって束縛から脱し、解脱を得るためである。もし法を学ぶことがただ理論知識を得て、意識が口先で至る所に宣揚し誇示し、博学を顕示するためであるならば、これは心の使い方を誤っており、これは別の執着であり、依然として無明と束縛である。
少なからぬ人々が如来蔵の法を学び、何を論じても如来蔵に当てはめ、決して七識五陰の修学、変化、無明の消除、煩悩の断除といった事柄には触れず、如来蔵の清浄な心行を対照にして、その後悔悟し七識五陰の染汚心行を消除することを知らず、如来蔵の清浄の理と五陰七識を二つに分断し、如来蔵の理はただ口先にあり、七識の心行は相変わらずで、理論の追求に熱心で、自心の無明と煩悩を深く観ず、ましてや内心の染汚を如何に治めるかを思索しない。そうした学法の仕方は修行とは無関係であり、慢心を増長し、自分が多くを知っていることを以て慢心を生じ、人を見下し、結果としてさらに無明煩悩を増やす。こうしたことをして何の得があろうか。
我々は皆明確に理解すべきである。如来蔵がどうであれ、七識の心行を代表するものではない。如来蔵は皇帝であり、あなたの七識五陰は依然として賤しい人、布衣の百姓、貧しい人であり、互いに代替できない。ただ如来蔵の清浄性・無我性を学び、染汚を除去し、福徳と智慧を得てこそ、あなたは一歩一歩昇進する。いつ福徳・智慧・品行が如来蔵と伯仲するようになった時、初めて如来蔵と同じく帝王となり、尊貴無比となる。凡そ自心を観ず、自心の煩悩を悔い改めず、自分を変えようとせず、身心に何の変化もなく、実際に戒定慧の修行に着手しない者は、修行とは言わず、修道とは無縁であり、学んだそれらの理論が自分の重荷とならないだけでも結構なことである。したがって、如来蔵と口にしながら、貪瞋痴の煩悩が重々しく自覚もないということはしないでほしい。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、自分に打ち勝ってこそ一切に打ち勝つ</h3>凡そ何かを成し遂げた人は、皆非常に厳格に自律した人である。世俗の間であれ仏法の上であれ、自律してこそ成就し、己を越え、無我の成就は一切に勝り、一切の事業を成就することができる。逆に我のある人は、至る所で些細なことにもこだわり、心量が小さく、己を容れ人を容れず、いかなる事業も成し遂げるのは難しい。ただ各人が私心なく無我一心に仏教のために事を行えば、得られる福徳は甚だ大きく、この福徳によって大智慧と解脱を得るであろう。
各人は己の私心と完全に戦うことができ、己の貪心と完全に戦うことができ、己の瞋恨心と完全に戦うことができ、己の嫉妬心と完全に戦うことができ、己の人我是非心と完全に戦うことができ、己の権力争奪心と完全に戦うことができる。要するに、自分と戦い、己を戦うことは全く問題ない。ただ他人と戦ってはならず、他人と争ってはならず、名利に関わる事に遭遇すれば避けて通り、頭を突き出してはならず、争い奪い盗ってはならず、他人の利益を損なってはならない。ただ責任を担い、権利を争ってはならない。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、悟後の変化</h3>禅師たちは言う:悟後もなお旧時の人であるが、ただ旧時の行履の処ではない、と。意味は、悟後の人は、他人が外見から見れば依然として元のその人であるが、しかし彼の心行德行などの面はすでに元と同じではなく、変化があり、改変があり、もちろん清浄に変わり、良くなり、德行修養は皆向上し、心性はより善良に、より純真無邪に変わったということである。なぜか。彼は五蘊無我を証得し、心の地が通達した。すでに無我であるならば、一部分の私心雑念を除去し、道徳は自然と高尚に、情操修養は自然と向上し、事を行う出発点・着眼点・格局は皆変化があり、人の心行全体が異なる。ただし人相は依然として元の人の相貌である。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、生死輪廻は最も損をする</h3>もし仏法を学んで愚か者のように、愚か者のように己の私的利益を顧みずに学べば、無我となり、成就する。己があることを知らず、人に欺かれ罵られ辱められ貶されても知らず、他人の言辞に無頓着で、いささかもこだわらず、まるで己と関係ないかのようであれば、無我の大果を得るであろう。人は非常に賢く、少しも愚かでないことを恐れる。様々に計算し、利に趨き害を避け、私利私欲に走る。我ある人は皆愚かでなく、計算し、損をしたがらず、結果として因果に計算され、生死輪廻の損をした。六道に身を置くことは甚だ損であり、何の殊勝な果実も得られない。どうして損をしないでいられようか。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、磁場効果とは何か</h3>磁場、磁とは一種の強力、大衆を引きつけ一緒に集める力である。場とは場所、道場、処所、依託処である。磁場は物質磁場と非物質磁場を含み、物質磁場は四大種子が形成する引力・求心力であり、非物質磁場は識・心・心所法が形成する引力・求心力・熏染力である。
もちろん磁場には排斥力もあり、負のエネルギーもある。負のエネルギーとは邪気であり、磁場効果が負であり、あなたの正のエネルギーを吸い取り、あなたからいくらかの正気を失わせる。いくつかの負のエネルギーの人々から離れ、自分が毎日楽観的で向上心を持つようにする。負のエネルギーで弱い磁場を持つ人は依然として非常に多い。もし皆処理するのは難しい。しかし人が負のエネルギー・弱い磁場であるかどうかは相対的であり、ある人にとっては負のエネルギーでも、他のある人にとっては正のエネルギーであり、ある人にとっては弱い磁場でも、他のある人にとっては強い磁場である。これも縁が異なり、勢いが異なることによって生じる差別現象である。もし善縁であれば磁場には吸引力があり、もし悪縁であれば磁場には排斥力がある。物質磁場には重力波があるが、非物質磁場は何によって吸引と排斥をするのか。
もし外道があなたの向かいで法を聞いていれば、あなたは直ちに強大な圧力を感じるであろう。道が同じでなければ磁場も異なり、彼の磁場の干渉は非常に大きく、邪見が大きければ大きいほど阻害力も大きい。あなたが元々話そうと準備していた殊勝な仏法は、外道の前では話しにくく、すんなりとはいかない。人々の間の差が大きすぎると一緒にいられず、そうでなければ不愉快となり、双方に圧力が生じ、深刻な場合は紛争と矛盾が生じ、誰も良くはない。婚姻家庭も同じであり、家柄が釣り合う者が過ごしてこそ愉快で調和する。一つの団体も同類が集まり、志を同じくし、層が大体一致してこそ団体は調和し、そうでなければ紛争と矛盾が生じ、各自に心理的圧力が生じる。層の低い人は層の高い人の磁場を衝撃し、層の高い人の水準を引き下げ、層の低い人も層の高い人に取り入ることができず、心中に怨みを抱く。互いに関係を落ち着かせることが容易ではなく、磁場の平衡を達成できない。
仏陀もかつてすべての弟子から離れ、一人で森林に静坐し、弟子をそばに来させず、侍者アーナンダもそばに付き添うことを許さなかった。仏陀は長期間、自分より弱い衆生の磁場の衝撃を受け、心力体力は影響を受ける。仏陀は永遠に衆生に求められ、常に施し、出すだけで入らず、心力はどれほど強大であろうか。諸仏はなぜ孤独なのか。それに相応する磁場を持つ人がいないからである。仏陀は常に施し与え、他の人は皆施しを受ける者であり、差別があり同等でないため、孤独である。菩薩がこの世に来ることも孤独である。同等者・同類者・同行者がおらず、皆外に向かって施し救済し、磁場は外に放たれ入らず、時が経つと自分の磁場エネルギーは消耗し、エネルギー不足となり、体力と心力は弱まる。これも衆生の業を背負う原理である。
諸仏はすでに一切の法を円満している。大雄大力であるのに、なぜ依然として衆生の影響を受けるのか。肉体があればエネルギーを消耗し、エネルギーの補充が必要であり、仏陀が人々から離れて静坐するのはエネルギーを補充するためである。肉体でなければ影響を受けない。仏教史上の一切の修道者は、皆孤独に一人で修め、付き添う者はいない。付き添う者がいれば修め出せない。同じ道を行く者が見つからず、互いに付き添えば磁場を弱め、修行は成就しにくい。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、磁場と加持力の原理</h3>問:もしある人が特に静かで安らかであれば、周囲の人々も彼のそばにいるとすぐに静かになり、心地よく感じる。その人には特に変わったところはないようだが、ただ一種の感染力がある。これはなぜか。
答:心識が静かで德行の良い人は、摂受力と加持力があり、磁場が比較的良く、影響力も良い。彼の身からは比較的明るく柔らかい光が発せられ、そばにいる人は見えなくても、この清浄で安らかな光を摂取し、心境も愉快で心地よく安らかに変わり、身体も清浄で健康になる。眼通のある鬼神は人の色身から発せられる光芒によって、この人に修養と修行があるかどうか、この人の德行の良し悪しを見分けることができる。鬼神は德行の良い人に対しては自然に尊敬し愛護し、德行修養の良くない人を見下し、さらには彼をいじめることさえある。天人和神通を有する諸大菩薩はさらに人の外見の光から、この人の修行の道行がどうかを見分けることができる。
修行のある人が使用する物品は、一定の加持力があり、他人を吉祥にし心を安穏にさせることもできる。なぜなら彼が接触し使用する物品には、自分の心力の作用があり、彼の心は吉祥安穏であるため、物品に吉祥安穏の磁場が生じる。修行が高ければ高いほど、その磁場力は大きく良くなり、人に安詳愉悦を感じさせる。他人がこの物品と接触すれば、吉祥安穏の磁場の感染力を受ける。各人が使用するものには、皆自分の信号、自分の情報があり、まるで物品に記憶力があるかのようである。あるものは誰が使うかで性能が異なる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、磁場効果</h3>朱に近づけば赤くなり、墨に近づけば黒くなる。熏染は無形の間に行われ、最初は毛に染まり、次に皮に染まり、次に肉に染まり、次に筋に染まり、次に骨に染まり、最後に髄に染まる。髄に染まれば根深く固まり、抜除しにくくなる。赤も黒も皆そうである。したがって周囲の磁場は非常に重要であり、交わる人々が最も重要である。自分の抵抗力が強いからと言って、善友を選ばず、熏されないのは八地以上であり、絶対に熏されないのは仏地である。隔陰の迷の再来人も、迷の段階では依然として軽微な染汚を受け、意識が染まっても容易に抜除されるが、影響力はある。
なぜ一つの団体は一つの気風なのか。一つの家庭は一つの習気なのか。伝染によるものであり、知らず知らずのうちに習慣となり、さらに知らず知らずのうちに習気が髄に入れば、世々現行し、善も悪も皆そうである。我々は皆良い団体の中で熏染され、朱に近づいて生まれ、強い煩悩習気のある団体の中で熏されず、墨から離れて生きることを願う。そうすれば福徳の集積は速く、自身の磁場の変化も速い。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、いつも香りを嗅ぐのはどういうことか</h3>ある人は仏法を精進して学ぶと、時折特別な香りを嗅ぐことがある。一つは体香であり、心が清浄になり、気脈が通じ、体内の香気が出てくるためである。もう一つは外から来る香気であり、天人或いは護法神がそばにいて、彼らがもたらす天香である。もしあなたがそばにいる人に粗浅な法を話すことができれば、天人が聞きに来る可能性があり、周囲はとても香ばしくなる。これは天人の香りである。よく真言を唱えれば、護法神が付き添い護法し、彼らがもたらす香りであり、これも天香である。
天界の香りは、我々の人間界にはなく、見つからない。その香りは非常に特別で、人の心境を朗らかに愉悦にし、心を清浄で静かに開け広げ、煩悩を消除する。善根の良い人には、護法神が常に付き添い護持し、進歩は非常に速い。もし戒律を厳守すれば、護法神もあなたに責任を持ち、常に管理護持し、あなたの煩悩を軽減し、習気を変え、善業を多く造り、悪業を造らせない。
したがって、あなたが力の及ぶ限り多くの福行と善行を行えば、最も利益を受けるのは自分自身である。表面的には他人のために行い、他人が利益を得たように見えるが、実際には自分が得る利益が最も大きく最も多い。多くの人に福を修める機会を与えても、何も要らないと言い、とても損をしているように見えるが、実際には自分が福を修め他人や仏教のために事を行うことを望まず、多くの現成の利益を得られない。これはまさに自分が損をしているのではないか。
人がもし私心を改めず、ただ自分の利益だけを考えれば、どんなに大きな利益も得られず、ただ自分が損失を受けないことだけを考えれば、実際には大きな利益を得られず、これはすでに失うことであり、最後には自分が現に持っているあのわずかな利益も保てず、守れない。心量が狭すぎると、道業は進展できず、修行は心空無我である。毎日一つの私心を持って守り、さらに無我を修めようとするのは、どれほど矛盾しているか。一つの我を抱いて無我を修めるのは、いつ無我を修められようか。徐々に自我を下ろすことを学び、初めて無我となることができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、仏法を学ぶ人は株をしてもよいか</h3>八正道には正命と正業がある。正命とは、合理的で人を欺かず、人の利益を損なわない方法で自分と家族を養うことであり、そうでなければ行う道は正しくなく、邪である。正業も同様に、行う一切の行業は正しく、人を欺き利益を損なう邪の業行をしてはならず、邪法で人の利益を損なうのは菩薩行ではなく、すべての修道人が行うべきことでもない。そこには因果関係があり、将来は因果に酬いる必要がある。菩薩は因果を善く知り、因果律則を恪守し、過患がないようにすべきである。菩薩の心行は己を捨てて人のためになるべきであり、行う世俗の業は、最も基本的な行持は衆生の利益を損なわないことであり、少なくとも共に勝つことであり、自分が勝ち他人が損をするものではない。もし共に勝てなければ、むしろ自分が損をしても他人に損をさせてはならない。株をする心理は、むしろ自分が損をして他人が勝つことを願うのか。共に勝つことができるのか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、衆生はただ仮の仏である</h3>善知識が愚かな弟子に問う:お前は仏か?弟子が躊躇すると、善知識は言う:どうしてまだ担当できないのか、お前は仏ではないのか?弟子はそこで大悟する:私は仏だ!どうして違う?善知識も仏、私も仏、私たちは互いに仏である。皆一緒に互いに賛嘆し、あなたは仏、私は仏、あなたは神、私は神、あなたは衆生を度し、私は衆生を度す。各自が仏であると印証した後、善知識は言い含める:仏は修もなく証もなく得もない、我々は今後修行する必要もなく、保任すればよい。そこで愚かな仏たちは毎日高く雲の上に立ち、楽しそうに仮の仏となり、何も学ばず修めず、保任と呼ぶ。
どれほどの人が虚栄心が盛んで、騙されるのが好きで、虚名が好きで、ただ自分が人と違うと感じさえすればどうでもよく、騙されても価値があり、彼らが生きるのはあの感覚である。徐々に牛鬼蛇神が皆善知識として現れ衆生を度し、衆生を皆牛鬼蛇神の隊列に度す。これらの人は特に牛鬼蛇神の類が好きで、誰に何の方法があろうか。三千大千世界は一つの器の中の如く、百匹の蚊蚋を貯え、啾々と乱れ鳴き、狂い騒ぐ。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、衆生の無明病の表現</h3>衆生の無明は最も根本的な精神疾患であり、六・七識の顛倒知見と錯乱思想である。社会大衆の精神疾患は言わず、ただ仏法を学ぶ人の精神疾患を言う。仏法を学ぶ人の精神疾患にはどのような表現があるのか。根本は何から来るのか。精神病は集団精神病と個人精神病に分かれ、個人精神病はすでに対処が難しいが、集団精神病が発作を起こせば、仏でさえ一時的に対処できない。衆生は大染缸の中で痛痛快快に熏染され、知らず知らずのうちに、まるで数壇の古酒を飲んだかのようで、目を覚ます方法がない。
仏法を学ぶ人の精神病は、自我の顕現に表れ、根本は根深い我、あの強い自我から来る。衆生のあの我がどれほど深刻か、例を挙げれば、かつて下海(ビジネス)が流行り始めた頃、社会に忽然と無数の総経理や董事長が現れ、数えきれず、工商局で営業許可証を処理する人は言った:あなたの会社はたった二、三人だから、役職は経理と書けば十分で、総経理董事長には足りない。それでも街中は総経理だらけで、もし空から石が落ちれば、一気に二、三十人の総経理と数人の董事長を死なせる。
今、仏法を学ぶ隊列では、衆生の我の表現も同じで、どうすれば自分が人と違うと顕せられるかどうかでやる。善知識、開悟した菩薩、再来菩薩、等妙覚菩薩が無数で、導師が大勢、天下は大聖人だらけである。もし空から大きな石が落ちれば、一気に二十人ほどの開悟した菩薩、十人ほどの善知識、五人ほどの等妙覚菩薩、および三人以上の導師を死なせる。皆死なせれば良い。娑婆世界はすでに聖人で満員であり、これらの聖人に速やかに他の仏国土へ衆生を度しに行かせよ。娑婆世界にはこれほど多くの人は必要なく、一緒にいれば喧嘩もする。行かなければ強制的に離れさせる。
もし幸運にも精神病の類の善知識に遭遇できれば、数日で開悟に導かれ、長くても一ヶ月は超えない。開悟して三、五日、または数ヶ月すると、団体を組織し法を説き衆生を度しに行く。聖人の繁殖が速すぎ、娑婆世界にはすぐに衆生を度す者がいなくなり、釈迦仏は完全に休める。その後これらの大聖人を他方世界に拡散させ、他の諸仏が衆生を度すのを助け、十方諸仏も皆休ませる。
今後あなたたちが再び何らかの善知識、何らかの等妙覚菩薩、何らかの再来人、何らかの阿羅漢、何らかの導師の類に遭遇したら、彼らにできるだけ分散し、他の善知識も聖人もいないところへ衆生を度しに行くよう勧め、小さな娑婆世界に皆ぎゅうぎゅう詰めになって騒がしく人を困らせないようにせよ。娑婆世界はすでにほとんど聖人であり、衆生を度す者は多くない。聖人の才徳を無駄にするな。今後再び誰かがあなたたちに自分が開悟証果したと言えば、あなたたちは言え、これはもう珍しいことではない、至る所に証果開悟した者がいる、何が奇怪で誇示することがあろうか?至る所に法を説き衆生を度す善知識がおり、全く珍しくも奇怪でも誇示に値するものではない。
しかし一つの怪事が理解できない。娑婆世界が生産する聖人が多ければ多いほど、なぜ天災人禍もそれに伴ってますます多くなるのか?もしかするとこれらの聖人がもたらす天災人禍なのか?なぜ聖人の繁殖速度がこれほど速く、ゴキブリの繁殖のようか?なぜなら衆生は実に愚痴愚鈍であり、過度に愚痴で過度に愚鈍であり、過度に自己中心的で、求めすぎるからである。仏経を学ばず、指し示す明かりを求めず、自ら盲目の猫となろうとする。目に五枚の黒布をかけ、人にぶつかれば善知識と認められ連れ去られ、言うことが何であれ、深く催眠をかけられたように、頭を動かせず、人から何を注入されてもそれをそのまま受け入れる。
これらのいわゆる善知識は仏陀本人よりもはるかに強く、衆生を五体投地させてしまう。したがって開悟は非常に速く、仏陀の指導水準をはるかに超えている。仏陀がこの世に来ても、数人を開悟させることはできず、これらの善知識は難を易に変えられる。奇怪ではないか?なぜこれらの精神病の衆生は開悟した後、自分が騙されたことを全く疑わないのか?愚痴が一つの面であり、最大の面は我性が強すぎ、ただ開悟の虚名があれば、すぐに自分が高く大きく威風堂々とし、人々に超えていると感じ、心の満足感が爆発する。そしてこのすべての感覚は、非常に深刻な我性の氾濫であり、自分は全く自覚していない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、初果を証得していない人が他人に仏法を紹介し解説できるか</h3>自分がいくらか仏法を理解していれば、皆如実に人に紹介し解説できる。ただし、知っている分だけ話し、度を越してはならず、確信のないことは言わず、「知るを知るとし、知らざるを知らず」の原則に基づくべきである。同時に、意図的であれ無意識であれ、自分に実証があると誤解させてはならず、証果していなければ、人に如何に証果するか如何に心を明らかにするかを教え、ましてや強引に人に印証を与え、子弟を誤ってはならない。どこまで修めたかでその言葉を話し、境界を越えず度を越さず、誠実に他人に自分の実際の修行水準を伝え、超えた分は参考としてのみとし、指導とせず、そうすれば過失はない。
修行がないのに強がる人は少なくない。こうした人は自己誇示が好きで、誇張が好きなので、常に度を越えた言葉を言い、すべて深刻な我執による。心中のあの我は自分を爆発させそうで、我相衆生相は皆固く破りにくく、結果として妄語などの悪業を造る。実際には何の利益も得ておらず、あっても他人の羨望や尊敬を得ているわけではなく、ただ自己満足しているに過ぎない。衆生の煩悩結使はこのようにしっかりと自心を縛り、解脱の味を知らず、哀れであり悲しい。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、仏家の聖賢は必ず儒家の君子である</h3>儒家文化は仏学の基礎であり、人としての道、君子の行い、身心の束縛、身口意の清浄、貪瞋痴の降伏を説く。まさに儒家文化というこの素養があるため、仏法は西インドから中国に伝わり、中国に根を下ろし、中華民族に福祉をもたらした。仏家の修行は儒家を基礎とし、思想品格道徳修養上は儒家よりさらに高く、儒家よりさらに清浄で高潔であり、さらに泥の中から出ても染まらずにいるべきである。
儒家は君子の道を提唱し、言ったことは必ず行い、言行一致、表裏一体、光明磊落、大丈夫の気概である。君子は儒家が立てた基準であり、仏家の基準は聖賢であり、君子を超越すべきである。したがって君子である者は必ずしも仏家の聖賢ではないが、仏家の聖賢は必ず儒家の君子である。君子でない者は聖賢でもなく、善知識でもない。もし誰かが自分は聖賢である、善知識であると言えば、彼の身口意の行いを君子の德行と比べ合わせ、もし彼の品行が君子に及ばないか、または君子と差があれば、警戒し、騙されず、染汚され同化され、心の地に塵を被せないようにすべきである。
仏法を学び修行する各人も、君子の行いを多く学び、儒家や道家の伝統的な国学を多く学び、人格操守上徐々に円満となり、人としての品德修養を備え、心性が成熟円満になって初めて、仏法の修学において、一たび努力すれば効果がある。理論功夫(技術)と心性が同行し、完璧に結合して初めて、脱胎換骨し、鯉が竜門を跳ね越え、真の聖賢人となり、衆生の模範となる資格があり、初めて衆生を解脱の道へ導く資格がある。
多くの人は仏法を学んで何年も経つが、努力が功を奏さない。原因は何か。修行は技術的な努力や道を修めることだけでなく、より重要なのは心性の鍛錬と熏陶、人格の完成であるからである。もし人としても合格しなければ、いかに努力しても、自心の牢獄を突破して聖賢となることはできない。多くの仏法を学ぶ人の德行は世間の普通の人にも及ばず、学べば学ぶほど煩悩が重くなり、貪瞋痴は様々に少なくなく、世俗法では求めが多く、苦心して名聞利養を鑽り求める。まさにこれらの人は軽々しく自分は開悟成聖したと宣伝し、德行が良い人はかえって細心に慎重に、細かく自分を点検し、容易に自分にこうした大帽子をかぶせようとしない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、なぜ升の恩が斗の仇となる現象が起こるのか</h3>人が最初に小さな恩恵を受けた時、良知では感謝を知っている。しかし彼が連続して恩恵を与えられると、施しを受ける習慣が形成され、快適圏に入り、当然のこととなり、依存性を持つようになる。この当然が打ち破られ、他人がもう施さなくなると、快適圏がなくなり、依存するものがなくなると、不快に感じ、心理的に受け入れられず、そこで瞋恨を生じる。人の習慣を打ち破るのは難しく、依存させないと怨みを生む。人は皆習慣を打ち破ることを好まず、特に快適で享受する習慣を。人は皆自分の習性、観念と大きく異なる教育を受け入れることを好まず、人を変えようとするなら、徐々に行い、急いではならない。
習慣にこれほどの粘着性があるなら、努力して良い習慣を養い、不良の習慣を駆逐すべきである。例えば呼吸を観る習慣が形成されれば、雑念を駆逐する。雑念妄想中に呼吸を観れば、意根のすべての精力は呼吸に集中し、定が現れ、雑念妄想は消失する。徐々に恩恵に適応し、習慣が形成され依存したのは意根である。意根の貪心と惰性は大きく、不良習慣の形成は容易だが、不良習慣の変更は困難である。恩恵を受けるのは容易だが、利益を失うことは耐え難い。
どの心が感謝するのか。どの心が仇となるのか。愛憎情仇は、皆どの層に落ちるか、どの程度か、真か偽か、真実の程度、偽りの程度を見なければならない。情緒が比較的深いのは意根のものであり、比較的浅くまだ習慣が形成されていないのは意識のものである。意識の段階では情緒は調整しやすいが、一旦意根に落ち、習慣が形成されると、情緒は制御しにくくなる。
恩恵を受けて、良心が少しでもある人は感謝の心を持ち、心に刻み、お金があれば返そうと思う。意識も意根もそうである。もし意識が絶えず意根に感謝するよう促す必要があれば、意根には良心がないことを示す。良心がある人は、意識が促す必要はない。あたかも意識が証果した人のように、時々刻々意根に促し、煩悩があってはならず、五蘊に貪着してはならず、五蘊は虚妄であると。しかし意根が自ら証果した時は、全く意識が絶えず促す必要がなく、意識は話す必要もなく、五蘊虚妄と念じる必要もなく、意根が知ればそれでよい。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、法を説いて際限がないとはいかなる人か</h3>夢観が観成就すると、直接十回向の菩薩果位を証得し、地に入るのが早い。娑婆世界にはほとんどこうした人はいない。古い時代を含めて。幻観を修め成就すると、直接十住位の菩薩となる。心を明らかにしていないのに、こうした菩薩となれるか?耳根円通法門を修め成就すると、直接等覚菩薩位を証得する。私はこの生涯では修められない。何年も前に人に講義を頼まれたが、推測してみて、ほんの一部を話し、どうしても先に進めず、でたらめに作り話はできない。他の人がこれを修めようとするなら、一無量劫を経てから言え。さらに円覚経の修行方法は、初地菩薩の証量がなければ、全く考えてもいけない。私も修め出せるかどうかわからない。
実証していない人は、法を説くのも飛躍的であり、修行も際限がない。なぜか?経験がなく、自分の想像と推測、感覚に頼っているからである。一生修めても門を叩くことができず、通った道だからこそ具体的な道筋がわかり、次第がある。