衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1510

第十二章 法義篇

一、名相を明らかにする重要性

修学の第一歩として名相をはっきりさせることは非常に重要です。名相さえはっきり理解できなければ、仏法の門戸に入ることすらできません。名相を明らかにした後、自らの心の中で名相を取り除き、その意味を得て言葉を忘れることができるのです。しかし、人と交流したり、大衆の修行を指導したりする際には、名相を用いなければどうにもならず、他の人はあなたが何を言っているのかわからなくなります。もしもその意味を完全に理解すれば、名相はもはや何の役にも立ちません。簡単な表現で互いに何を言っているのか理解し合え、誤解も生じないでしょう。

二、唯識法における概念の説明

五法:相(そう)、名(みょう)、分別(ふんべつ)、正智(しょうち)、如如(にょにょ)。三自性:遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、依他起性(えたきしょう)、円成実性(えんじょうじっしょう)。八識:眼識(げんしき)、耳識(にしき)、鼻識(びしき)、舌識(ぜっしき)、身識(しんしき)、意識(いしき)、末那識(まなしき)、第八識(だいはっしき)。二無我:人無我(にんむが)、法無我(ほうむが)。これらの法はすべて五法に帰することができます。遍計所執性は名に、依他起性は相に、円成実性は如如に帰します。前七識は分別に、第八識は円成実性に、二無我は正智に帰します。

六識の依他起性も名であり、七識はすべて名であり、分別性を持っています。五陰(ごおん)は名であり、一切法の中で第八識を除くものはすべて名です。五根(ごこん)と六塵(ろくじん)は相です。七識は分別であり、仏法を証得した後に正智が生じます。第八識は如如に属します。

正智もまた妄心である七識が持っており、見道(けんどう)すれば正智が生じます。ただ、どの程度の正であるかが問題です。倒錯しなければ正です。倒錯しない程度が異なれば、それに応じて異なる程度の正があります。

三、無生忍と無生法忍の区別

無生忍(むしょうにん)とは、五陰身(ごおんしん)が如来蔵(にょらいぞう)によって生み出され執持されていることを忍び、五陰身が空幻で無我であることを忍び、如来蔵が不生不滅でありながら万法を生み出し、五陰身の中に住み、生々世々にわたって自らの五陰を変生(へんしょう)することを忍ぶことです。その証量(しょうりょう)の程度に応じて、三賢位(さんけんい)に限られ、聖位(しょうい)には入っていません。

無生法忍(むしょうほうにん)は無生忍の基礎の上に立ち、諸法もまた無生であることを証入し、諸法の唯識性(ゆいしきしょう)を証得し、我執を降伏(ごうぶく)します(未だ断じてはいません)。ここで初めて聖位に入り、安住して退転しません。

四、一念無明と無始無明とは何か

一念無明(いちねんむみょう)とは、その名の通り、思想や観念が無明に染まっていることを意味します。なぜ無明で染まっているのでしょうか? 心の中に「我」があるからです。五蘊(ごうん)十八界(じゅうはっかい)を「我」および「我の所有するもの」と見なし、このいわゆる「我」が苦・空・無常・無我であることを知らず、その思想や観念はすべて「我」と「我の所有するもの」を中心に展開し、このいわゆる「我」を固く執着するため、生死もまた固くなるのです。「我あり」という思想観念をもって身口意の行いを指導すれば、当然ながら身口意はすべて染汚の業(ごん)となり、この染汚の業によって必然的に生死輪転は止むことがありません。したがって、一念無明は諸々の生死を引き継ぎ、解脱を得ることはできません。

しかし、一念無明もまた無始無明(むしむみょう)の一種であり、無始劫(むしごう)以来ずっと存在しており、始まりの時間はありません。もし始まりの時間があるならば、その時間以前には一念無明は存在せず、衆生は阿羅漢(あらかん)であり、無余涅槃(むよねはん)の中にいることになります。涅槃の中には衆生も阿羅漢もいません。すべての無明は無始劫以前から先天(せんてん)的に存在しており、すべて無始無明です。後天的な環境の影響によって、無始無明が増えたり減ったりするのです。

一念無明を断ち尽くした後も、無始無明を断ち尽くさなければ成仏できません。無始無明とは、衆生が無始劫以来、五蘊の世間(せけん)を実在のものと思い込み、それが如来蔵が幻化(げんけ)した仮の相(そ)であり、空(くう)であることを知らないことです。これによって我執と法執(ほっしゅう)が生じ、分段生死(ぶんだんしょうじ)と変易生死(へんやくしょうじ)が生じ、解脱できません。無始無明を断除するには禅を参じ、如来蔵を実証し、一切法の真如性(しんにょしょう)を実証し、一歩一歩一真法界性(いっしんほうかいしょう)を証得し、すべての一切法の真如法性(しんにょほうしょう)を証得すれば、完全に識(しき)を転じて智(ち)と成し、仏道を成就します。

五、分段生死とは何か

分段生死とは、生命が一段々と分かれていることを指します。この一区切りの時間の長さは一定ではなく、八地菩薩(はちじぼさつ)以前はすべてこの状態です。畜生道の衆生の寿命を観察してみてください。人間界の数時間、数分から数千年、数万年まで様々です。鬼道(きどう)の衆生の寿命、地獄の衆生の寿命、人間の寿命、各層の天人の寿命、阿修羅(あしゅら)の寿命、そして各階層の菩薩の寿命も同様です。どれだけ長く生きられるとしても、最終的にはすべて死ぬことになります。永遠に不死であるわけではありません。生命に期限がある以上、それは区切りがあるということであり、分段生死と呼ばれるのです。

分段生死の後は変易生死です。八地菩薩から等覚菩薩(とうかくぼさつ)、妙覚菩薩(みょうかくぼさつ)までは変易生死があります。その生命は無限に長く続くことも可能ですが、最終的には必ず死にます。なぜなら、まだ極めて微細な無明が断ち切れていないからです。無明は生滅変易を感召(かんしょう)し、生命を不堅固にします。分段生死にある衆生の無明は最も重く、生死と苦難もまた最も重いのです。あたかも人が念頭(ねんとう)を持てば呼吸(こきゅう)があり、息脈(そくみゃく)があり、風動(ふうどう)があり、風災を感召するようなものです。念頭がなければ風動も呼吸も心臓の脈拍もなく、すべての災難から遠ざかります。無明が滅び尽くせば、いかなる種類の生死もなくなり、その時こそ成仏するのです。

六、証量とは何か?

いわゆる証量とは、一般的に言えば、大小乗の法を証得した程度、あるいは大小乗の法を実証または観行(かんぎょう)した程度を指します。証(しょう)は証得すること、量(りょう)は度量や程度、水準を意味します。

禅定(ぜんじょう)の修行も証量に関わり、禅定の証量と呼ばれます。いかなる法を学ぶにも証量というものがあります。何も証得していなければ、当然ながら証量はありません。

七、万法唯識

世界のいかなる分野も、すべて唯識の分野であり、仏の分野、心の分野です。いかなる法門も、すべて唯識の法門であり、仏法、心法です。いかなる教えも、すべて唯識の教えであり、仏教、心教です。いかなる宗派も、すべて唯識の宗派であり、仏宗、心宗です。いかなる派閥も、すべて唯識の派閥であり、仏派、心派です。世間・出世間の一切法はすべて唯識であり、すべて仏法なのです。

八、雑思

一人の外道が仏と論争し、一つの論題を立てました。「私は一切の受(じゅ)を受けない」。仏は言われました。「あなたは一切の受を受けないというその『受』を、あなたは受けますか?」外道は返答に窮しました。帰り道に考えました。「私がどう言おうとも負けるだろう。仏が勝者だ。私は帰依すべきだ」。そして仏のもとへ戻り、剃髪出家し、仏に随って法を学びました。

ある人が言います。「私は相(そう)を取って分別しない」。お尋ねします。「あなたのこの言葉は相を取って分別しているのではないですか? 『私は相を取って分別しない』というこの言葉を、あなたは分別していないのですか?」相手は話題をそらしました。敗北は疑いようもありませんが、勇気を持って認めようとしません。外道の誠実さには及びません。ある人が言います。「私はもともと仏である」。お尋ねします。「あなたはいつ供物台の上に座って世の人々の礼拝供養を受けたことがありますか? いつ供物台から降りてきたのですか? どのような因縁で供物台から降り、今のように落ちぶれたのですか?」

今生から無始劫以前を遡(さかのぼ)っても、あなたは仏になったことは一度もありません。一日たりとも、一刻たりともありません。無始劫よりさらに無始劫以前、あなたの無明は少しも破られておらず、ずっと生死の業障(ごうしょう)の凡夫であり、ずっと六道の中で生死輪廻し、断絶したことはなく、ずっと純粋な大苦(だいく)と集まっていたのです。したがって結論はこうです。あなたはもともと仏ではありません。『円覚経(えんがくきょう)』に曰く、金が金鉱から精錬された後は、再び不純物と融合して金鉱に戻ることはなく、金は永遠に金であると。成仏後は無明が滅び尽くし、再び無明が生じることはなく、衆生に戻ることもありません。成仏すれば永遠に仏であり、衆生にはなりません。成仏の依り所となる本心は、もともと仏であると言えるかもしれません。しかし、あなたの五陰七識は衆生であり、仏ではありません。仏に頼りながら生死の業障衆生であることは、あたかも川のそばにいながら激しい渇きに苦しみ、水を飲むことができないようなもので、それは誰のせいでしょうか?

九、なぜ時間に速さ遅さの区別を感じるのか

一つのことに没頭し、他を顧みないときは、時間の経過が早く感じられます。もし心が散乱し、気がかりや期待があれば、時間の経過が遅く感じられます。覚受(かくじゅ)は心境に依って変化するものであり、不実で頼りにならない法(ほう)です。苦しいときも時間が遅く感じられます。なぜなら、苦しみが早く終わることを願い、期待があるからです。時間に関わることで時間が遅く感じられるのです。楽しいときは時間が早く感じられます。心が楽しいことに集中しているからです。集中もまた心が対象に向かっている状態であり、時間は知らず知らずのうちに過ぎ去ります。

苦しいときは時間が早く過ぎることを願います。これは苦しみを止めたいという願いです。楽しいときは時間が過ぎ去らないことを願います。これは楽しい覚受をもっと享受したいという願いです。修行する者は時間がゆっくり過ぎることを願います。自分を鍛え、自らの道業(どうごう)を高めるなど、有意義なことをもっと行うためです。禅定の中では時間が停滞し、時間がなくなります。本当に心地よいものです。しかし、定の外の人事(じんじ)も世話しなければならず、定から出ざるを得ません。苦しい覚受を減らしたいなら、念仏や真言、お経を多く唱えなさい。そうすれば時間は早く過ぎます。衆生の苦しみを多く考えれば、自身の苦しみは無視され、時間は早く過ぎます。

十、気とは何か

気(き)には心気(しんき)と物質四大(しつしだい)の身気(しんき)が含まれます。心気は意根(にごん)の気分(きぶん)を表し、意根の心所法(しんじょほう)です。例えば、心高く気位が高い(心高気傲)、心気が満ちている(心気満満)、気宇が昂然としている(気宇軒昂)、意気が盛んである(意気軒昂)、骨気(こっき)、志気(しき)、傲気(ごうき)などです。身気には腎気(じんき)、肺気(はいき)、胃気(いき)、脾気(ひき)、肝気(かんき)、心気(しんき)が含まれ、五臓六腑(ごぞうろっぷ)すべてに気があり、全身の経絡(けいらく)にも気が行き渡っています。気は血を運ぶことができ、血気(けっき)と呼ばれます。身体は血気によって滋養され運営されています。一旦血気の供給が滞れば、六識は活動を続ける力がなくなり、五陰の活動は弱まります。あるいは血気の運行が乱れれば、六識も乱れ、狂気にさえ陥ることもあります。

心気は身気を動かし影響を与え、身気は心気を高め影響を与えます。二者は互いに影響し合い、禅定にも大きく影響します。心気が平穏でなければ禅定は起こらず、身気が調和しなければ禅定は現れません。したがって、心気と身気を調理(ちょうり)する必要があります。心気を調理するには、一つには理(ことわり)に頼り、道理を説いて心気を平穏で安らかにすること、二つには身体の素質が良く、気血がスムーズに流れていることです。そうして初めて禅定が現れます。身気を調理するには、一つには必要十分な四大(しだい)の養分を供給すること、二つには呼吸と運動を調整すること、三つには心気・意念(いねん)による調理に頼ることです。心気が平穏であれば、身気も次第に平穏になります。これを「心平気和(しんへいきわ)」と言います。もし身気が乱れ不足すれば、心気も乱れ不足します。二者は相補的な関係にあるのです。

心気と身気のほかに、業障気(ごうしょうき)というものもあります。いわゆる業障気とは、実は過去世の業行(ごうぎょう)の勢力、あるいは業の慣性と力です。これが最も調理や克服が難しく、多くの場合、ただ受動的に受け入れるしかありません。もしある人が覚悟が比較的強く、自らの業障の所在や不良な習性に気づけば、それを捻じ曲げ克服する方法を考えなければなりません。一つには懺悔(さんげ)の方法によって業障を懺除(さんじょ)すること、二つには発願(ほつがん)の方法によって業障を圧倒すること、三つには新しい良い習慣を養うことです。

十一、分別心を離れることは死人と同じか

まず、分別心を離れることは死人と同じではありません。なぜなら、この分別心とは意識心(いしきしん)を指すからです。意識心を離れる状況には様々なものがあります。最も普通で一般的な状況は、眠っているときに分別心がなくなることですが、人は死にません。意識分別心を離れても死なないとはいえ、多くのことができなくなり、日常生活が送れなくなり、物事に支障をきたします。この状況は死人と大差なく、覆い隠す障害が深刻です。

多くのことを頻繁に行い、非常に慣れ親しんでいれば、意識心で分析・思考しなくても、素早く直接的に遂行できます。例えば、足を上げて歩くこと、どちらの足を先に出すか考えずに済むこと、食事の際に口元に飯が来れば口を開けて食べることなどです。しかし、意識がなければ、これらの非常に慣れたことさえもできません。したがって、神通のない者にとって意識の機能・作用は非常に重要です。多くの場合、意識は分別していないように見えても、了別性(りょうべつしょう)は常に作用しており、衆生はそれによって様々な身口意の行いができ、生存できるのです。

十二、三宝に帰依する究極の意義とは何か?

釈迦仏(しゃかぶつ)の本生故事経(ほんじょうこじきょう)には、釈迦仏が生々世々に修行した足跡と軌跡を記した経典がいくつかあり、釈迦仏の生々世々の出身、家族状況、そして修行の道のりにおける同修道友(どうしゅどうゆう)や多くの弟子たちを紹介しています。その中で私が最も印象深く思うのは、いくつかの経典で釈迦仏と阿弥陀仏(あみだぶつ)など多くの仏が多生多世にわたり親族や実の兄弟の関係であったこと、あるいは同じ仏国土で修道し、互いに助け合い補佐し護り合っていたことが紹介されている点です。また、釈迦仏が多くの世で今世の十大弟子と共にあり、師弟関係であり、名前が似ていたり同じであったりしたことも紹介されています。釈迦仏の今世の妻と釈迦仏の前世の因縁、釈迦仏の母と釈迦仏の前世・後世の因縁も紹介されています。

これらの物語の筋書きは何を説明しているのでしょうか? それは諸仏の間の縁、仏と弟子の間の縁、仏と家の親族眷属(けんぞく)の間の縁を説明しています。人々の間で善縁を結べば、結束力が生まれ、それらの人々を一つにまとめます。そして、非常に強い縁、極めて強大な集団に頼ることができ、生々世々にこの強大な集団と共にいれば、生死に依り所ができ、心に主(あるじ)ができるのです。

三宝は命を救う藁(わら)のようなものです。衆生はこの命を救う藁をしっかりと掴むことによってのみ、自らの命を救うことができます。三宝以外に、衆生が頼るべきものは何もなく、何も当てになりません。生死の道のりでは、天を呼んでも応えず、地を呼んでも霊(たす)けず、孤独に自らの業力を受け入れなければなりません。諸仏菩薩と縁を結び、生々世々に諸仏と離れずに共にいることです。

『法華経(ほけきょう)』で仏が弟子たちに成仏の記別(きべつ)を授けました。これらの弟子たちは共に修行して縁を結び、歩む道はおおむね同じであり、修行の段階もほぼ同じでした。成仏する時は前後次第に成仏します。縁とはこのように重要なのです。智者(ちしゃ)は必ず三宝の縁を掴み、優れた集団の縁を掴み、この縁によって自ら生々世々の依り所を促し、自らを支えて一歩一歩高みへと導かなければなりません。

良いチームは非常に重要です。チームとは縁です。縁がなければ何も語ることはありません。無関係であれば語るべきことなど何があるでしょうか? あたかも現在の肺病災疫で亡くなった約二十万人のように、彼らには三宝の縁がなく、孤独に死に、再び孤独に生まれ変わり、依るものも頼るものもなく、目的もなく、悲嘆に暮れ、惨めで、孤独で、六道を漂い、出る期(ご)がありません。これは非常に悲惨ではありませんか? したがって、三宝に帰依することは非常に重要なのです。三宝は衆生の生命の依止(えし)であるだけでなく、衆生の解脱の舟でもあります。三宝という大樹の下でこそ涼みを得られ、心は寂静涅槃(じゃくじょうねはん)を得るのです。

十三、いつになったら相を取って分別しないことができるのか

初果(しょか)で我見(がけん)を断った後で初めて我相(がそう)、人相(にんそう)、衆生相(しゅじょうそう)、寿者相(じゅしゃそう)を破ることができます。しかし、それでもなお衆生の五陰の相を取着(しゅじゃく)し分別することから離れることはできません。開悟(かいご)した後も相を取らないことは非常に難しく、特に禅定が退失(たいしつ)した後は、ほとんどの場合、相を取って分別しなければなりません。八地以前の菩薩は完全に相を取らず分別しないことなど到底できません。凡夫は小さな試練さえも耐えられず、いかに自らを訓練して相に執着せず相を取らないようにしようとも、凡夫は相の上で転じるほかないのです。凡夫は口ではよく「相を取らず分別しない」と言いますが、毎分毎秒相を取って分別しており、相を取らず分別しないことなど全くできません。

なぜなら、禅定と智慧の証量が著しく不足しているからです。相を取らず分別しようなど、全く不可能です。意識で無理に抑えれば一分間はできるかもしれませんが、二分間は耐えられません。相を取らず分別しないことは非常に非常に難しいのです。考えるのは容易で、言うのも容易ですが、実行するにはすべての相が実体のないものであることを証得しなければなりません。証得した分だけ実行できます。考えるのは無駄で、口で言うのはさらに無駄です。凡夫がもう一つの無量劫(むりょうこう)を修行したとしても、どれほどの程度で相を取らず分別しないことができるかは分かりません。阿羅漢もまた完全に相を取らず分別することはできません。なぜなら、阿羅漢は大乗の法を証得していないからです。したがって、相を取って分別せざるを得ません。もし阿羅漢が相を取らず分別することができれば、娑婆世界(しゃばせかい)の苦しみを取着せず、一心に娑婆世界の境界を避けて無余涅槃を取ろうとはしないでしょう。

十四、一切法には相がある

法には色法(しきほう)と心法(しんぽう)があり、真法(しんぽう)と妄法(もうほう)があります。色法には色法の自相(じそう)と共相(ぐうそう)があり、心法には心法の自相と共相があり、妄法には妄法の自相と共相があります。真法には自らの本体の相(そう)がありますが、共相はありません。

色法の共相は四大(しだい)で構成された物質であり、質礙性(しつげしょう:物質としての障害性)があり、空(くう)ではなく、伝播(でんぱ)でき、拡散でき、磁場効果があり、触れられ見ることができ、生滅変異します。色法の自相は、色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)であり、それぞれに特有の相貌(そうぼう)と特徴があり、混同できません。したがって、触れ見る根識(こんしき)が異なります。たとえ同じ種類の色法であっても、それぞれに相貌と特徴があり、それぞれ異なる作用があります。例えば、草花・樹木・山、机・椅子・板凳(ベンチ)などです。

心法の共相は、すべて識別性・了別性(りょうべつしょう)を持ち、心所法(しんじょほう)があり、すべて形がなく相がなく、識の種子(しゅじ)によって形成され、第八識を除いてすべて生滅変異します。各々の心識はそれぞれ独自の識別対象を持ち、それぞれに対応する法が見えます。第八識には共相がなく、唯一無二の法であり、世俗を離れたものであり、不生不滅で不増不減であり、衆生の依止処(えししょ)なのです。

十五、七地満心(ななちまんしん)の時、より殊勝(しゅしょう)な三昧(さんまい)を修め、三昧楽(さんまいらく)があれば、三界を離れて無余涅槃に入ることはありません。初地から七地菩薩の間は、五蘊世間への貪愛(とんあい)を断じたため、五蘊世間法を喜び楽しむことがなく、一旦執着を断ち尽くせば、三界世間には意根を繋縛(けばく)する法がなくなり、菩薩は無余涅槃に入ってしまいます。したがって、この期間は少しだけ煩悩惑業(ぼんのうわくごう)を残し、ある種の微細な法に対してほんのわずかな貪りを残し、これによって意根を繋縛して三界を出ないようにする必要があります。

仏道に粘り強く取り組み、衆生を度脱(どだつ)することに粘り強く取り組めば、無余涅槃に入ることはありません。これもまた微細な執着ですが、一時的には必ず残しておかなければなりません。『華厳経(けごんきょう)』には菩薩の十無尽願(じゅむじんがん)があり、菩薩が初地に入る前に必ずこの願を発しなければ、永遠に仏道を修学し、衆生を見捨てず、涅槃に入らず、最終的に仏道を成就することが保証されます。

心が我執と法執を離れてこそ、自在解脱(じざいげだつ)であり、執着すればするほど心の量は小さくなります。八地菩薩は心に執着がなく、無為自在(むいじざい)であり、願いに随って任運自然(にんうんしぜん)であり、心は広大で妨げがなく、神通力も最大であり、菩薩の身をもって仏身を現じ、仏国土を現じ、無量の衆生を広く度することができます。

三果(さんか)以前は、この願を発する必要もなく、無余涅槃に入ることもできません。なぜなら、すべて貪瞋痴(とんじんち)の煩悩によって自らを三界に繋縛しており、五蘊世間に貪愛があるため、三界の生死繋縛を離れることができず、業報(ごうほう)の苦しみを受けなければならないからです。貪愛が重ければ重いほど、瞋恚(しんに)が重ければ重いほど、愚痴(ぐち)が重ければ重いほど、苦しみは多くなり、生死の繋縛はより深刻になります。各人が自らを執着し、自らを貪愛することは、自らを害する元凶であるにもかかわらず、自らそれを知らず、絶えず「我、我、我」と言い続けているのは、実に憐れむべきことです。

十六、説法が際限がないのはどのような人か

夢観(むかん)を観じて成就した後、直接十回向(じっかいこう)菩薩の果位(かい)を証得し、まさに地(じ)に入ろうとしています。娑婆世界にはほとんどそのような人はいません。古代を含めてです。幻観(げんかん)を修めて成就すれば、直接十住位(じゅうじゅうい)の菩薩です。明心(みょうしん)していなくてもそのような菩薩になれるでしょうか? 耳根円通法門(にこんえんつうほうもん)を修めて成就すれば、直接等覚菩薩位(とうかくぼさつい)を証得します。私は今生では修められません。長年、人に講じるよう求められましたが、少しだけ推測して話しました。話す内容はほんの一部で、どうしても先に進めません。でたらめを創作するわけにはいきません。他の人がこれを修めようとするなら、一つの無量劫を過ぎてからにしましょう。また、『円覚経』の修行方法は、初地菩薩の証量がなければ、考えようさえありません。私自身も修め出せるかどうか分かりません。

実証したことのない者は、説法は飛躍的で、修行も際限がありません。なぜでしょうか? 経験がなく、自らの想像と推測、感覚に頼っているからです。一生修行しても門路(もんろ)にたどり着けず、歩んだ道があって初めて具体的な道筋が分かり、次第(しだい)が生まれるのです。

十七、汝の意は信じるに足らず

ベーコン:「ただ目で見たものだけが、判断の根拠となる」。デカルト:「ただ理性的に分析したものだけが、判断の根拠となる」。ヒューム:「目で見ることと理性的分析のどちらも、判断の根拠とはならない」。カント:「目で見ることと理性的分析を結合させれば、判断が可能である」。

仏陀:「目で見ることが錯覚であると知り、理性的分析が戯論(けろん)であると知ってこそ、はじめて有意義な『判断』を下す可能性が生まれる」。衆生は無始劫以来、数えきれないほどの人事物理を目で見てきましたが、どれ一つとして正しく認知したことがあったでしょうか? もし正しく認知していたなら、再び貪瞋痴の煩悩はなく、生死輪廻の苦しみもなかったでしょう。理性分析の能力を持つ人がどれほどいるでしょうか? もし理性分析が正しく誤りがなければ、どうして貪瞋痴の煩悩や生死輪廻の苦しみがまだあるのでしょうか? 仏は言われました。「汝の意は信じるに足らず。阿羅漢果を証得して初めて汝の意を信じてよい」。そしてたとえ阿羅漢果を証得しても、なお多くの無明が残っており、依然として汝の意を完全に信じることはできません。

無数の人々が自らの意を信じています。しかし、自らのその意は、今日はこうであり、明日はああであり、常に自らの意を変え、臨終に至るまで正しいことを何一つ成し遂げられませんでした。その人の意は信頼できるでしょうか? まったく信頼できません。しかし、自らは自信を持ち、死ぬまでそうなのです。多くの人々が仏教を学び、今日はこれが良いと思えば数日学び否定し、しばらくするとあれが良いと思いまた数日学び、そして否定します。七老八十(70~80歳)になっても自らが満足する法門を見つけられず、それでもなお自信満々です。もし本当に自信があるなら、一つを認めたらもう否定せず、変更しないでください。五六十歳になっても一つの修行法門と道筋を確定できないなら、今生に何の希望があるでしょうか?

十八、我が咒願(じゅがん)

私はすでに皆さんに仏法の高峰に登るはしごを架けました。このはしごは一切の大智慧を得る最も直接的な最も秘密の通路であり、日月に最も近く、ほとんど手を伸ばせば届くほどです。皆さんは体力と心力が許す限り、自ら登ってください。高みから仏法の運営状況を観察すれば、大智慧を得ることができます。世俗法の上で私はこの秘密の通路を提供しました。私はどれほどの特許料と使用料を徴収するのが公平で合理的でしょうか? 実のところ、私はどれほど徴収しても少なすぎ、世界のすべての珠玉を私に与えても元は取れません。今、どれほど徴収しても適切ではなく、また私はお金を使いこなすのもあまり得意ではなく、それほど多くのお金も必要ありません。それなら私は長い目で見て大きな魚を釣り、最大の利益を得ようと思います。

私は今、咒願を発します:私の一滴の法恩(ほうおん)に触れた者は、未来三大無量劫(みょうごう)の間、私の履(は)む道を歩み、私の道を倣い、私の行いを行い、いかなる個人の利益も考えず、菩薩の万行(まんぎょう)を行い、度脱すべき一切の衆生を度脱せよ。三大阿僧祇劫(あそうぎこう)の後も、辛苦(しんく)を厭(いと)わず、代償を考えず、度脱すべき一切の衆生を度脱せよ。少しでも不本意や違逆(いぎゃく)があってはならない。

咒願はすでに発せられました。誰も逃げ出すことはできず、逃げようとしてももう遅いのです。たとえ以前に逃げた者も、私のこの咒願の威力から逃れることはできません。一切の人々は、願おうが願うまいが、一律に私の咒力(じゅりき)の中にあり、自覚的であろうとなかろうと咒願を履行し、どれほど遠い劫(こう)であろうとも、逃れることはできません。あなたは一日、一年、一生、一世を怠けることはできますが、私の咒力の下で永遠に怠け続けることはできません。咒力が許さないからです。成仏し、苦しむ衆生を度し尽くすまで。

文殊菩薩(もんじゅぼさつ)は成仏せず、菩薩の身をもって七尊の仏世尊(ぶっせそん)を教え導き出し、さらには再び菩薩の身をもって無数の仏世尊を教え導き出すでしょう。しかし、一旦文殊菩薩が成仏する時、その所在する仏国土は一切の諸仏国土を覆い、一切の諸仏国土は文殊菩薩の仏国土の中にあります。しかし私は今、収穫したくなく、微々たる報いも得たくありません。私は未来の最大の報いを得たいのです。私の恩を受けた者は、必ず無量劫また無量劫にわたり私の行いを倣い、私の恩に報いよ。あたかも私が無条件に仏の行いを倣い、仏の恩に報いるように、怨言(えんげん)なく。たとえ怨言があっても、怨んだ後は、依然として代償を考えず、永遠に辛苦し続けよ。成仏する前であろうと、成仏した後であろうと。

我が咒力は、魔(ま)の咒力の百倍千倍万倍である。我が咒を受ける者は、魔の咒から脱し、永遠に魔の擾乱(じょうらん)を受けない。我が咒力は魔の咒を摂伏(せっぷく)し、魔力を仏力に変え、共に行人(ぎょうにん)を加持(かじ)して道に上らせ、勇敢に精進退転(しょうじんたいてん)せざらしめん!

十九、教師の日に教育を語る

無明は世間の隅々に浸透し、世俗界のあらゆる側面に浸透し、世俗の一切法の中に浸透しています。もちろん教育業界にも浸透しています。無明のない教育は仏陀の教育であり、無明が非常に少ない教育は菩薩の教育であり、その次は辟支仏(びゃくしぶつ)や阿羅漢の教育です。凡夫の教育はもちろん無明に満ちており、ただ世間法を成就するための教育であり、世間法がすべて幻化(げんけ)であり虚妄(こもう)であり、空(くう)であることを知りません。したがって、世間の教育はすべて世間に法があることを指し示しており、少しも空(くう)に触れることはできません。

教育は無数の人々に絶えず社会生活に適応させます。しかし、適応すればするほど心を空(くう)にすることが難しくなり、解脱を得ることが難しくなります。なぜなら、世俗の教育はすべて衆生に絶えず貪愛させ、絶えず執取(しゅしゅ)させるように導くからです。解脱した人々はもはや世俗法を貪愛せず執取せず、内面では社会とそりが合わず、表面上は仕方なくおざなりにするしかありません。歴史上のすべての祖師大徳(そしだいとく)は、ほとんどが長年にわたって世間の文化を学んだ人はおらず、大多数は早々に出家修道しました。すぐに出家できなくても、身は在家(ざいけ)にあっても心は道にあり、機縁が熟せばやはり出家修道しました。

仏教はなぜインドに起源を発したのでしょうか? 当時のインドでは誰もが解脱を望んでおり、出家修道する外道が非常に多かったからです。しかし、法を得られなかったため、一時的には解脱できませんでした。仏陀は衆生の解脱の因縁が熟したのを見て、八相成道(はっそうじょうどう)し、西インドに来て仏種(ぶっしゅ)を残したのです。そしてこの時代、仏教を学ぶ人は多く、仏法の普及範囲は広く、仏を信じ学ぶことが盛んになり、学識豊かな人も次第に増えています。しかし、なぜ仏陀は教化に来られないのでしょうか? 今は本当に解脱を望み、心を空(くう)にしようとする人がほとんどいないからです。すべて世俗に有(う)に執着する者ばかりで、根器(こんき)は良さそうに見えても、実質的にはそうではないのです。

仏法が氾濫すればするほど、邪法はそれに乗じて入り込みます。衆生は正邪を区別できず、邪を正とする人は少なくありません。仏法の繁栄の裏には凋零(ちょうれい)があり、繁栄すればするほど基盤は浅くなり、栄養はすべて表面に流れ、根はますます枯れていきます。細い水が長く流れれば、源々(げんげん)と絶えることがありません。仏教も同様です。ゆっくりと確実に発展してこそ永続きし、衆生は真に利益を得られ、仏教に流入するのは真の人才であり、縁の深い者であり、善根が成熟した者であり、仏教の棟梁(とうりょう)なのです。魚龍混珠(ぎょりゅうこんじゅ:玉石混交)、その極めて大多数は魚でありながら、得意げに自らを龍と思い込み、大いに誤解しています。明らかに鯉が龍門を跳ねるべきところ、結果は泳いで通り過ぎただけで、依然として魚の骨格であり、龍の影すら少しもありません。

二十、堕ちた天使

最初、地球は空しく人もいなかった

天使が降り立ち地肥(ちのみ:大地の滋養分)を貪り食らった

体が重くなり飛び立てず羽根は折れた

地球上に遂に人類が現れ始祖となった

故に私の祖先は堕ちた天使である

しかし私は天使ではない

私は純粋な人類である

堕ちた天使の末裔である

世々生々の輪廻を経て

最早天使の名はない

ましてや天使の尊容や神通力もない

故に私もまた堕ちた者である

何故天使たちは堕ちたのか

只だ地球の地味(ちみ:大地の味)を貪り食らったからだ

ここから地球で生息し繁殖した

初めは体は雲のように軽く心は欲念を離れ清浄だった

後には貪欲が次第に染み男女二性が現れた

故に遂に子孫が繁殖した

代々繁殖し部族群家国となった

遂に族長や王侯が族国を治めた

人類の習俗は次第に固有化した

田を耕し布を織り婚姻し嫁ぎ財色名食睡

欲染(よくぜん)は熾盛(しじょう)で貪るは人中の物事に過ぎない

牢獄に陥りいつ再び天使となるのか

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