仏法雑談(第二部)
仏法を学ぶ者が仏法において修めた福德、あるいは弘法のために修めた福德は、いずれも定数があり、限量のあるものである。限量のある福德を、もし世俗法に多く用いれば、仏法の修証に用いる福德は少なくなる。この二者は秤の両端の如く、一方が低くなれば他方が高くなる関係にある。例えば、世俗法において仕事の待遇が良くなり、職位が上がり、名誉が良くなり、地位が高くなり、権勢を得て、お金を多く稼ぎ、人縁が良くなるなど、要するにますます得意になり、ますます快適になり、家庭関係などもますます良くなるが、これらはすべて自分が学仏と弘法の中で修めた福を用いているのである。そうすると、福德は如来蔵銀行から現金化され、残りはわずかとなり、仏法修証に用いるのに足りるかどうかは保証の限りではない。
もし学仏の福德が足りず、修行がまだ向上しないならば、さらに福を修め続けなければならない。もし福を修め出しても再び世俗法に用いれば、修行に必要な時に福は依然として足りない。この循環では、いつ自分を修め持つことができるだろうか?したがって、福を修めながら、これらの福のうち何パーセントを修道に用いるか願を立て、できるだけ世俗法に用いないようにするべきである。なぜなら、割に合わず、現金化して使い切れば無くなってしまうからである。お金を多く稼げば稼ぐほど地位は高くなり、福德はより多く現金化され、如来蔵の預金はますます少なくなる。これでは何をもって道業を支え、修行して成道することができるだろうか?
お金を稼げば稼ぐほど良い、権利や名声が大きければ大きいほど良いと思ってはならない。弘法と衆生の利益のためにお金を稼ぐのでなければ、自分自身の如来蔵銀行の預金はますます少なくなり、修行を支えることができなくなる。賢く智慧ある人は、常に如来蔵銀行に相当程度の預金を保ち、現金化して世俗法に用いることはしない。世俗法はどうにかやっていければそれで良く、食べるもの着るものがあればそれで良い。修行に用いる福は必ず十分に、余裕をもって保証しなければならず、そうしてこそ修行は順調かつ迅速に進むのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、福を修めることと福を消すことの原理</h3>修道に用いる福は、衆生にとってどれも足りない。したがって、一方で絶えず福を修め福を造りながら、他方でできるだけ福を節約しなければならない。福は急速に消え去る。福を享受すれば消え去り、自ら誇って他を滅ぼしたり、あるいは他人から褒められたりすれば、福は消化される。悪業を造り、瞋恨・嫉妬・誹謗・両舌・悪口を働けば、福は消失する。もちろん善業を行えば福は増え、他人や団体に利益を与えれば福が増え、自らの道徳的品質を高め、心を善良にすれば福が増える。禅定は福德を増やし、多聞は福德を増やし、持戒は福德を増やし、忍辱は福德を増やし、もちろん様々な布施はさらに福德を増やすことができる。
また、比較的多く布施を行うことを好む人もいる。本来福も少なくないのに、いつも何の福も感じず、何をやっても順調でないのはなぜか?実は、この人は煩悩が重く、悪業を造る習慣があり、よく怒りっぽく、瞋心を起こし、人を嫉妬するのも好きで、仕事ではいつも人を排擠し、負けず嫌いである。こうして他人の利益を損ない、他人の利益を損なうことで、自らの福德を損なうのである。負けず嫌いの人は福徳を積みにくく、福徳を消耗する。他人を嫉妬し排擠し、他人の利益を損なうことは、もちろんすべて自らの福徳を損なう行為である。
心善く口善く身善きは、福を積む道である。逆に、煩悩習気が重く、心が狭く、口が善からず、好んで是非を弄し、身が善からず悪行を造ることを好み、心が善からずただ己を利することだけを考えるのは、福を消す行いである。煩悩は漏れとも言い、煩悩漏である。この漏れがあると、善業は集め難く、福も積み難い。少しばかりの福も煩悩のために漏れ出てしまう。したがって福はいつも足りず、ちょっとしたことで問題が起こり、心は安からず、道は堅固でない。人は病苦に遭い、面倒や災難に遭った時、いつも自然に起こったと思い、誰もがそう考えるので慣れっこになり、なぜ病痛や挫折などの様々な不如意が起こるか反省することはない。したがって教訓を吸収して自らを変えることができず、苦痛や悩みはいつまでも自分に付きまとう。何をやっても順調でないのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、有漏の福とは何か?無漏の福とは何か?</h3>福は有漏の福と無漏の福に分かれる。有漏の福は解脱の彼岸に至ることはできず、無漏の福のみが修行人を解脱の彼岸へと護送することができる。世俗法に求めるものがあって修めた福は有漏の福であり、世俗法的功利心を帯びて修めた福は有漏の福であり、我ありの心で修めた福は有漏の福であり、世俗法の回報を得るために修めた福は有漏の福である。無漏の福は無所求無所得の心で修めた福であり、功利心のない修めた福であり、自我のためでなく世俗の回報のためでない修めた福である。
有漏の福は享め尽くすことができ、世俗法で一たび享受すれば消えてしまう。絶えず福を修めて初めて享ける福がある。無漏の福は享め尽くすことはなく、修め出せば成仏の時まで保たれる。なぜなら無漏の福は功徳と繋がっており、功徳が失われなければ福も失われないからである。有漏の福は世間の煩悩と相応し、無漏の福は成仏度衆生の清浄なる大願と相応する。願いが大きければ大きいほど福も大きくなり、願を立てれば福が生じる。有漏の福は人の我見と我執を強化するが、無漏の福は逆に、修行人が我見を断除し、我見を消し去り、様々な証量と智慧を高めることを支える。
初めて仏法を学ぶ者は皆、有漏の善と有漏の福から修め始める。心がますます空に近づき、ますます無為になり、ますます無所求になれば、功が自然に成り、ようやく無漏の善と無漏の福を修め出すことができる。これが修行の過程である。学仏の最初の段階では必ずまず有漏の善と福を修めなければならない。なぜなら衆生の心に悪不善法があるからであり、善法をもって対治する必要があるからである。相当程度に修めた時、心は初めて空と相応し、心中の悪不善法はようやく消失し尽くす。この時は善法に執着してはならない。善法があると心は空でなく、道と相応しない。
私たちは今、皆四正勤の段階を懸命に学んでいる。皆懸命に悪を断ち善を修めている。悪をすべて断除した後は、善もわざわざ修める必要はなく、心中で善悪のどちらにも執着しなければ、真の無漏である。四正勤:未だ生じざる善を生ぜしめ、已に生じた善を増長せしめ、未だ生じざる悪を生ぜしめず、已に生じた悪を断除する。この段階は誰もが経験しなければならない。修行が精進すればするほど、四正勤はより早く修め終わり、無漏を証得することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、福德の差が正報依報の差をもたらす</h3>三界六道において、福德の大きい衆生は天界で楽しみを享受し、一部は人界にいる。福德の小さい衆生は三悪道で苦しみ、一部は人界で苦しむ。福德が大きければ大きいほど寿命は長く、福德が小さければ小さいほど寿命は短い。もし苦しむならば寿命はますます長くなる。天人は人間の寿命を多くても数分と見なし、一生は急速に滅び、また急速に生まれ、とても退屈である。人間は畜生、特に細菌の生命を見るとき、それも非常に速いものである。
蟻や蜂は一生懸命に働き、真面目に生き、チームワークは整然としているが、人間から見て何の意味があるだろうか?人間も同様に、一生懸命に働き、真面目に生き、名利権位、様々な第一第二を争うが、天人から見て何の意味があるだろうか?人間同士の様々な争いは、蟻同士の蟻の卵争いの如く、蜂同士の花粉や蜜争いの如くである。人間は自分を偉大だと思い、蜂や蟻も自分を大したものだと思う。自惚れはどれもこの程度のものであり、すべて眼界に制限されている。福德が衆生の生存方式と理想道徳を制限するのである。
福德の足りない人は皆世俗法に没頭し、世俗法で何らかの成果を上げようと一心に努める。福德の大きい人は、一心に出世間法に没頭し、出世自在解脱を目指す。福德が人心と理想的行動を制限する。ある人に多くの福を修め功徳を行う機会を与えても、彼の福德が足りないと、福を修めるのも功徳を行うのも好まなくなる。欠けているものは補い難く、福徳が欠けていると、福徳を修めにくい。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、福德の重要性</h3>福德は仏法修証の礎石である。もし福德が不足すれば、禅定は修められず、禅定がないか禅定が不足すると、法義を理解するのは非常に困難である。福德が不足すると、あることは見た目は非常に容易だが、どうしてもできない。明らかに持戒は容易だと感じるのに、戒を持てない。ある法は明らかに容易に理解できると感じるのに、深く観行できない。福徳がなければ、何事も思うようにならず、世俗法上の様々な事業も含まれる。禅定と福德が具わった後は、あらゆる法において観行の智慧が生じやすく、私たちが空を証得し、心空にして我も無く物も無く、解脱自在となることを可能にする。修行はまた様々な見道の因縁を円満にする過程でもある。因縁条件が具わって初めて、見道して法眼浄を得、空三昧を証得することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、福報と福德の区別</h3>衆生は布施によって福を得るが、布施の心の状態によって得る福は異なる。言う心の状態とは、有所得の心、利己心、有所求の心、貪欲心などがあるかどうかである。もしこれらの心行・心態・考えがあって布施を行えば、ただ福報を得るだけで、福德は得られない。徳は心行が清浄で、無我無私、回報を求めず、何も求めない、あるいは個人の私利私欲のために求めず、純粋でない目的がないことを表す。清らかな心こそが徳であり、清浄無欲の心こそが徳である。そのような心で布施を行って初めて、福德を得、成道し、道を持つことができる。
徳があれば、波羅蜜があり、智慧の彼岸に至ることができる。徳がなければ、波羅蜜がなく、智慧の彼岸に至ることができず、修道は成就しない。有所求の心量は非常に小さく、得る福は当然小さい。無所求の心量は非常に大きく、得る福も大きく、徳も大きい。
したがって布施する時は、できるだけ求めたり、貪欲を持ったり、功利心を持ったりしないようにする。何事をするにしても、もし貪求や貪欲、私心、純粋でない目的、清らかでない心があれば、功徳はあり得ない。有所求の心量は非常に小さく、得る福は当然小さい。無所求の心量は非常に大きく、得る福も大きく、徳も大きい。
常に布施行を修める人は、静かに心を落ち着けて自らを省み、布施を修め福を修める目的は何か?純粋に道業のためだけか、あるいは衆生のためだけか、もしその中に貪欲が混じっていると気づいたら、絶えず自心を清浄にし、染汚を取り除き、覆いを除く必要がある。なぜなら、これほど努力して布施してもただ福報を得るだけで、波羅蜜がなく、福報が消耗し尽くせば何も残らないからである。徳は存在せず、道業上で進歩することはできない。逆に、無所求無所得の心で、利他の心で布施を行い福を修めれば、福德を得る。福だけでなく徳もあり、徳は永遠に自らのものであり、消失しない。それは道業を成就する資本と資糧である。
<h3 style="text-indent: 2em;">七、享楽は福を消すこと</h3>学仏修道者は常に自らを省み、どの面で絶えず福德を消耗しているか省み、気づいたら改め、容易に自らの福德を浪費しないように注意し、道業が速やかに進むようにすべきである。現代社会は物質生活が発達しているが、これは現代の衆生の福德が大きく、仏在世当時の衆生の福德が小さいことを意味するのか?決してそうではない。福德の大小は表面的な豪華さではなく、精力と福德を道業に、善業に用いることができるかどうか、絶えず智慧の宝蔵を開くことができるかどうか、福德をすべて如来蔵に残して後世の修道に用い、世俗法に空しく消耗しないかどうかにある。
世の人の福德が不足すると、往々にして浮華の世に生まれ、容易に福德の種子を現金化し、世の楽しみを享受し、自らの権貴を誇示するために用いる。もし学仏者が覚らずに世俗の享楽に順じ、自らの福德を勝手に消耗し、無益な俗事を行い、道業を考えなければ、それは智慧も善根もない証拠である。善根と智慧ある人は、福德を取っておいて修道に用い、現金化して世俗法の享受や見せびらかしに用いない。多くの人はいつも世俗の名利や権貴を持つことを誇りとし、虚妄の生滅法にこだわり続け、富貴栄華が空花の如く、まもなく滅びることを知らない。あっても空である。世人は空を体験することが難しく、ただ有ることを知るだけである。したがって、後世のことを考えず、時を惜しんで楽しむ心態があるのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、無為の福を得る方法</h3>世の人は大抵、有為の福を享受できるが、無為の福を享受することはできない。なぜなら大多数の人の心は有為であり、無為になれないからである。無為の福は極めて大きく、有為の福をはるかに超える。一般の人は無為の体験がなく、両者の差を体験できない。有為の人は世の中で心が空でなく、様々な心の動き、様々な執取、様々な造作があり、動揺が止まず、止まることを肯んぜず、非常に忙しく、絶えず身心を消耗している。多少の労苦の有為の福を享受できるが、代償は大きく、得るものより失うものが多い。したがって妄想を減らし、多く身心を平復し休養すれば、次第に禍いのない清浄な無為の福を得ることができる。
どうやって身心を平復し無為の福を得るのか?五蘊世間の一切法の空を多く観察し、少なく動き少なく行い、一切の人事物に対して少なく心を動かし少なく感得し、喜怒哀楽などの身心を傷つける感情を少なくする。なぜならすべて必要なく、生滅幻化無常の法であり、因縁によって出現する法であり、因縁が滅すれば法も滅するからである。執取しても無駄であり、結果はすべて空であり、なお非常に多くの時間、精力、心血を消耗する。大智大心の者は長久と永久に着眼し、無心の功夫を多く行い、感情的な反応を減らすべきである。どんな境界に遭遇しても、心は空でなければならず、他の念想はない。次第に心は平淡清浄になり、消耗が少なくなり、身心健康で、心は無為となり、道業も進歩する。
心態が平穏で、念想が非常に少ない人は、心が比較的純粋で善良であり、複雑な考えがなく、身心健康が調和し、磁場が良く、親和力があり、人間関係が良く、無意識のうちに無為の福を集める。ある人は世間の一切法に執取して捨てず、思想・感情・心境が無常に変化し、身心ともに苦しみがある。多少の有為の福を得られるが、代償は大きい。したがって心を空にできれば無為の福があり、心を空にすることこそが世間最大の享受であり、心が清浄である果報である。
<h3 style="text-indent: 2em;">九、福と苦の関係</h3>多くの小動物は夜行性の衆生であり、昼は眠り夜中に活動し餌を探す。なぜなら光や人を恐れ、明るい時はできるだけ出てこないからである。これはそれらの色身の仕組みによって決まるものであり、また福がなく自力で生きられず盗み食いをしなければならないことによって決まるものであり、要するに業力によって造られる。小畜生は福徳がなく、人を恐れ、自分より福徳の大きい衆生を恐れなければならない。同類の衆生も同様で、福の大きい者が指導的地位を占め、同類の首となる。
したがって、もし各人が福徳を消耗し尽くし、なおかつ三悪道の業があれば、必ず三悪道に行って苦しまなければならない。三悪道はほとんど福を必要とせずに生きられる。福がなければ必ず苦しみがあり、福と苦は秤の両端の如く、一方が低くなれば他方が高くなる。もし学仏者も多く福を修め、福徳を少なく消耗することを知らなければ、実に残念なことであり、福が消耗し尽くされることを知らず、福徳がなければ大いなる苦しみを受けることを知らないのは、無知と愚痴である。福を修めようとせず、はたまた手を挙げる労力で他人に利益を与えることさえしようとしない人は、決して賢い人ではなく、心中に自分しかいない人は皆、賢く智慧ある人ではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十、なぜ徳が位に伴わなければ必ず災いがあるのか?</h3>徳とは、福徳、品德、人格、修養、才能、才幹などの利用可能な資源を含む。位とは、地位、権勢、名声、名称、眷属、利益などを含む。これらの資源を投資してその位を得る。もし資源が不足すれば、それは高利貸しであり、最後には資産が負債に抵らず、倒産、破産、負債となり、場合によっては家破人亡し、生命をもって負債を弁済することになる。もし生命も負債を弁済するのに足りなければ、福徳の欠如が大きすぎて三悪道に堕ち、はたまた三悪道の最底辺に沈み、再び上がるのは非常に困難になる。
世の名声権勢は誰もが良いと思い、欲しがるが、福徳は足りない。もし手段を弄して強奪すれば、高利貸しは人に多大な代償を払わせ、最後には無名で過ごす方が確かで実在すると気づく。人生在世で何を争うのか?手に入れたものはすべて相応の福徳を消耗する必要がある。福徳を消耗し尽くせば、人としての資格も無くなる。したがって名聞利養を追求せず、他人に自分を高く評価させ高く持ち上げさせようと求めず、尊重や権貴を求めず、人に仰がれることを求めず、手段を選ばず、人の上に立つことを求めない。人の下にいる者の方が利益は大きく、謙虚で譲ることは即ち福を生み、慎重であることは即ち福を生む。
逆に、自らの様々な欲望がすべて実現した時、即ち福徳を消耗し、名声が上がった時、即ち福徳を消耗し、志を得て満足した時、即ち福徳を消耗する。福徳を最も大きく最も速く消耗するのは、悪事を働き悪業を造ることである。戒を犯し規則に背くことはすべて福徳を最も大きく消耗する行為であり、五戒十善に背き、殺生・偸盗・邪淫・妄語、貪・瞋・嫉妬、両舌・悪口、奸逆の小人となること、一切の悪心悪行は、いずれも福徳を極めて大きく消耗する。福徳が尽きれば、人間界の一切の事業は休廃し、もはや人として存在する必要もなくなる。
得ることは、即ち福を消すこと。失うことは、即ち業を消すこと。人から尊重されるには、福徳を消耗する必要がある。人から罵られることは、業を消すことができる。したがって忍辱は徳であり、忍辱は福を生み、忍辱は大業を成し遂げることができる。見道成道することは即ち大業であり、最後に成仏し、頂業成就すれば、もはや修行する必要はなく、大楽である。したがって忍辱は大業と大楽を成し遂げることができる。福は享め尽くしてはならず、辱は受け尽くしても良い。福は享めなくても良いが、辱は必ず受けるべきである。大志ある者は肝に銘じよ。
<h3 style="text-indent: 2em;">十一、福厚くして実を沈め、福薄くして軽く浮く</h3>種を蒔く前に、まず種子をしばらく水に浸してから土に蒔く。種子は事前に水をたっぷり吸い込み、土の中に埋めると発芽が早い。浸している時、水面に種子が一層浮かぶ。これらの種子は成熟しておらず充実しておらず、発芽して作物を生長させることができない籾殻であり、種子として用いることができない。したがって水面に浮かぶ種子を除去し濾過し、残った実った重いものを土に蒔く。これは何を喩えているのか?生きた人が海に飛び込めば海に沈没するかもしれないが、死んだ人は海の中では海水に持ち上げられて海面に浮かぶ。これは何を喩えているのか?秋になると、高粱畑で、成熟した高粱は粒が充実し、高粱の頭を垂れさせ、はたまた高粱の茎を腰まで曲げる。しかし成熟していない高粱は茎が真っ直ぐで、風に揺られて漂い揺れ、特に誇示する。これは何を喩えているのか?
福が薄いと衝動的な習気を抑えられず、福が薄いと何も抑えられず、煩悩習気はすべて浮き出てくる。なぜ分からないのに分かったふりをして人に指図するのか?なぜ毎日浮ついた言葉が多いのか?重厚な人は決して多くを語らない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十二、善を積み福を得ることをどのように最大化するか</h3>善行が人に知られなければ、それは陰徳を積むことである。人に知られずに得る福は、人に知られ恭敬されて得る福よりも大きく、陰徳は陽徳よりも大きい。なぜなら人に知られると人から恭敬され讃嘆され、そうすると福徳は一部の報酬を得てしまい、後で得る福は少なくなるからである。恭敬・讃嘆・羨望の回報は何の意味もなく、ただ自己良好感を得るだけで、我執を強化するに過ぎない。そのような回報を得る価値はない。
善行が人に知られなければ知られないほど、得る讃嘆が少なければ少ないほど、将来得る福は大きくなる。心が自らの施しをますます気にしなければするほど、福を得ようとする心がなければないほど、将来得る福は大きくなる。心がますます無為であればあるほど、得る福は大きくなる。仏が無為福勝と言ったのはこの意味である。心量が大きければ大きいほど福は大きく、無所求の心量が最も大きく、得る福も最大である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十三、どのように修めれば福報を最も速く増やせるか?</h3>問:どうすれば最も速く福報を増やせるか?金剛経や楞厳呪を専念しても良いか?
答:経を念ずることは確かに福を生むことができる。この種の福は智慧の福であり、智慧によってもたらされる福である。福は智慧に関連し、主に智慧の面で顕現し発揮される。しかし経を念ずる福がどれほどの時間内に福業の種子が成熟し、因縁が具わって福徳が現れ受用されるかは、はっきり言えない。一般的に言って智慧の福の実現は速くなく、すぐに現れることはない。はたまた臨終まで福報が現れないこともある。持戒と修定も福を生むことができる。この福業は戒律と禅定に現れ、人の心を清浄無煩悩にすることができるが、財禄の福を得られるとは限らず、衣食住などの五欲楽を得られるとは限らない。
福を生むルートは多く、善業、清浄業であればどれも福を生むことができる。したがって各方面の福を均等に修めなければならず、偏ってはならない。戒定慧だけでなく、財布施、法布施、無畏布施、一切の衆生に有益な事業はすべて福を生み、すべて修めなければならず、どれか一方を偏って廃してはならない。さもなければ福は偏って具わらず、依然として不円満で欠陥があり、果報は完全に意のままにならず、もちろん証道することはなおさらできない。多くの人はただ経を読み法を学ぶことだけに興味を持ち、他の方面は気にせず重視しない。結果として学んでも学んでも何年経っても元のままであり、慢心を増すかもしれず、慢心をさらに深刻にし、福のない人は煩悩が増す一方である。
実は福を増す最も速い方法は大菩提心を発することに過ぎない。世尊は多くの大乗経典で衆生に菩提心を発するよう勧めている。これは修行の秘訣と鍵であり、直接後世の行く先を決定する。後世どこに行くかも、福業によって決定される。一般的に言って、福のない人は三悪道に行って苦しみ、福の大きい人は天に昇って福を享受し、あるいは諸仏国土に行き仏のそばで修道する。中福の人は人身を得ることができる。大菩提心を発する人は願力が大きく、もし願力が業力と較べて業力より大きければ、命終には業力が主とならず、業力に牽かれず、願力が主となり、願力が後世の善道と諸仏国土への行き先を決定する。したがって大菩提心を発して得る福は最も速く最も大きく、成仏も最も速い。一切の福は大菩提心を発する福に比べることはできない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、小善と大善</h3>小善は跡を辿ることができ、発見され感知されやすい。大善は無形であり、感知されにくく、発見されにくく、理解されにくく、はたまた誤解されるかもしれない。小善は短期的効果であり、ただ眼前を顧みるだけである。大善は根本と究竟に着眼し、長い未来に着眼し、眼前の得失を顧みない。小善は善と見なされやすいが、大善は悪と見なされるかもしれない。小善は偽装できるが、大善は人に知られることを潔しとしない。小善は人に褒められるが、大善は理解する者が少なく、はたまた悪とされる。要するに、智慧のない人はいつも逆さまに錯見し、正理を明らかにしない。もし世人の逆さまな錯見を帰依とすれば、世間に善は存在しなくなる!
もし世人の指し示す方向に従えば、ただ破滅と輪廻へと向かうだけである。もし世人の指し示す方向に背けば、必ず世人に唾棄される。大善は為し難く、大道は行い難い。これが道理であり、すべて世人によって障られるのである。世人は翳った目に花が生じ、他人に珠がないと言い、横槍を入れて責める。実は労病が発したものである。病が膏肓に入り、医者の指示を信じなければ、救い難く治り難い。ただ業に従って苦しむだけである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、善業を行う際の作意の重要性</h3>法布施またはその他の善事を行う際は、いつでも良い作意を持つべきである。心の中で他の人がこれによって様々な利益を得られることを願う。このような心願を発した後は、護法神が心願を成就させるだけでなく、自らの如来蔵も心願を成就させる。そうすると布施された人は感応を得て、加持を受け、心情は愉快になり、布施を受け入れやすく、心量を開き、智慧を生じる。こうして善縁が結ばれ、自らもこれによって福徳と功徳が増え、事半功倍となり、自他双方が利益を得、事は円満に行われる。
心意はすべてを変えることができる。回向に類似し、一人の善心の念が発せられると、磁力が生じ、磁場のエネルギーが増強され、人を摂受しやすい。発心が至誠であれば、加持力と導き力があり、相手は心霊感応を得て、読むのが楽で愉快になり、効果は良くなる。祝愿咒愿はこの作用を果たす。他人が加持助力を得て良くなれば、自らの福徳功徳は自然に大きくなる。これを自利利他と言い、人を度する者は自らを度するのである。何事をするにしてもそうであり、自らの心意を加え、至誠の心で事を行い、専念の心で事を行えば、何事も良くできる。飯を作れば飯は香り、花を育てれば花は繁茂し、菜を植えれば菜は高収量となり、事業を行えば事は成し易い。
各人の用心が異なれば、結果は大きく異なる。他人に自らの真誠を感じさせれば、他人はあなたの真誠に応え、回報は速やかに来る。なぜある人は人と付き合う時、他人に好かれるのか?真誠心と専念心があるからである。善意を発すると、他人は感じ取ることができ、応答と反響もあり、これが効果である。華厳経で世尊は、何事をする時も相応の呪文を念じ、他人が善果を得ることを願い、他人が善法の功徳利益を得ることを咒愿するよう教えている。咒愿が実現すれば、衆生は利益を得、自らは当然の功徳と福徳を得る。利他は必ず自利である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、主観的故意の布施の果報は何か?</h3>主観的能動的な布施は、個人が福を修めるためであり、後世の果報は当然福を得ることである。その中で他人の利益を侵害・損害せず、他の人が利益を得ることも妨げず、しかも布施の対象も利益を得る。したがって結果は双方の勝利である。もし成仏道のために福を修める心で発心し、衆生を救うために福を修めるならば、今世後世の福徳はさらに大きくなる。もし何のためでもなく、何も図らず、ただ布施の機縁に遭遇し、縁に従って布施を行い、応縁の行いの布施であり、心が空であれば、この福徳はさらに大きく、無為の福が最大である。これは金剛経で仏が説いたことである。
布施行を修めるには次第がある。まずは自らが福を得るために布施を修め、心がもう少し広くなれば、衆生が利益を得るために布施を修める。この布施には波羅蜜があり、解脱の彼岸に至ることができる。心がさらに広くなり、心が空で願いがなければ、修めるのは無為の布施であり、仏から授記を得ることができる。心の広さはすべて福徳によって決定される。福徳が小さければ心量は小さく、福徳が大きくなれば心量は広大になる。したがって菩提心を発し、大願を発することも、福徳の支えによる。福徳が大きくなれば、眼光は広くなり、遠くを見通し、智慧は広大で妨げがない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、福大なれば魔を降す</h3>もし勤めて福徳を修めず、勤めて智慧を修めず、信根が具わらず、善根が具わらなければ、修めているうちに魔が憑依し、その人も魔が憑いていると知らない。楞厳経第九巻には多くの悪魔憑きの事例が説かれている。自ら多く照らし合わせよ。悪魔が憑依する時、最初はあなたに多くの世俗法の利益を与え、身心を愉悦快楽にさせ、禅定を得させ、財産を得させ、病が退いて身体健康にさせ、神通があるかのように思わせ、自らを大したものだと思わせる。実はすべて魔力であり、自らの道行ではない。悪魔があなたを利用し尽くし、利用価値がなくなると、魔心は厭きてあなたを捨てる。そうしてあなたは何か?正体を現し、死後は地獄である。
仏は人身を得る者は爪の中の土のように少なく、人身を得ない者は大地の土のように多いと言われた。仏陀のこの言葉は完全に確かか?現代の衆生を観察すると、善根福徳ある人はあまりにも少なすぎる。たとえ学仏しても、無数の貪瞋痴の煩悩が心に付着している。したがって無数の学仏者が命終しても依然として三悪道で報いを受け、ただ真に我見を断った者のみが三悪道を免れることができる。しかしどれほどの人が真に我見を断つことができるか?極めて少ない。もし仏を謗り法を謗れば、普通の三悪道ではなく、無間地獄道であり、極めて長い年月の煎熬であり、出る期はない。衆生は確かに可哀想であるが、その可哀想な人には必ず憎むべき点がある。
一部の衆生が精進して仏法を修学し、無明煩悩が軽減し、福徳が増加すると、必ずその自心の器世間を変える。同時に共業衆生の如来蔵もその感応を受け、美しく豊かな器世間を顕現し、世界は美しく見え、様々な資財は豊かになる。世間がますます美しく豊かになると、これに相応する善根福徳ある衆生が生まれ変わり、世間をさらに美しく光明に導く。福徳の足りない衆生はこの世間と相応せず、悪業衆生はますます少なくなる。これは良性循環である。逆は悪性循環であり、悪業衆生が増加し、善業衆生が減少し、菩薩もこの世間に来ることを願わず、この世間の生活環境は悪化する。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、善根を植えることの重要性</h3>一闡提が善根を断つとは、一般的に真如心如来蔵を信じないことを指すのではなく、信じないと同時に悪口を浴びせ、極めて重く誹謗し、影響が非常に良くないことを指す。如来蔵を信じない人は大多数を占めるが、一闡提の罪人は多くなく、極めて少数である。さもなければ無間地獄は収容しきれない。
文殊菩薩が五百比丘に大乗法を説いた。比丘たちは信じないと同時に立ち去り、心に瞋心、特に文殊菩薩の説法に対する瞋心があった。この罪は一般人に瞋心を起こすよりも何倍も大きい。したがって彼らは地獄に行き苦しんだ。これらのことは文殊菩薩がすでに予見していた。舎利弗が文殊菩薩に、この結果を知っていながらなぜ彼らに大乗法を説いたのかと尋ねた。文殊菩薩は、彼らが地獄に堕ちても、彼らの善根はすでに成熟しており、地獄で懺悔を知り、一念悔心で地獄の罪が消え、天に昇り、再び人間に生まれ変わり大乗法を修学し、最後に証道すると言った。もし彼らに大乗法を説かなければ、彼らは地獄に堕ちることはないが、善根福徳を植える機会もなく、大乗を学び証道する機会もない。
したがってあることは一時的に見ると不善不利であるが、長い目で見ると大きな利益がある。大菩薩の見識は広大で、目は遠くを見通し、長い利益を見ることができ、なすことすべてが有情を饒益する。普通の人はただ眼前の利益しか見えず、遠くを見通せない。したがって見識が浅い。
学仏者は学仏である以上、多く仏経を読み、仏の三大阿僧祇劫の修行経歴を多く理解し、諸大菩薩の修行歴程も多く理解し、仏菩薩の大智慧行を多く理解すべきである。自身の修行に対しては極めて大きな指導的意義があり、茫然として知らないことはなくなる。仏経に説かれていることは全面的で究竟であり、内容が豊富で詳しい。多く読めば必ず大きな益を得る。後世の基礎を築き、仏菩薩を見分ける慧眼も得られ、各伝法の人が善知識か邪師かを識別でき、人に欺かれず、邪路を歩まず、成仏が速い。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、如何に最大限に縁を結び福を積むか</h3>修行は一歩進むごとに非常に多くの福徳の支えを必要とする。福を積むことは衆生を離れられず、衆生を離れれば福を得ることはできない。仏道を成就するにも非常に多くの衆生の支持と護持が必要であり、衆生を離れれば成仏することもできない。したがって多く衆生と善縁を結ぶことは非常に重要である。どうすれば最大限に衆生と善縁を結べるか?色身が実際に衆生と縁を結ぶことは非常に限定的であり、接触面は狭い。しかし心念で衆生と結ぶ縁は多く速く、福徳を積むことも多く大きく、色身の制限を受けない。
二つの方法で最大限に衆生と縁を結び福徳資糧を積むことができる。第一の方法は回向である。華厳経では普皆回向と言い、自らが修めた一切の善法と功徳をすべて法界の一切の衆生、三界六道、二十五有、胎卵湿化、蜎飛蠕动、一切の含霊有情に回向する。回向の原則は毎日一回向、あるいは毎回修めた不固定の善法を速やかに回向する。こうして回向された衆生は善法功徳を得て、加持を受け、自らと善縁を結ぶ。自らはこれによって衆生と善縁を結んだだけでなく、同時に衆生を助けて得た福徳と功徳を得る。こうして絶えず縁分と福徳を累積すれば、自らの修行の資糧はますます多くなり、修行の道はますます順調に進む。したがって私たちは自身の道業のために、毎日回向し、定期的に回向し、多く菩薩道を行い、多く衆生に利益を与え、衆生と共に成仏することを願うべきである。
第二の方法は鬼神などの陰界衆生に施食することである。鬼神道の衆生は非常に多く、虚空界に遍く、十方世界に遍く、心念力が十方世界に届けば、十方世界の鬼神は皆利益を得、皆縁を結ぶことができる。心念力を強くするには、定力と観想力を強くし、同時に慈悲心と心願を顕発しなければならない。こうして摂受する衆生は多く広くなり、善縁が多くなれば福徳は次第に広大になる。
施食の具体的な操作は以前に話した。ここで簡単に補足する。一般寺院の施食儀軌はやや複雑であるが、実際は簡単に速くできる。生または熟の七粒の米、あるいは七粒の米の大きさに相当する他の種類の飲食を取り、ある程度の空間のある広々とした場所に置く。口で「汝等鬼神衆、我今施汝供、此食遍十方、一切鬼神共」と念誦する。念じ終わった後、施食呪文「嗡、穆立陵梭哈」を七遍念じる。その後、指を三回鳴らす。この時、鬼神は飲食を受用できる。手印を打つ必要はなく、鬼神を召請してそばに来させる必要はない。飲食を自動的に十方界の鬼神の前に届けるようにする。そうすれば鬼神の悩みや縛りに遭わない。
ここで最も重要なのは、七遍呪文を念じる時の観想である。観想が良ければ、飲食は勝妙に変わり、かつ十方に遍く、一切の鬼神は皆食を得ることができる。どのように観想するか?まずは「此食遍十方」の意味を理解しなければならない。十方とは娑婆世界を中心とする十方の虚空世界であり、布施する飲食はこれらの処所に遍満する。
娑婆世界という一つの三千大千世界の処所だけでも無量無辺であり、十億の南瞻部州、北倶盧州、西牛賀州、東勝神州、十億の四大海、七金山、地獄、須弥山、月宮、日宮、さらに十億の四天王天、忉利天、焰摩天、兜率天、化楽天、他化自在天、および色界の初禅天を含み、二禅天から非想非非想天まで加わる。十方世界は娑婆世界のように大きな仏国土がさらに無量無辺である。もし飲食をこれほど多くの世界虚空中に観想できれば、鬼神は皆受用でき、その福徳は実に大きすぎ、衆生縁は広すぎる。
ではどうすればすべて観想できるか?これは少しずつ自らの観想力を訓練しなければならない。七遍呪文を念じる時、心中の観想は所在の区県範囲から次第に拡大し、どれほど拡大できるかはすべて観想力による。呪文が止まれば観想も止まる。一般的に言って、鬼神が遊歴する処所は主に川辺、山の下、森の周囲、十字路、平原、山川、虚空などである。飲食をこれらの処所に観想し、心中の念いが速やかにこれらの処所に届けば、飲食はこれらの処所に出現する。
観想が熟練していない時は、呪文をゆっくり念じ、観想は定力に従って次第に処所を増やし、近くの区県から市省、全国、全地球、四大洲、須弥山下の四大海、そして千の小世界、三千大千世界、最後に十方世界までとする。最初は観想定力が不足する時、省市全国の虚空山河大地だけを観想しても良い。観想能力が向上した後、次第に範囲を拡大し、十方世界虚空に達するまでとする。飲食面では、できるだけ飲食を精美に観想するが、自らの能力に従うべきである。これは自らの観想力を養う極めて良い途である。
観想は学仏修行において極めて重要である。最後に仏法が成就するのは、大部分が観想による。十方世界はすべて妄想から生まれたものである。私たちはなぜ想をうまく利用して、世界をより完璧にしないのか?実は私たちは戒を受ける時、すでに観想を用いている。例えば梵網経菩薩戒の三翻羯磨の時は、三度仏菩薩が放光し照らすことを観想し、仏光が頭頂から全身に灌入することを観想する。観想が成就すれば諸仏菩薩の加持を得、菩薩戒体を得る。今後戒体が護身となり、初めて非を防ぎ悪を止め、犯戒の因縁が出現した時、速やかに回避し、菩薩戒を犯さず、戒体を保全できる。修行は障りなく、順調で速い。また円覚経で仏が説く三摩鉢底は、観想で仏法を成就する。要するに、修行は観想を離れられない。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、修行は定福だけでは足りない</h3>世の中で生活するにしても出世間法の修行にしても、禅定上の福だけでは全く足りない。外道はただ禅定を修め、禅定上の福だけを持ち、智慧上の福がなく、大菩提心を発する福がなく、布施上の福がない。この種の福は禅定の中でしか享受できず、どの天界に住んでも定中で福を享受し、定から出れば何もない。釈迦仏の外道の師は禅定の福だけを持ち、智慧上の福がなく、三界で最も高い非想非非想定に修めた。未来世何劫か後に定から出た時、かつて発した悪願に従って悪業を造り、その後悪業の縁に従って地獄に堕ち報いを受ける。したがって禅定の福だけでは依然として有漏で不究竟であり、解脱と自在を保証できず、涅槃に入り仏道を成就することを保証できない。学仏は多方面で福を修めるべきであり、福がすべて円満になって初めて、修行の道はますます順調に、ますます遠くまで進み、制限を受けない。
たとえ定福があっても、あるいは他の方面で非常に大きな福があっても、日常生活で勝手に浪費してはならず、すべて世俗生活に用いてはならない。修道に取っておくべきである。道が修まれば、世間の福は問題ではない。福徳は修道にとって非常に重要であり、ほんの少し福が足りないだけで修行は一つの段階を越えられない。したがって修行人は高い志気を持ち、遠大な目標を持たなければならず、眼前の低品位の享受を貪ってはならず、生滅法を問題にせず、初めて不生不滅の永遠に達することができる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、福を修めることは修行と言えるか?</h3>修行の指向は戒定慧を増長し、煩悩を降伏し、貪瞋痴を滅することである。もしそうでなければ、修行とは言えない。布施福を修めることも同様で、どのような心で福を修めるかを見る必要がある。もし自らの貪欲などの欲望のためでなく、恩を着せて報いを求めず、純粋に衆生の利益のために、菩提心を抱いて福を修め、道業に助益作用を果たし、戒定慧を生じさせることができれば、このような福を修めることは修行と言える。菩提心を発しない福を修めることは、最終的にはただ貪瞋痴を増やし、無明を増長するだけで、それは修行とは言えない。
明らかな事例は魔王波旬である。波旬の前世は寺を建て、辟支仏を供養し非常に大きな福報を得て、彼を他化自在天天主にした。彼の前世に菩提心がなく、福を修めるのは道業のためでなく、貪欲を満たすためであった。彼はこの大きな福報をもって六道衆生を支配し、彼の眷属欲を満たした。彼は衆生が彼の掌握から離れることを許さず、絶えず仏法を破壊し、衆生に欲界を離れる機会を与えず、まして六道を離れることはできず、永遠に彼の魔眷属となり、彼と共に貪欲に生死輪転するようにした。
したがって菩提心を発さずに福を修めると、福報を得た後大悪業を造る可能性があり、福を修めないより悪い。もう一つの事例はヒトラーである。ヒトラーの福報も非常に大きかった。大きな福報があるため、大悪業を造ることに何の妨げもなかった。彼が殺した人は娑婆世界で最も多く、彼が地獄に堕ちるのは本当に出る期が難しい。もし彼が福を修めなければ、世界は平和になり、衆生は生死の苦しみを受けずに済んだ。
菩提心を発さずに諸善法を修めることは魔業である。この理に対して、ある人はまだ様々に不服である。事実はここにある。まだ何が不服なのか?多くの大悪業は、福のない人に造る能力があるのか?福が大きく権力が強く勢いが強いと、悪業を造るのを止められる人はおらず、誰も比べられない。このような福は衆生の不幸である。