仏法雑談(第二部)
学校において、合格した学生は必ず徳・知・体の全面的に発展した三好学生である。仏教において、仏陀の良き弟子は戒・定・慧が全面的に発展し六波羅蜜を具えた仏弟子であり、才能と心性が完璧に結合した修行者である。徳と才を兼ね備えた人物は非常に稀な人材であり、もし特定の能力だけを持ち心性が善でなく調和していないならば、そうした人物は重用できない。心性が善良で能力が不足しているならば、まだ辛うじて用いることができ、育成可能である。能力と心性の両方が伴わないならば、断じて用いてはならない。
心性は無我の上に現れる。我見を断つ前は、ある者は我執が重く、ある者は我執が軽い。我執が軽微な者は当然、我執が重い者より我見を断ちやすく、悟りを証しやすい。常に他人を支配しようとする者は我執が重い者であり、管理されることを好まず指導者に従うことを嫌う者もまた我執が重い者であり、心性が調和していないのは全て我執が祟っているのである。我執が軽微な者は比較的気楽で、人当たりが良く、人や事柄に対して無頓着な態度を持ち、自身の地位や権勢をあまり気にしない。集団で問題が最も多いのはこうした我執が重い者たちであり、強力な指導者がいなければ、この集団は混乱に陥る。
一つの仏教団体には必ず護法神が守護しており、護法神は一人ひとりの心性を熟知している。この人物がどのような心性で、どのような目的を持ち、どのような役割を果たせるか、護法神は全て明らかにしている。故に、ある人物が集団でどの役割を担うべきかは護法神が管理し、私心が強い者が集団に破壊的な作用をもたらせば、護法神はその者を排除・隔離する方法を講じる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、なぜ時間に速さ遅さの違いを感じるのか</h3>一つの事に集中し、他を顧みない時は時間の経過が早く感じられる。もし心が散乱し、懸念や期待があれば、時間の経過が遅く感じられる。覚受は心境に依って変化するものであり、不実で頼りにならない法である。苦しい時も時間の経過が遅く感じられる。それは苦しみが早く終わることを望み、期待があるからであり、時間に関係するため時間が遅く感じられるのである。楽しい時は時間の経過が早く感じられる。心が楽しい事柄に注がれ、集中もまた心が対象とする事柄にあるため、時間は知らぬ間に過ぎ去る。
苦しい時は時間が早く過ぎることを望む。これは苦しみを止めたいという希望である。楽しい時は時間が過ぎ去らないことを望む。これは楽しい覚受をもっと享受したいという希望である。修行者は時間がゆっくり過ぎることを望み、意義ある事柄、例えば自己を鍛錬し道業を高めることをもっと行いたいと願う。禅定の中では時間は停滞し、時間がなくなる。実に心地よい。しかし定の外の人事も世話する必要があるため、定から出ざるを得ない。苦しい覚受を減らしたいならば、多く念仏・念呪・念経を行えば時間は早く過ぎる。衆生の苦しみを多く考えれば、自身の苦しみは見落とされ、時間は早く過ぎる。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、三宝に帰依する究極の意義は何か?</h3>釈迦仏の本生故事経には、釈迦仏が生々世世修行した足跡と軌跡を記した経典が幾つかあり、釈迦仏の生々世世の出自、家族状況、そして修行の道のりにおける同修道友や多くの弟子たちを紹介している。その中で最も印象深いのは、幾つかの経典で釈迦仏と阿弥陀仏など多くの仏が多生多世にわたり親族や実の兄弟の関係であったこと、あるいは同じ仏国土で修道し互いに助け合い補佐し守護し合っていたことが紹介されている点である。また、釈迦仏が多くの世で現世の十大弟子と共にあり師弟関係にあったこと、名前が似通っていたり同じであったことも紹介されている。釈迦仏の現世の妻と前世の因縁、釈迦仏の母親と前世後世の因縁についても紹介されている。
これらの物語の筋書きは何を説明しているのか? 諸仏の間の縁、仏と弟子の間の縁、仏と家族親族の間の縁を説明しているのである。人々の間に善縁が結ばれると、結束力が生まれ、それらの人々を一箇所に集める。そして非常に強力な縁、極めて強力な集団に頼ることができ、生々世世この強力な集団と共にいれば、生死に依り所ができ、心中に主宰が生まれる。
三宝は命を救う藁である。衆生はこの命の藁をしっかり掴むことでのみ、自らの命を救うことができる。三宝以外に、衆生が頼るべきものはなく、何も当てにならない。生死の道においては天を呼んでも応えず地を呼んでも応えず、孤独に自身の業力を受けるのである。諸仏菩薩と縁を結び、生々世世諸仏と離れずに集う。
法華経において仏が弟子たちに成仏の記別を授けるが、これらの弟子は共に修行して縁を結び、歩む道はおおむね同じであり、修行の次第もほぼ同じである。成仏する時は前後して次第に成仏する。縁とはこのように重要であり、智者は必ず三宝の縁を掴み、優れた集団の縁を掴み、この縁によって自ら生々世世の依り所を促し、自らを支えて一歩一歩高みへと昇らせるべきである。
良いチームは非常に重要である。チームは縁である。縁がなければ何も語ることはない。無関係ならば何を語る必要があろうか? 例えば現在の肺病災害で亡くなった約二十万人のように、彼らには三宝の縁がなく、孤独に死に、再び孤独に生まれ変わる。依る所なく、頼るものなく、目的もなく、悲嘆に暮れ、孤独に六道を漂い、出る期がない。はなはだ悲惨ではないか? 故に三宝に帰依することは非常に重要である。三宝は衆生の生命の依り所であるだけでなく、衆生の解脱の舟でもある。三宝という大樹の下でこそ涼を取ることができ、心は寂静涅槃を得るのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、汝の意は信ずべからず</h3>ベーコンは言う:自ら目で見たものだけが判断できる。デカルトは言う:理性で分析したものだけが判断できる。ヒュームは言う:自ら目で見たものも理性で分析したものも判断できない。カントは言う:自ら目で見たことと理性による分析を結合すれば判断できる。
仏陀は言う:自ら目で見たことが錯覚であると知り、理性による分析が戯論であると知って初めて、有意義な判断が可能となる。衆生は無始劫以来、数えきれないほどの人・事・物を自ら目で見てきたが、どれ一つ正しく認識できたか? もし認識が正しければ、再び貪・瞋・痴の煩悩はなく、生死輪廻の苦しみもない。理性分析の能力を持つ者がどれほどいるか? もし理性分析が正しく誤りがなければ、どうして貪・瞋・痴の煩悩や生死輪廻の苦しみがまだあり得ようか? 仏は言う:汝の意は信ずべからず。阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずることができる。しかし阿羅漢果を証得してもなお無明は多く、依然として汝の意を完全には信じることはできない。
無数の人々は自らの意を信じている。しかし自らのその意は今日はこうであり、明日はああであり、常に自らの意を変え続け、臨終までに正しいことを幾つも成し遂げられない。ではその者の意は信頼できるか? まったく信頼できない。しかし自らは自信を持ち、死に至るまでそうである。多くの人々は仏教を学び、今日はこれが良いと見て数日学び否定し、しばらくするとあれが良いと見て再び数日学び、そして否定する。七十、八十歳になっても自ら満足する法門を見つけられないのに、依然として大いに自信を持っている。もし真に自信があるなら、一つを認めたら再び否定せず、再び変更すべきではない。五、六十歳になっても一つの修行法門と路線を確定できないなら、この生涯に何の希望があろうか?
<h3 style="text-indent: 2em;">五、教師の日に教育を語る</h3>無明は世間の隅々に浸透し、世俗界のあらゆる面に浸透し、世俗の一切の法に浸透している。当然、教育業界にも浸透している。無明のない教育は仏陀の教育であり、無明が非常に少ない教育は菩薩の教育であり、次いで辟支仏と阿羅漢の教育である。凡夫の教育は当然無明に満ちており、ただ世間法を成就するための教育であり、世間法が全て幻化であり虚妄であり空であることを知らない。故に世間の教育は全て世間に法があることを指し示し、少しも空に触れることは不可能である。
教育は無数の人々に社会生活に絶えず適応させるが、適応すればするほど心を空にしにくくなり、解脱を得にくくなる。なぜなら世俗の教育は全て衆生に絶えず貪愛させ、絶えず執取させるように導くからである。解脱した人々はもはや世俗の法を貪愛せず執取しない。内面は社会と相容れないが、表面上は仕方なく応対せざるを得ない。歴史上の全ての祖師大徳は、ほとんどが長年をかけて世間の文化を学んだ者はおらず、大多数は早々に出家して修道した。すぐに出家できなくても、身は在家にあっても心は道にあり、機縁が熟せばやはり出家して修道した。
仏教はインドに起源を持つ。これはなぜか? 当時のインドでは人々が皆解脱を望み、出家して修道する外道が非常に多く、法を得られなかったため一時的に解脱できなかったからである。仏陀は衆生の解脱の因縁が熟したのを見て、八相成道し西インドに来て仏種を残したのである。そしてこの時代、仏教を学ぶ者がこれほど多く、仏法の普及範囲が広く、仏を信じ仏を学ぶことが盛んになり、学識豊かな者が次第に増えているのに、なぜ仏陀は教化に来ないのか? 今は真に解脱を望む者、真に心を空にしようとする者がほとんどおらず、全て世俗に有に執着する者であり、根器が良さそうに見えても本質的にはそうではないからである。
仏法が氾濫すればするほど、邪法は付け入る機会を狙い、衆生は正邪を区別できず、邪を正とする者は少なくない。仏法の繁栄の裏には凋零があり、繁栄すればするほど基盤は浅くなり、栄養は全て表面に流れ、根はますます枯れていく。細い流れが長く続くことで初めて絶えず流れるのである。仏教も同様に、ゆっくりと着実に発展して初めて長続きし、衆生は真に利益を受け、仏教に流入するのは真の人才であり、縁の深い者であり、善根が熟した者であり、仏教の棟梁である。玉石混交、そのほとんどは石でありながら、得意げに自らを玉と思い込み、大きく誤解している。明らかに鯉が竜門を跳ねるべきところが、結果は泳いで渡っただけで、依然として魚の骨格であり、竜の影すら全くない。
<h3 style="text-indent: 2em;">六、堕ちた天使</h3>最初、地球は空虚で人もなし
天使が降り立ち地肥を貪り食う
身重くして飛び立てず羽翼折られる
地球上に遂に人類現れ鼻祖となる
故に私の祖先は堕ちた天使
而して私は天使にあらず
私は純粋な人類
堕ちた天使の末裔
世々生々の輪廻を経て
最早天使の名号はなし
更に天使の尊容も神通力もなし
故に私もまた堕ちた者
何故天使たちは堕ちたのか
只だ地球上の地味を貪り食ったが故
此れより地球上に生息し繁殖す
初めの頃は身軽く雲の如く心は欲念を離れ清浄
後には貪欲次第に染まり男女二性を変化して生む
故に遂に子孫の繁殖あり
代々繁殖し部落・族群・家・国
遂に族長と王侯が族国を治む
人類の習俗は次第に固有化を形成す
田を耕し布を織り婚姻嫁娶し財・色・名・食・睡
欲染は熾盛にて貪り求むるは人の世の物事に過ぎず
牢獄に陥り何時か再び天使となる
<h3 style="text-indent: 2em;">七、仏教を学ぶ者は如何に回向すべきか</h3>もし毎日欠かさず回向できるなら、このように回向する:私が今日仏法を修学して得た善根・福徳を、全て私の生々世世の父母・師長、歴劫以来私が故殺・誤殺・錯殺・傷害・喰い殺し怨みを結んだ全ての衆生、父(姓)氏門中の歴代の宗親眷属、母(姓)氏門中の歴代の宗親眷属に回向する。彼らが宿世の業障を消除し、善根・福徳・智慧が共に増長し、早く仏縁を具え、早く仏法に遇い、諸仏菩薩の加護の下、早く悪道を離れ善道に往生し、あるいは人間界に戻り私と共に大乗仏法を修学することを願う。彼らが早く仏門に入り修行し、早く菩提を証し、苦を離れ楽を得、大いなる解脱を得ることを願う。
もし毎日回向を堅持できないなら、少なくとも一週間に一回は回向すべきである。一ヶ月に一回の回向は少し間隔が長いので、一ヶ月の間に全ての修行の功徳を回向しなければならない。もし総回向ならば、今生今世仏教を学んで修行した、あるいは行った功徳・福徳を全て回向し、前世に仏法を修学して積み重ねた福徳も回向に加える。特定の人に回向するならば、その人の名前を加え、その人に回向する。既に亡くなった人には早く三悪道を離れ善道に生まれ、かつ仏法に遇う縁があり、精進して仏教を学び修行することを回向する。在世の人には善根・福徳・智慧の増長を願い、相手の正当で害のない要求に基づいて回向すべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">八、如何に衆生に施食すべきか</h3>正月や節句の際には自身の過世した怨親債主や家親眷属に施食し、彼らにも喜びの年を過ごさせ、彼らが妬んで病気を起こすのを防ぐことができる。普段の時も定期的に施食できる。食事の後、茶碗の底に残った飯粒は七粒あれば十分であり、少し汁物や菜っ葉を加えれば施食できる。施食の際に念誦する呪文は、朝晩の課誦本に全て載っている。
施食する際は、ご飯や饅頭の砕けでも構わない。一摘みあれば十分であり、後は観想力に頼る。観想が良く、呪文の加持力が強ければ、飲食は非常に多く変じ、多ければ多いほど利益を受ける衆生が増え、結ばれる善縁が大きくなり、後の福徳が大きくなる。小指の先ほどの大きさのご飯に汁物を少し加えても良いし、七粒の米でも十分である。これだけのもので、残りは全て観想に頼る。
摘まんだ飯粒を屋外の台の上に置き、ベランダでも良い。そして口に呪文を唱えると鬼神たちが食を受けに来る。呪文は以下の通り:汝等鬼神衆、我今施汝供、此食遍十方、一切鬼神共(一遍)、オン、ムリリョウ、ソワカ(七遍)。唱えながら観想し、施す飲食が色・香・味を具え、娑婆世界・全ての大山・山の麓・川辺・四大海の辺、及び須弥山の下の全ての場所に遍満することを観想する。観想できる場所が大きければ大きいほど良く、飲食が多くなればなるほど良く、こうして救済される衆生が多くなる。七遍の呪文を唱えた後、三度指を弾き、施食は完了する。
また衆生に飯水を施すこともできる。食後に茶碗を洗う最初の水、飯と水と汁物が混ざったものでも鬼神に施せる。呪文を七遍唱え、観想を加えれば、全ての鬼神は満腹満足できる。洗い水を台の上に撒くが、桃の木や石榴の木の周囲でなければ良い。呪文は以下の通り:此の洗い水を以て、天の甘露の味の如く、諸の鬼神に施し、悉く皆飽き満つることを得ん。そして洗い水が天の甘露水のように娑婆世界の高山大海の辺、全ての空地に遍満することを観想し、七遍の呪文:オン、モキュウラシソワカを唱えながら、洗い水を七回に分けて撒く。
身体が弱すぎる者は、鬼にいじめられやすい。もし観想が不十分だと、鬼神は食べられずに瞋恨心を起こし報復し、二、三日身体を不快にさせる。もし怖ければ施食せず、しばらく練習し観想力が強くなってから施食しても良い。
我々の無始劫また無始劫以来の父母、家親眷属は数えきれないほど多く、彼らの大多数は三悪道、主に鬼道におり、苦しみの中にいる。飲食も衣類もなく、我々は毎日これほど良く食べているのにまだ浪費する。節約した指先ほどの飲食で彼らは満腹できる。苦しむ広大な衆生のために、毎日浪費する飲食を布施すれば、自らも利し衆生も利し、また過去世の父母師長への孝養と報恩でもある。
我々自身の解脱に希望が持てても、まだ多くの衆生に解脱の機縁がない。我々は常に自らが修めた仏法と善法の功徳を彼らに回向し、彼らの福徳を増やせば、機縁を得て苦海を離れ、仏法を修学し、次第に輪廻から抜け出し解脱を得るであろう。