仏法雑談(第二部)
貪瞋痴の煩悩の果報は次の通りである:貪心は餓鬼道を生じ、瞋心は地獄道を生じ、愚痴は畜生道を生じる。臨終の際に貪瞋痴の悪業相が現前すると、必ず三悪道に堕ちて報いを受けざるを得ず、逃れることはできない。煩悩業を消除するためには、普段から自らの心行を反観し、仏法の理をもって降伏させようと努め、戒を保ち定を修めることにより、煩悩は比較的速やかに降伏できる。罪業を造作した後、それを消除しようとするならば懺悔すべきである。造った罪業が比較的重大な場合は、仏前で懺悔し、瑞相(例えば夢中や定中に蓮華が現れ、仏が来て摸頂安慰するなど)が見えるまで行う必要がある。一般的にそれほど重くない罪業は、大衆の前で誠心誠意懺悔すれば消除できる。
貪心が非常に重い者は、餓鬼道で苦しむ時間が非常に長くなる。もし三宝に対して深刻な貪心を生じたならば、その罪過は実に重すぎる。瞋恨心が比較的深刻な者は、地獄道で報いを受ける時間が非常に長くなる。もし三宝に対して瞋恨心を生じたならば、その罪業はなおさら甚大である。愚痴が深刻な者は、大きな悪業を造作し、それはもはや畜生道の問題ではなく、まず地獄に堕ちて報いを受け、その後餓鬼道、さらにその後で畜生道に堕ちる。一切の煩悩は全て愚痴によって引き起こされ、愚痴は煩悩の根源である。愚痴でなければ貪心や瞋恚心は生じず、煩悩業を造作することはない。将来煩悩を断除する際には、貪心と瞋恚心が先に断たれ、愚痴は最後に断たれる。なぜなら愚痴は対処が難しいため、愚痴の煩悩は最後に断たれるのである。
学仏者がもし自らの煩悩を降伏させようとしないならば、たとえ八地菩薩の理論を学んだとしても、煩悩業を造作した後は三悪道に堕ち、八地菩薩の法も自らを救うことはできない。普段からひたすら自らの煩悩性情に随順し、結果を考慮せず、己の情のままに任せ、己の意のままに振る舞い、他人がどうなろうとかまわず、自らの心の快適さのみを追求する。しかし果報が到来する時には、百万倍の不快感が訪れる。快適さと不快感は釣り合っているか?全く釣り合っていない。その時になって初めて、当時なぜそんなことをしたのかと後悔し、全く割に合わず、ただ悪報を受けるだけで、何も得るものはなかったと気づくのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、畜生の殺業は人間よりも重いのか?</h3>悪業・殺業を造作するのは意根が主導し、六識が造作するものである。しかし意根自身の単独の心理活動もまた業行であり、意業と呼ばれる。これも種子を残し、果報もあり、すなわち生死輪廻の苦である。
身口意の三種の業行の中では、意業が主であり、意業が最も重い。なぜなら身行と口行は直接、意根の意行によって指揮・制御されるからである。意根が貪瞋痴を起こして造作した身業・口業は故意作と呼ばれ、意根が貪瞋痴を起こして造作していない業行は無意作と呼ばれる。故意に悪業を造作する場合、罪業は大きく重く、性罪・性業がある。無意に造作した悪業は罪業が軽微で、性罪・性業はない。
畜生が互いに食い合う行為は、有意と無意の中間に位置し、単に飢えのためだけであり、殺心や瞋恨心はない。造る業は比較的小さく、悪業は比較的軽微で、性罪や性業はなく、借りた債は将来返せばよい。畜生の一期の悪業が終わると、人間に転生することができる。人間が再び悪業を造れば、再び三悪道に堕ちて報いを受ける。衆生はこのように六道の中で生死輪廻し、人身の業行が最も主要な決定要因である。果報のない業行は一つもない。したがって、誰もが言葉を発し行動する際には千万に注意深く慎重でなければならず、恣意的に振る舞い、口を開けばでたらめを言ってはならない。特に仏法に対しては、思い込みで自分がこう思うからこうだなどと考えてはならない。仏は阿羅漢果を証得していなければ己の意を信じるなと説かれ、己の意は信じてはならないとされている。一旦仏法上で悪業を造作すれば、無間地獄の苦しみは人間界の無量倍であり、到底耐えられるものではない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、因果は心によらず</h3>もし心中に深刻な我(が)があれば、心で思う事は必ずしも実現せず、避けたいと思う事も避けられないかもしれない。人間の行うことは、往々にして自らが望むことと正反対である。例えば、人は皆長寿・健康・快楽を望むが、造作するのは自らを長寿でなく健康でなく快楽でなくするようなこと、例えば殺生や肉食である。その結果、どうして健康長寿快楽を得られようか?人は皆自由自在に解脱を得たいと望むが、死ぬほどに一つの我を握りしめて放そうとしない。それでどうして自由自在に解脱を得られようか?
人は皆自らが富貴で発展することを望むが、いつも意図的か無意図的に窃盗や強奪のようなことをする。それでどうして富貴発展できようか?人は常に他人から尊重され重んじられることを望むが、いつも傲慢で他人を見下し、他人を尊重しない。それでどうして他人の尊重を得られようか?人は至高の権利を持ちたいと常に思うが、いつも他人の権利を剥奪する。自らどうして権利を持てようか?
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、因果は恐るべし</h3>我々はすでに学仏修行しているのだから、因果の問題を必ず重視し、一言一句、一挙一動ごとに必ず相応する結果を考慮し、何事も大したことないと思ってはならない。大したことないのではなく、多くの大きな事がある。なぜならその中間に悪因(孽息)があり、千万倍、千万億倍、あるいは無量倍の業報があるからである。皆さんは注意せざるを得ない。さもなければ大損をする。六道輪廻の中の無量の苦しみこそが、大損ではないか?
三宝に対して身口意の悪業を造作した者は数多くいる。毎日罪を懺悔し業を消除すべきである。たとえ一つの良くない心念であっても、その業報は相当に深刻である。因果を重視し、因果を顧慮することは、賢明な人である。さもなければ、どれほど仏法を学んでも無駄であり、依然として先に悪報を受け、悪報を受け終わってから、学んだあの仏法が、どれだけ残っているか使えるか?不恭敬や指図することのような些細なことも、全て悪業に数えられる。事柄は小さいように見えるが、実際には非常に大きな事柄である。因果経の実例と比較すれば分かる。
大乗法を数十年学び、菩薩道を修めながら、毎日三宝に対して悪業を造作し、身口意が一度も清浄になったことがない者が少なくない。これらの者は死後、まず地獄で悪報を受け、その後鬼道の悪報、最後に畜生道の悪報を受ける。畜生道から出て、再び人身を得るが、学んだあの大乗はおそらくほとんど忘れ去られ、再び初めから学び直す。その中間で再び悪業を造作し、再び三悪道に堕ちて報いを受ける。このように繰り返し流転し、いつ終わりが来るのか?人中の苦しみでさえ哀痛に耐えないのに、三悪道の苦痛は無始劫以来、どう耐え忍んできたのか?
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、悪人を如何に処置するのが適切か?</h3>世俗界では常に人間の本性は本来的に善か悪かという問題が議論され、論争が絶えない。この問題は仏教から見れば問題ではなく、明らかである。もし人間の本性が本来的に善ならば、三悪道の衆生は存在せず、もし人間の本性が本来的に善ならば衆生に貪瞋痴の三毒煩悩はなく、社会にこれほど多くの重大犯罪現象はなく、刑務所にこれほど多くの人はおらず、少なくない人が何度も刑務所に入っても悔い改めない。たとえ天人であっても、その心性は全て善ではなく、煩悩もあり、特に愚痴は極めて大きな煩悩である。煩悩のない衆生は輪廻しない。輪廻がある限り煩悩があり、人間の本性は悪が多く善が少なく、中には善が全くない者もいる。
なぜ人間の本性は本来的に悪なのか?無明のためである。この無明は衆生が存在する時から自ら備わっているものであり、後天的に生じたものではない。無明のために、衆生は皆悪業を造作し、無量劫また無量劫の生死輪廻がある。各衆生はほとんどの時劫を三悪道で過ごし、人身をもって人間界に生存する時劫は、その生命の長い河の百分の一、千分の一、万分の一に過ぎない。中には畜生道の衆生で今まで一度も人身を得たことがなく、畜生道から出たことがない者もいる。これらは極めて愚痴な衆生であり、愚痴こそが悪である。
無始劫の中でちょうど三悪道から人中に生まれたばかりの者は、極めて愚痴で、極めて劣悪であり、全く人間の本性に相応せず、心性は畜生と非常に似ており、非常に相応している。彼らにあるのは愚痴のみ、あるいは愚痴かつ残虐で殺戮を性とする。彼らは人中に生きる限り人を害し、人を害することが彼らの本性であり、殺性や傷害性こそが彼らの畜生の本性である。このような者が人間性、善性を備えるには、人道の中で多生多劫にわたり絶えず人類の中で善法を薫染し、漸次に畜生の悪性を除去し、人類の習性を染めるしかない。人類の習性はそれほど善ではないが、畜生性よりは善である。このように累生累世の薫習を経て、ようやく完全な人格と完璧な人間性を備えるのである。
しかしこの過程の中で、多くの人がこれらの者に残虐に傷害・殺害される。善人と悪人が共に過ごせば、当然善人が災難に遭い善人が損をする。法界では永遠にこの規則であり、善人と悪人が混住すれば、永遠に悪人が悪を造り、善人は悪人の悪に耐え、絶えず問題を起こすのは大抵悪人や底辺の人であり、問題があるのは常に教養のない人である。善人は悪業あるいは大きな悪業を造作せず、故意に人を傷つけず、ただ傷つけられるだけである。悪人は必ず悪業を造作し、必ず人を傷つける。最初の本性さえ改められない。では、もしこれらの悪人が極めて大きな悪業を造作したならば、彼らの生命を剥奪し、引き続き人を傷つけることを止めさせるべきか?あるいは彼らの生命を残し、引き続き人中で善法を薫習させるべきか?
二つの選択にはそれぞれ利害がある。もし彼らの生命を残せば、相次いで再び人が傷害・殺害され、他の生命が脅威にさらされる。もし悪人の生命を剥奪し、彼らが同類を傷つけ続けることを阻止すれば、これらの悪人は善法を薫習する機会を失い、悪性を改める機会がなく、心性の進化が阻害される。これも大きな損失である。この件について、一体どうすれば良いのか?善人と悪人がそれぞれの場所を得て、互いに安らかに過ごすためのより良い方法はあるのか?極楽世界では阿弥陀仏はどのように善人と悪人を管理しているのか?
解決策は、物は類をもって集まり人は群をもって分かれることである。善人と悪人は分離し、異なる次元・異なる属性の有情は全て分離し、混住・共住してはならない。法界では全てこの規則であり、あたかも極楽世界などの仏国土が娑婆世界のような仏国土と分離すべきであるように。二つの世界の衆生の心性は異なり、境界を接してはならず、混住・共住してはならず、面倒を避けるためである。衆生の次元は多く、各次元の衆生の思想・観念はそれぞれ異なり、千差万別で統一・調整できず、混住すれば絶えず是非が生じる。全て隔離すれば問題はなくなる。
仏教の戒律でも同様に要求されており、同戒同行の原則を遵守する。受ける戒が異なれば同住できず、出家と在家は混住・共住できない。出家戒律でも同様に、修持が異なれば共住できず、在家戒律でも同様に、修持が異なればなるべく同住しない。さもなければ面倒が生じ、仏戒に背く。世俗界でも大体は自動的にこのように集団を形成する。福徳と智慧が異なり、社会的地位が異なり、教養と素質が異なれば、一般的に分離して居住し共住しない。そして犯罪の悪人は刑務所に収監され、犯罪を犯していない人と隔離される。衆生は全体として、その業行と心性の違いに基づき六道に区分され、善悪の衆生は共住しない。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、中有(ちゅうう)は如何にして生起し入胎するのか?</h3>問:爆発などの突発状況により肉身が粉々になり、あるいは瞬間的に気化し、屍骨が残らなかった場合、中有は突然現行するのか?それとも徐々に現行するのか?中有は如何にして受精卵を執取し入胎するのか?
答:毎回中有が生起するのは、前の色身が壊れて使用できなくなり、意根が再び色身を必要とするためであり、中間に空白があってはならない。したがって中有は迅速に生起する。意根は五蘊活動を必要とし、世間の万法に対応する。これは意根の心が空ではなく、我見・我執があり、法見・法執があるためである。執着するため、世間を捨てることを望まず、五蘊を捨てることを望まない。生きている間に、未来世の業種を集積し、この種子があるため、人は死後未来世があり、断滅することはない。大爆発という突発状況に遭遇し、肉身が爆発で崩壊して使用できなくなった時、業種の支えがあり、意根が再び肉身を必要とする。如来蔵は意根のこの願いに応え、生前の業種に基づき、臨時の色身である中有を再び現起させ、意根の必要を一時的に満たす。
もし実在する肉身を生起させるならば、長い時間を要し、四大が漸次に集積するのを待たねばならない。しかし意根は待てないため、やむを得ず実在しない四大の色身を臨時に現起させる。これにより人身とは区別される。実四大種子の集積ではないため、実四大種子が集積してできた肉身のような質礙作用がなく、したがって中有は小五通を持つ。意根が急を要するため、中有は徐々に生起できず、迅速に生起する。
突発事故による死亡に遭遇し、心理的準備がない場合、伝説ではこの種の死亡では再び転生できず、霊的な形態で存在するしかなく、空中の幽霊のように漂い、実体のある色身に頼れず、非常に苦悩するとされる。再び転生するためには、別の亡霊を捕まえ、自分が身代わりとなって初めて転生できる。そこでこの人は自分が死亡した現場を守り、機会を待って同じ突発事故を起こし、他人を死亡させ、自分が転生できるようにする。したがって世間では、事故が発生した地点では、数年の間に再び同じ事故が何度も発生することを発見する。これが身代わりを捕まえるという説である。
正常死亡の場合、中有の存在時間は最大で七つの七、四十九日間である。一般的には三番目の七で転生する。生きている間に人の善悪が鮮明であればあるほど、結果が確定しやすく、転生が早い。善悪の区別が非常に難しい場合は、四十九日を限界として、やはり転生する。転生の機縁が現れた時、中有は後世の父母の元へ駆けつけ、受精卵に随って入胎し、中有は直ちに消滅する。意根がないため、中有は散る。意根がどこにあれば、そこに色身がある。
中有において意根は如何にして受精卵を執取し転生するのか?意根は欲を断っておらず、中有の中で父母の縁に遭遇すると、父母の淫欲に引き寄せられ、それに参与する。業力で男性となるべき者は母親に貪欲を生じ、業力で女性となるべき者は父親に貪欲を生じる。父母の淫行を自分と父母の淫であるかのように思い込み、父母の精子と卵子が受精卵となる瞬間に、受精卵に随って母親の子宮に入る。男身となるべき者は子宮の中で母親と向かい合い、女身となるべき者は子宮の中で母親に背を向ける。これにより胎身が成長すると、女胎はお腹が目立ち、男胎は目立たない。
突発事故に遭遇すると、肉身が崩壊するだけでなく、識心も極度の驚きを受け、魂が飛び散るほど驚く。散るのは前六識であり、前六識は肉身に頼れず滅び消える。ただ意根だけが肉身の外へ飛び出し、肉身と分離し、孤立無援となる。その後ろに如来蔵がついてくるが、それは意根の全ての財宝であり、意根はそれを知らない。この時、意根はどうしようもなく、再び色身五蘊を必要とし、再び世間法を追求する。背後にある摩尼宝珠には気づかず触れない。学仏は意根を掌握すれば全ての法を掌握する。如来蔵を知らなくても一時的には問題ない。ここから見て、意識で果を証得し意識で明心するのは、非常に幼稚で笑えることではないか?一瞬で灰燼に帰する法に希望を託すのは、非常に愚痴ではないか?智慧ある者が、どうして自らの財宝を化城(架空の城)に置き、空中楼閣に置くことがあろうか?
極楽世界に往生するのも中有から往生する。したがって極大の神通がなければ、誰が中有が蓮華に乗って極楽世界へ飛んでいくのを見られようか?世間の人が言う往生は、全て推測や憶測であり、現量で見たものではない。
中にも男女の性差があり、性差もまた業である。意根はいついかなる段階でも、常に業・業種・業力と相応する。男女の業があれば男女の性別がある。未来世の性別は固定されておらず、業種によって決定される。自らがこの一生で造作したのは男性の業行か女性の業行かが、後世の性別を決定する。これらの業行には心行・心性も含まれ、業行は心行・心性と相応し、心性に緊密に従って変化する。
したがって、ある人が男性の心性であれば後世は男身を現じ、女性の心性であれば後世は女身を現じる。願力のある者は除く。我々の出家戒では、比丘尼に対する制約が非常に多く重い。これは女性の習気・習慣を制約し、漸次に女性の習性から離れ、男性の習性に近づけ、女身を転換する準備をするためである。現実生活では、ある女性は非常に豪快で大度、大人の器量を持ち、男子の気概・男性の気度を備えていることに気づく。彼女は前世に男性であったことがあり、後世も男性に変わる可能性がある。逆もまた同様で、ある男性は生まれつき女性の習気を持ち、彼は前世に女性であったことがあり、後世も再び女身に転じる可能性がある。
性別もまた福徳によって決定される。色界天以上には性差がなく、男女を分けない。それは四禅八定の福徳が支え決定するためであり、定福は非常に大きく、衆生が一時的に三悪道・人身・欲界天から離脱できる。色界天の境界は、実に享受に満ちており、欲界天は比べものにならない。私が初禅定を修めた時、毎日神仙のように楽しく、言葉では表現できないほどの楽しさであった。世間の人が想像できる楽しさではなく、禅定の楽しさははるかに世間の楽しさを超えている。私が学仏する前は、毎日気分が重く、心に大きな石が乗っているようで、ずっしりとしていた。十三歳の時から死を考えていたが、初禅定を得てからは地獄から天国に来たようであった。
極楽世界でも男女を分けない。それも大福徳が支え決定する。したがって学仏・念仏し、福徳を修めなければ、至る所に障害があり、どうして極楽世界に往生し、諸々の上善人と会うことができようか?
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、相貌の秘密</h3>人の声は、その人の性格・気性・性質・教養を反映し、その人の心性が純粋で率直か、虚偽で狡猾か、光明的か陰暗かをも反映できる。人の顔立ちもまた、その人の修養・性格・気性・性質・学識・風格などを反映し、骨格・筋肉・体形・皮膚なども、その人の性格・気性・性質、精進か怠惰か、厳格で真面目か緩み怠惰でだらしないか、陽気か陰鬱かなどを反映できる。
誰もが自らの相貌に責任を持つべきである。外見の相貌も因果の一部であり、業行の正報である。全て自らが生々世々修めたものであり、内心の善悪の品質を反映している。相貌が思わしくない時は、父母や天を怨むべきではなく、自らを責めるべきである。前世であのように傲慢であったため、今世は背が低い。ある人の筋肉が非常に弛緩している場合、その人はおそらく怠惰でだらしなく、考えが厳密ではなく、その日暮らしのタイプである。体形が歪んで正しくない人は、往々にして心も正しくない。正直な人は心正しく身正しく、顔立ちも正しく、皮膚は引き締まり、顔は厳粋である。はたまた眼差しも正しく、目をそらさず、心は光明である。顔つきからも、その人が前世にどの道から来たかが分かり、若ければ若いほどより正確である。後世にどの道に生まれるかは、年を取れば取るほどより正確に見える。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、薫染の力</h3>衆生の間には互いに薫染する作用がある。あなたがどのような人と一緒にいるかで、知らず知らずのうちに彼の習気・性格・性質・善悪の心行などに薫染される。もしある人が犬を飼い、常に犬と一緒にいれば、犬には犬の習性があり、人には人の習性がある。長い時間をかけて、常に犬の眼差し・動作・飲食・歩行坐臥の習慣を見ていると、知らず知らずのうちに犬の習性・心性に薫染され、自らは気づかない。外見も非常に目立たない形で薫染されるかもしれない。しかし犬は人により薫染されやすい。なぜなら人の力は犬よりも強く、互いに薫染する中で犬はより多く重く薫染されるため、犬の習性は人に近づき、後世で人身に転生しやすくなる。人身を得た後は、人の意をよく理解し、聡明で賢い。
犬が人に薫染されるのはもちろん良いことだが、人が犬に薫染されるとどうなるか?類は友を呼ぶ。人が常に犬を見ていると、外見も密かに変化し、気づきにくい。今世は変わらないか少ししか変わらなくても、後世で薫染された種子が熟す時に変化する。もしあなたが犬と一緒にいることに慣れ、深い感情を持ち、非常に親密な関係であれば、中有の時に犬の境界を変現し、あなたは知らず知らずのうちに犬に随って行き、犬の胎に投じるであろう。
例えば、あなたがいつも吃音(どもり)の人と一緒にいるとする。その人は話すのが滑らかでなく、どもる。あなたは最初は気にしないかもしれず、どもるようにはならないが、時間が経つと話すことに障害が出る。時間が長ければ長いほど障害は大きくなる。これは徐々に薫染されたのである。薫染される面には、相貌・話し方・口調・習慣、食事習慣・歩行や坐臥の習慣が含まれる。
我々が現在いるこの修行段階は非常に薫染されやすい。悪法は善法よりも薫染されやすい。なぜなら我々の心は煩悩が善をはるかに上回り、煩悩には慣れていて善には慣れておらず、善法には抵抗感があり、悪法にはかえって受け入れやすいからである。例えば、人混みの中で人の是非を言う場面に出くわすと興味を持ちやすく、是非紛争にも加わる。他人の善い点を称賛する場面に出くわすと、付いていくことを好まず、往々にして口を閉ざして言わない。自分と関係が良く自分に利用価値のある人は例外で、落井下石(困っている人をさらに陥れる)者はよくいるが、雪中送炭(困っている人に援助の手を差し伸べる)者は稀である。したがって修行で自らを変えようとするならば、善人に近づくことを選び、煩悩の重い人から離れ、是非を好む人や是非を好む場所から遠ざかるべきである。そうすれば心は次第に善に近づき、悪から離れ、煩悩は降伏され、煩悩業を造作しにくく、悪業の種子を残さず、後世は楽になり、煩悩の障害がなくなる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、因果による一時的な争いの停止</h3>凡夫に六道輪廻の苦しみがあるのは、悪業があり、悪心・煩悩心所法があるためである。我見を断った後、三悪道の苦しみがなくなるのは、三悪道の悪業と悪心を消除し、一部の煩悩心所法を滅除したためである。したがって我見を断るには煩悩を断除すべきかどうかは、明らかな問題であり、論争する必要はない。では、我見を断るには禅定が必要かどうか、未到地定が具足しているかどうかも、明らかな問題であり、論争する必要はない。なぜなら禅定がなければ、どうして煩悩を断除できようか?
現在、議論の大部分は、内部と外部の様々な理由により、やむを得ず停止した。しかし決して最終的な停止ではなく、永遠の停止でもない。一時的に業報が再び議論することを支持していないだけである。未来世はまだ分からない。何しろ衆生の業障は深く重く、煩悩は止まない。多くの人が悪業を造るのを見、多くの人が悪報を受けるのを見、多くの人が生死輪廻するのを見ているが、どうしようもない。衆生はこうあるべきであり、誰もどうすることもできず、因果が仕方なく発言するのである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十四、悪取空の果報</h3>世間には二種類の断滅空、あるいは悪取空があり、人を深く害し、直接衆生を堕落させ三途に落とし、六道を輪廻させる。一つは外道の無所有空で、前世後世はなく、死後は全て終わり、因果はなく、善悪の業報はなく、何をしても構わず、自由自在に思う存分楽しめば良いと考える。
もう一つの悪取空は、大乗如来蔵法を修学する者である。彼らは因果業報を認め、前世後世を認め、身中に不滅の如来蔵があることを認めるが、五欲の享楽を貪り、苦修実修を望まず、戒を持ち定を修めることを望まない。そこで五陰十八界の一切の虚妄な機能作用を否定し、全てを如来蔵に押し付け、如来蔵で五陰の一切の機能を代用させ、五陰を無為無所作為にし、学仏成仏する必要もなく、如来蔵は本来仏であるとする。あるいは五陰の好き勝手を放任し、五陰が何をしても如来蔵がしたことだと言う。もし如来蔵がしたことならば、五陰身には因果がなく、業報がない。したがって五陰身は縁に随って自在であり、戒を持つ必要もなく定を修める必要もない。如来蔵は本来戒を犯さず、本来定がある。この二種類の断滅空・悪取空論は、性質は異なるが結果は似ており、因果を撥無し、放浪し、悪を断ち善を修めることができない。
如来蔵を我として執取するため、無相も執取し、凡て有相のものは排斥すべきとし、あたかも自らはすでに有相を超越して無相に達したかのようである。実際には無相なのは如来蔵であり、五陰身は全て有相の中に落ちており、現時点では到底超脱できない。なぜなら戒を持たず禅定がなく、般若智慧が深刻に不足しており、心心念念(心の念い)が全て相の中にあるからである。もしどうしてもこれらの相を隠そうとするならば、悪取空しかなく、果報が到来した時には、必ず直視し相対せざるを得ず、悪報の相はもはや避けられなくなる。
しかし、すでに有相を超越し無相に達したと言う人々は、なぜ肉を食べることにこだわらず肉の相を見ず、菜食を選ばず、縁に随って残飯を食べないのか?すでに相がないならば、全ては縁に随い簡素に生きて修行すれば良いのに、なぜあのようにうるさく言い護身養生にこだわるのか?有相戒は持たず、専ら無相戒を持つ。飲食・衣服・住居・行動を選ぶことは相ではないのか?なぜ享受の相を選び、苦しみの相を選ばないのか?無相は偽りであり、有相こそ真実であることが分かる。大乗を学ぶことは非常に良いが、真剣に学ばなければ、大乗仏法も毒薬となり、食すことを止めなければ必ず死ぬ。良薬が毒薬に変わるのは、誰の過ちか?
<h3 style="text-indent: 2em;">二十五、丹霞禅師はなぜ木仏を焼いたのか</h3>丹霞禅師は自性仏を開悟証得した後、心中で四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を破っただけでなく、仏相も破り、真の仏のみを認め、偽りの仏を認めない。あの木彫り石像の仏像はもちろん真の仏ではなく、焼いても何の妨げもない。しかし真を証得していない者は決して真似てはならない。なぜなら真を証得しておらず、偽りの相が依然として存在するため、偽りの相を焼くことは真実の相を焼くのと同じであり、これは大きな罪過となり、仏を毀損し侮辱する果報は非常に良くない。古代に一人の凡夫比丘が開悟した比丘を真似て、仏菩薩の名前を全て下着に書き、一両日で吐血したことがあった。死亡したかどうかは覚えていない。また現代の人が観世音菩薩像を川に投げ捨て、家に帰ってから何年も全身が冷たく湿っていたが、罪業を懺悔し、いくつかの補救措置を講じてから大病が治った。
丹霞禅師は宿世の善根が深く厚く、開悟後は道行が浅くなく、心は空で無相であり、よく橋の上に寝そべり、悠々自適で何もすることがなく、人は常に怪しんだ。得道の人は、他に何かあるだろうか?五蘊世間は全て空であり、無相・無願・無求であり、人生はただ飯を食い眠るだけである。常に両足を伸ばして寝るのは全く正常であり、どうしてあれほど多くの事があり、終日あちこち求め、東奔西走し、忙しく立ち働くことがあろうか?何を図ろうとするのか?心が徹底的に空になるまで、一切の法は自然に任運し、仏陀は自然に来て授記成仏する。なお一法も空でなく、なお一事を求めることがあり、なお仏祖になろうと望むなら、仏陀が来て授記することは決してない。衆生を救うことを名目とし、一己の私利を図り、仏教を烏煙瘴気(混乱)に陥れる者は、おそらく仏陀の授記を得られないだけでなく、因果の制裁を受けるであろう。因果は恐るべし。
ある人は言うだろう、私も木彫り石像の仏像は真の仏ではないと思っているので、私が焼いても問題ないと。それならば一つ焼いてみなさい、五臓が焼け爛れ、苦痛に耐えられなくなるかどうか見てみなさい。自分が思うことは役に立たない。意識が感じることは無意味である。もし意根が認めなければ、因果は確かである。自ら果を証得したと思い、自ら明心開悟したと思い込む者は、仏菩薩の名前をズボンの上に書いてみなさい、木仏を焼き石仏を毀してみなさい。もし何事もなければ、相を破った真の悟りと見なせる。丹霞禅師のように、敢えてそうする者はいるか?
ある人は言うだろう、私に印可を与えた人は非常に道行が深く、私は信じると。しかし私は仏が最も道行が深いと言う。もし仏が印可したことが事実と合致せず、如来蔵が承認しなければ、因果はなおさら承認しない。もちろんこれは仮定に過ぎず、仏陀が印可することは絶対に事実に合致し、如来蔵に合致する。ある人は非常に頑固で、何を言っても聞かず、ただ自らの感覚だけを信じる。しかし如来蔵はさらに頑固で、ただ事実のみを管轄する。因果は特に頑固で、あらゆる人と対立することを厭わない。事実の前で頭を下げない人には、因果が対立するであろう。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十六、衆生の業縁にはどのようなものがあるか</h3>業縁とは文字通り、身口意の業行によって生じる縁であり、五陰身が善悪の業報を受ける縁でもある。これらの業縁があるため、五陰身は一切の法の中で生活・造業・受報ができる。一切の法には周囲の一切の人事物理、他の五陰身、生存環境、宇宙器世間の全ての自然現象が含まれる。衆生はこれにより造業と受報を行う。生存様式・生存条件・生存資具が業縁であり、家族親族・友人同僚が業縁である。これらの縁があって初めて善悪の果報を受けることができる。
その中で色身は正報の業果であり、命終前の色身や後世の色身の業因・業縁にもなり得る。環境は依報の業果であり、業因・業縁にもなり得る。一つの法は因となり得、縁となり得、果となり得る。法は不定であり、果もまた不定である。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十七、非器は器に変わり得るか</h3>いわゆる器とは物を載せる容器を指す。この物は物質でもあり、智慧・思想・観念でもあり得る。仏法で言う器は後者を指し、すなわち道器であり、仏法の道に対する包容の程度である。多くの人は無始劫以来福徳が不足しているため、蓄積した経験が不足し、自らの認識以外の法を受け入れられない。そこでこれらの人は根器が良くないと言われ、深い法を修学するのに適さない。
では非器は本当に非器であり、器に改造できないのか?法に定まった法はなく、永遠に変わらない法は一つもない。因縁の時節が来れば、どんな法も変わる。ある非器は大器を秘めており、巧みに障害を取り除き、因縁を集めれば、非器は大器に変わる。石さえ黄金に変わり得るのに、まして非器の人の心量や心性がどうして固定されたままでいられようか?
正直に言えば、衆生は本来全て非器である。無始劫、心から甘んじて生死の苦海に沈淪し、全く覚ろうとせず、どんな法も受け入れられない。諸仏菩薩が密かに衆生のために法種を蒔き、因縁を早く熟させるよう促し、衆生が次第に器となり、仏法を包容できるようにしたのである。衆生は最初、五蘊を我と執着し、堅固で揺るがない。小乗の非我の法に対して言えば、一切衆生は非器である。しかし衆生が非器だからと言って、小乗の我見を断つ理を説かないでよいのか?もちろん駄目である。仏陀は十二年かけて衆生を器に鍛え上げ、無数の衆生が四果の大阿羅漢を証得した。その中には非器の外道衆も含まれる。したがって器と非器は、鍛える者の智慧と鍛える技量にもかかっている。鍛える法を知らない者は、往々にして器を非器に鍛え上げ、器を壊してしまう。
仏法には一つの説がある。非器の者に深い法を講ずると、相手が信受できず、誹謗の言行を生じさせるとする。この説は最初に仏陀が説いた。仏陀は衆生が法を誹謗し悪業を造り、長劫の地獄苦報を受けることを心配した。仏は衆生に慈悲深いが、仏はまた大智慧もある。したがって仏のこの説は死んだ教条ではなく、人により時により柔軟に運用される。
大智慧の文殊菩薩は非常に柔軟に運用される。かつて五百人の小乗根器の比丘に般若大法を講じた。この五百比丘はこの大法を信じなかったため、命終して皆地獄に堕ちた。ある人が文殊菩薩に言った、あなたは明らかにこの結果を知っていたのに、なぜこの五百比丘に般若大法を講じたのですか?文殊菩薩は答えた、私は彼らが地獄に入った後、地獄に堕ちた原因が般若大法を信じなかったためであると反省し、それによって般若大法がこれほど威力があることを知り、心から畏敬の念を抱き、真心から懺悔し、地獄から出てくると分かっていたからです。地獄から出た後、まず天に昇り、後に人中に戻り、般若大法に遭遇し、それから般若を修学する機縁を得て、智慧が速やかに増進し、まもなく大乗菩提を証得し、修行の時劫を短縮し、早く仏となるからです。
等覚菩薩にふさわしく、大智慧をもって非器を強引に大器に鍛え上げた。文殊菩薩は非器を鍛える能工巧匠であり、智慧は非凡で、法眼は無量劫の因縁を照破する。先ず非器を破壊し、溶解した後直接大器に鍛え上げる。使用不可能な非器の物を分解し、再び組み立てて使用可能な器にするのに相当する。五百比丘が文殊菩薩に遭遇したのは、なんと幸運なことか?この大いなる因縁は大福徳者でなければどうして遭遇できようか?もし智慧のない阿師(無知な師匠)に遭遇し、大乗般若を口にしなければ、五百比丘の運命はこれほど大きな転機を持たなかったであろう。最後にまとめると、器と非器、法に定まった法はなく、善縁に遭遇すれば、非器もまた器となる。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十八、神通の使用原則について</h3>問:神通を使用する際、直接相手の家に自らの一切の動機・行跡を埋め込むことになるのか?因果を引き受ける必要があるのか?神通をどのように見るべきか?神通の短所を避けて菩薩道を良く行うにはどうすればよいか?
答:現代人のいわゆる神通は多くが報通であり、前世に修めた福徳などの果報である。報が尽きれば神通は消失する。真の神通は四禅を修得した後に発起するものであり、禅定が消失しなければ神通は常に存在する。四禅定から来る神通は、菩薩たちが持ち、阿羅漢や辟支仏たちが持ち、外道たちも持つ。
菩薩たちは因果を理解しているため、神通を乱用せず、行動に節度がある。阿羅漢や辟支仏は心が清浄で、世間の人や事に興味がなく、戒行を持ち、因果をある程度理解しているため、神通を乱用しない。外道たちは四禅定を持ち、心も清浄で、世間の人や事に興味がなく、同様に神通を乱用しない。しかし彼らは煩悩がまだ断尽しておらず、完全に降伏もしていないため、何らかの私利のために時々神通を使用し、因果を干渉し、悪業を造作するのは避けられない。したがって禅定によって神通を発起した者は、容易に神通を利用して何か不如法で衆生の利益を侵害することを造作しない。
報通を持つ者は皆普通の人であり、煩悩が降伏しておらず、智慧が不足し、修養は一般的に高くない。神通を利用して因果を干渉し、他人を侵害することはむしろ普遍的であり、私はいくつか見たことがある。私が神通使用についての助言は、ある人が煩悩を十分に降伏させておらず、因果の利害関係を十分に理解・認識していない前に、その中の節度と境界を掌握できないため、一切の通を使用しない方が良いということである。因果を背負ったり悪業の果報を受けたりしないように。もし大いなる心を発した人が神通を利用して衆生に福をもたらそうとするならば、因果を理解した善知識の指導の下で、慎重に神通を使用すべきである。例えば、神通を利用して他人の心や過去を覗き見ようとする場合、これは下手をすると盗戒を犯すことになる。他人が許可していないものを得るのは盗みに属し、不法所得である。盗戒が関わる範囲は非常に広く細かく、普通の人は心が細かくなく、考慮が行き届かないため、戒を犯しても気づかない。
ある人は言うだろう、諸仏菩薩は神通があるため衆生の無始劫の前後の一切のことを知り、まだ起こっていない未来世のことさえ知っている。これは盗戒を犯さないのか?もちろん盗戒を犯さない。なぜなら第一に、これは諸仏菩薩が無心で知ることであり、自然に知ることであり、盗心がないからである。第二に、諸仏菩薩と衆生は一体であり、何の利益衝突もなく、為す一切は衆生のためである。護法神護法も衆生を保護するためであり、個人的な私利目的がない。したがって盗のようなことは関わらない。阿羅漢辟支仏も衆生のことを自然に知り、覗き見る心がなく、心が清浄で、衆生の利益と衝突せず、為すことも盗のようなことに関わらない。外道たちも心が清浄で、一般的には他人のことに無心である。特殊な状況は存在するが、因果を少し理解した品のある人は、他人が忌み嫌うことを回避し、神通で知ったことについて選択し、沈黙を保つであろう。
以上を総括すると、現世で報通を感得した者は、禅定がなく煩悩を十分に降伏させていないため、智慧も具足せず、節度を把握しにくい。なるべく神通を使用しない方が良い。自ら家族を保護する場合は除き、自ら家族や親しい人のことを探知したい場合は、無理に通じるかもしれない。