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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 23

第五章 因縁果報の章(2)

八、花報と果報

花は未成熟の果実であり、結果する前の状態であるため、当然ながら果実ほどの栄養価はない。果実は花の昇華であり結晶であり、栄養価は花より高い。仏教では往々にして花果をもって善悪の業報を喩え区別し、善悪の業報は花報と果報に分けられる。花報とは現世で受ける報いを指し、果報は未来世において業縁が成熟して受ける報いである。一つの業行に花報があれば果報もあり、花報がなくても果報はある。花報が大きいほど果報は小さく、花報がなければ果報が最大となる。

報いは酒造りに似て、長ければ長いほど芳醇になる。また銀行預金のように、長ければ長いほど利息が増え、報いはより豊かになる。善業について言えば、善業を造った者が貧しい場合、花報をできるだけ早く得たいと願い、眼前で享受できることを切望する。福徳が不足しているため、報いを急いで用いる必要があるからである。ある者は無知ゆえに、あるいは善業を行う際に何かを求める心構えで、現前の利益を得ようとするため、花報のみを求める。そうして花報を得た後、未来世の果報はあるかもしれないが、おそらく非常に微小なものとなる。

悪業を造った者にとっては、花報が早く大きければ大きいほど、果報は遅く小さくなる。もしこの者に良知があり道理もわきまえていれば、甘んじて花報を受け入れ、悪業の影響を速やかに消滅させ、後世の果報の苦しみを免れようとする。無知で因果を信じない者だけが、あらゆる手段で花報を回避し、僥倖を願って悪業を隠そうとする。もちろん善業が非常に大きければ、自然と花報が現れる。人が求めずとも、後世の果報も大きい。悪業が非常に大きければ同様に花報が現れ、回避しても無駄である。善悪いずれも自然に報いがあり、時節因縁が具足する限り報いはある。

九、どのようにして果報を得るのが最も得策か

問:甲が乙のために善行を施し、乙は甲の助力を得た。甲は乙からの返礼や報いを得たいと考えている。甲が今すぐ乙から報いを得るのと、後世に乙から報いを得るのと、因果の自然な報いを得るのとでは、どれが最も得策か。

答:無所求の心をもって、因果が自然に償われるのを待つのが最も得策である。甲が善行を行いながら報いを考えなかった場合、これは無報の心で事を行ったことになる。甲が報いを図らなくとも、因果の法則は自然に報いを生じる。この時、果報は最大となる。無為の心で善事を行えば善報は最大となり、有為の心で悪事を行えば悪報は最大となる。

無為の心で善事を行えば善報は最大となり、心が大きければ報いも大きい。如来蔵がなぜこのような規則を持つのかはわからない。善事の果報を最大化しようとする者は、この隙を突こうとするかもしれない。隙を突こうとする心があるならば、まだ心があるのであり、心があれば心は小さい。報いを求め、目的をもって善事を行えば心があり、心があれば心は小さい。報いを求めず、善事に個人的な目的がなく私心がなければ、心は大きく、心が大きければ果報も大きい。三宝のために善事を行えば、果報は最大となる。もしその中に私心があり、金銭や名利、地位、権力などのためであれば、大きく割り引かれる。強い私心を抱いて善事を行い、三宝を商売に利用し、三宝がもたらす利益を図れば、おそらく悪事に変わり、悪報を受けるであろう。

もし煩悩が重く、三宝がもたらす利益を図り、それが果たせずに瞋怨を起こせば、地獄の果報を受ける可能性がある。あらゆる罪業は煩悩から起こり、あらゆる煩悩はあの「我」から来る。したがって我見を断って初めて、煩悩は軽微になり、あるいは煩悩を滅除し、煩悩を永遠に尽くして解脱できる。世の至る所で、大は国家間、中は団体間、小は個人間において、衆生の貪瞋痴の煩悩を見ることができる。まさに煩悩が熾盛に氾濫しており、救い出すのは難しい。末法の世は畢竟末法の世であり、衆生の業は重く障りは深く福は薄い。罪業は善業をはるかに上回り、悪報は善報をはるかに上回る。したがって後世には極めて多くの者が三悪道へと赴いて報いを受ける。これは必ず避けられないことであり、死亡や病苦などは小さな事柄である。

十、他人の業を背負うことにも因果がある

問:家の老人が脚の痛みを訴えていたため、毎日私がマッサージで治療しました。三か月以上経って老人の脚は良くなりましたが、私は自分の腕に老人の脚と同じ症状が出ていることに気づきました。時々同僚の治療をすると、同僚は良くなるのですが、自分の体に似た症状が現れます。なぜこのようになるのでしょうか。

答:これは他人の業障を、あなたが背負ってしまったからです。業障は理由もなく消えるものではなく、果報を受けて初めて消えるのです。彼が受けなければ、あなたが受けなければなりません。仏法を学ぶ者がいつも他人の業障を背負っていては、修行ができません。結局誰も成就せず、皆生死輪廻の中に留まることになります。

医者が病気を治療することも当然ある程度の因果を背負いますが、それは職業であり、わざわざ他人の業を消して業障を背負おうとしているわけではありません。医者はそうせざるを得ないのです。しかしわざわざ他人の業を消そうとすれば、当然、怨みを持つ者が借金を取り立てられず、心に瞋恨や不満を抱くことになります。例えばあなたの家族が借金をし、債権者が取り立てに来たのに、あなたが家族を守って債権者が借金を取り立てられなかったら、どうなるでしょうか。

因果の法則では、業種が成熟して初めて果報を受けることができます。ある怨親債主は体に憑りつくと、すぐに報復します。ある者は臨終に報復します。背負った業障が大きければ、怨親債主が体に憑りついていなくても、因果は早く訪れます。ここには多くの場合があり、非常に複雑で、数言では説明しきれません。ある病人の病気は業障によるものではありません。もし業種がなければ環境によるものか、不注意によるものであり、その治療をしても報復を受けず、業障がなく悪報もなく、善報があるのです。

十一、愚痴煩悩業の果報

貪瞋痴の煩悩の果報は次の通りである:貪りの心は餓鬼道を生じ、瞋りの心は地獄道を生じ、愚痴は畜生道を生じる。臨命終時に貪瞋痴の悪業相が現前すれば、必ず三悪道へと赴いて報いを受け、回避はできない。煩悩業を消滅させるためには、普段から自らの心行をよく観察し、仏法の理をもって降伏させようと努め、戒律を保ち禅定を修めることで、煩悩は比較的早く降伏できる。罪業を造った後、消滅させようと思えば懺悔しなければならない。造った罪業が比較的重大であれば、仏前で懺悔し瑞相が見えるまで、例えば夢中や禅定中に蓮華が現れ、仏が来て摩頂安慰するなどである。一般的にそれほど重くない罪業は、大衆の前で誠心誠意懺悔すれば消滅できる。

貪心が非常に重い者は、餓鬼道で苦しむ時間が非常に長くなる。もし三宝に対して深刻な貪心を生じたなら、その罪過は実に甚大である。瞋恨心が比較的重い者は、地獄道で報いを受ける時間が非常に長くなる。もし三宝に対して瞋恨心を生じたなら、その罪業はなおさら大変である。愚痴が深刻な者は、大きな悪業を造作する。それはもはや畜生道の問題ではなく、まず地獄に落ちて報いを受け、その後餓鬼道、その次に畜生道となる。あらゆる煩悩はすべて愚痴から引き起こされ、愚痴は煩悩の根源である。愚痴でなければ貪心や瞋恚心は生じず、煩悩業を造作することはない。将来煩悩を断除する際には、貪心と瞋恚心が先に断たれ、愚痴は最後に断たれる。なぜなら愚痴は非常に厄介であるため、愚痴の煩悩は最後に断たれるのである。

昔、ある居士が阿羅漢を誹謗した。阿羅漢はその居士に言った、「私はすでに阿羅漢果を証得した。お前は必ず大衆の前で私に懺悔しなければ、必ず地獄に落ちるであろう」。そして阿羅漢は鐘を撞いて衆を集め堂に上がり、居士は大衆の前で阿羅漢に謝罪し懺悔した。しかしその居士は命終後やはり地獄に落ちた。なぜか。阿羅漢を誹謗する罪業が大きすぎ重すぎたため、懺悔後も完全には消えなかったからである。もし懺悔しなければ罪業はさらに重くなり、地獄で報いを受ける時間はさらに長くなる。地獄で一分でも早く出られることは、万に一つの幸いであり喜ぶべきことである。罪の軽重により、感ずる地獄も異なり、受ける苦しみも異なる。初果人、二果人、三果人を誹謗する罪業も皆重い。この世の中の人は煩悩が普遍的に重く、相手がどんな身分でどんな証量であろうと、煩悩が湧き上がれば皆誹謗し、結果を顧みず、自心を発散することが最も重要なのである。

仏法を学ぶ者が自らの煩悩を降伏させようとせず、たとえ八地菩薩の理論を学んでも、煩悩業を造作した後、三悪道に落ちれば、八地菩薩の法も自分を救うことはできない。普段はただ自らの煩悩性情に従い、結果を考慮せず、己の情に任せ、己の意のままに振る舞い、他人はどうなろうと構わず、自心が快適であれば良い。しかし果報が到来する時には、百万倍の不快感となる。快適と不快の間は比例するか。全く比例しない。その時になって初めて、自分が当初何故そんなことをしたのか、全く割に合わない、ただ悪報を受けるだけで、何も得られなかったと後悔するのである。

十二、畜生の殺業は人間より重いか?

悪業殺業を造作することは意根が主宰し、六識が造作する。しかし意根自身の単独の心理活動もまた業行であり、意業と呼ばれる。これも種子を蓄え、果報もあり、それは生死輪廻の苦である。

身口意の三種の業行の中で、意業が主であり、意業が最も重い。なぜなら身行と口行は直接意根の意行に指揮され制御されるからである。意根が貪瞋痴を起こして造作した身業口業は故意の造作と呼ばれ、意根が貪瞋痴を起こして造作しなかった業行は無意の造作と呼ばれる。故意に悪業を造作すれば、罪業は大きく深重であり、性罪性業がある。無意に造作した悪業は、罪業は軽微であり、性罪性業はない。

畜生たちが互いに喰らうことは、故意と無意の中間に位置し、単に飢えのためであり、殺心や瞋恨心はなく、造業は比較的小さく、悪業は比較的軽微であり、性罪や性業はなく、借りは将来返せば良い。畜生の一期の悪業が終わると、人間に転生できる。人間が再び悪業を造れば、再び三悪道へと赴いて報いを受ける。衆生はこのように六道の中で生死輪廻し、人身の業行が最も主要な決定要因である。果報のない業行は一つもない。したがって一人一人が言葉を発し事を行う際には、くれぐれも細心の注意を払い、恣意的に妄りに振る舞い、口を開けばでたらめを言ってはならない。特に仏法については、思い込みで自分がこう思うからこうだとしてはいけない。仏は阿羅漢果を証得しなければ己の意を信じるなと言われた。己の意は信じてはならない。一旦仏法において悪業を造作すれば、無間地獄の苦しみは人間界の無量倍であり、到底耐えられない。

十三、因果は心によらず

もし心中に深刻な「我」があれば、心に思う事は必ずしも実現せず、思わないことも回避できるとは限らない。人間の行うことは、往々にして自らが望むことと正反対である。例えば人は皆長寿で健康で幸せであることを望むが、造作するのは自らを長寿でなく健康でなく幸せでなくするようなことばかりである。例えば殺生して肉を食べる、その結果がどうして健康長寿幸福でありえようか。人は皆自由自在に解脱することを望むが、固く「我」を握りしめて放そうとしない、それでどうして自由自在に解脱できようか。

人は皆自らが富貴で発展することを望むが、いつも意図的か無意識かに窃盗や強奪のようなことをする、それでどうして富貴発展できようか。人はいつも他人から尊重され重んじられることを望むが、いつも傲慢で他人を見下し、他人を尊重しない、それでどうして他人の尊重を得られようか。人は至高無上の権利を持ちたいと願うが、いつも他人の権利を剥奪する、自らどうして権利を持てようか。

十四、悪取空の果報

世には二種の断滅空、あるいは悪取空があり、人を害するのは甚だしく、直接衆生を堕落させ三途に落とし、六道を輪廻させる。一つは外道の無所有空で、前世も後世もなく、死ねばすべて終わり、因果はなく、善悪業報もなく、何をしても構わない、自由自在に思う存分楽しめば良いと考える。

もう一つの悪取空は、大乗如来蔵法を修学するこれらの人々である。彼らは因果業報があることを認め、前世後世があることを認め、身中に如来蔵が不滅であることを認めるが、五欲の享楽を貪り、苦修実修を望まず、戒律を保ち禅定を修めることを望まない。そこで五陰十八界の一切の虚妄な機能作用を否定し、すべてを如来蔵に押し付け、如来蔵で五陰の一切の機能を代用させ、五陰を無為無作にし、仏を学んで成仏する必要もなく、如来蔵は本来仏であるとする。あるいは五陰に勝手気ままに振る舞わせ、五陰が何をしても如来蔵が行ったことだと言う。もし如来蔵が行ったことなら、五陰身には因果がなく、業報もない。したがって五陰身は縁に随って自在であり、戒律を保つ必要もなく禅定を修める必要もない。如来蔵は本来戒を犯さず、本来定がある。この二種の断滅空悪取空論は、性質は異なるが結果は似ており、因果を撥無し、放浪して形骸を顧みず、悪を断ち善を修めることができない。

なぜなら如来蔵を執取して我とするため、無相も執取する。凡て有相のものはすべて捨て去らねばならず、あたかも自らはすでに有相を超越して無相に達したかのようである。実際には無相なのは如来蔵であり、五陰身は依然としてすべて有相の中に落ちている。現時点では根本的に超脱できず、戒律がなく禅定がなく、般若智慧が深刻に不足し、心心念念すべて相の中にある。もしどうしてもこれらの相を覆い隠そうとすれば、悪取空に陥るしかない。果報が到来する時には必ず直面しなければならず、悪報の相はもはや回避できない。

しかし、すでに有相を超越し無相に達したと言う人々は、なぜ肉を食べることを選び、肉を食べる相に執着せず、菜食を選んで縁に随い残飯を食べないのか。すでに相がないなら、すべては縁に随い簡素に生きて修行すれば良いのに、なぜあのように選り好みし身を護り養生するのか。有相の戒は保たず、専ら無相の戒を保つ。飲食や衣服住居の選択が相ではないのか。なぜ苦労する相ではなく享楽の相を選ぶのか。無相は偽りであり、有相こそ真であることが明らかである。大乗を学ぶことは非常に良いが、よく学ばなければ大乗の法も毒薬となり、これを食らって捨てなければ必ず死ぬ。良薬が毒薬に変わる、これは誰の過ちか。

十五、衆生の業縁にはどのようなものがあるか

業縁とは文字通り身口意の業行が生じる縁であり、また五陰身が善悪の業報を受ける縁でもある。これらの業縁があって初めて、五陰身は一切法の中で生活し、業を造り報いを受けることができる。一切法とは周囲のすべての人・事・物理、他の五陰身、生存環境、宇宙器世間のすべての自然現象を含む。衆生はこれによって業を造り報いを受ける。生存様式、生存条件、生存資具が業縁であり、家族眷属、友人同僚が業縁である。これらの縁があって初めて善悪の果報を受けることができる。

その中で色身は正報の業果であり、また命終前の色身と後世の色身の業因業縁ともなりうる。環境は依報の業果であり、また業因業縁ともなりうる。一つの法は因ともなり、縁ともなり、果ともなる。法は不定であり、果もまた不定である。

十六、相貌の秘密

人の声はその人の性格、気質、本性、教養を反映し、またその人の心性が純粋で率直なのか、虚偽で狡猾なのか、明るいのか暗いのかをも反映できる。一人の人の顔立ちもその人の修養、性格、気質、本性、学識、風格などを反映し、さらに骨格や筋肉、体形、皮膚などもその人の性格や気質、本性、精進しているか怠惰か、厳格で真面目かだらしなく散漫か、陽気か陰鬱かなどを反映する。

誰もが自らの相貌に責任を持つべきである。外見の相貌業はすべて因果の一部であり、業行の正報である。すべて自らが生生世世修めてきたものであり、内面の善悪の品質を反映している。相貌が思わしくない時、両親や天を怨んではならない。自らを責めるべきである。前世であのように傲慢であったため、今世は背が低い。ある人の筋肉が非常に弛緩している場合、その人はおそらく怠惰でだらしなく、考えが厳密ではなく、その日暮らしのタイプである。体形が歪んで正しくない人は、往々にして心も正しくない。正直な人は心正しく身正しく、顔立ちも正しく、皮膚は引き締まり、顔つきは厳粛である。まなざしさえも正しく、目をそらさず、心は明るい。顔つきからもその人が前世でどの道から来たかがわかる。若ければ若いほどより正確に見える。後世でどの道に生まれるかは、年を取れば取るほどより正確に見える。

十七、丹霞禅師はなぜ木仏を焼いたのか

丹霞禅師は自性仏を開悟証得した後、心中で四相(我相・人相・衆生相・寿者相)を破っただけでなく、仏相も破った。真の仏のみを認め、偽の仏は認めない。それらの木彫り石造りの仏像はもちろん真の仏ではなく、焼いても何の差し支えがあるか。しかし真仏を証得していない者は決してこれを学んではならない。なぜなら真を証していないため、仮の相が依然として存在し、仮の相を焼くことは真の相を焼くことと同じであり、これは非常に大きな罪過となる。仏を毀り辱める果報は非常に良くない。古代に一人の凡夫比丘が開悟した比丘を真似て、仏菩薩の名前をすべて下着に書き記したが、一両日中に血を吐き、死亡したかどうかは覚えていない。また現代の人が観世音菩薩像を川に投げ捨てたが、家に帰ってから何年も全身が冷たく湿った状態が続き、罪業を懺悔し、かついくつかの補償措置を講じて初めて大病が治った。

丹霞禅師は宿世の善根が深く厚く、開悟後は道行が浅からず、心は空で無相であった。よく橋の上に寝そべり、悠々自適で何もせず、人々は常に怪しんだ。道を得た者に、まだ何かあるというのか。五蘊世間はすべて空であり、無相・無願・無求、人生はただ飯を食い眠るだけである。常に両足を伸ばして寝るのは全く正常であり、あれほど多くの事などあるはずがない。終日あちこち求め、東奔西走し、忙しく立ち働き、何を図るというのか。心が徹底的に空になり、一切法が自然に任運するまで至れば、仏陀は自然に来て授記し成仏させる。まだ一法も空でなく、まだ一事も求めることがあり、まだ仏祖になろうと思うなら、仏陀が授記に来ることを望むな。衆生を救うことを名目とし、一己の私利を図り、仏教を烏煙瘴気にしている者たちは、おそらく仏陀の授記を得られないばかりか、因果の修理を受けるであろう。因果は恐ろしい。

ある者は言うかもしれない、私も木彫り石造りの仏像は真の仏ではないと思う、私が焼いても問題ないだろうと。それなら一つ焼いてみよ、五臓が焼け焦げ、苦痛に耐え難いかどうか見てみろ。自らが思うことは役に立たない。意識が感じることは無意味である。もし意根が認めなければ、因果は間違いない。自ら証果したと思い、自ら明心開悟したと思う者が、仏菩薩の名前をズボンの上に書いてみよ、木仏を焼き石仏を毀してみよ。もし何事もなければ、相を破った真の悟りと見なせる。丹霞禅師のように敢えてそうする者があるかどうか。

ある者は言うかもしれない、私に印証を与えた人は非常に道行がある、私はそれを信じる、しかし仏が最も道行があると言う。もし仏が印証したことが事実と合致せず、如来蔵が承認しなければ、因果はさらに承認しない。もちろんこれは仮定に過ぎない。仏陀が印証することはもちろん絶対に事実に合致し、如来蔵に合致する。ある者は非常に頑固で、何を言っても聞かず、ただ自らの感覚だけを信じる。しかし如来蔵はさらに頑固で、ただ事実のみを管轄する。因果は特に頑固で、すべての人と対立することを恐れない。事実の前で頭を下げない者には、因果は対立するであろう。

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