仏法雑談(第二部)
問:道とは何か。禅師答:飯を食い、眠ること。問:私も飯を食い眠るが、道と何が違うのか。禅師答:あなたは飯を食う時にまともに食わず、百種の索求をし、眠る時にまともに眠らず、種々の難癖をつける。これは色・声・香・味・触への貪求であり、修道ではない。
生活の中で修道するとは、祖師たちのように修めるのであって、ある煩悩具足の者が言うように、生活に融け込み、色声香味触と一体となり、貪瞋痴の煩悩に度されることではない。そうすれば五欲の羈絆から跳ね出られない。煩悩具足の者が説法すれば、至る所で煩悩から離れず、自分に煩悩があるから、人に煩悩からの出離・解脱を教えず、他人が自分と同じ煩悩を持つことを望む。彼には煩悩解脱の経験がなく、煩悩からの出離の経歴がないから、法に従って他人に煩悩の深淵から一歩一歩離れるよう教えることはできず、彼は煩悩を深淵とも思わず、貪着して享受するが故である。
ある説法者は意図的か無意識かに世俗の煩悩を吹き込む。例えば、如何に頂天立地・出人頭地するか、人付き合いで如何に如才なく巧みに弁じ、自らを讃えて他を毀るか、男女の欲求や瞋恚の争いを如何に容認するかなどを吹き込み、衆生に種々の貪取を誘導し、果ては弁論の話術や詭弁まで教授する。仏教で行われるこれらの世俗的煩悩事は、結局は三悪道へと導き、無量の苦しみを受け、出期が難しくなる。だから真にまともに修道したければ、古の修道者である禅師や祖師たちの風範を多く学び、彼らの日常生活における清心寡欲を学び、彼らの質直無偽・淡泊名利・志気高遠・一心為道の道人たる心を学ぶべきである。
現代人は教えられなくとも、元々煩悩が重く、加えて社会生活環境や習俗の薫染により、心の染汚が甚だしく、毎日周遍に馳せ求め、六根が六塵の色声香味触法に対し、一法も求めず、一法も取らぬことはなく、五蓋の遮障が極めて重い。もし今生で真に突破を望むなら、早く覚るべきであり、時処にわたり自心の煩悩の所在を反観し、索求する度に心に念うべきである:私は馳せ求めている、私は周遍に馳せ求めている。周遍に馳せ求めぬとは如何なるものか。古の修行者の如く:山中で修道し、日に一食、少欲知足、心常に安楽、これ以外は全て馳求の性質を持つ。
<h3 style="text-indent: 2em;">十四、如何なる身口意行が道に適うか</h3>修行精進の者は日常生活で自心を反観し、自らが飯を食う時の心の在り様を観察し、飲食への貪りに気付けば、飯を食う速度を遅くする。実は空腹時の狼吞虎嚥は必ずしも貪りではなく、よく噛んで味わうことの方が却って貪りである場合もある。味塵への貪りは貪りの一種であり、飲食への貪りは飲食の色香味触への貪りを含む。色香味触を貪らなければ、ただ飢えを解決するためであれば、貪心ではない。だから飯を食う時も貪らずに食え、貪らずに速く食うことさえできる。
如何にして貪心と非貪心を区別するか。昔、ある在家の弟子が大珠慧海禅師に問うた:師父、あなたの飯食いと眠りは凡夫の飯食い眠りとどう違うのか。慧海禅師は言う:凡夫は飯を食う時にまともに食わず、百種の索求をし、眠る時にまともに眠らず、千般の計らいをする。私はそれほど多くの考えはなく、ただ飯を食い眠るだけだ。飯を食うことに何の考えもないとは、飯を食う時に何も考えず専心するのではなく、飲食に余分な要求がなく、難癖をつけず、貪心がないということだ。
凡夫衆生が飯を食う時の百種の索求とは何を索求するのか。大まかに言えば色香味触と色身を保養するための滋養に過ぎず、細かい点での種々の要求は多いが、概括すれば貪りであり、全て我見身見が怪をなす結果である。得道の者が飯を食えば、腐った飯や残飯でも構わず、腹が満ちて飢えず修道に支障がなければそれでよく、他の要求はない。凡夫衆生が眠る時の千般の計らいとは何を計らうのか。大まかに言えば色声香味触法の六塵境界への計らいに過ぎず、細かく言えば家屋・寝台・寝具などへの計らいであり、実質は全て身見我見の現れである。
人に修行があるかどうかは、日常の些細なことではっきり見て取れ、細部一つ一つに我見があるか否かが分かる。我見の絶えぬ者は、色身の要求が多く、色身の要求を守るために、極めて多くの貪心貪行が現れ、自らは気付かず、無自覚に常に貪行を現じ、それは意根の貪りであり、習慣的である。習慣ゆえに正常で正当と思い込み、もし自分と同じでなく、何にも貪着せず難癖をつけない者がいれば、異常と思う。これを倒錯という。日常の行いのうち、どれが道に適い、どれが道に適わぬか、自ら善く観察し区別し、絶えず自らを修正してこそ、早く悟道できる。
身行と言行は、共に心に支配される。心が凡夫の貪着心であれば、身語行は無自覚に貪りの心行を体現する。修行のない凡夫人は総じて自らに修行があることを見せたがり、それゆえ修行があるふりをするが、如何なる行為が修行であり、如何なる行為が修行でないかを知らず、装っても長くは続かず、肝心なのはどう装うかも分からないため、時折自らの無修行な行為を露呈し、素人には見分けがつかない。
実は、凡夫は朝目覚めて目を開ける時から一日の活動を始め、夜眠りに就くまで、夢中さえも含め、一日の中でほとんど正しく道行に適った身口意行はない。これは誇張か。誇張ではない。心が道に相応しなければ、身語行も道に相応せず、時処にわたり無明煩悩行である。
もし如何なる心行が道に相応するかを知れば、如何なる身行と言行が道行であり、如何なる身行と言行が道行でないかが分かる。こうして大まかに人に見道証果があるか、道行があるか、修行がどの層にあるかを判断できる。目が明るくなれば、再だ騙されず、韭菜にされることもない。
<h3 style="text-indent: 2em;">十五、重大な漏れは追求の時間長短で判定されるか</h3>ある者が言う:欲界愛を断つには多くの時間を要し、更に重い造作相がある、これが重大な漏れである。人は貪心が重ければ結婚で解決でき、結婚は短時間で済み、軽微な漏れに属する。長時間をかけて追求するのは重大な漏れ、短時間で追求するのは軽微な漏れだ。この者の説法は事実を歪曲し、仏教の四聖諦理と解脱の理に甚だしく背く。
もし長時間かけて追求することが重大な漏れだとするなら、凡夫が三大阿僧祇劫の時間をかけて成仏を追求するのは重大な漏れではないのか。もし欲界愛を断つことが重大な漏れだとするなら、無量劫にわたり欲界愛を保ち、無始劫以来六道で無量の貪瞋痴煩悩業を造り、無量の生死苦を受けることは重大な漏れではないのか。貪欲心を解決する方法は結婚であって、行苦空無常無我を観じて解脱を得ることではないのか。では瞋心を解決する方法は何か。一瞬で瞋る人を殺せば、それで瞋心はなくなるのか。
凡夫が一瞬で人を殺すのに要する時間は極めて短い、これは重大な漏れではないのか。貪愛煩悩に従うことは重大な漏れではないのか。こう言うなら、仏陀が煩悩深重の娑婆世界に来て解脱法を説くことは無意味ではないのか。衆生が煩悩欲求に従えば解脱するのか。漏れの重大さはかける時間で測るのか、それとも煩悩の軽重で測るのか。極短時間で貪欲することは、重大な漏れではないのか。貪欲を解決する方法は結婚か。瞋恚を解決する方法は殺人か。結婚こそが貪欲の現れだと誰が知らぬのか。無始劫来衆生が人である時、生々世世結婚してきたが、ずっと貪欲してきたのではないか。この貪欲のために生々世世無量の苦しみを受ける、これは明らかな事実ではないか。
どうやらこの者は真に仏法を信受しておらず、高座に座って善知識を装い、衆生に貪欲に従い、貪瞋痴に従い、どう楽しむかで来るよう教え、苦集滅道を修学せず、貪欲瞋恚を断たないように導く。なぜならそれは多くの時間を要し、得るものより失うものが多く、時を移さず楽しむのが良いからだ。是れを忍びば孰れをか忍ばん。もし外道がこう言うならまだしも、畢竟外道だから。しかしこれは自ら善知識・真善知識と称する者、解脱の道理を説く者であり、明らかに衆生を皆六道に押さえ込み、自らと共に貪欲させようとしている。各人が造る不善業は、皆石を持ち上げて自らの足を打つようなもので、天を仰いで唾すれば自らの顔に落ちる。古人は一字の違いで野狐の身に堕ちたが、この者は極めて大きく多い誤りを犯す、果報は如何なるものか。
<h3 style="text-indent: 2em;">十六、修定と五蓋を除くことは漏れのある法か</h3>ある者が言う:座禅で定を修め五蓋を除くことは、皆取相分別であり、外道と同じ修行方法である。これは主に不了義法を修めることに属し、それゆえ真如三昧を発起できず、重大な漏れとして扱い、棄捨すべきで修めてはならない。この見解は甚だしく邪で、仏教と菩薩の教えに甚だしく背き、全く仏弟子の言うべき言葉ではない。このような知見は、この者が修道の主要内容を根本的に理解せず、究竟何を修め如何に修めるべきかを知らず、修道の次第と過程を知らず、修道の過渡期を知らず、修業の結果と最終目標に直ちに到達できないことを示す。結果は何の道もなく、全く無であり、空しく高談し、腹の中は空っぽである。
もし修定と五蓋を除くことが取相分別なら、仏法を修学することは更に取相分別である。もし取相分別しないなら、仏法さえ学ぶべきでなく、善法も修める必要がなく、四念処・三十七道品・菩薩六度及び戒定慧の三学を修めてはならない。学仏そのものが取相分別である。そうでなければなぜ気功やキリスト教を学ばないのか。なぜキリスト教会で説法しないのか。なぜ一日中寝てばかりいずに働くのか。取相分別せぬ者などいるのか。仏と如来蔵を除いては。しかし仏が衆生を度すことは取相分別ではないのか。声聞人に四聖諦を説き、辟支仏に十二因縁を説き、菩薩に六度万行を説くことは、取相分別ではないのか。初基の衆生に唯識を説かないことは取相分別ではないのか。仏陀が僧団の指導権を提婆達多に渡さないことは取相分別ではないのか。仏陀が王位・妻・子を捨て出家修道したことは取相分別ではないのか。山中で一日に麻一掴み麦一掴み食することは取相分別ではないのか。鹿野苑で五比丘を度したことは取相分別ではないのか。
如来蔵を除き、衆生も仏も取相分別を避けられない。もし取相分別が皆漏れなら、細菌の取相分別は最も軽微で、ほとんど分別できず、それほど多くの相を取れない。極度の愚痴ゆえに、人の漏れは細菌より多い大きいと言えるのか。種々の取舍は取相分別であり、世俗界と全ての仏国土で取舍を離れられず、取舍をせぬ者はいない。諸仏菩薩を含むが、如何に取舍するか、何を取り何を捨てるかの問題であり、善く取舍し分別することは極大の智慧である。智慧がなければ正しく取舍分別できない。
真如三昧を発起するには、一つは純粋に禅定性質の三昧であり、一つは禅定に般若智慧を加えた真如三昧である。禅定を離れれば、ほんの少しの三昧さえ存在しない。座禅で定を修め五蓋を除くことは、仏の説かれた修道必修の法であり、大小乗の学人を問わず越えて修めずにはおけず、定を修めなければ道を証せず、五蓋を除かなければ無明煩悩を断じられない。禅定を修めず五蓋を除かぬことを宣揚するとは、仏と対立し仏陀と仏法に背こうとするのか、それとも自らが仏より高明で修道をより理解していると思うのか。ずっと散乱心で浅はかな思惟推理をし、五蓋と一切煩悩無明を帯びて成仏したいのか。
もし仏が規定した必ず修すべき法が漏れのある法なら、何の法に漏れがないのか。如来蔵に漏れはないが、あなたの七識と五陰は如来蔵か。如来蔵は五陰七識を代表できるか。七識と五陰の漏れは如何に処理するのか。浅はかな散乱心の情思意解で、これほど多く大きい煩悩の漏れを処理できるのか。末法の世、世俗界と仏教界には怪人怪事が相当多く、人の想像力を超えている。それでもなお多くの人が追い求めている、何を図っているのか分からない。歳月は梭の如く、瞬く間に過ぎ去る。やはり法に依り人に依るなかれ。
<h3 style="text-indent: 2em;">十七、無心の過失は罪なくとも悪報あり</h3>まず、明らかに心で悪業を造っていないのに、なぜ過失が現れるのか。これは心に愚痴無明があるからだ。無明愚痴は根本煩悩であり、これにより他の大中小随煩悩が現れる。貪と瞋の二つの根本煩悩も無明愚痴から生じる。無明がなければ、愚痴がなければ、貪も瞋もない。無明と愚痴がなければ、種々の過失は現れない。表面的にはこれらの過失は無心によるが、真に無心なのか。無心ではない。煩悩習気の働きである。習気が重いため、脳を使わず考えずに過失を造り、取り返しのつかない過失さえもたらし、人を深く傷つけたり、損失を大きくしたり、果ては人を殺し、三宝を誹謗し、三宝の名誉を毀損したりする。
一般に人は、これらは無心の過ちで、故意に何かをしようとしたのではなく、不注意で我慢できず造り出したと言う。そう見るなら、無心の過ちではなく、無心の失でもない。心がある、煩悩染汚の心があり、愚痴の心があり、習気が重いことを表す。清浄な人にはこれらの過失過ちがなく、身口意行が清浄完璧で過失がなく、魔波旬でさえ数百年数千年これらの人の過失を探しても見つからず、隙がなく、波旬は便を得て悪業を造る機会がなく、やむを得ず失望して帰る。だから一切の過失過ちには心があり、それゆえ悪報がある。愚痴無明の果報は三悪道で、畜生道が主である。一切の煩悩の中で愚痴が最も断じ難く、貪瞋が除き尽くされて初めて愚痴が除かれ、等覚菩薩に至って最後の一品の無明を断じ尽くす。これで無明愚痴の堅固性・微細性・広汎性が分かる。
愚痴業が最も重いのは人殺し放火ではなく、殺業は地獄に堕ちるが時劫は有限で、罪業が消えれば地獄から出られる。しかし三宝を誹謗し、三宝に悪業を造れば、受報の時劫は極めて長く、三悪道から出て人中に生まれても、かつて三宝を誹謗したため、なお盲聾唖の報いがあるか、三宝に遇わず、三宝の名を聞かない。たとえ悪業が一部消え三宝に遇っても、法を学んでも心に入らず、門を得ずして入れず、甚だ苦悩する。一切の悪報でこれより重いものはなく、学法解脱を妨げることは、最大の利益の損失である。
<h3 style="text-indent: 2em;">十八、如来蔵法門を修学する意義</h3>一切の仏法の修学は、我空と法空を証得し、七識の我見・法見と我執法執を滅除し、七識の無明煩悩惑を消除するためである。各人の心には必ずこの目標指向を明確にしなければならない。そうして初めて仏法を修学し如来蔵法を修学する意義が生じ、さもなければ一つの学問となり、修行と学問が二つに分断され、学問は学問、修行は修行で、両者は無関係となる。我々はこの点を明らかにすべきである。学問は無明煩悩を断じられず、却って煩悩と係縛を徒に増し、無明生死惑業さえ増す。
なぜ学問と修行が二つに分断される現象が現れるのか。根本問題は禅定と如実観行が欠け、身心世界との照合と連携が不足し、菩薩は煩悩を断ぜずして菩提を証できると誤って考えることにある。修行目的が不明確なため、学問は積み上がっても実義がない結果となる。如来蔵法を修学するのは煩悩を断除するためであり、方向と方法が正しければ、煩悩は少しずつ消融し、断じたくなくとも知らず知らず断じられる。方向と方法が誤っていれば、知識学問は増え続けるが、煩悩は減らず、却って煩悩が学問の増長に伴い増える可能性さえある。このような学法は真に誤解であり、倒錯である。
衆生は歴劫無明煩悩の中にあるため、六道生死輪廻の種々の苦難が絶えない。菩薩は衆生の一員であり、同様に無明煩悩により生死輪廻し、同様に修行して無明煩悩を断除し、生死の結縛を断ち苦を離れ楽を得る必要がある。自ら無明煩悩を断じて初めて、菩薩として大衆を導き無明煩悩を断じさせ、苦を離れ楽を得させ、解脱へ向かわせる資格がある。もし菩薩が煩悩の深淵にいるなら、どうして能力と資格を持って衆生を煩悩の深淵から導き出せようか。
だから菩薩は煩悩を断ぜず断じる必要もないという見解は極めて人を害する。煩悩を断じなければ、なぜ仏を学び修行するのか。衆生を度して煩悩を断じさせないなら、衆生をどういうものに度すのか。衆生が皆学問知識の収集者となり、理論の専門家となることが最終的な帰結なのか。知識理論学問は生死に耐えられるのか。福德として飯が食えるのか。煩悩があれば徳がなく、福德も功徳もない。福德も功徳もない衆生は、生死業障の凡夫であり、それでどうして修行や衆生を度すことが語れようか。
如来蔵法を学ぶ者の中には、如来蔵を分析意解して明らかにするが、自らは少しも益を受けず、煩悩は依然として元のままで、智慧は依然として浅く、結縛は依然として自心を係縛する。このような修学の結果は全て徒労に終わる。如来蔵が如何に清浄であろうと、如何に無我であろうと、如何に一切の戒定慧を具足していようと、五陰七識が清浄でなければ、無我でなければ、戒定慧がなければ、依然として福も慧もなく、苦悩は辺りなく、解脱の望みはなく、如来蔵は依然として五陰七識を三悪道に変生して苦しませ、六道苦海で頭を出し沈みする。
だから修学は必ず理の如く法の如く律の如く、正しい目標と航路から離れず、仏陀の戒律で厳しく自らを律し、仏の説かれた戒定慧の三無漏学の準則に厳格に従って修学しなければならない。目標は心に漏れなく、漏れなきは無明無煩悩であること。これが正しい修行の道である。菩薩は煩悩を断じないなどと言ってはならない。これは邪見であり、修行に背く。
<h3 style="text-indent: 2em;">十九、なぜ攻撃されている感覚があるのか</h3>問:あるグループで仏教の正理を説く時、正知正見のない所謂学仏人に攻撃されると、全身が辛く、毒蛇に噛まれたように感じ、相手が全身に負のエネルギーを満たし、普通の仏を学ばぬ者より劣っているように感じる。なぜこのような感覚があるのか。
答:このような時は、第一に自らの言葉が時機に適わないか、あるいは言葉が適切でなく善巧方便がないか、あるいは心に傲慢があり相手を見下しているか、あるいは自らの信受力が足りないかなどを反省すべきである。第二に、人に攻撃され反対されるのは正常な現象であり、衆生は無明があるため認識が同じでなく、各々自説を執し、偏執現象さえ現れることを考慮すべきである。第三に、衆生の心理を多く観察し、衆生を多く理解し、コミュニケーション方法と技巧を学ぶなどである。問題に遇えば、先ず他人の原因を探すのは問題を解決できず、自らの原因を探せば自らを修正でき、それによって相手に自らを信受させ、自らの善意を受け入れさせる。
もし自らの見解が受け入れられず、相手の攻撃を受けたと思い、前述の種々の感覚があれば、これは自らの我執が非常に重く、他人の拒絶と不認可を少しも許さず、他人の自らへの態度を気にしすぎていることを示す。前述の言葉の描写から、我慢が比較的深刻で、心中の我が盛んで、無自覚に他人を見下し軽蔑しているため、あってはならぬ感覚が現れるのである。もし自らに正見と正理があれば、心を空しくして縁に随い、言葉は低調で技巧があり、かつ相手の態度と反応を淡く見て、他人の評価を気にせず、一切の結果に全く拘らず、態度を終始謙虚に保つべきである。そうすれば自らの心意と磁場が無形のうちに相手を摂受し影響を与え、自らの見解は受け入れ易く、少なくとも言葉の衝撃はない。だから私は問題に遇えば先ず自らを点検せよと言うのである。
人と対話する時、先ず自らを正と設定し、正法を持つとすれば、他人を邪の側に置き、他人に正知正見がないと見なす。これでは正邪対立となり、人我是非が必ず現れる。なぜなら誰も邪の側になりたがらないからだ。自らが正だと思えば、他人は邪を代表する。他人は当然承服せず、衝突が生じる。矛盾は往々にしてこうして激化する。人の話す口調は往々にして自らの態度と立場を露呈し、相手が感知すれば反感を持ち、感情が現れ、言葉が適切でなくなり、矛盾が現れる。
私は長年説法してきて、一度も「私の説くのは正法」あるいは「私は正法を代表する」と言ったことはない。このような言葉は私の法義に一度も現れない。本をめくって見れば分かる。だから私は決して人と対立せず、たとえ私の説く法を受け入れない者がいても、私自身のためではなく、他の私以外の原因があり、問題は私の側にない。智慧ある者は話し行動する時、人を自らの対立面に置かず、自らに敵を作らない。我執の深刻な者こそ、絶えず敵を作り、一切の人を自らの仮想敵とさえ見なす。こうすれば当然敵は満天下となる。そして敵満天下の者は、どこまで行けるのか。事を行って順調か。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十、なぜ多くの人は楽しく苦を感じないのか</h3>衆生は無始劫以来苦海に漂いすでに慣れきっており、真の楽を享受したことがなく、対比がなければ知覚も覚りもない。衆生は愚痴であればあるほど苦を知らず、自らの愚痴も知らず、往々にして苦を以て楽とする。苦を知ることは修道者の覚りであり、修道者の覚りの極めて大多数は仏陀が教え導いたものである。苦を知れば、滅を慕い修道し、遅かれ早かれ苦集を断じ尽くし、生死を了脱し解脱を得る。
愚痴は一切の煩悩の中で最も重く、愚痴人は最も度化し難い。一切の教理が入らず、一切の言葉が分からず、一切の勧導が無用で、一切の方便方法手段が休廃する。一塊の頑石の如く、塩も醤油も入らない。愚痴ゆえ他の煩悩も少なく、妄想も少なく、念頭も少なく、出離を知らぬ。人中のこのような者で、もし定を修めれば、おそらく速やかに欲界定に入り、雑念がなくなるが、更に深い禅定は得られない。愚痴煩悩が重く、上界に相応しないからだ。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十一、如何にして自心の心念を覚悟するか</h3>もし自らを理解し、自らの心念が善か悪か、染汚か清浄かを知りたければ、如何にすべきか。なぜ多くの人は持続的に自らの染汚心行・煩悩心行に随順し、染汚業行を造作し続けるのか。覚悟性がなく、覚察力がなく、自らの各心行心念の結果が何か、如何なる果報があるかを知らず考えず、ただ感情を発散させ、心が気持ち良ければ満足し、将来非常に気持ち悪く極めて気持ち悪くなるかもしれないことは構えないからだ。これが衆生の愚痴無明と短視である。
如何にして自らの心行心念を覚悟するか。まず因果を信受し、次に因果を明らかにし、一切の身口意行には因果があり、因縁が熟せば必ず善悪の果報を受けることを知る。自らが人に対し事に対し為す一切は最終的に自らが受ける。善を行えば善報を受け、悪を行えば悪報を受ける。これは逃れられぬ因果の法則である。そうすれば意図的に自らの身口意行を注目するが、定力と慧力が足りないため、往々にして習慣的に不善の身口意行を造作し、自覚しない。
これには定を修め定力を補い、反観力を高め、心を細やかにし、観察力を鋭敏にし、随時自らの心念を捕捉でき、かつ内心の最深部の心思や考え、あるいは煩悩の念頭を観察できるようにする。そうすれば深く透徹して自らを理解できる。不善の心念を速やかに改められず、自らの煩悩を降伏できなくとも、知っただけで、日久しく必ず徐々に密かに自らを変え、自らさえ自らの変化に驚く。
定慧斉修・定慧等持の四念処観行を通じ、自らの定力と慧力を増し、自らの覚性を高めることができる。次に日常の人付き合いの中で自らの心念を反観し、自ら内心深くの真の考えを反観し、自らに問う:こうすることは人に対し己に対し何の益があるか。如何なる結果があるか。この結果は自らにとって解脱か束縛か。このような結果を将来受けることを望むか、受けることができるか。
自心を観察することと四念処を観行することは同じ道理である。四念処は定に始まり、慧に終わり、目標は慧である。慧が生起して初めて我見を断ち果を証し解脱する。自らの心念を観察することも同様である。観察の結果は何か。結果は自らを認識し結果を認識する智慧が生起することである。この智慧があれば必ず煩悩を降伏断除でき、将来善業の楽果報を享受する。起心动念は人の禍福を決定する。心念が悪不善なら禍を招き福を損ない、心念が善なら福を生み災禍を免れる。多くの人は種々の順逆境に遇っても、結局何によるか分からず、心の粗い人は根本的に何によるか考えず、逆縁逆境は自然に生じると思い、自らの業行が招感したものだと知らず、自らの悪による不善業だと知らない。福は長く存せず、禍は免れず、人生苦海に波を起こし揺らぎ、境に逐われて沈み浮かぶ。
もし自心を観察しなければ慧は生起しない。意識が心念を動かさず観ずるからだ。法を現量で意根に呈し、意根に如実に直面させる。直面すれば意根は留意し専注し、思量が生じ、如理思量すれば結果が出る。もし意識が観察しなければ、心は散乱し、意根は観ずる法に住せず、法を知らず証しない。意識に禅定がなく散乱して観察すれば、意根は依然として散乱攀縁し、観ずる法に集まらず、如実に法を観察思量できず、法を知らず証しない。だから昔の禅師たちや仏在世の弟子たちは、意根の法を理解しなくとも、依然として明心証果できた。彼らは皆甚深な禅定を持っていたからだ。
もし自心を観察しなければ、六七識はこの法に作意せず、後の触受想思心所法の運行もなく、定心所と慧心所の出現もなく、当然何も知らない。自心を観察しなければ、念に随って流転し、我は念であり、念は我であり、その中に陥って抜け出せない。知るという一字は重要である。心念は賊の如し。家に賊が来れば、知り覚り、それを見守る。賊は見つかったと知り、物を盗むのが恥ずかしくなり、悄然と去る。
だから境界が来れば知り、心念が現れれば知り、境界に従って走らず、心念を流転させず、正知を保つ。以前知らなければ、愚痴で犬が塊を追うが如く、人が石を投げれば追いかけ、音がすれば狂うように吠え、風が草を吹くことだと知らない。人と痴狗は違いなく、終日境界を真とし、心を動かし念を生じ、人我是非、我高し汝低し、一口の食を争い、頭を割り血を流して争う。衆生は哀れであり悲しい。自らを変えるために、自心を観察する功夫を多くせよ。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十二、逆境の用い方</h3>人の弱点・欠点・習気・欠陥・煩悩、及び種々の執念は、全て自ら積極的に改めるのではなく、環境条件が許さないためやむを得ず改めるものもある。それは壁にぶつかることだ。前に厚い壁が現れ、此の路通ぜず迂回せよと示す。それでやむを得ず曲がるか方向転換し、一つの弱点を克服し、一つの欠点がなくなり、一種の習気煩悩が消え、一種の執念が消える。
人生の種々の不如意、種々の逆境は、壁の如く、我々が固有の認知と習気に沿って進めなくし、それで別の路を換えると、結果はやはり後のこの路が良い。だから逆境と挫折は敵ではなく、壁は更に敵ではなく、人生の導師であり、我々を別の光明の路へ導く。習気煩悩の重い者、自ら自らを束縛できない者は、多く壁にぶつかる方が良い。そうして初めて覚醒し方向転換する機会がある。悪業を行う者は、悪を為した直ぐに悪報を受け、そうして初めて悪業は為せずと理解し、徐々に悪心思を収斂する。多く逆境の処で深く考え、方向転換を理解し、思想と認知を転換すれば、運を転ずる機会は速やかに現れる。
もし人が一生順調なら、彼は永遠に元のままであり、煩悩し、無明愚痴で、無知無畏、生死流転に終わりがない。多く壁にぶつかり、旧路が通じなくなって初めて変通を知り、旧来の執念を変えられ、智慧が生起する。だから逆境も良く、壁も良い。ある時は、善人は悪人であり、好事は悪事である。別の時は、悪人は善人であり、悪事は好事である。これは弁証法的に見るべきであり、結果、特に将来の究竟の結果を見るべきである。
あなたが執念深く、世間一切の法を離れられない時、もし世間一切の法が皆自らから離れ、修行に用いる基本的生活資源だけを残せば、多くは求むれども得難いことだ。しかし臨命終の時は確かに一切の法が自らから離れ消えるが、誰の意根もこの機会に我を断ち執を断ったことはなく、何が無常で得られないとも思わない。これはなぜか。このような状況で、他人があなたに第八識を教えても、悟れるか。
<h3 style="text-indent: 2em;">二十三、分段生死は如何に断除されるか</h3>一切の生死は無明による。無明があれば必ず相応する無明業と業種があり、無明業種は必ず衆生に分段生死と変易生死をもたらす。もし分段生死を了したいなら、無明を破らねばならず、心が清浄になった後煩悩及び煩悩習気を断除し、無明業種を消除する。そうすれば分段生死は消除され、変易生死の段階に入る。
業種が転変する前提は何か。心が転変して初めて、身口意行が転変し、業種が転変する。心が転変する前提は何か。無明を破り、煩悩を断除して初めて、心が転変する。無明を破る前提は何か。三十七道品の修行・菩薩六度の修行・戒定慧の修行がある程度に達して初めて無明を破り、煩悩を断除する。その後心が転変でき、身口意行が清浄になり、業種が転変する。人我執が断除断尽し、法我執が断除され、阿頼耶識が初めて異熟識に転じ、分段生死が変易生死に転ずる。
修行がどの程度に至れば、その程度の無明を破り、その程度の煩悩を断除し、心はその程度に清浄になり、身口意行はその程度に転変し、業種はその程度に転変し、果報もそれに伴いその程度に転変する。だから修行は全て過程があり、各過程は必要不可欠であり、時間は長くも短くもなり得るが、過程は必ず必要で、過程がなければ果は語れない。だから具縛凡夫が一切の煩悩を帯びて菩提を証せると妄想せず、菩提を証した後煩悩を断たずに菩提道を歩み続けられるとも妄想せぬこと。煩悩は道ではない。