仏法雑談(第二部)
第十章 修行篇
一、いかに修行すれば益があるか
修行はトウモロコシ畑でトウモロコシをもぎ取るようなものである。目的はトウモロコシをもぎ取り、持ち帰って煮て食べ、腹を満たすことであり、トウモロコシ畑を見物するためではない。ゆえにトウモロコシをもぎ取ることが最優先の務めである。もちろん、手を付けてもぎ取る前に、畑の状況を大まかに観察し、どれが熟してもぎ取るべきか、どれが未熟でもぎ取らないほうがよいかを見極め、どこから手を付けるかを選ぶことはできる。しかし、ある人々はそうではなく、一日中畑をうろつき、空腹のままあちこち触ったり見たりしてばかりで、決してもぎ取ろうとしない。これは愚かな者である。
仏法を学ぶ者も同様である。仏法を大まかに読み聞きし、ある程度薫習した後は、真剣に実修に取り掛からねばならない。最も身近で最も着手しやすいところを選び、着実に修行に励み、得られる一点を得、証せる分だけ証していくべきである。長年あるいは一生を多聞薫習の段階に留まり、他人の法を倦むことなく学び、他人の金を数えるようなことを続けてはならない。自分の財宝を持つことが王道であり、そうでなければ餓死して餓鬼となるであろう。
自分の道行を持ち、餓鬼とならぬためには、基礎から着実に修行に励み、三十七道品を一点ずつでも修め、悪を去り善を修し、煩悩を一点ずつでも降伏し、心を一点ずつでも清浄にすべきである。たとえ見道しなくても、こうして修めたものは未来世に持ち越して受用できる。修めることは修めないよりはるかに有益であり、他人の宝を数えるよりはるかに勝っている。他人の金を喜んで数え、その中に浸っていると、いざという時には一銭も自分のものではないことに気づき、その時は後悔しても遅い。聡明で智慧ある者は、いかに学び修行すべきか、心の中ではっきりと理解しているはずである。
二、末法の学人と古代の修行人の違い
末法に近づくほど、衆生の福徳は薄れ、善根は浅くなり、仏法の修証においては次第に理を説く者は多いが理を理解する者は少なく、道を明らかにする者は多いが道を行じる者は少なく、修行して真に証果を得る者はさらに鳳毛麟角となる。列子は言う:「大道は多岐をもって羊を亡い、学者は多方をもって生を喪う」。学ぶ法が雑多すぎると、深く入り込めないため、筋道や秩序が見えなくなる。修行は往々にして知れば知るほど証するものは少なくなる。禅定がなければ実証できず、広く聞き多く学ぶことは禅定なしでも多くの仏法を理解できるが、実証はおろかである。現代人は禅定を修めることが難しい。もし正しい理を衆生のために多く説かなければ、多くの者が至る所で広く聞き多く学び、理にかなわない理論を学んでしまう。実証を導く理すら正しくなければ、なおさら実証は不可能である。
我々が最も参学すべきは古代の修行者であり、彼らがどのように修道したか、どのように修行に励んだかを探究すべきである。皆が大勢の理論を学び、口角泡を飛ばして至る所で論じたり、あるいは口角泡を飛ばして至る所で説教し、人師となったのだろうか。自ら未だ修証がなければ、どうして他人に修証を教えられようか。なぜ人師たることを願うのか?その中に自我を顕示しようとする心はないか?我々が見るところ、古の聖賢たちはたとえ得道しても、皆謙虚で低姿勢に自修を続け、軽々しく地盤を占めたり、師から伝法の棒を受け取ったりはしなかった。無我であるゆえに、また自らを知る明があるゆえに、多くの賢聖が法を弘めれば衆生は救われるに足り、自らの道が堅固でなければ、なぜわざわざ出しゃばる必要があろうか?しかし現代人は正反対で、道がどうこうかまわず、出られればそれでよいのである。
三、古今の仏法を学ぶ者の違い
昔の人は根器が皆よく、心性は純朴で実務的であり、修行のために代償を払うことを厭わず、真に修め真に実践し個人の私利を計らず、見放し捨てることができ、煩悩は軽微で貪欲は少なく、出離心は強い。現代人は浮ついて落ち着きがなく、目は高く手は低く、腹は空で心は高く、口は頭脳より鋭く、全てを意識で広く聞き多く理解し、定中で深く参究できず、意識の表面に浮かび、内奥に深く入ることができない。意根の究明と意識の理解は雲泥の差であり、理解が多いため慢心が熾盛となり、煩悩が消えず、最も重い修道の障害となる。
昔の人は仏法の基礎が皆堅固で、微細なところまでよく修めていた。しかし現代の人は基礎的な仏法を顧みず、四聖諦はあってもなくてもよいと考え、高望みで遠くを貪り小さなものを捨てる。基礎的な修行がないため、煩悩を降伏できず、心の行いを転換できず、身口意の行いは貪瞋痴の煩悩が非常に重く、業障がますます重くなるばかりで軽微にはならず、仏法を学んでも進歩がない。現代人は皆外道を軽蔑するが、仏法の見解以外は、いかなる面でも外道の半分にも及ばない。外道の人々でさえ出離心を持ち、心は質朴で純粋、禅定は甚深、煩悩は極めて軽微であり、自らを厳しく律し、道徳的品質などあらゆる面で現代の仏法を学ぶ者より優れている。
外道たちはただ真の解脱法に触れていないだけで、いったん触れれば、皆すぐに初果から四果まで証する可能性がある。現代人は一生仏法に触れても、初果の影さえ見えない(偽りの証果を除く)。どうして外道と比べられようか?外道はただ智慧が足りず、相応する法に出会わなかっただけで、証果解脱まであと一歩のところにある。多くの外道は仏法に出会い、一度仏陀の法音を聞けば、ひげや髪は自ずから落ち、袈裟をまとい、煩悩を断じ尽くす。過去の時代のあれほど苦しい生活条件でも、外道たちは意に介さず、深山幽谷で座禅し入定し、仏陀の説法に出会えば数万人、さらにはそれ以上の人々が仏陀に従い出家修道し、証果する者も極めて多かった。
しかし我々は長年仏法に触れ、何十年経っても八正道すら修めることができず、最も基本的な欲界定すらない。心は貪瞋痴の煩悩で満ち、人我・是非は毎日絶えず、少しの苦しみも厭い、少しの享受も捨てず、財・色・名・食・睡の五欲をことごとく掴み取る。口に出す理論は天にも届くが、身体の行いは悪道に近い。もし大乗の仏法を学ぶ者と称する人々が皆このような有様なら、それは大乗を辱め、大乗を滅ぼすことであり、このことに気づく者はほとんどいない。
四、仏法を学び修行することはそれほど容易ではない
仏法を学び修行することは非常に容易ではない。無始劫以来の無明・煩悩・業障が甚だ深重であり、我執・法執が甚だ深刻であるため、これらを解除し破り除くことは非常に容易ではなく、大いなる力・勇気・智慧がなければ成し得ず、十方の諸仏菩薩の歴劫の加護がなければ成し得ず、護法神の長きにわたる護持がなければ成し得ない。もし修行は非常に容易で、ある方面で少し行い、わずかに摂取するだけで仏になれる、如来の家に入れる、あるいは悟りを開けると言う者がいれば、他のものは一切修める必要がなく、深く体系的に何かを修める必要もなく、一歩一歩着実に基礎を固める必要もなく、戒律を守る必要もなく、禅定を修める必要もなく、何の代償も払う必要もなく、あまり苦労せず、生活も仏法も楽しく成し遂げられると言うならば、我々はこの者が何も成就していないことを知るべきである。なぜなら、彼は確かに何も払っておらず、世間の五欲の束縛から抜け出そうとせず、貪愛と執着がまだ甚だしいからである。
戒律を守れず、禅定もできず、基礎的な修行もできず、真に何かを修習したことがなければ、確かに真に何かを得たこともない。だからこそ、一生で成仏できる、即身成仏、即生成仏、一句の念仏で往生すれば成仏できる、戒定慧の中では戒も定も必要なく、ただ般若慧さえあればよく、慧があれば直接仏になれるなどと言うのである。これらの説に対しては、我々は警戒し、騙されてはならない。その道を歩んだことのない者は往々にしてその道は歩きやすいと言い、実際にその道を歩んでいる者は道中の風景をありのままに理解し、人に真実の言葉を語るものである。
仏法をとても簡単に、修行をとても容易に説く者に対しては、我々は皆警戒すべきである。経験したことのない者は、想像で全てが容易だと思い込む。例えば、夜に頭上にある月を見て、自分に近いと感じ、自分がどこへ行っても月はついてくる、まるで手を伸ばせば届くかのようである。しかし雲梯に乗り飛行機に乗って月へ向かう時、どれだけ遠くへ飛んでも月は相変わらず同じ距離にあること、いつもあれほど遠いことを知る。感じるのは近いが、感じは所詮感じであり、ぼんやりしていて、実際とはかけ離れている。
仏法を学び修行することも同様で、容易に成仏できる、証悟できると感じるが、実際に道を踏み出し歩き始めると、無明と業障が絡みつき、一歩一歩が容易ではない。世俗の荷物を絶えず捨て、世俗の享受を捨て、相応の代償を払って初めて、いくつかの成就と引き換えにできる。捨てなければ得ることはできない。真に良いものは、安く手に入るものではない。
五、修道者の習慣は世俗の習気に反する
「道の重んずるは俗の弊うとし、俗の貴ぶは道の避くるところなり」という言葉がある。修道はまさに世俗に反する行為であり、世俗に反してこそ世俗の束縛を突破し解脱を得られる。ひたすら従順であることは修道ではなく、世俗と変わらず、俗を脱し世を出ることはできない。
修道者は歴劫久修のため、世俗人とは異なる特有の習慣を身につける。例えば、倹約、勤勉精進、身体を重んじ貪らない、貪食・貪飲・貪睡・貪享受をせず、ほとんどの行為は世俗人と反対である。多くの世俗人は奇妙に思い、慣れず、自分が正しく修道者は間違っていると考え、直したがる。
もし修道者の生活に慣れれば、修道者の習性を奇妙に思わなくなり、世間人の世俗的な貪欲な習気を奇妙に思うようになる。世俗に反することこそ正常であり、世俗に合うことは正常ではない。今となっては、いったい誰が正常で誰が正常でないのか?何が正常なのか?
世俗の生活に慣れている者は、何事も自覚的であれ無自覚であれ世俗法に随順する。実はまだ反観する能力が修まっていない段階である。世俗人が貪れば自分も貪り、貪りであると気づかない。世俗人が執着すれば自分も執着し、執着であると気づかない。世俗人が享受を好めば自分も享受を好み、正常だと思い込む。それは正常ではない。世俗法にあまりにも慣れ、少しも逆らう考えがなく、全て自然だと感じるなら、その人は修行からはるか遠く離れている。修行者と接し、もし修行者が世俗の規範に合わず、人情味がなく、修行者に常に自分の世俗的習気に随順することを望むなら、その人は修道からはるか遠く離れている。修行で少しでも道にかなえば、世俗法はあまり正しくないと感じ、違和感を覚える。その時こそ少し目覚め始めたのである。
「衣帯は漸く解け人は憔悴す」は、昔、修道・参禅の行者を形容した言葉である。真に修行に励めば、身体には確かに影響が及ぶ。少食・少飲・少休、徹夜不眠で精進し道を修める。そうしてこそ参禅の功夫は連続し、進展が早まり、いつか明心開悟できる。今の人は皆自分の身体を惜しみ、身体を苦しめることを厭う。それなら心を苦しめるしかなく、それも生生世世苦しみ、耐え難いものである。
六、根器の異なる者の修行の進み方は異なる
甲:末法の時代、成果を得る者は皆願を乗じて再来した者である。成果を得られない者は、修行の基礎を固め、良好で正しい修行習慣を身につけ、長い目で計画すべきである。
乙:再来の菩薩も数年の修行期間を経て初めて再び成果を出す。再来の菩薩だからといってより多くの時間を要するわけではなく、十年二十年三十年かかり、短時間で成就を出すことはできない。各人は自分自身と比べるしかなく、自分の現在と過去を比較して大きな進歩があれば、修行は効果があったと言える。一口で太ることはできず、中間の過渡段階では、見道の種々の因縁条件を円満にする必要がある。これは非常に容易ではない。もちろん意識での見道は非常に簡単で容易であり、中間過程も不要で、見道の条件を円満にする必要もなく、頭が良ければそれでよい。
七、仮相を借りて修行して初めて成就を得る
世の中の一切の法は幻化の仮相であり、無生であるなら、我々は努力して何かをする必要はなく、何をしても意味がないと言う者がいる。これは正しいか?もちろん正しくない。仮相において努力して修行することは、まさに世間法が全て無生であることを証得するためである。証得して初めて世間法の束縛がなくなり、解脱を得られる。仮相を借りて修行して初めて成就できる。成就する前には、非常に努力して仮相の上で修行する必要がある。仏法を学ぶ道で行う一切の善行は、みな証道のため、無生を証得するため、無相と実相を証得するためである。証得して初めて真に無生を知り、解脱し成仏できる。
有為は無為のためである。ゆえに無為ができる能力を持つ前に、意味のある有為は為すべきことを努力して為すべきである。何をするのも自分のためであり、自分が利益を得るのであり、自分が無為の果実を得るのである。表面上は自分が他人を利益したように見え、他人が自分の助けを得、自分が三宝を護持し、三宝と衆生を利益したように見えるが、実際には自分が最大の利益を得ている。もし三宝が利益を得ず、衆生が利益を得なければ、自分が行った一切は利益がなく、無駄な努力である。いわゆる利益は、三宝と衆生を利益した基礎の上で初めて現れる。他人が利益を得なければ、自分は福も功徳も智慧も得られない。
例えば衆生に布施すれば千倍以上の報いを得るが、もし相手が受け入れなければ、一倍の報いもなく、相手が利益を得なければ何の報いもない。まるで虚空に一万元を布施するように、虚空は受けることも利益を得ることもなく、自分が一万元を失ったのと同じである。金を失うことに何の報いがあろうか?自分は一銭の報いも得られない。ましてや千倍万倍の報いなど。大海に一万元を布施するように、大海は受けることも利益を得ることもなく、一万元を破壊するだけである。それなら自分は一万元を無駄にしたのと同じであり、故意に印刷された紙幣を破壊すれば罪すらある。火に一万元を布施すれば、火が焼き尽くし、布施は利益がないばかりか罪がある。
ある者は自分の布施を忘れず、常に人に恩があると思い込んでいるが、実際には相手が自分に恩があるのである。もし他人が自分の施しを喜んで受け入れてくれなければ、どうして千倍万倍の報いを得られようか?どうして少しずつあれほど多くの見道の福徳資糧を蓄積できようか?仏陀は衆生に多くの福徳を蓄積させるため、涅槃に臨んでわざわざ数人の阿羅漢の弟子たちに形を留めて住世させ、衆生の供養を受け入れ、衆生に大福徳を培う機会を提供した。それらの阿羅漢は実は人に供養されることを好まなかった。一つは面倒であるため、二つは自分の福徳を消耗するためである。しかし自分は仏陀の弟子として、一つは仏陀の取り計いを尊重し、二つは衆生を利益するためである。だから彼らは無余涅槃に入らずに住世したのである。
ある者は法施を行い、一つの投稿を発して有縁の人を正規の修学に導き入れるが、まるで師のために仕事をしているようで、他の人が利益を得て、自分は時間と労力を費やし、損をしたように感じる。自分が法施を行った結果が何であるか、どれほど殊勝か、最終的にどれほど大きな利益を得るか、おそらく数えきれず、計算できないことを理解していない。まさに自分が行ったこれらの功徳と福徳によって、今世後世の修学過程において、速やかに仏道を成就し、無量劫の生死輪廻の苦しみを免れるのである。この果報は虚空のように多い財宝でも換えられず、得る果報は言い尽くせない。そして自分の法施の利益を得た者は、自分ほど福徳・功徳・智慧を持っていない。三宝と衆生が自分の布施から得る利益が大きければ大きいほど、自分の福徳・功徳は大きくなり、将来の智慧は最も高くなる。目先のことに囚われなければ、ありのままに観察し、自分の未来と最大の利益を考慮すべきである。
菩薩の福徳は阿羅漢より万倍・億倍・無量倍大きい。菩薩は生生世世衆生と共にあり、挙手投足の間に衆生を利益し、同時に千万倍・億倍・無量倍の福徳と功徳を得るからである。ゆえに菩薩は大富長者であり、その富貴は世のすべての人々が比べるものではない。福徳と智慧が円満に具足する時、八相成道して天人師・仏世尊となる。
八、現代と古代の仏法を学ぶ者の違い
現代人の特徴は、置かれた環境が複雑で、六塵の境界があまりにも人を引きつけ、法を学ぶことは容易で、知識は豊富で、意識は非常に聡明、極めて聡明であるが、禅定は修めにくく、道を修め得ることはできない。ゆえに仏法を学ぶ者と称することはできても、修道者は稀である。古代人は置かれた環境が単一で、法を得ることは容易でなく、知識は少なく、理論は少なく、心は純粋で、禅定は修めやすかった。ゆえに修道者は多く、得道者も多かった。豊富な知識は最終的に修道の障蔽となり、所知障に変わり、理論は充足したが道は現れず、理論の下で死に、海に臨みながら渇死するようなものである。
古人は問う:あなた方現代人は皆どうやって死ぬのか?現代人は答える:理論に押し潰されて死ぬ、知識に毒されて死ぬ、賢すぎて死ぬ。もう一つの死に方は、研究して死ぬ。
九、基礎を固めて初めて実証できる
各人が法を学び、修行に必要な理論的知識を一定の程度まで掌握した後は、理論にこれ以上時間と労力を費やすべきではない。なぜなら理論はどれだけ学んでも、最終的には依然として理論であり、生死に打ち勝ち解脱を得るための自分自身の真実の智慧には変わりえないからである。仏法を実証して初めて大智慧が生じ、解脱を得られる。そして実証するためには、基礎的な四聖諦の法から少しずつ修め始め、少しずつ実証し、飛び越えた修行はできない。
我々は今から基礎に着手すべきである。基礎は重要であり、必ず基礎を固めねばならない。基礎が固まらなければ、いくら深い法を学んでも究極まで学べず、ただ一つの見解を形成するに過ぎず、せいぜい理解の程度に達するだけで、実際に証得することはできない。もし学んだ理論が証得できなければ、真実の智慧は生じない。自ら証悟した智慧だけが、我々を生死の泥沼から導き出すことができる。
ゆえに我々は今から四念処観を修め始め、まず小乗の解脱を証得し、それからこの方法を用いて大乗の参禅に専心すれば、如来蔵を証悟できる。その後、如来蔵の機能作用を観察し、さらに別相智を得て、智慧がさらに増長し、牢関を過ぎてから唯識を参究し、如来蔵の種子の機能作用を薫習し、一分の唯識種智・道種智を持てば、その智慧は相当に驚くべきものとなる。しかしこれほどの大智慧は、一生や数生で得られるものではなく、生生世世あるいは無量劫の善根福徳の積み重ねによって成就され、最初の仏法の基礎が非常に固い基礎の上で、一歩一歩実証してきたものである。
十、放逸して精進しなければ道業は進まない
もし修行において自分を放逸すれば、日常の瑣事の中で自分を見失い、道業が前に進めなくなり、うっかり後退することさえあるかもしれない。常に自分を把握し、自分を反観し、反省し、心に隙がなければ、煩悩は入り込めず、禅定と智慧は次第に生じる。道業が前進していなければ、必ず問題がある。問題がずっとそこにあるのに、自分は見つけられない。それは何を意味するか?問題を見つけても解決したくない。それは何を意味するか?解決したいが解決できない。それは何を意味するか?世事は人を最も容易に沈淪させ、そこから抜け出すことは最も困難である。心力が不足している。何が欠けているのか?
十一、いかに最も速やかに世間法の円満具足を得るか
各人はほとんど皆世間法を追求し、自分が世間で最も殊勝で最も美しく、最も才能があり、最も富貴で、最も智慧があり、最も徳行があり、最も教養があり、最も人に尊敬され、すべてが最も円満であることを望む。家の親族眷属も含めて。ではどうすればこの目標に達し、最も速やかに達することができるか?それは修行に来て、一心不乱に真剣に修行し、できる限り自我を捨てて修行することである。修行という一つの道筋だけが、速やかに円満に自分の願いを満たすことができる。他の道筋はなく、他の道筋では貪瞋痴を取り除くことができず、人の徳行・教養・世間法はどれも円満に得られない。修行がよく修まって初めて、人の福徳・智慧・才能・財産・親族などがすべて具足し円満に美しくなり、審美眼・言語文字・弁舌・弁才無礙・種々の教養もすべて向上する。
仏陀は三界の至尊であり、一切の法を円満に具足している。世間法においては何であれ最上であり、頂点であり、彼に及ぶ者はいない。菩薩は仏と比べれば最上ではないが、すべての世間人と比べれば皆最上であり、世間人を超える。世間人が希求し仰ぎ慕うものは、菩薩がすべて具え具足している。菩薩が示現し用いるかどうかの問題である。我々は諸仏菩薩を見習い、必ず心をできる限り修道に用い、世俗法に心を用いることをやめるべきである。得るものより失うものの方が大きい。修行の功夫が上がれば、心は非常に細やかに入り込み、感覚は鋭敏で聡明になり、何をしても霊感が湧き、人は霊気を帯びる。修道は殊勝な世間法を得る最大の最短距離である。