仏法雑談(第二部)
第三章 煩悩障と煩悩の章
一、煩悩は禅定が生じる最大の障害である
煩悩障や煩悩が軽微な人、身体の素質が良い人は、気脈の運行が円滑で、気機が発動しやすく、身心が軽安で愉悦し、それによって禅定が生じる。煩悩の多い人は愉悦感や身心の軽安感を得にくく、気脈が順調でなく、気機が発動せず、禅定は現れにくく、たとえ欲界の禅定でさえ生じにくく、色界の禅定はなおさら困難である。
修行がまだ軌道に乗っていない人は、自心の煩悩をよく検討し反観すべきであり、できる限りそれを降伏させ克服すべきである。煩悩は日常生活のあらゆる面に現れ、例えば心の度量が小さい、心が狭い、頑固で理屈を固執する、見識が浅く愚痴である、理不尽でも三分の理屈を言い、理があっても人を許さない、闘争心が強く争いを好む、家庭内の些細なことを議論するのが好き、攀比(他人と比較)を好む、心機(策略)が多い、デマを流し騒動を起こす、妄語・両舌・悪口、口業、是非の心が強い、目立ちたがり、自己顕示欲が強い、権勢や名利を好む、貪る心が重い、財物を追い求めるのが好き、瞋恚心が重い、怒りや悩みを捨てられない、哀怨が絶えない、などである。衆生の煩悩は実に数え切れないほど多いが、いずれにせよ、苦しみから離れたいなら、どんな煩悩であれ努力して降伏させ断除しなければならず、そうしてこそ修道に希望が持てる。
二、如何にして瞋恚心を降伏させるか
瞋恚心が重いのは、先天的なもの(生まれつきそうである)もあり、後天的な環境に染まったもの(例えば身体が健康でないことが原因で瞋心が重い、物事が順調でないなどの心理的・情緒的な原因によるもの)もある。純粋に後天的な要因による瞋恚心が重い場合は、色身と心理的・情緒的な面を調整し、これらの障害が消えれば、瞋恚心は自然に軽微になる。先天的な瞋恚については、人に出会い問題を処理する際に相手の立場から考えることに注意し、相手の立場に立って問題を見ることを多くし、相手を理解し、できる限り相手のために理由を探し、場面を置き換え、心を比べる(思いやる)ことで、相手を理解し許すようになる。他人の苦労を多く考え、他人を憐れむことを多くすれば、瞋恚は自然に少なくなり軽くなる。
瞋恚が生じるたびに、その原因と理由をよく観察し、その中の原因を分析し、問題の所在を見つけ出し、自らに理にかなわない作意(心の働き)や思想観念があることに気づいたならば、降伏させ克服しなければならない。もし自己執着が強いと自覚したならば、五蘊無我の理を思惟し、我執を降伏させれば、瞋心は減少するであろう。もし相手や環境に過度に干渉するならば、遭遇する人や事を空(くう)と見なすべきである。瞋恚の習性が現れるたびに、心の中でこれは煩悩の習気であり、法にかなわず、瞋恚の果報があることを知り続ければ、やがて瞋恚は必ず軽減し減少する。
三、如何にして苦悩を減らすことができるか
煩悩を断った後、心は寂静になり、あれほど多くの煩悩や苦悩はなくなる。我見を断って初禅定を得れば、貪欲と瞋恚は断除され、さらに初果断除の我見・戒禁取見・疑見という三つの束縛(三縛結)を加え、五下分結(欲界を繋ぐ五つの煩悩)を断除すれば、人は多少自在になれるが、四果の自在には及ばない。四果は我慢と我執を断ち、ほとんど身軽になる。
寂静自在を得た菩薩は菩薩三果人とも呼ばれ、禅宗の三関を通過し、初地に入る資格がある。七地菩薩までは皆三果人であり、四果阿羅漢の果位を取らず、煩悩を一筋残して三界に留まる。八地菩薩は全ての煩悩を断じ尽くし、我執を断じ尽くし、法執の大部分を断除する。菩薩三果人が再来して人間に生まれる時、煩悩は非常に軽微であり、環境に染まることはあっても、悪業を造る可能性はあるが、その悪業も非常に軽微である。学仏後、一度懺悔すれば消滅するか、道理を明らかにすれば消滅し、懺悔する必要はない。根本煩悩心がないからである。
三果・四果以上の聖者は、ほとんど人々と一緒に混ざり合うことを好まず、独りでいることが多い。衆生を度し説法する時だけ衆生と共にいる。過去の大菩薩は皆、まず独りで自らを修め、その後で説法して衆生を度した。もし定力が不足していると感じ、明らかに慧が多く定が少ないと分かれば、再び独りで修行して道業を増進し、その後で衆生の中に戻って説法した。このように、しばらく自修し、しばらく衆生を度すのであり、常に衆生と一緒にいるわけではない。もし常に衆生と一緒にいれば、定力は退失し、修行は衆生に引き戻されて一部損なわれ、道力は不足する。
四、慢心は最も道を障げる
仏道を学ぶ道中には常に多くの溝や段差に遭遇し、一時的に越えられないこともあるが、それは構わない。継続し、絶えず努力すれば、最終的には皆、見解の段差を越えられる。自らの解釈が全て正しいと思わず、内心で謙虚であり、多く観行(観察と実践)を行い、仔細に思考し、かつ多く業障を懺悔すれば、道業は増進する。慢心こそが最も恐れるべきであり、慢心は最も道を障げるものであり、しかも自らに慢心があると自覚していないならば、それは厄介である。
自らの嫉妬心が生じた時、回光返照(自らを省みる)し、分析観察せよ。何故嫉妬するのか? 慢心が生じた時、回光返照せよ。何故そのような慢心が生じるのか? 原因を見つけた後は、学んだ理を用いて自らを説得し導き、嫉妬心と慢心を降伏させよ。証果と初禅定の前は、降伏させることしかできず、嫉妬心や慢心といった煩悩を断除することはできない。普通の人が嫉妬心を生じるのは、他人が自分の見せ場を奪い、自分という「我」が突出せず、自らが望んでいた利益を得られないからである。心に「我」と「人」があるからこそ互いに比較し、誰も自分より強く、自分より優れていることを望まない。
嫉妬心の故に、いかなる団体にも是非(トラブル)があり、互いに排撃し圧迫し合い、互いに勢力や資源を争い、争いは避けられない。三宝(仏・法・僧)の団体において、この嫉妬心を降伏させなければ、僧団を分裂させやすく、もし僧団の分裂を引き起こせば、それは無間地獄の罪である。
煩悩のこれらの事柄は、証果した後、初禅定が現れ、三果の聖人となって初めて、微細な煩悩を断除できる。まず貪欲を断ち、次に瞋恚を断ち、四果で我執・我慢を断除する。初果・二果の人は煩悩を降伏させるだけで、粗重な煩悩は現れず、微細な煩悩は時折現れる。我見を断つ前の凡夫位では、煩悩を押さえ伏せることしかできず、時には押さえきれないこともある。初禅以上の禅定を持つ人も、煩悩を押さえ伏せ降伏させることはできるが、煩悩を断除することはできない。四果阿羅漢は煩悩を断じているが、習気は時折現行し、時には制御できず、時には自覚せず、他人の指摘が必要である。
五、煩悩は福徳を消耗する
一言一行、善悪を問わず全てに業報があることを知れば、話し行動は慎重にすべきであり、謹言慎行し、自分だけを気にかけ他人を顧みないべきではない。普段人と接し事を処理する際、貪・瞋・我慢・嫉妬は、収められるなら収め、人を計算せず、心機を用いてあれこれ排撃せず、多く他人のことを思いやり、自らが属する様々な団体のことを思いやり、大局を思いやり、心根は厚くあるべきである。そうすれば、一つには煩悩障や業障を消除でき、二つには福徳を増加できる。もし心が清浄でなく、染汚業を造れば、多くの福徳を消耗し、福徳が不足すれば、何事も成就しない。世間の事であれ、修行上の事であれ、善事であれ悪事であれ、福徳の支えがなければ、一切成就しない。
自らより福徳が大きい者、智慧や禅定が自らより深い者、戒律が自らよりよく守られている者、あらゆる面で能力が自らより優れている者に対しては、心から敬服し、少なくとも尊敬すべきであり、嫉妬心を生じてはならない。もし言動で衝突があれば、少なからぬ福徳を消耗し、最終的に損をするのは自分自身である。自らに及ばない者、自らより弱い者に対しては、憐れみの心を生じ、多く援助し引き立て愛護すべきであり、慢心やいじめの心を起こしてはならない。そうすれば自らの福徳と慈悲心が増す。
六、煩悩を断たねば菩提を証することはできない
仏は菩提樹の下で成道した直後に言われた:「ああ、驚くべきかな!驚くべきかな!大地の衆生は皆、如来の智慧徳相を具えている。ただ煩悩妄想の故に証得できないのである。」仏は『大方広如来蔵経』の中で言われた:「仏は衆生を見る。如来蔵を以てす。開顕せんと欲し、為に経法を説く。煩悩を除滅し、仏性を顕現せしむ。」「ただ彼の衆生は、煩悩覆うが故に、如来は出世し、広く説法し、塵労を除滅し、一切智を浄める。」「我は仏眼を以て、如実に之を観る。善方便を以て、応に随って説法し、煩悩を滅除し、仏の知見を開き、普く世間の為に施して仏事を作す。」
「我は仏眼を以て、諸の衆生を観る。煩悩の糠糩(もみがら)は、如来の無量の知見を覆い蔽う。故に方便を以て、応に如く説法し、煩悩を除かしめ、一切智を浄め、諸の世間において最も正覚たらしむ。」「我は衆生を見る。種々の煩悩、長夜流転し、生死無量なり。如来の妙蔵、其の身内に在り。儼然として清浄、我と異なること無し。是の故に仏は、衆生の為に説法し、煩悩を断除し、如来の智を浄め、転じて化導し、一切の世間をせしむ。」「如来は観察す。一切の衆生、仏蔵は身に在り、衆相は具足せり。是の如く観じ已りて、広く為に顕説す。彼の諸の衆生は、得て息(いこ)い清涼す。金剛の慧を以て、煩悩を捶破(ついば)し、浄仏の身を開き、金像の出ずるが如し。」
以上の仏の説は、衆生が煩悩の遮障の故に、自らの如来清浄の宝蔵である如来蔵を見ることができず、煩悩を断除し、遮障を消除して初めて如来蔵が顕発され、衆生の智眼が清浄になって初めて自性清浄の如来蔵を証得できることを示している。ここから見て取れるように、我々が仏法を学び修行するにあたり、もし粗重な煩悩の障害を降伏・断除できなければ、心が清浄を得られず、如来蔵を証得することはできず、我見を断つこともできない。もし煩悩がなければ、心は水のように清らかであり、衆生は世間の如来蔵性と一真法界のみを見て、世間相を見ず、世間相を真実の我相や我所相と認めることがなく、我執も法執もなく、衆生は本然のままに解脱し、本然のままに仏であり、仏法を学び修行する必要はない。
我見を断つ深さと煩悩を断除する程度には必然的な関係があり、明心(自心を明らかにする)の智慧の程度も同様に煩悩を断除する次元と必然的な関係がある。煩悩を断つほど多く深く断つほど、我見を断ち明心する智慧は深まり、果位は高くなる。もし衆生が仏法を学ぶ際に理論知識だけを学び、自らの煩悩を顧みず、煩悩が現行するのを認めながらも除滅しようとしなければ、大乗小乗の見道(悟り)を得ることはできず、ただ引き続き俱縛凡夫(全ての煩悩に縛られた凡夫)として生死流転を止めることはない。だから、いわゆる証果や明心をした人々で、もし煩悩が依然として非常に深重であれば、疑いなく証果も明心もしておらず、ただ仮の名があるに過ぎず、大衆が学び模範とする価値はない。
七、学仏の目的
仏法を学ぶ究極の目的は無明煩悩を断じ尽くすことにあり、煩悩を断じ尽くせば無学(学ぶべきものなし)となり、もはや仏法を学ぶ必要はない。小乗の無学位は四果の大阿羅漢と縁覚辟支仏であり、大乗の無学位は仏世尊である。小乗の無学はただ解脱(三界の生死を離れる)の面で一念無明を断じ尽くして無学であるだけで、一切の無明煩悩を断じ尽くしておらず、それゆえにまだ有学である。大乗は一念無明を断じ尽くすだけでなく、無始無明をも全て断じ尽くして初めて無学となる。無明がある限り、それは有学であり、無明がなければ学ぶべきものはなく、全てを理解し、全てを証得し、学びは終わる。
小乗の尊者である四果阿羅漢の周利槃陀伽(チューラパンタカ)は、前世の業障の故に、四果阿羅漢を証得したにもかかわらず説法ができなかった。説法はできなくとも、一念無明を断じ尽くし、煩悩を断じ尽くし、三界を出離して解脱を得たのであり、無学の聖者であり、もはや四聖諦の解脱の理を学ぶ必要はなかった。一方、大乗の無学である仏世尊は一切の無明を断じ尽くし、あらゆる仏法を開口即座に説くことができる。菩薩たちも皆説法ができる。菩薩は衆生を離れず、衆生と共にいるため、必然的に説法しなければならないからである。説法する故に極めて大きな福徳を集めるので、菩薩は阿羅漢よりも説法が巧みで、より多くの福徳があり、たとえ最初に仏法を学んだばかりの菩薩で仏法を理解していなくとも、説法する。たとえ説法が場違いで、自らも何を言っているか分からなくとも。
学仏学法の目的が明確になった後、我々は仏法を学ぶにあたり、あちこちで仏法知識を誇示すべきではない。知識を学び掌握することは目的ではなく、煩悩を断除する手段である。煩悩が断除されれば、一切の知識は皆無用となり、衆生を度す説法に用いられる以外は役に立たない。だから学仏の過程において、自らの無明煩悩を観察し、煩悩を降伏させ、煩悩を断除することが非常に重要であり、仏学知識はそれほど重要ではなくなる。我々は本末を転倒させ、自らの煩悩を顧みず、あちこちで知識ばかり学ぶべきではない。たとえ知識を五車分(非常に多く)学んだとしても、一度煩悩の故に悪業を造れば、重ければ無間地獄、軽ければ畜生道に堕ちる。仏学知識は自らを救えるだろうか?豊かな知識を携えて三悪道に行き、誇示する機会や気分がまだあるだろうか?
八、観行において如何にして淫欲を断除するか
証果の前は、淫欲は降伏させ押さえ伏せることしかできず、断除はできない。淫欲を降伏させるには、一つには禅定の力に依る。禅定があれば身心が軽安で、内心が充実し、念(思い)が少なく、もし精気が満ち満ちるまで修練すれば、もはや淫欲を思わなくなる。二つには、理にかなって淫欲の種々の生死の過患と淫欲の不浄を思惟すれば、淫欲の念を軽減できる。三つには、注意を他に向け、精力を最も有意義なことに用い、自らに余暇の時間を与えなければ、欲念は薄れる。四つには、不浄な環境や場所を遠ざけ、清浄な修行の場所を創造する。五つには、毎日楞厳呪(りょうごんしゅ)を唱え、仏菩薩と護法神の加護の力に依って淫欲を降伏させる。
九、心解脱とは何か
心解脱とは、心に煩悩の束縛がなく、煩悩がなければ苦がなく、苦がなければ心が解脱する。苦は身苦と心苦に分けられる。身苦は苦とは言えず、心苦こそ真の苦である。心が苦しくなければ、それで解脱である。同様に身に苦があっても、身苦を大したことと思わなければ、心は苦しまず解脱する。もし身苦を真の苦と感じれば、心は苦しみ、解脱を得ない。自ら進んで身苦を受けるならば、身苦はどうでも良い、あるいは何らかの意味があり、受けなければならないと考えるならば、心は苦しまず、むしろ楽しむことさえある。もし強制的に身苦を受け、自発的でなければ、心も苦しむ。苦と苦でないかは身ではなく心にあり、心が苦をどう認識するかによる。心が気にすれば苦しみ、気にしなければ苦はない。苦にあって苦とせず、心は解脱する。苦にあって苦しめば、束縛される。
阿羅漢は毎日托鉢して家々で食を乞うが、苦とは思わない。凡夫は一食作るだけで愚痴を言う。富楼那(プンナ)は食を乞えず牛糞を食べても苦と思わず、心は解脱している。富人は毎日山海の珍味を食べても心は楽しまず、煩悩の束縛は深刻である。苦楽が人によって異なるならば、苦楽には定まった法はない。定まった法がなければ、それは虚妄であり、無常であり、空である。故に苦楽は無我である。
十、心が清浄でなければ相も清浄でない
『維摩詰経』に言う:其の心の浄きに随えば、則ち仏国土も浄し。心が清浄でなければ仏国土も清浄でない。なぜなら、見が清浄でなければ、相も清浄でなく、国土がどうして清浄であり得ようか? 心が清浄でなければ如何にして清浄な仏国土を持つことができようか? 確かに心が清浄になって初めて、見も清浄になり、見が清浄になって初めて、相も清浄になる。凡夫の衆生は心が清浄でないから、見も清浄でなく、見る相も清浄ではあり得ない。だから衆生は仏を見ても、仏を自らと同じく貪瞋痴の煩悩を持つ者と見なし、仏の様々な欠点を探し出し、仏の清浄な行為を汚れた行いと見ることもある。例えば、一人の外道の女性が仏の法会で説法を聴き、毎回最後に去り、朝は法会に一番乗りしたため、皆にこの女性が仏陀と一緒に住んでいるのではないかと誤解させた。数か月後、彼女は木の盆をお腹に当てて妊娠を装い、皆がそれを見て、確かに仏陀がこの女性と関係を持ったと思い、噂が絶えなかった。後に四天王が見かねて鼠に変わり、木の盆を噛み破って落とさせ、皆はようやくはっと気づいた。
もし衆生が真に仏陀を理解し、信じていれば、異心(疑いの心)を持って仏陀を疑うことができようか? 要するに、衆生の内心が汚れ穢れているからこそ、自ら仏陀がそのようなことをするだろうと考えるのである。心が清浄な弟子たちは、皆、仏陀に対して如何なる異議も不敬も持たず、完全に徹底して仏陀の清浄を信じている。衆生の心がどのようなものであるかによって、どのような相を認めるかが決まり、自らの心の認識の範囲を超えることはない。だから心が染汚な人は、非常に清浄な心を持つ人がいるとは信じず、自らの行動や見解と一致しないため、事に遭遇すれば疑いを生じ、あるいは疑う必要さえなく、直接相手の非を確認してしまう。この事例から、衆生の心は確かに汚れ穢れており、正しい知見がないことが見て取れる。
心が清浄な人は事に遭遇しても、うやむやのままに通り過ぎ、思いを巡らせない。心が清浄でない人は、様々に推測し、様々な知見を持ち、様々な疑念が胸に横たわり、放そうとせず、是非の風が起こり、矛盾が重なる。だから世俗界では毎日めちゃくちゃで、安寧な日はない。家庭から社会の大小様々な団体まで、皆そうである。原因は衆生の心があまりにも汚れ、染汚が深刻で、誤解が多く、是非が非常に多いからである。
十一、心を浄めて初めて国土を浄める
一切の法は生滅無常で苦空であり、一切の法は幻の如く化の如く、一切の法は夢の如く露の如く、一切の法は風の如く影の如く、一切の法は泡の如く沫の如し。いかに執着し取ろうとも、最後は空、空、空であり、空以外は空である。庭に静かに座り、風雲の起こるのを眺め、一切の法の来るのを見、一切の法の去るのを観よ。一切の法の起こるのを見、一切の法の落ちるのを観よ。一切の法の生ずるのを見、一切の法の滅するのを観よ。しかし、汝の心は一切の法の生ずるに随い一切の法の滅するに随ってはならず、一切の法の来るに随い一切の法の去るに随ってはならず、如何なる法も執らず取ってはならない。一切の法は一切の法であり、汝は汝である。一切の法は本より一切の法ではない。故に汝は心を空にせよ。
娑婆世界に人がいる所には事があり、事があれば非事(トラブル)がある。事々非々(トラブルやもめ事)は凡夫にとっては本来自明の理である。もしそれが正常でない、事々非々があるべきでないと感じるならば、汝は凡夫ではない。凡夫は事々非々を事々非々と見る。心空の人は事々非々を見て即ち非事々非々(トラブルではない)と見るか、或いは事々非々の生滅変異無常苦空を見るか、或いは事々非々を幻の如く化の如く見るか、或いは事々非々を影の如く響の如く見るか、或いは事々非々を夢の如く露の如く見るか、或いは事々非々は即ち菩提であると見るか、或いは事々非々は即ち道であると見るか、或いは事々非々は即ち真如であると見るか、或いは事々非々は即ち仏性であると見る。そうであれば、どこにまだ事々と非々があるだろうか? どこにまだ禍乱があるだろうか?
世界は本来自太平である。汝の心が太平でなければ、一切の法は太平でなくなる。世界の大乱は汝の心から起こり、汝は世界の大乱に対して責任を負わねばならない。そして汝が引き起こした世界の大乱に、根本的に責任を負いきれない。どうするか? 修行せよ! 心を浄めよ! 心の貪瞋痴を滅し、心の多事を滅し、心の是非を滅し、心の上の相を滅し、心の執取を滅せよ。そうすれば、まだ何事が何の非か? 世界は静かになったのではないか? 太平になったのではないか? 空になったのではないか? 汝の心を浄めれば、一切の法を浄化し、世界を浄化し、衆生を浄化する。そうすれば、衆生を度したのではないか? 浄土を成就したのではないか? これが修行であり、これが修行の結果であり、これが修行の功徳である。まだ何を求めようか? 何を執着しようか? 何を取ろうか?
十二、戒定慧の三無漏学の功用
漏とは、貪瞋痴の煩悩漏、種々の無明漏を指す。漏れるのは善法、善願、善心、善根である。心が善であれば輪廻の苦を離れられ、心が善であれば仏道を成就できる。善法を漏らせば、それは悪不善法であり、生死輪廻の苦を断つことができなくなる。それゆえ修行によって心の無漏を達成し、無明を除去しなければならない。心の無漏を実現する主な道は三つあり、それが戒定慧の三無漏学である。持戒によって心を無漏にし、修定によって心を無漏にし、修慧によって心を無漏にする。
持戒が何故心を無漏にできるのか? 戒を持てば、心は戒律に違反せず、悪をなすことができず、貪瞋痴の無漏煩悩業を造作できない。長い間習慣になれば、心は自然に悪業を造作しようと思わなくなり、煩悩は降伏され、善法は増長し、四正勤(四つの正しい努力)が修められる。長く戒を持てば、心は効果的に収摂され、あちこちに攀縁せず、禅定が現れる。
禅定が何故心を無漏にできるのか? 心が定中にあれば、何も作為せず、攀縁せず散乱せず、貪瞋痴の染汚業を造作しないため、煩悩を降伏させる。出定後も慣性の作用で、定力はある程度保たれ、攀縁を好まず、心は安らかで乱れず造作せず、依然として煩悩を降伏させられる。もし未到地定(初禅前の定)が具足すれば、欲界の五品の煩悩を断除し、初果向(初果に至る道)となり、現世で初果に入る因縁条件を得る。
外道たちの四禅八定は定力がさらに強く、欲界の九品の煩悩惑を降伏できるだけでなく、色界の九品の煩悩惑も降伏でき、さらには無色界の九品の煩悩惑さえ降伏できる。この降伏は断除や断尽に等しくない。なぜなら五蘊無我の智慧がまだ不足しているからである。もし四聖諦の理に遇い、甚深の禅定力に依って、念を収めて少し思惟すれば証道し、煩悩を断じ尽くし、身心脱落する。四果阿羅漢を証得する時、髪と髭は自然に脱落し、袈裟が身にまとわりつき、煩悩を断じ尽くしたことを表し、自然に出家人となる。
三果以前は、まだ煩悩が残留していると思われるため、髪や髭が自然に落ちず、袈裟も身にまとわらず、自然に出家人となることはできない。だからもし在家の身の人が、比丘戒や比丘尼戒を受けずに出家人になろうとするならば、煩悩を断じ尽くし、髪と髭が自然に落ち、袈裟が身にまとわる必要がある。人に剃度してもらう必要はない。在家の身で、煩悩が一筋でもあれば在家である。もし無理に自らを出家人と言うならば、それは強引に出家僧宝の身分を盗み取り、僧俗を混淆するものであり、極めて重い罪に属する。
智慧が何故心を無漏にできるのか? 無我の四聖諦理や大乗の真理を証得した智慧は無明を破る。心中に無我であれば、もはや「我」のために造作せず、「我」のためでなければ無私であり、無私は即ち善である。善は煩悩を破り、心は無漏となる。「我」があれば即ち罪があり、「我」があれば即ち煩悩があり、「我」があれば善法を漏らす。この無漏慧は、戒と定を基礎とした真の慧である。戒定のない慧は乾慧(からさとり)であり、実用価値がない。戒定慧の三者は一体となり、共同して一切の煩悩を断じ尽くし、善法が永遠に再び漏れることはない。善法が円満具足した後、即ち仏となる。