仏法雑談(第二部)
大宝積経における仏の説く入胎蔵会第十四原文:仏は言われた。(如来)は道を知る者である。道を識る者である。道を説く者である。道を開く者である。大いなる導師である。如来。応供・正等覚。明行足。善逝。世間解。無上士。調御丈夫。天人師。仏世尊。世間の人は無知で信仰がなく、常に諸根の奴隷となり、掌中の小さな利のみを見て大利を観ずることがない。容易な事は修めず、難しいことを恒常に行う。難陀よ、しばらく止めよ。このような智慧の境界を、汝は今肉眼の見るところをもって観察すべきである。見る所のものは全て虚妄であると知れば、これを解脱と名づける。
難陀よ、汝は私を信じてはならない。私の欲に従ってはならない。私の言葉に依ってはならない。私の相を観てはならない。沙門の所有する見解に随ってはならない。沙門に対して恭敬の念を生じてはならない。『沙門喬答摩は私の大師である』と言ってはならない。ただ私が自ら証得した法のみに依り、静かな場所で独り思量し観察し、常に多く修習すべきである。心を随って用いる所の観ずる法において、即ちその法において観想を成就し、正念に住するのである。自らを洲渚とし、自らを帰処とせよ。法を洲渚とし、法を帰処とせよ。別の洲渚はなく、別の帰処はない。
釈:仏は説かれた。如来は深く修めるべき道を知る者であり、道を説く者であり、修道の道を開発する者であり、世間の大導師・如来・応供・正等覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊である。世間の人は無知で信根もなく、常に六根の奴隷となり、掌中の小さな利のみを見て、より大きな利益を見ることができず、修道という容易な事を修めず、生死の苦業という難しいことを永遠に造作する。
難陀よ、先に止めて語るな。このような智慧の境界を、汝は今肉眼で見える法を観察すべきである。そうすれば見る一切の法が全て虚妄であると知り、これを解脱というのである。難陀よ、汝は私の説くことを信じてはならない。私の考えに随順してはならない。私の言葉に依ってはならない。私の相貌を観察してはならない。沙門の所有する見解に随順してはならない。沙門を恭敬してもならない。『沙門喬答摩は私の大師である』と言ってはならない。
しかし汝は必ず私が自証した得た法について、静かな場所で独り多く思量し観察し、常に多く修習しなければならない。観ずる法について、もしよく心を用いて修習すれば、観ずる法において観想を成就するであろう。自ら観想成就した法は、自ら証得したものであり、これ以後は正念をもって法に住する。このようにすれば、汝自らが洲渚となり、汝自らが帰依するところとなる。自ら証得した法が洲渚となり、帰依するところとなる。別の洲渚はなく、別の帰依するところはない。
この言葉は仏が非常に精彩を放って説かれたもので、弟子たちに必ず実証し、自ら証得した法に依り、実証のない外法を盲目的に信じ依ってはならないと教えている。どのような法であれ、誰が説いた法であれ、全て観察し検証し、観察後に実証できて初めて信じ依ることができる。仏自身が説いた法でさえ、不断に観察思量し、実証後に完全に依るべきである。これを法に依り人に依らずといい、仏陀すら依らず、必ず法に依り真理に依り事実に依らなければならない。もし検証を経なければ、盲目的に依ることになり、智慧は開けない。
これと対照的に、末法時代の衆生は福徳が薄く智慧がなく、必ず人に依らざるを得ない。その人が有名になり名声を得ると、無原則に寄り添い帰属感を得ようとし、法を検択し弁別する能力が全くなく、完全に情執である。ある論を絶対真理と見なす人々は目を覚ますべきである。名人の名声に依って法の正誤を判断することは完全に人に依ることであり、正信ではない。正信とは仏陀の説くところで、観察思量し、検証実証し、事実であれば初めて真理として依るべきである。もし検証できず実証できなければ、決して口を開いて評判してはならず、三宝を誹謗する悪業を造らないようにすべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">二、智慧の低い者は真に教えに依法に依ることが難しい</h3>もし自身の智慧が低ければ、たとえ教えに依ろうとしても依ることができない。なぜなら教えを理解できず、教法の真の意味と指向を知らないため、往々にして教法を誤解し、誤って解釈するからである。このように誤解した教法に依り、さらに他の人の説くことを比べると、参照物が誤っているため、比べた結果も当然誤りとなり、他人の説くことが正しいかどうかを如実に判断できなくなる。
もし智慧が低ければ、法に依ろうとしても依る方法がない。同様に法理の真の意味と指向を判断できず、法理を誤解するか朦朧として理解できず、他の人の説く法義が理解できず、真に理解できない。このようにして他人の説くことが正しいかどうかを如実に判断できず、自ら法益を得ることができない。さらに強引に頭角を現し至る所で評判を好めば、誹謗の業を造りやすく、自らの道業を阻害するだけでなく、愚痴による誹謗の悪報も受ける。したがって自身の智慧がまだ不足している時は、学習と修行に没頭し、如何なる法や人も評判せず、悪業を造らず悪報を受けない明智な人となるべきである。
<h3 style="text-indent: 2em;">三、法に依り人に依らない問題</h3>もし実証があれば、現量で観行でき、諸法の事実真相に依り、如何なる人にも依らない。ただ事実真相こそ真の法であり、究竟の法である。しかし事実真相は一般人が知り証することのできるものではなく、一般人は人の言論に依らざるを得ない。しかし人の言論には全て欠漏と不足があり、仏の言論でさえ表面的な意味(語)と究竟的な意味(義)があり、一般人はこれを明らかにできず、究竟義に依ることができない。
要するに、実証があって初めて一部分の事実に依る方法があり、将来次第に全ての事実真相に依ることができる。大いなる智者は必ずこのようであり、諸仏は全て事実真相に依る。特に第一尊仏である威音王仏は全て実証の真理に依り、依るべき人はいなかった。したがって我々はやはり禅定を修め、定中で観行し、実証を目指す方法を考えねばならない。人に依ることは畢竟信頼できず、仏は弟子に「汝の意は信ずべからず」と戒められ、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信じることができると説かれた。たとえ仏経を引用しても必ずしも正しいとは限らない。もし菩薩の論である瑜伽師地論が仏経と一致しなければ、仏経を基準とすべきである。しかし仏経もレベルが分かれており、義に依り語に依らずも難しく、実証がなければ真実義を理解しがたい。ここに仏が臨終時に嘱託された四つの依が、当時どのような心境で説かれ、内心どれほど憂慮されていたかが分かる。
もし仏がどの菩薩がどのような証量であるか印可していなければ、完全に百パーセント依止することはできず、菩薩は仏の智慧を具足しておらず、その智慧には欠漏がある。たとえ弥勒菩薩でさえ仏に智慧不足を呵責されたことがある。全ての菩薩の説く法はもちろん依止できるが、百パーセント依止することはできず、菩薩の論には必ず欠漏と不足があり、法眼なき者は観察できない。たとえ瑜伽師地論でさえ、弥勒菩薩自身が直接人間に説いたものではなく、中間に一人の菩薩が口述して転述しており、この菩薩の証量が非常に高くなければ、その転述にも誤りがある。したがって一言を十人が転述すれば、十の意味が生じる可能性がある。したがって学ぶ者は皆、観行に心を用いて我見を断ち、さらに明心見性を目指す方が穏当である。
<h3 style="text-indent: 2em;">四、法に依り人に依らず</h3>法に依るとは事実と真相に依ることであり、これは極めて困難なことである。なぜなら智慧が不足していると事実を証得し検証できず、説法が事実と矛盾しないことが極めて重要であり、仏説と矛盾しないことが非常に重要だからである。実証とは事実を証得し、事実に符合することで、これが修行の最も重要な点である。いわゆる証拠とは自ら検証し、確信して疑いがなくなって初めて信従できるものであり、検証できない、あるいは検証能力のない法は、依るべき法や事実として用いることができない。
人に依るとは有名な人を主とし、人に依って法の是非を確立することで、純粋に法理・法義と事実の角度から法の是非を判定するものではない。もし人名を隠せば、その人の説く法に対して大多数の人はどうしてよいか分からず、決断できなくなり、このように人に依る過失は極めて大きい。仏を学び修行するには法に依り事実に依らねばならず、人に依ってはならない。仏陀以外の人は皆、百パーセント依従できず、そうでなければ仏陀が臨終に交代し繰り返し教えた「法に依り人に依らず」は空文となり、我々は仏陀の教えと苦慮された心に背くことになる。
仏陀がもしどの人の説くことが如何であるか、あるいは百パーセント正しいと印可していなければ、慎重に決断し判定せねばならない。ただ仏陀一人のみが説法が百パーセント正しく、百パーセント依止できる。他の人、弥勒妙覚菩薩を含めて百パーセント正しくはない。全ての衆生、全ての菩薩は多かれ少なかれ欠陥と誤りがあり、智慧がなく充分な証拠がなければ軽々しく評論すべきではなく、智慧があれば自らの現量観行を取り出して問題を説明すべきである。
そして如何なる人を評論するにも、証拠が具足し確実でなければならず、一二三四五を述べて問題を明らかにせねばならない。もしできなければ現量観行がなく証拠がないことであり、背後でひそかに努力し、自身の智慧レベルを高め、自身の観行智を高めるべきである。もし証量がなく現量観行の智慧がなければ、沈黙を選び評判をせず、もしどうしても何かを言わねばならない場合、根拠がないため誤って評判しやすく、評論を誤れば果報も大きい。
もし自ら現量観行できなければ、有名な人の言論に依らざるを得ないが、これは人に依ることであり、法に依るのではない。多くの人は名声と権威のみを信じるが、これはやむを得ないことであり、智慧が弁別できないため、名声と権威に依るしかない。もし名声と権威のある者の法義に誤漏があれば、後世の人は永遠に誤漏に従わざるを得ず、誰も法義に如何なる補足や修正もできず、仏法はこのようにして扼殺され停滞してしまう。世俗の科学技術界や学術界は決して人に依らず、科学技術は常に飛躍的に発展し日進月歩であるが、仏教界で行われている人に依る規則は、数千年の仏教を発展させることができないようにしている。
<h3 style="text-indent: 2em;">五、智慧の貴重さと稀有さを観察する</h3>「多くの高知能者は直感に依存する傾向が強く、理性思考によって意思決定を行うことは少ない」この言葉は世間人の認識である。我々多くの仏を学ぶ者にはなぜこのような観察力と認識を持つ者がいないのか?全ての仏学大師たちを含めて。
社会で哲学や心理学、社会学を研究する人々の観察智慧は並外れており、我々仏教団体の修行者をはるかに凌いでいる。なぜ仏教団体の人の智慧はこれほど衰退しているのか?様々な弁論家たちは専門・非専門を問わず、その思惟観察力は見るに堪えず、ただ人に依るのみで法に依ることができず、観察力がそれほど弱ければどうして法に依ることができるだろうか?もし社会の様々なエリートが皆仏を学び修行すれば、仏教はどのような情景になるであろうか?