観行五蘊我見断ち(第二部)
四聖諦の十六行を修習すれば、四聖諦相を明了することができる。無常・苦・空・無我の四種の行によって苦諦相を明了し、因・集・起・縁の四種の行によって集諦相を明了し、滅・静・妙・離の四種の行によって滅諦相を明了し、道・如・行・出の四種の行によって道諦相を明了する。そのうち、十種の行によって苦諦を観察し、苦諦の四種の行に悟入することについてはすでに述べた。以下、如何に集諦の四種の行を修習して集諦相を明了するかを述べる。
原文:复由四行。于苦谛相。正觉了已。次复观察。如是苦谛。何因何集。何起何缘。由断彼故。苦亦随断。如是即以。集谛四行。了集谛相。谓了知爱。能引苦故。说名为因。既引苦已。复能招集。令其生故。说名为集。既生苦已。令彼起故。说名为起。复于当来。诸苦种子。能摄受故。次第招引。诸苦集故。说名为缘。
解釈:苦・空・無常・無我の四種の行によって、苦諦相について誤りなく如実に覚悟した以後、さらにこれらの苦諦が現れる因は何であるか、苦はどのように集積されるのか、苦はどのように生起するのか、苦はどの縁に依って現れるのかを観察する。この因・集・起・縁の四種の行を断除してこそ、苦もそれに伴って断除される。それゆえ、集諦の四種の行を観察して集諦相を断除しなければならない。愛が苦を引き生じさせることができると了知すれば、愛を苦の因と言う。苦を引き出した以後、さらに招き集めて苦を出生させるので、苦集と言う。苦が生まれた以後、苦を現起させるので、起と名付ける。さらに未来世の諸々の苦の種子を摂受することができ、次第に諸々の苦を招き引くので、縁と名付ける。
原文:复有差别。谓了知爱。是取因故。复能招集。即以其取。为因有故。复能生起。有为上首。当来生故。又能引发。以生为缘。老病死等。诸苦法故。随其所应。当知说名。因集起缘。
解釈:四種の行の間にはさらに差別があり、次第が異なる。愛が取の因であると了知し、愛はさらに引き続き招き集めることができ、取はさらに後世の有の因となり、それによって後世の有を生起させることができ、有を縁として後世の五陰が出生し、さらに生を縁とする老病死などの諸々の大苦聚を引き起こすことができる。四種の行の次第に従って、それぞれ因・集・起・縁と言うのである。
集諦の因は愛であり、愛があると取が生じる。取ったか取らなかったかにかかわらず、苦相がある。後世の有が生じた以後、生相が現れれば、苦相が現れる。苦の根源である貪愛を断除してこそ、苦を断除することができる。愛の因は受であり、受の因は触である。触と受があってもよいが、触と受のときに貪愛がなく、所触・所受に心を向けなければ、後世の苦は現れず、集諦は滅する。今の愛が苦を引き起こす因である以上、愛の集起が苦を出生させることができ、愛の集こそが苦の集である。苦が生まれた以後、苦受が現起するが、これを苦起と言う。愛が未来の苦の種子を摂受することができ、愛が招き集めるのはすべて苦の種子であり、未来の苦を生じさせることができ、愛・取・有・生・老が次第に諸々の苦の集起を招き引くので、愛は苦の縁である。
集諦は十二因縁の中の一つの環節に属する。解脱の道において、声聞法と縁覚法は互いに含摂し合っており、共通するところがある。独立した縁覚法はなく、独立した声聞法もなく、ただ二つの法が関わる層次の深浅に差別があるだけであり、解脱に別はない。
原文:复有差别。谓正了知。烦恼随眠。附属所依。爱随眠等。是当来世。后有生因。又正了知。彼所生缠。随其所应。是集起缘。谓后有爱。能招引故。即是其集。此后有爱。复能发起。喜贪俱行爱。此喜贪俱行爱。复与多种。彼彼喜爱为缘。如是依止。爱随眠等。及三种缠。能生后有。及能发起。诸爱差别。是故说名。因集起缘。如是行者。由四种行。了集谛相。
解釈:四種の行にはさらに差別がある。煩悩随眠が愛随眠に付属していることを正しく如実に了知し、愛随眠に依止してこそ煩悩随眠があり、愛がなければ煩悩はなく、愛もまた煩悩の因であり、愛を断てば煩悩を断つことになる。そして愛随眠は未来世の三有が出生する因である。愛随眠から生じた煩悩の纏縛を正しく了知し、それらと一つ一つ対応するのが集・起・縁の三行である。煩悩の纏縛は苦の種子を集起させることができ、苦を現行させることができ、苦受を生じさせる縁である。
煩悩随眠が後有の愛を招き引くことができるがゆえに、煩悩随眠は後有の愛を集積することができ、さらに喜と貪と共同して運行する愛を発起することができ、この喜貪倶行愛はさらに種々の愛着の縁となることができる。このように愛随眠など、および三種の纏縛に依止して、後世の有を出生させることができ、さらに種々の愛の差別相を発起することができる。それゆえ、因・集・起・縁の四種の行と言うのである。愛随眠があると、煩悩の纏縛、喜の纏縛と貪の纏縛があり、この三種の纏縛があれば、後世の有は必ず出生し、有が出生すれば苦も出生する。このように行者は四種の行によって集諦相を明了するのである。
原文:于集谛相。正觉了已。复正觉了。如是集谛。无余息灭。故名为灭。一切苦谛。无余寂静。故名为静。即此灭静。是第一故。是最胜故。是无上故。说名为妙。是常住故。永出离故。说名为离。如是行者。由四种行。了灭谛相。
解釈:集諦相について正しく如実に明了・覚悟した以後、さらに滅諦の四種の行を正しく如実に覚悟しなければならない。集諦が完全に滅尽・息滅したとき、これを滅と名付け、集諦がもはや集起しなければ、苦は滅する。一切の苦諦が滅して余りの苦がもはやないとき、この時は寂静であり、五蘊の造作もなく五蘊の受苦もないので、静と名付ける。このように苦諦が息滅・寂静すると、世間において第一であり、最勝であり、無上であるので、妙と言う。苦諦が息滅した以後は余りの苦がなく、苦は再び生じ出てくることはなく、このような状態は永遠に存在し、永遠に苦を出離しているので、離と言う。このように瑜伽行者は滅・静・妙・離の四種の行によって滅諦相を明了するのである。
滅・静・妙・離の四種の行によって滅諦相を明了する。苦が滅するのは集が滅したからであり、もはや苦行を集起しない。五蘊身の身口意行はすべて苦行であり、とりわけ悪と不善の身口意行である。心が五蘊世間法に攀縁しなければ、もはや苦を集起せず、寂静を得る。心が寂静を得た以後は、自在に解脱する。これは世間において奇妙で美妙的なことである。世間には普遍的に攀縁と苦があり、寂静でなく自在でなく解脱していないので、生命は妙ではない。解脱して自在な生命は世間において第一に殊勝で最も殊勝であるので、美妙である。苦を滅して解脱した以後は、もはや苦受はなく、解脱は永遠の解脱であり、再び無明煩悩の境界に退回することはなく、永遠に苦を離れるので、離と言うのである。このように滅諦相は滅・静・妙・離の四種の行によって、非常に明晰に示し出されるのである。
原文:于灭谛相,正觉了已。复正觉了,真对治道。于所知境。能通寻求义故。能实寻求义故。由于四门,随转义故。一向能趣。涅槃义故。所以说名。道如行出。如是行者。由四种行。了道谛相。如是名为。于四圣谛。自内现观。了相作意。
解釈:行者が滅諦相について如実に正しく覚悟した以後、最後に、真に苦を対治するために修する道を如実に正しく覚悟してこそ、苦を滅して解脱を得ることができる。所知境について、その真実義を普遍に寻求することができ、その真実義を如実に寻求することができるので、如と名付ける。修道の過程において、その身口意の諸行が四聖諦の理に随順し、絶えず清浄へと転変するので、行と名付ける。修道の後、心行が次第に寂滅し、涅槃に趣向し、生死を出離するので、出と名付ける。このように瑜伽行者は道・如・行・出の四種の行によって道諦相を明了する。これこそ四聖諦について内側から現観する了相作意と言うのである。
真の対治道とは何を指すのか。道とは方式・方法・経路を指し、対治とは心の中の貪・瞋・癡の無明煩悩を対治することを指す。無明とは苦を知らないことであり、苦集を知らないことである。それゆえ、この知らないことを対治して知るように変えなければならない。無明がなければ対治する必要はない。苦を滅し、集を断つために修する道を道と名付け、苦を滅する過程こそが修道であり、戒定慧・三十七道品を修し、四聖諦を思惟・観行する。これが道行である。
如行とは、心を苦・空・無常・無我の真理・法理と相応させることであり、所知境である四聖諦法について、通達して深くその真実理を思惟することができ、その法理を如実に思惟・観行することができ、所知境の内包と正理を了達して、四聖諦の真理を証得する。行行とは、如行によって無明を断った基礎の上で、心行が転変し、そのすべての心行が認知した真理に随順し、苦・空・無常・無我の真実理と相違背しないことである。出行とは、修道を通じて煩悩を断除し、身口意行を清浄にし、もはや五蘊世間に攀縁せず、寂静無為となり、身心を解脱し、涅槃に趣向し、涅槃と相応し、三界を出離して、生死輪回の苦を解脱することである。
道・如・行・出の四種の行によって道諦を明了する。以上の四種の行から分かるように、修道の過程において、戒定慧が増長し、五蘊世間に対する認知が真実理と契合し、無明が転じて薄くなり、煩悩が転じて軽くなり、心行が聖道と相違せず、身心世界が次第に転変し、清浄がある程度に達して道と相応し、聖賢と相応すれば、聖道を証得する。証果の後になってから初めてゆっくりと身心を転変させるのではない。身心を転変させて聖賢と相応させなければ、聖賢になることはできない。学生が試験を受けて、合格しなければ入学できないのと同じ理である。