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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 27

第二節 如何にして集・滅・道諦の相を明らかにすべきか

四聖諦の十六行相を修習すれば、四聖諦の相を明らかにすることができる。無常・苦・空・無我の四つの行相によって苦諦の相を明らかにし、因・集・起・縁の四つの行相によって集諦の相を明らかにし、滅・静・妙・離の四つの行相によって滅諦の相を明らかにし、道・如・行・出の四つの行相によって道諦の相を明らかにする。このうち十種の行相によって苦諦を観察し、苦諦の四つの行相を悟り入れることは既に述べた。以下に如何にして集諦の四つの行相を修習し集諦の相を明らかにするかを説く。

原文:復た四行によって苦諦の相を正しく覚了しおわりて、次にまた観察す。かくの如き苦諦は何を因とし何を集とし、何を起とし何を縁とするか。それらを断ずるがゆえに苦もまた随って断たれる。かくの如くすなわち集諦の四行をもって集諦の相を了知す。すなわち愛が苦を引き寄せるゆえに因と名づけ、苦を引き寄せたのち更にそれを招き集めて生じしめるゆえに集と名づけ、苦が生じたのちにそれを現起せしめるゆえに起と名づけ、さらに将来の諸苦の種子を摂受し、次第に諸苦を招き集めるゆえに縁と名づく、と了知するのである。

釈:苦・空・無常・無我の四つの行相によって、苦諦の相を如実に誤りなく覚悟したのち、再びこれらの苦諦が現れる因は何か、苦はいかに集積するか、苦はいかに生起するか、苦は何を縁として現れるかを観察する。この因・集・起・縁の四つの行相を断ずるだけで、苦はそれに随って断たれる。それゆえ集諦の四つの行相を観察して集諦の相を断ずるのである。愛が苦を引き起こすことを了知し、ゆえに愛を苦の因と説く。苦を引き出したのち、さらにそれを招集して苦を生じさせるゆえに苦集と説く。苦が生じたのち、苦受を現起せしめるゆえに起と名づける。さらに未来世の諸苦の種子を摂受し、次第に諸苦を招き集めるゆえに縁と名づけるのである。

原文:また別の相違がある。すなわち愛が取の因であることを了知し、さらに招き集めることができる。すなわちその取を以て因となり有を生じ、さらに生起することができる。有を上首として将来の生を生じ、さらに生を縁として老病死等の諸苦法を引き起こす。それらに応じて因・集・起・縁と説くべきことを知るべし。

釈:四つの行相の間にはさらに相違があり、次第が異なる。愛が取の因であることを了知し、愛はさらに招集を続け、取は後世の有の因となり、それによって後世の有を生起させ、有を縁として後世の五蘊が出生し、さらに生を縁とする老病死などの諸大苦聚を引き起こす。四つの行相の次第に従って、それぞれ因・集・起・縁と説くのである。

集諦の因は愛である。愛があるゆえに取が生じ、取得したか否かにかかわらず苦相があり、後世の有が生じたのち生相が現れ、苦相が現れる。苦の根源である貪愛を断じて初めて苦を断ずることができる。愛の因は受であり、受の因は触である。触と受はあっても、触れ受けているときに貪愛がなく、触れ受けている対象に心が執着しなければ、後世の苦は現れず、集諦は滅する。今の愛が苦を引き起こす因である以上、愛の集起は苦を生じさせ、愛の集はすなわち苦の集である。苦が生じたのち苦受が現起する、これを苦起という。愛が未来の苦の種子を摂受し、愛が招集するものは全て苦の種子であり、未来の苦を生じさせる。愛・取・有・生・老が次第に諸苦の集起を招くゆえに、愛は苦の縁である。

集諦は十二因縁の一環に属する。解脱の道において、声聞の法と縁覚の法は互いに含摂し、共通する点がある。独立した縁覚の法もなく、独立した声聞の法もない。ただ二つの法が関わる層の深浅に差があるだけで、解脱に違いはない。

原文:また別の相違がある。すなわち煩悩随眠が愛随眠等に附属して所依とすること、それらが当来世の後有生因であることを正しく了知する。またそれらから生じる纏が、それに応じて集起の縁であることを正しく了知する。すなわち後有愛は招引できるがゆえにすなわちこれが集であり、この後有愛はさらに喜貪倶行愛を発起する。この喜貪倶行愛はさらに多くの彼彼の喜愛を縁とする。かくの如く愛随眠等に依止し、及び三種の纏は後有を生じ、かつ諸愛の差別を発起することができる。ゆえに因・集・起・縁と説くのである。かくの如く行者は四つの行相によって集諦の相を了知する。

釈:四つの行相にはさらに相違がある。正しく如実に煩悩随眠が愛随眠に附属し、愛随眠に依止して初めて煩悩随眠があることを了知する。愛がなければ煩悩はなく、愛もまた煩悩の因である。愛を断ずれば煩悩も断たれ、愛随眠は未来世の三有出生の因である。愛随眠から生じる煩悩の纏縛を正しく了知し、それらに一一対応するのは集・起・縁の三つの行相である。煩悩の纏縛は苦の種子を集起させ、苦を現行させ、苦受を生じさせる縁となる。

煩悩随眠が後有の愛を招引できるゆえに、煩悩随眠は後有の愛を集積し、さらに喜と貪を共に運行する愛を発起する。この喜貪倶行愛はさらに種々の喜愛の縁となる。かくの如く愛随眠等に依止し、及び三種の纏縛(煩悩纏・喜纏・貪纏)によって後世の有を出生させ、かつ種々の愛の差別相を発起する。それゆえ因・集・起・縁の四つの行相と説くのである。愛随眠があるゆえに煩悩の纏縛、喜の纏縛、貪の纏縛が生じ、この三つの纏縛があると後世の有は必ず出生する。有が出生すれば苦が出生する。かくして行者は四つの行相によって集諦の相を明らかにするのである。

原文:集諦の相を正しく覚了しおわりて、さらに正しく覚了す。かくの如き集諦が余すところなく息滅するがゆえに滅と名づく。一切の苦諦が余すところなく寂静となるがゆえに静と名づく。すなわちこの滅静は第一であるがゆえに、最勝であるがゆえに、無上であるがゆえに妙と説く。常住であるがゆえに、永く出離しているがゆえに離と説く。かくの如く行者は四つの行相によって滅諦の相を了知する。

釈:集諦の相を正しく如実に明らかに覚悟したのち、さらに正しく如実に滅諦の四つの行相を覚悟しなければならない。集諦が完全に滅尽息滅したとき、すなわち滅と名づける。集諦が再び集起しなければ苦は滅する。一切の苦諦が滅して再び余苦がなくなる時、寂静となる。五蘊の造作もなく五蘊の苦しみもない、これを静と名づける。かくして苦諦が息滅寂静したことは、世間において第一であり、最勝であり、無上であるゆえに妙と説く。苦諦が息滅したのち余苦はなく、苦は再び生じない。このような状態は永遠に存在し、永遠に苦を出離しているゆえに離と説く。かくして瑜伽行者は滅・静・妙・離の四つの行相によって滅諦の相を明らかにするのである。

滅・静・妙・離の四つの行相によって滅諦の相を明らかにする。苦が滅するのは集が滅したためであり、もはや苦行を集起しない。五蘊身の身口意の行いは全て苦行であり、特に悪しき不善の身口意の行いである。心が五蘊世間法に攀縁しなければ、もはや苦を集めず、寂静を得る。心が寂静を得たのち、自在解脱する。これは世間においては奇しくも妙なるものである。世間は普遍的に攀縁と苦に満ち、寂静でなく自在でなく解脱していないゆえに、生命は妙ならざるものだからである。解脱自在の生命は世間において第一殊勝最殊勝であるゆえに美妙である。苦を滅し解脱したのちは、もはや苦受はなく、解脱は永遠の解脱であり、再び無明煩悩の境界に戻ることはない。永遠に苦を離れるゆえに離と名づける。かくして滅諦の相は滅・静・妙・離の四つの行相によって、極めて明瞭に示されるのである。

原文:滅諦の相を正しく覚了しおわりて、さらに正しく覚了す。真の対治道を。知るべき境において能く普遍的に義を尋ね求めるがゆえに、能く如実に義を尋ね求めるがゆえに。四門に由って随転する義がゆえに。一貫して能く涅槃に趣く義がゆえに。ゆえに道・如・行・出と説くのである。かくの如く行者は四つの行相によって道諦の相を了知する。かくの如きを四聖諦において自内に現観する了相作意と名づく。

釈:行者が滅諦の相を如実に正しく覚悟したのち、最後に如実に正しく真の苦対治の修する道を覚悟して初めて苦を滅し解脱を得る。知るべき境において、能く普遍的にその真実義を尋ね求め、能く如実にその真実義を尋ね求めるがゆえに如と名づける。修道の過程において、その身口意の諸行が四聖諦の理に随順し、絶えず清浄に転変するがゆえに行と名づける。修道ののち、心行は次第に寂滅し、涅槃に趣き、生死を出離するがゆえに出と名づける。かくして瑜伽行者は道・如・行・出の四つの行相によって道諦の相を明らかにする。これこそが四聖諦において内心に現観する了相作意と呼ばれるのである。

真の対治道とは何を指すか。道とは方式・方法・道筋を指し、対治とは心中の貪瞋痴無明煩悩を対治することを指す。無明とは苦を知らず、苦集を知らないことである。それゆえこの不知を対治し、知へと転換しなければならない。無明がなければ対治は必要ない。苦を滅し集を断ずるために修する道を道と名づける。苦を滅する過程がすなわち修道であり、戒定慧・三十七道品を修し、四聖諦を思惟観行することである。これが道行である。

如行とは、心を苦・空・無常・無我の真理・法理に相応せしめることである。知るべき境たる四聖諦の法について、能く通達的に深くその真実理を思惟し、能く如実にその法理を思惟観行し、知るべき境の内包する正理を了達し、それによって四聖諦の真理を証得する。行行とは、如行によって無明を断つ基礎の上に、心行が転変し、その全ての心行が認知した真理に随順し、苦・空・無常・無我の真実理に背かないことである。出行とは、修道を通じて煩悩を断除し、身口意の行いが清浄となり、もはや五蘊世間に攀縁せず、寂静無為となり、身心解脱し、涅槃に趣き、涅槃に相応し、三界を出離し、生死輪廻の苦を解脱することである。

道・如・行・出の四つの行相によって道諦を明らかにする。以上の四つの行相によって知られるように、修道の過程において戒定慧が増長し、五蘊世間に対する認知が真実理に契合し、無明は薄らぎ、煩悩は軽減し、心行は聖道に背かず、身心世界は次第に転変する。清浄がある程度に達し、道に相応し、聖賢に相応すれば、聖道を証得する。果を証してから初めて徐々に身心を転変させるのではない。身心を聖賢に相応するまで転変させなければ、聖賢となることはできない。学生が試験に合格しなければ入学できないのと理は同じである。

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