観行五蘊我見断ち(第二部)
第十一章 瑜伽師地論第五十五巻(三種の現観)
原文:復次。此三種の雑染。煩悩雑染。業雑染。生雑染と謂う。断ぜんが為に。六種の現観を修す。知るべし何等を六と為すや。思現観。信現観。戒現観。現観智諦現観。現観辺智諦現観。究竟現観と謂う。
釈:復次、煩悩雑染、業雑染、生雑染の三種あり、此の三種の雑染を断ぜんが為に、六種の現量観行を修行せんとす。此の六種の現量観行はそれぞれ何を指すか。思の現量観行、信の現量観行、戒の現量観行、現観智諦の現量観行、現観辺智諦の現量観行、究竟の現量観行を指す。
煩悩雑染とは貪瞋痴の心行なり、貪瞋痴の煩悩雑染有るが故に、貪瞋痴の煩悩雑染業行を造作し、貪瞋痴の煩悩雑染業行有るが故に、後世に雑染の生身を招く。此等の雑染法を断ぜんと欲すれば、六種の現量観行を修習すべし。以下に此等の現観をそれぞれ紹介す。
思現観とは四聖諦の理に対し、如実、審慎、決定の思惟有り、諸法の苦空無常無我の理を決定明了し証悟することを能くし、外道其の決定思に影響を与えること能わず、四聖諦の理に対し復退転せず。思現観が成就すれば、正行有り、心地清浄、心に歓喜生じ、諸の疑惑を断じ、永く善道に住し、悪道に趣かず。此れ即ち意識と意根の思惟なり、単独の意識の思惟は心行を改め、疑惑を断じ、心地を清浄にし、悪道を永く絶つことを為し得ず。勿論、思現観は大乗法への思惟も包括す。現観と称せられる以上、実際に符合し、真理に合致し、実証の智慧其の中に在り。
信現観とは三宝に対し決定の信と清浄の信有り、猶予や三心二意無く、勿論、復誹謗の業を造らざるなり。決定の信は即ち智慧を表す、智慧有るが故に現観有り、然らずんば現観する能わず、唯妄分別のみなり。信現観有る者は、復仏・法・僧の三宝を誹謗する業行を造作せず。仏を誹謗するには、仏は唯阿羅漢・辟支仏の果位に過ぎず、四聖諦と十二因縁の証量のみ有り、他の証量は更に無しと説くを含む。仏に大神通無量神通無しと誹謗し、仏は世間人と大差無く平凡なりと誹謗し、仏は在家者にて在家者の事を行い、仏の肉髻(にくけい)は世間人の髪の如し等と誹謗するは枚挙に遑あらず。此等の言論は清浄信決定信に非ず、故に命終には悉く三悪道に趣き報いを受く。信現観有る者は、三世諸仏の無量の功徳・福徳・智慧神通を如実に了知し、誤解を生ぜず、三宝に対し勝解有り、迷信せず、正行有り、善業有り。
末法時期に於ける法の誹謗は普遍的な現象なり、多く見れば怪しまず。最も甚だしきは大乗非仏説なり。此等の者は毫も大乗の法義が正真なるか、理に如くか、殊勝なるかを弁えず、甚だしき愚痴の心を以て根拠無く盲目に非仏説と断ず。また法を非法と説き、非法を法と説く等、種種の顛倒は悉く甚だしき謗法の行為なり、命終必ず地獄の果報を感召す。
僧の誹謗も亦普遍的な現象なり。僧を非僧と説き、非僧を僧と説くは即ち僧の誹謗なり。出家者の種種の身口意行の過失を指摘し宣伝するは、其事実有ると無しとを問わず、悉く僧の誹謗に属す。僧の衆生心中における形象を破壊し、不良なる影響を生じ、衆生をして僧宝に信心を失わしめ、三宝を信受せず、衆生の信根を摧毀す。此等の罪業は悉く極めて大なり、多くは地獄の罪にて、地獄に報いを受く。
戒現観とは、仏の制定したる種々の戒律に対し、既に堅守して犯さず、三悪道の業行を造作する能わざるなり。戒現観を成就せる者は、決して故意に殺生・不與取・邪淫・妄語・飲酒せず、身口意業清浄無漏、既に三悪道の苦を解脱し、十不善業道を遠離し、生身は既に預流果より阿羅漢果に至り、及び辟支仏果・菩薩果・仏果なり。即ち聖果を成就せる者のみ戒現観を有し得るなり。
以上瑜伽師地論第五十五巻に説く所に依れば、戒現観を具足せる初果以上の聖賢人は復五戒及び種々の受持せる戒律に違犯せず、心三悪道に相応せず、即ち三悪道に趣く十不善道業を造作せず、五戒・比丘戒・比丘尼戒・菩薩戒に違犯せず。若し五戒さえも守持し得ざる者あれば、瑜伽師地論と顕揚聖教論に依り、此の者に初果以上の証量無しと断定し得、其の証果の説は誤判にして仮証、信ずべからず。
我見を断じ初果を証得せる後は、復三悪道に堕ちず。何故に然るや。其の心改まるが故に、心三悪道の業に相応せず、復三悪道の業行を造らず、即ち復三悪道に堕ちて苦を受けず。心無我を証得すれば即ち空なり、心空なる者は三悪道の業行を造る能わず。何を三悪道の業行と為すや。即ち五戒に違反する業行、十善業に違反する業行なり。五戒を受持して初めて人身を得、三悪道の衆生身を得ず。十善を受持して初めて人天の身を得、三悪道の衆生身を得ず。我見を断じ証果せる者は心行必ず五戒十善に相応し、能く三悪道の業と身を免除す。
然らば此の我見を断ずる心、五戒十善に相応する心、三悪道の業に相応せざる心は、何れの心なるや。意識は勿論此の如き心なり、最も主要なる意根は絶対に此の如き心なるべきなり。而して意根は無間断の心なり、我見を断じたる後、意根は初めて無間断に毘鉢舎那と奢摩他の双運道の功徳を有す。睡眠・昏迷・死亡・中有の何れの時も、断我見の功徳を身に有し、即ち此の功徳を以て受生・投胎・入胎す。然らば意根が如何なる心行有るか、如何なる業有るかにより、相応する胎身有るなり。三悪道に入らざらんと欲すれば、意根の我見を断じ、諸の功徳を具えるを要す。唯だ意識の聞法の智慧・推理の智慧・臆測の智慧・情思意解の智慧のみにては、決して粗重なる煩悩の現行を断除するを保証せず、三悪道の業行を造作せざるを保証せず、五戒十善に違犯せざるを保証せず、即ち命終に三悪道に入らざるを保証せず。
現観智諦現観は、瑜伽師地論第五十五巻に説くに依れば、加行修道の過程に於て、先ず見道の福徳資糧を極めて円満に積集したる後、心又効果的に調伏調柔を得、世間択分の辺際に随順し、無間断の善根を生ず。即ち加行道の修行を以て、意根は既に充分に善法の熏染を得、心地柔軟調伏、善根顕発せり。仏法修道中の無間は一般に意根を指す。意識は間断有り、断滅去するは信頼ならず。意根に修到して初めて善法は一階段を修したるに算し、質的飛躍有り、道業は一層上る。
意根善根を生発したる後、心は初歩的に有情衆生の仮法を遣除す。即ち初歩的に道を証し、五蘊が空・仮・虚妄なることを証得せるなり。此の時初めて見道の断ずる所の粗重なる煩悩を除去し得る。此の意味は既に明らかに説けり。初果見道は粗重なる煩悩の現行を断除し、若干の粗重なる煩悩を除去し得る。意根も亦見道したる後、初めて粗重なる煩悩を断除し得る。意識は煩悩を断除する方法無し。
初果を証得したる後は、無間断に初果の見道智慧証量を顕現継続し、然る後第二度見道の功徳智慧を生じ、心中更に一歩進み五蘊衆生の種々の仮法を遣除し、我見更に深く断除し、二果を証得し、中品見道の断ずる所の粗重なる煩悩を除去し得る。此の意味は即ち初果見道は不究竟にて、我見は唯初分軟品の断に過ぎず、二次の中品断と三品の究竟断有り、粗重なる煩悩も断じ不究竟なり。二果見道、三果四果見道は尚粗重なる煩悩を断除せんとす。二果は勿論意根の証得に依り、能く無間断の智慧生起に達し、更に粗重なる煩悩を断除す。
二果を証得したる後は、無間断に二果の見道智慧証量を顕現継続し、然る後第三度見道の功徳智慧を生じ、更に深く普遍的に一切有情衆生の五蘊仮法を遣除し、我見更に深く究竟に断除し、此の功徳を以て一切見道の断ずる所の粗重なる煩悩現行を断除す。瑜伽師地論第五十五巻に説くに依れば、此の見道は初禅定と観行智慧の双運道なり。甚深なる断我見の観行智慧のみならず、尚初禅禅定を要し、能く一切の粗重なる煩悩を断除す。此れ即ち三果と四果の聖人の断我見にして、三果四果見道と名づく。
以前の初果と二果は、初禅禅定を必ずしも有せずと雖も、未到地定を必ず有すべく、而して未到地定は具足すべし。然らずんば断我見の観行智慧生起せず、我見を断じ初果二果を証得する能わず。三果を証得する時、三度の断我見の三品毘鉢舎那観行智慧を具足し、同時に禅定奢摩他の三品見道禅定心を具足し、更に禅定と智慧の双運を加え、合せて三心と立つ。然らば一刹那に三果四果の止観悉く具足す。
凡て四聖諦を修学する仁者は、必ず法に依り人に依らず、悉く瑜伽師地論中弥勒菩薩の講ずる断我見見道の標準に依り、自他が真に定慧等持の見道なるか、或いは自己標榜の仮見道なるかを衡量すべし。見道の標準を厘清すれば、視聴を混淆し、大妄語の罪業を犯し、仏教の教法を破壊すること無からん。
現観智諦現観は、現観智諦現観を有する者は、一切の出家果位を得、一切の清浄功徳を引發し、其の余の現観智慧を引生し、善道に於て清浄なる果と業を感召するを助け得る。若し現観智諦現観を成就せる有学無学者は、永く虚妄の我見に依って造作すること無く、所作は悉く無我なり、自ら証得せる法に対し永く疑惑有ること無く、永く雑染染汚の処に出生せず、出生する所に於ても復貪染有ること無し。現世の生活と修行に於て、一切の世間事相は清浄にして染汚不浄無く、復声聞・独覚・大乗法を誹謗せず、悪業を造作せず、更に五逆罪と七逆罪を造する能わず、決して第八度三界に出生せず。此れ初果極めて七有を尽くすの意味なり。
現観辺智諦現観は、此の智慧は見道の後初めて得る。何れの見道に於て得るや。第三品見道、即ち初禅定と智慧双運の三果と四果見道の後に得る現観智なり。先の世間智慧に縁り、下地(欲界)と上地(色界初禅天)及び欲界と色界初禅天の二種の安立せる真実理を観察して得る境界なり。法智と類智の世俗智慧に摂され、世間智慧と出世間智慧に通ず。四聖諦の各諦の観行に於て、悉く忍可欲楽智と現観決定智現わる。此の如く前の諦の現観に依り、即ち上の諦と下の諦の観行に於て、二種二種の現観智を生ず。此れ即ち現観辺智諦現観なり。現観辺智諦現観を成就せる三果四果の者は、永く他人の詰難発問を恐れず。現観智深利にして解脱道の法義に通達し、彼を難倒する者無く、一切の難問を善巧に解答し得るが故なり。
究竟現観は、此れ四果阿羅漢の証得する現量観行智慧なり。四果阿羅漢は修道の断ずる所の一切煩悩現行を断尽したるが故に、三界有を滅尽する智慧を得、後世永く出生せざる智慧を得。或いは其の衆生を憐れみ救度の心を発するが故に、後世尚世に出生するも、一切煩悩現行無く、尚其の世間永滅の智慧に依って世に立つ。此れ即ち究竟現観なり。世間永滅の智慧を証得するは最究竟、世間究竟空の智慧を証得するは最究竟、即ち究竟現観なり。以前の現観は尚漏有り尽きず、故に未だ究竟現観に非ず。
究竟現観を成就せる大阿羅漢は、永く復五戒を犯さず、故意に殺生・不與取・淫欲・妄語・財宝を蓄積して受用せず。此処の淫欲は如何なる種類の淫欲をも指す。軽重を問わず、世俗法の許容する否とを問わず、道徳不道徳を問わず。阿羅漢果を証得すれば必ず出家僧なり、一人も在家者無く、如何なる眷属も有せず、故に正淫の説も無し。此処の妄語は如何なる種類の妄語をも指し、世俗法に於ける故意の錯説たる世間妄語を含む。阿羅漢は永く後生起すべき不可知の事を恐れず、世間の一切の苦楽を虚妄に自作・他作・自他作と計らず、亦非自非他の無因生と妄記せず。究竟現観を成就せる大阿羅漢は世間の一切生死の大苦を解脱し、此の身は最後身にして、復後有を受ず。但し形を留め世に住する者は此れを除く。