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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 2431

第五章 阿羅漢と解脱 

一、解脱とは何か

解脱とは、一切の貪・瞋・痴の煩悩を離れることである。解脱とは、色・声・香・味・触・法に対して心に掛かり碍(げ)ることがなく、また繋縛されることもなく、貪ることもなく、瞋ることもなく、喜ぶこともなく、憂うこともないことである。解脱とは、一切の人・事・物・理に対して何の執着もなく、また束縛されることもなく、貪ることもなく、瞋ることもなく、喜ぶこともなく、憂うこともなく、何があってもなくても同じであることである。解脱とは、衣食住や行いに対して縁に従って対応し求めるところがなく、貪り得る心がないことである。解脱とは、世の中で生きながら、善く足ることを知り、その日を暮らし、分を越えた思いを持たないことである。解脱とは、過去を追憶せず、未来を幻想せず、また現在に住することもなく、念々に留まらないことである。解脱とは、一切の人・事・物・理に対して心が執着せず、その苦・空・無常・無我を明らかに理解し、その成り行きを明らかに理解し、その幻化して得られないことを明らかに理解することである。解脱とは、一切の法に対して心が空(くう)であり、自在にして礙(げ)ることがないことである。

二、解脱と自在

一切の法を修習する目的は、一切の法の空性・仮性および中道性を見破り、それによって自心に智慧を得させ、一切の境界に対して心が空で礙ることがなくなり、功徳の受用を得て、世間の煩悩から解脱するためである。

ある人は問うかもしれない:解脱に何の役があるのか? 解脱には何の役もない。何も用いず、何も貪り執着しなければ、それが解脱である。解脱とは束縛から離れて自在になることである。解脱には苦がなく、籠から離れた鳥のように自在に飛び回り、罠から脱した猛虎のように山の上も下も自由に歩き回り、手綱から離れた野馬のように広い天地を自由に駆け巡るようなものである。またある人は問うかもしれない:自在に何の役があるのか? 自在にも何の役もない。何も用いなければそれで自在である。自在とはただ、我という束縛のない感覚に過ぎず、感覚さえもなく、感覚があれば自在ではない。だから、役に立たないのが最も良く、役立てて何になるのか? 役立てて何の意味があるのか? 役に立つものは全て重荷であり束縛であり、苦である。

無我の解脱を得ようとするならば、毎日自らに問いかけねばならない:私は何のために食事をするのか? そして答える:食事は色身を存在させるためである。さらに問う:色身が存在するのは何のためか? 答える:色身が存在するのは生きるためである。さらに問う:生きるのは何のためか?……根底まで問い詰め、砂鍋を割るまで問い詰め、決して自分を安易に許してはならない。その後は、智者は智を、仁者は仁を見るように、各自が己の見解を述べ、境界が自然と明らかになり、思想が躍動し、差異が自然と現れる。反省し、反思すれば、次第に修道に入っていく。毎日このように自らに問いかけていれば、いつか必ず覚り、貪着することもなく、執着することもなく、暢快自在に解脱し、煩いも悩みもなくなり、ついには自ら超然として物外にあり、洒脱に超脱するであろう。

三、解脱した人はどのような心の状態か?

解脱とは煩悩を断じ、心が空で無我であり、五蘊十八界に対して執わず取らず、色蘊を取着せず、受蘊を取着せず、想蘊を取着せず、行蘊を取着せず、識蘊を取着せず、色を取着せず、声を取着せず、香を取着せず、味を取着せず、触を取着せず、法を取着せず、財・色・名・食・睡を取着せず、名聞利養を取着せず、世間法を貪らず、縁に随って物に応じ、功利心がなく、計算高い心がなく、見返りを求めず、権勢や名声のためではない。権力者に媚びへつらうこともなく、また自らを高く大きく見せることもない。目立とうと争ったり、無理に奪い取ったりすることもなく、また自らを露わに喜ぶこともない。互いに騙し合うこともなく、また策略を弄することもなく、一切の法に心を用いることがなく、世間法が彼を拘束することはできない。なぜなら、五蘊の世間は畢竟空であり、繋がれるものもなく、掛かり碍るものもなく、取るも取らぬも共に得られず、枷が心に着くことなく、自在にして礙ることがないからである。

四、なぜ四果阿羅漢は八地菩薩の解脱の証量に相当するのか?

小乗の四果阿羅漢は無余涅槃に入ることができる。大乗では初地菩薩から煩悩を断じた三果の聖人であり、地上の菩薩は解脱の正位に入り、四果を証取することができるが、もし証取して命終すれば無余涅槃に入ることになる。仏は菩薩が四果を証取することを許されず、解脱の正位に入ることを許されない。七地の満心に至り、四果を証取して八地菩薩の位に入るまでである。八地以上の菩薩は再び無余涅槃に入ることはない。したがって、解脱の証量から見れば、四果と八地菩薩の解脱の証量は相等しい。初地の満心でも四果を証取することはできず、そうでなければ仏戒に触れ、仏に呵責され、仏もまた菩薩が四果の果位を証取しないよう護持される。

五、阿羅漢・辟支仏の修行は五蘊を捨てて涅槃を取ること

阿羅漢の四聖諦の修行および辟支仏の十二因縁の修行は、減法と捨法であり、五蘊の世間を次第に捨て去るものである。彼らの心に法があり物があり五蘊があるからこそ、修行上絶えず減らしていき、心・口・意の業を絶えず減らし、貪欲と一切の煩悩を捨て、最後に涅槃を取るのである。阿羅漢たちは、確かに三界があり、確かに五陰身があり、確かに苦受があり、確かに因果があると認識しているため、これら一切を捨てて三界を出離しようと決心するのである。取捨の心は巧偽を成すため、最上最実の修行法ではないが、これは修行者が必ず通る道である。

しかし、修行には段階と次第がある。まずは悪を棄て善を取らねばならず、心が善くなれば、悪も取らず善も取らず、取らず捨てず、心を中道に住させる。菩薩は一切の法が如来蔵の幻化であることを了知し、心に物がなければ、捨てるべきものも何もない。一切の法に対して取らず捨てず、貪らず厭わず、坦然と向き合い、悠々として衆生を度するため、決して三界を離れて涅槃を取ろうとは思わない。

六、阿羅漢が無余涅槃に入ることは灰身泯智であり、万念俱灰ではない

阿羅漢が無余涅槃に入った後、彼の三界世間法は消失する。正確に言えば、三界世間には阿羅漢という人はいなくなる。三界世間とは、欲界・色界・無色界を含み、これを器世間といい、極めて多くの色法を含む。もし阿羅漢が無余涅槃に入れば、七識に対応する帯質境・性境・独影境などの色法が出生しないだけでなく、彼の第八識に対応する本質境の色法も出生せず、本質境がなければ、帯質境・独影境・性境もない。これらの境界は三界の業種が現れ出た依報の世間法であり、正報は五蘊身である。

万念俱灰(全ての思いが灰のようになる)とは凡夫の世俗人のことであり、聖人は心も念も願いも希望もないため、灰や俱灰ということは問題にならない。阿羅漢が世俗人のように万念俱灰になることはありえない。万念俱灰とは、心中に多くの希望や願いがあるがどれも実現できず、そのため大いに失望し、世の中で何の考えも念もなくなった状態を意味するが、しかし意根にはまだ多くの考えや願いが滅しておらず、ただ実現できないだけである。一方、阿羅漢は灰身泯智であり、元の文では五蘊世間にいかなる願いも寄せていないため、五蘊身も解脱の智慧も必要とせず、身心を共に捨てるのである。仏は灰身泯智という言葉を用いて阿羅漢の愚を形容された。灰身とは、現在の色身五蘊および未来世の無量劫の五蘊色身を滅し、不要とすることを意味する。泯智とは、三界解脱の智慧を泯滅させることを意味し、阿羅漢は身心を共に不要とし、これを解脱と名付け、寂静と名付けるのである。

実のところ、真の解脱とは何か? 一切の境界に直面した時、あたかも境界がないかのごとく、欲もなく求めもなく、見えても見ず、聞こえても聞かず、心を用いることがなく、能動的でなく回避もせず、染まらず、染まろうとせず、極めて自在であることである。仏陀はこのように自在解脱であり、五蘊身の解脱色があっても差し支えなく、転識成智した七識心があっても差し支えなく、身も智も共に存在し、互いに伴って離れず、いかなる天魔外道もどうすることもできない。これが仏陀の無住処涅槃の境界であり、いかなる法にも住することなく、無垢識のように無為であり、真如のように無為であるが、有為を妨げず、大円鏡智のように有為にして無為であり、有為無為が渾然一体となり、一つに打ち解けて、離れることがない。この境界は比類なく、したがって衆生の境界と仏陀の境界は比べものにならない。

七、阿羅漢の第八識心体にはどのような業種があるか?

阿羅漢は有余涅槃において、縁に随って日を過ごし、五蘊世間の一切の法を執取せず、心は空で無我であり、三界世間法の業種は次第に消失する。三界世間の業種がなくなったため、後世にも三界世間はなく、まして五蘊身が三界世間に出生することはない。阿羅漢の第八識にまだ三界の業種があるならば、種子は必ず現行して、業行に酬償しなければならず、そうなれば無余涅槃の境界はなくなる。

しかし、阿羅漢が無余涅槃に入った後、いずれは再び三界世間に現れる。なぜなら、阿羅漢は涅槃に入る前に大乗法を聞き、大乗法の種子を植えているため、種子が成熟すれば、第八識は意根の識種子を出力し、意根を出生させ、中陰身に入り、再び転生して大乗を修学するからである。業種は意根と相応し、意根は業種と相応する。意根がもし三界世間を執取しなければ、世俗の業種を留めることはできず、執取があれば引き続き善悪の業を造作し、業種が残り、後世には業種に随って引き続き転生輪廻する。意根が執取せず、六識が業を造らなければ、業種はなく、業報を受ける必要はない。

八、入流とは何か?

入流とは、解脱の聖道の流れに入ることである。解脱にはまず、生死に束縛する我見・邪見を断除することが必要であり、これ以後は三縛結を持つ凡夫ではなくなる。入流の過程には禅定が欠かせず、欲界の未到地定以上の禅定を持たねば、我見を断って聖道の流れに入ることはできない。禅定だけ、あるいは初禅定だけでは、我見の三縛結を断除していなければ聖道の流れに入れない。そうでなければ、四禅八定を持つ外道も皆聖道の流れに入ることになる。それでは外道の四禅八定を修めても解脱できることになるのか? すでに三縛結を断てば聖道の流れに入るのであり、入った後に断つ能力が得られるのではない。

九、仏陀の涅槃とは一切の法を滅することか?

仏陀の涅槃と阿羅漢の涅槃には本質的な違いがある。仏陀は涅槃した後も、なお無数の五蘊身を化現し、十方世界で衆生を度化するために用いる。そのため仏は五蘊身を解脱色と呼ぶ。仏がある世界で衆生を度化する縁が一時的に終われば、色身を滅して、方便として涅槃と呼ぶ。例えば、釈迦牟尼仏は娑婆世界で涅槃し、色身は一時的に離れ滅したが、釈迦仏は依然として娑婆世界の法主・教主・導師であり、娑婆世界の衆生は依然として釈迦仏が教化する弟子に属し、同時に釈迦仏は無量無辺の五蘊身を化現し、十方世界で十方の衆生を教化している。阿羅漢が涅槃した後は、再び色身五蘊を持つことはない。したがって阿羅漢の涅槃の後には解脱色はなく、彼らの涅槃は究竟自在ではなく、解脱は徹底していない。

仏には五蘊があるが、解脱している。解脱色は衆生の肉眼に見えることができ、世のいかなる法にも繋縛されない。衆生にも五蘊はあるが、世間法に繋縛されているため、解脱できない。心が解脱すれば、色身も解脱し、五蘊は全て解脱する。したがって解脱とは、必ずしも色身五蘊を滅する必要はなく、不如理不如法な心念と知見を滅し、心念を如理如実な知見・見地に転じれば、解脱するのである。

十、処世の道

誰の目も皆同じである。白いピンポン玉に猫の目を嵌めたような、機械的な装置に過ぎない。真に受けてはならない。もし誰かがあなたに情を含んだ眼差しを向けても、それはピンポン玉が水を出したのであり、猫の目から流れ出たものである。構わない。大河となってあなたを溺れさせることもなければ、丘を傾け山を倒してあなたを押し流すこともない。無視すればよい。もし誰かがあなたに秋波を送っても、それはピンポン玉が光を放ったのであり、猫の目から投射されたものである。これも無視すればよい。大自然の光の方がこれより温かい。もし誰かがあなたを睨みつけても、これはピンポン玉が怒ったのであり、猫の目から噴き出したものである。恐れることはない。あなたを焼くことはなく、燎原の烈火となることもない。無視すれば自然に消える。

私を愛そうが憎もうが、私には関係ない。私は悠然として自在である。一切を淡く見、心を水のように静かにし、私は相に着かず、天下に事なく、天地は自ずから広い。もし天地さえも見えなくなった時、本当に解脱する。なんと素晴らしいことか!

十一、倶生我執を断じた阿羅漢は永遠に在家者ではない

問:ある見解では、倶生我執を断てば心に掛かり碍ることがなくなり、自らや親族の生死に対して畏怖を持たず、自らの財産の損失に対して恐れや懸念を持たなくなるとする。これは確かに大解脱を得たことになるが、このような状態は出家を考えていない在家信者にとって適切だろうか? 真にこの境界に至れば、多くの仕事はできなくなるように思われるが?

答:まず言うならば、倶生我執を断じ尽くした人は、小乗では四果の大阿羅漢であり、大乗では八地の菩薩である。在家者が四果の大阿羅漢に修めることは不可能であり、在家者が最高で修められるのは三果までである。三果に至ることは非常に容易ではなく、三果の人は世俗においてほとんど世間法に興味を持たず、必ず方法を講じて出家しようとし、出家の機縁も非常に多い。家にはなおさら興味がなく、耐えられなくなる。もし出家しなければ、多くの人は縁に随って日を過ごすが、それでもなお一部の執着は断除されておらず、家庭生活や仕事に対しても縁に随い、執着性は大きくない。

一方、大乗の四果阿羅漢は八地菩薩の果位にあり、彼らは一般的に娑婆世界に来ることはない。たとえこの世界に来ても、家庭を持つような世俗の生活、例えば家族を養うために仕事をするなどということは、根本的にありえないことである。彼らの福徳は比類なく広大であり、どうして世俗の仕事をして日を過ごすなどという低俗なことがありえようか? 衆生を度す事業は全て縁に随い、一片の執着もない。なぜ仕事や家族を養うために身を屈する必要があろうか? 実際、娑婆世界で初地菩薩や三果人を見つけることさえ非常に稀であり、地上の菩薩は一般に在家ではなく、出家して衆生を度す。菩薩が多すぎて、皆が出家して衆生の手本となる必要がない場合を除いては。

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