衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 2790

第二章 如何に無我を実証するか

一、親証実証とは何を指すのか

円覚経原文:善男子よ。如何が我相なるや。これ諸の衆生の心の証する所の者なり。善男子よ。譬えば人の有るが如し。百骸調適にして、忽ち我が身を忘る。四肢弦緩(げんかん)にして、摂養方(せつようほう)に乖(そむ)く。微かに針艾(しんがい)を加うれば、すなわち我の有るを知る。是の故に証取(しょうしゅ)して、方(まさ)に我体を現ず。

釈:仏は説かれた。善男子よ、何が我相か。我相とは一切の衆生が心で証験するものである。善男子よ。譬えばある人が全身の調和がとれ非常に快適で、忽然として我が身体の存在を忘れてしまう。四肢は非常にリラックスし、身心は静寂の極みに達し、身体の置かれている方位さえもわからなくなる。この時、軽く針で身体を刺せば、心は我の存在を知る。それゆえに我を証取し、我という観念が生じるのである。

これは亡身(身体を忘れた)の境地であり、亡身の後に我を証知する様である。身体を証知すると同時に、我をも証知する。身体は我であり、覚知は我であり、五蘊は我である。我の存在を証験した後、我見が現れる。ここには身体の気脈に関する事柄が関わっており、気脈と心の空(くう)及び我見断ちとの間には一定の関連性があることを示している。気脈が通達した後、身体には明らかな覚知がなくなり、この時に初めて心が空となり、亡身に至る。亡身の後、再び覚知があれば、現前に実在として身体、覚知、我の存在を証験するのである。

衆生の心が証験する我相とはどのようなものか。心が体悟(体得)するもの、自ら体験するもの、自ら感じ取るもの、現前に観察されるもの、現量で感知される身体、覚知、五蘊である。それを実際に体験し感知できると感じるため、この身体こそが我であり、覚知するものが我であり、能所(主体と客体)があると確信し疑わない。それゆえ我相が現れるのである。

仏は例を挙げて衆生の心中の我相が何であるかを説明された。ある人が全身、内も外も全てが非常に快適で、極めて快適な時、身体の気脈が円滑に運行し、わずかな阻害もない。この時、身体を感知せず、身体の存在を忘れてしまう。すなわち能覚(知る側)と所覚(知られる対象)が共に存在しなくなる。この時、四肢は非常にリラックスし、一点の意念も加えず、わざと締めたり動かしたりしないため、心は四肢に注意を向けず、四肢の存在を忘れ、自分が今置かれている境地、現在の状態、どの方位にいるか、横になっているのか座っているのか、四肢や躯幹がどのような姿勢や態勢なのかもわからなくなる。これを亡身忘身という。亡身と忘身は、もちろん心中に所覚の身がなく、身を覚知する能覚もなく、能所ともに空(くう)である。

心の中で色身の我を忘れ、明らかな覚知もない時に、誰かが軽く、そっと針でその身体を刺せば、この人は直ちに感知し、我の存在を知る。色蘊と受蘊の我相が現れる。これを方便として我ありの我相を実証したと言い、我ありを実証したのである。無我の実証も同様に、このように自ら経験し、自ら証知しなければならない。思惟の方法で知るのではなく、推理、推測、分析、想像などの意識の機能作用で解き明かすのではない。実際に身体を感知するのと同じく、実際に真実に現量で無我を証得すべきである。実証とは何か、皆さんは今はっきり理解すべきではないか? この基準に照らして、この世界に無我を実証できる者が何人いるだろうか? 自らの心中で如何に我ありを実証しているかをよく体会し、それからこの方法で無我を実証すべきである。両者の原理は同じで、違いはない。

二、脳内補完(のうないほかん)とは何か

豊かな想像力で想像されたもので、実践によって得られた結論ではないものは全て脳内補完と呼ばれる。脳内補完の実質は誤解であり、実際には存在しない。多くの人の証果や開悟は、脳内補完によるものであり、修めたものではない。想像力が豊かな結果である。

いつか意識を半ば麻痺させた時、修行は初めて道に適い、少しは見通しが立つ。賢い意識こそが道を妨げる因縁である。人がそれほど賢くない時、道は初めて現れやすい。修道は愚かな者がするものであり、賢い人は修道せず、道を想う。想い描いた道は夢幻泡影(むげんほうよう)であり、何の役にも立たない。道を想うのは容易いが、修道は難しい。それゆえ大多数の人は近道を選び、想う方法を用い、修める方法を用いない。

三、解門(げもん)と行門(ぎょうもん)の区別

解とは、文字通り理解することである。理から入り、思惟によって消化する。想像、推理、整理、帰納、臆測などを含む。実証前の準備作業と言える。準備作業が過度になると、観行の功夫(修行の深さ)の深化に影響し妨げとなり、実証親証は非常に難しくなる。要するに、解門は理から入門し、理を消化し消融することである。これは学仏修行において最も容易で最も省力な着手方法であり、初心者は皆この段階に留まり先へ進めない。

行とは、文字通り行動である。理を理解掌握した後、実証しようとして取る行動である。例えば、定を修める、観行する、参究する、尋伺(じんじ:探求し観察すること)などである。行門は具体的な行動に関わる。行動のみが目標を達成でき、解はまだ実践に移されておらず、行動力がなく、目標を達成できない。実施手順には、戒を持つ、定を修める、悪を断ち善を修める、煩悩を降伏する、業障を懺悔する、遮障(しゃしょう:修行の妨げ)を取り除くことが含まれる。その後、定の中で禅を参ずる、参究する、体悟する、観行するなど様々な実践方法がある。これは実証親証のために必ず経なければならない実践過程であり、所謂「実践が真知を生む」がこの道理である。この過程がなければ、真知は生まれず、何かを知っていても真知ではない。

多くの人は解と行をよく理解せず、区別がつかない。往々にして解門を究竟の行門や最終の入道の場と見なし、自ら悟りの門を塞いでしまい、非常に惜しいことである。解は想像のようなもの、行は観のようなものである。観と想像の違いは非常に大きい。想像は全くの無から境界を付け加えることであり、世俗で言う脳内補完に相当する。境界が自ずと現前することはなく、ましてや三昧の境界が現れることはない。たとえ想像・脳内補完が完全に正確であっても、観えたことにはならない。一方、観は功夫が至った時に、境界が自然に現前し、自ずと現れ、それからありのままに境界を見るのである。境界がどうあるかを見るのであり、余分な内容を付け加えることはない。そして同時に三昧の境界が現れる。

悟っていないのに悟ったと言う者は、基本的に以下のような状況である。想像した法を観えた実証の法と誤解している。誤解が非常に深刻である。現量観察と想像の区別は、おそらく百パーセントの人がはっきりと分けられない。それゆえ、自ら悟ったと思い、他者も悟ったと思う者は、ほぼ百パーセント想像の成分が多く、現量観察によるものではない。観行の功夫が深刻に不足しているからである。私が全ての悟りが百パーセント偽悟りだと言わなかったのは、言葉に余地を残すためであり、また口を控えめにし、人を傷つけたくなく、ましてや人に恨まれる結果を招きたくないからである。

実証と親証の後、初めて解行が相応する。自ら解したことが実証され、自ら証したことが解したことと符合する。実証の後、疑情が断たれ、結縛(煩悩の束縛)が断たれ、粗い煩悩が断たれる。身口意の行いが理に相応し符合し、事と理が初歩的に円融し、互いに背かない。言うことが理に適い、行うことが理に適い、心と口が同じであり、身心が一致する。言うことと行うことが矛盾し、身口意の行いが理に背く現象は存在しない。解行が相応しない時はそうであり、それは実証していないことを示している。

四、我見が薄くなって初めて断除できる

それぞれの衆生の我見我執の軽重の差は非常に大きい。もちろん我見我執が軽微な人は我見を断ちやすい。我見我執が重い人は修行によって軽微に転じて初めて、我見を断つ望みがある。堅い氷が一瞬で水に溶けるためには、堅い氷がますます薄く、ますます堅くなくなり、最後に瞬間的に溶けるのである。学仏修行は実際には先ず我見我執を薄くし、業障を徐々に減らし、遮障をますます軽くすることである。これが修行の功徳である。これを基礎として、後世において非常に速やかに我見を断つことができる。

修行は漸進的な過程であり、一気に目標に到達することは不可能である。絶えず進歩さえすれば喜ぶべきである。基礎が薄弱な人は、目標を低く設定し、自らの実際の状況に合致させるべきである。そうすれば修行に目標ができ、必ずしも目標を明心見性に定める必要はなく、達成できなくても落胆し意気消沈して修行をしたくなくなることはない。意根の我見という堅い氷は徐々に薄くならなければならない。その中間が修行である。

五、観行と想像はどのように違うのか

甲:観行は真実に見ることであり、観ることである。六根が一つの事に集中して参加する。意根が放心しなければ全過程に参加でき、観行で得たものは意根が認める。想像は五根が参加せず、意識だけが空想し、意根は参加できず、認めることもない。

乙:観行の対象は客観的に存在する事物に基づいて行われる。想像は主観的な臆測に属する。

丙:観行は意根を主体とする心理活動である。観行の過程で、意識は必要な導きを行い、意根に対象を現量のありのままに観察させる。一方、想像は意識心を主体とする心理活動であり、主に意識が独影法塵(どくえいほうじん:心の中だけに現れる影像)を非量(誤った認識)で了別することで、意根に実質的な影響を与えにくい。

丁:想像は独頭意識(他の五識を伴わない意識)の働きであり、意根も参加する。意根は一切の法を黙って容受するため、了別もしている。想像は独影境(心の中だけの影像)に属し、非現量の了別である。観行は意識と意根が共に縁(よ)るものが性境(客観的実在に対応する境)であり、帯質境(実質を帯びた境)に属し、現量了別に属する。意根を容易に薫習(くんじゅう:影響を及ぼすこと)し、意根に法を証させ易い。観行は意識と意根の両方に現量了別を行わせる。持続的な現量了別(その間には他の根も参加する)には定力が必要であり、意根が定まって初めて実証できる。

戊:まず観行には一定の定力が備わっていなければならない。定力の支えがない観行は想像に陥る。次に、観行は定力がある状態で行われるため、意根は必ず他の法に縁することが少なく、意識が導く法塵に集中できる。つまり観る法塵に興味を持つ。一方、想像の過程では意根も参加するが、意根は全身全霊で参加せず、他の法に縁する。第三に、観行は意識の導きから始まり、次第に意根が主導し、注目する塵境(対象)を了別する。対する法は全て現量の境界である。一方、意識の想像は非量の了別であり、現量の境界のみがより客観的現実に合致し、意根を確信させることができる。要するに、意根が真に注目し参加して初めて、意根の巨大な潜在能力を発揮し、徹底的に知見を変え、正しい選択をすることができる。

想像と観行、どちらが容易か? どちらがより楽か?

甲:想像の方がはるかに容易である。妄想は招かずして自ずから来る。

乙:これにより、多くの人が自らを欺き他をも欺き、禅定がなくても自ら観行でき証果できると言い、想像を観行と誤解していることに気づかない。修行の原理を理解すれば、ほとんどの時間は自力による修行であり、終日様々な理論の書物の海に流連し、他人の見解や見地を汲み取り、他人の宝を数える必要はない。結局、自らは半銭も得られないのである。

六、三十七道品の条件を満たさなければ証果明心はできない

前世で一度も我見を断ったことがない者、または我見を断った回数が少ない者は、初めて我見を断ち初果を証するのは非常に容易ではない。我見を断つ必要条件である三十七道品は修めにくい。今、毎日定を修めている者も皆知っているように、禅定は修めにくく、理に適った観行はさらに困難である。観行の成果があり、法眼が浄まり空三昧を証得することは、さらに一層困難である。一方、前世で我見を断った者は、今世では特殊な身分の者であり、娑婆世界にはこのような特殊な身分の者はほとんどおらず、鳳毛麟角(非常に稀)と言える。

ある人はいつも自分は特別だと思い、三、五年学んだだけで開悟したとする。しかし、我見を断たなければ開悟できず、開悟は我見を断つことよりもさらに難しい。だから安易に自分は開悟した、明心した、もう何々菩薩であると思い、対外的に開悟したと宣伝するのは、果報が非常に良くない。今は特殊な時期であり、いくつかの特殊な現象が現れているが、地蔵菩薩に大きな迷惑をかけている。この世代の者が命を終えた後、地蔵菩薩は忙しくなるだろう。菩薩になることはあまりにも容易ではない。地獄が空にならなければ、誓って仏にならない。明らかに仏の功徳福徳を具えているのに、仏位を取らない。菩薩はこのように心が空で無我なのである。

地蔵菩薩に迷惑をかけないために、今は皆、本師釈迦仏の教えに従い、仏が説かれた修行の次第と標準に従って修行し、厳格に自らの三十七道品がどの程度達成されているかを点検すべきである。もしその中にいずれか一つでも満たされていないものがあれば、証果した、明心したなどと思ってはならない。最も基本的な三十七道品が修め満たされていなければ、脱胎換骨(生まれ変わること)せず、竜門を跳ぶことができず、聖者にはなれない。

七、如何にして我見を断ったかどうかを判断するか

もし小乗の三十七道品が満たされていなければ、我見を断つことはできない。禅定が不足していれば、現前に観行できず、推量や想像しかできない。喜覚分、猗(い)覚分、定覚分、捨覚分が具足せず、あるいは全く現れなければ、我見を断つには程遠い。もし四正勤(断悪修善)がまだ修められておらず、悪が続き善が生じず、煩悩が軽減せず、心が変わらなければ、我見を断つことはできない。もし八正道が完全に具足せず、身口意の行いに不正なところがあれば、やはり我見を断つことはできない。もしまだ世間法に貪り執着し、出離心が強くなければ、同様に我見を断つことはできない。もし心中にまだ我相があり、いつもどこでも我を主とし中心とし、人相、衆生相、寿者相があり、四相がはっきりとあれば、我見は断たれていない。

三十七道品を修める過程で、身心が絶えず変化し、様々な吉祥の夢が現れ、それは煩悩が徐々に脱落し、業障が徐々に消え、心が徐々に清浄になり、身が徐々に障害なくなり、禅定が徐々に深まり、世俗法が徐々に遠ざかっていることを示している。我見を断つ時、法眼が清浄となり、五蘊が皆空で無我であることを見る。定慧等持の三昧境界が現れ、身心共に清浄で三昧の中にあり、身心の覚受は非常に特別である。今の衆生の根基は比較的浅薄であり、このような三昧は非常に証得しにくく、戒定慧も修め満たしにくい。それゆえ我見を断つことは非常に困難である。現状では、自ら我見を断ち明心したと考える多くの人にこれらの現象が現れていない。それならば実証ではない。

我見を断ち明心した時は、すでに脱胎換骨し、鯉が竜門を跳んだのである。もし粗重な煩悩が消えず、心が清浄でなければ、骨はやはり元のままであり、胎は変わらない。もし様々な見道の条件を下げ、三十七道品や菩薩の六度が具足せず円満でなければ、それは竜門を這って通ったものであり、本質はやはり鯉であって、竜にはなっていない。証果と明心という仏法修証の最も重要な点で、もし非常に安易で厳密でなければ、臨終の際に様々な悪相が現れ、悪道は避けられない。死後に自らが陰森(いんしん:陰気で恐ろしい)で恐怖の場所にいることを発見しても、後悔しても遅いのである。

八、我見を断てない原因

修行は先ず色身五蘊の機能作用を否定し破ってから、初めて五蘊の背後にある真人を証得する可能性がある。色身はどのように不実で主(あるじ)の性質がないのか? 色身は四大(地水火風)から成り、四大に制御され振り回される。四大を振り回そうと思っても、本当に容易ではなく、大変な手間がかかり、必ずしも振り回せるとは限らない。例えば夏の暑さで全身汗だくになり、湿疹が出る者もいる。これは火大と水大と地大の不調である。それからエアコンを付け風を通せば、身体は冷えて不快になる。これは風大の不調である。四大が不調な色身は本当に厄介である。色身がある限り、四大は永遠にあなたを振り回す。仏陀は四大を四匹の毒蛇に譬え、非常に扱いにくく、少しでも注意を怠れば、毒蛇はあなたを侵害すると説かれた。このような色身には全く自主性がなく、真人であり得るか? 我であり得るか?

生々世々(生生世世)滅びないその我は、自由自在で自主性があり、百毒も侵さず、一切を主宰し一切に主宰されないはずである。智者である誰がこのような色身を我、我のものと認めるのか? 早いうちに自らの心の中でこれを滅し除き、否定し、それから新しい主人を見つけて帰依すべきである。このように明らかで明確な理を、自らの内心でまだ確認できないならば、修行にまだ欠けているところがあることを示している。結局何が欠けているのか? 福徳、智慧、禅定、戒律などである。改善できるものは早急に一つ一つ改善し、もう怠惰を繰り返し先延ばしにしてはならない。

色身は非我、五蘊は無我という理がすでに非常に明確な時、自らは勇気を持って引き受け、無始劫以来の自我に対する観念を更新し改め、古いものは去り新しいものが来て、全く新しく生まれ変わるべきである。しかしこの我という観念は、まるで固まってしまい、何と言っても動かず、もう一歩前進するのも非常に困難である。これが障りである。あたかも目の前に山が横たわり、越えられない。この山を倒すには自力と他力衆力の和合が必要である。自力には戒力、定力、慧力、福徳力、善業力が含まれる。他力は、一つは仏菩薩護法神の加持力、一つは同参道友(どうざんどうゆう:共に修行する友)の推進力、一つは他の善縁の力である。自力を主とし、他力を補助とする。自力が具足して初めて、他力は何らかの働きができる。

例えば、ある人が車を押して上り坂を進み、突然前方に大きな石が車の前に立ちはだかる。自らの力では前進して大石を越えられず、如何に力を入れても車は動かない。この時は衆力の和合が必要である。自力は自らの体力、毅力、巧力(要領の良い力)、決断力などである。他力とは、自らが以前に結んだ善縁、種を蒔いた善業により、たまたま通りかかった人と縁があり、その人があなたを助けようと車を一緒に押そうとする。もし二人で押しても動かなければ、たまたまもう一人通りかかり、その人も手を差し伸べて助けようとする。三人の力で和合すれば、順調に大石を越え、進み続けられる。

もし過去にあなたが善縁を結び他者を助けたことがなく、福徳や善業の種を蒔いていなければ、抵抗に遭った時、孤立無援となり、何の外力他力もあなたを助けない。おそらくあなたのそばを通りかかる人さえおらず、誰もあなたが困難に遭っていることを知らない。たとえ通りかかる人がいても、縁も福もないため、誰も手を差し伸べて救おうとしない。

学仏の道において福を修め善縁を結ぶことは非常に重要である。成仏の道には極めて多くの助道者(修行を助ける者)が必要であり、一人の力だけでは成し得ない。孤立無援でどうして三大阿僧祇劫(さんだいあそうぎこう:途方もなく長い時間)の修行の劫(時間)を渡れるのか? 人のために手を貸すことさえも惜しみ、福徳を集めず、善縁を結ばず、種を蒔かず、自らの力だけに頼れば、いかなる障害に遭っても越えられず、ただ嘆き悲しむだけである。自ら人を助けなければ、どうして天の助けがあるのか?

十、所得の心で解脱の果を得られるか?

いつも私に言う人がいる。「師匠、私は証果したい、明心見性したい、七住位に達したい、どう修めたらよいですか?」こう言う人は、果にのみ興味があり、過程には興味がない。ただ知見を持ちたいだけで、自らを変え脱胎換骨したくない。内心は実は果を重んじ、修証と解脱を重んじていない。そうであれば、いかなる外力も彼に益とならない。世間に利益のある所には、衆人は我先に集まる。仏教に利益のある所には、衆人は同様に我先に集まる。

なぜ衆生は利益のある所に集まるのか? 我があり、我のものがあり、法があり、執取がある。それゆえに求める心がある。我ありの心、求める心で、仏法上の利益を求め、得るべき利益があるのか? 無我無所求(我がなく求める心がない)であって初めて果がある。我あり求める心があるのに、どうして果があり得ようか? 得るべき果があると思い、仏法の中の果の利益を見て、それゆえに直ちに利益のある所へ向かい、奪い取ろうとする。そうであれば、いかなる果証も得られるのか? なぜ今、空を舞うほど多くの偽の果があるのか? 得る心で偽の果を奪い取れば、どうして三悪道に堕ちないでいられようか? 心中の果が空でなく、利益が空でなく、名利が空でなければ、我見を断てるか? 我見を断たなければ、果を得られるか?

無我無人無衆生無寿者であって初めて我見を断ち果を証する。得る心で偽の果を得た者は、我見我執を増益し、我相人相衆生相寿者相がさらに重くなり、道に背き、道に逆らう。道は解脱であり、道に背くことは生死である。世俗界は名利の場である。ある者にとっては、仏教界も同様に名利の場であり、得るべき名利があり、仏教の名利を追い求めれば、さらに生死へと向かう。

十一、三昧は修法成就の標識

問:日観を修めるには、一日24時間影像が消えないように修めてから、初めて次第に後ろの観を修めることができるのか?

答:観無量寿経の十六観のそれぞれの観は、相応する三昧が現れた後、観行が初めて完成したと言える。その後で初めて次の観行に進める。第一観の日観は三昧を修め出さなければならない。落日三昧である。心中の落日の相が連続して絶え間なく現前し消えず、身心共に禅定の状態にあり、煩悩や雑念がなく、睡眠を除き常に定中にある。こうして日観三昧が修め終わり、第二観に移行できる。いかなる法を修め、いかなる道を証するにも、禅定と智慧を含め、三昧が現れなければ、修め成功したとは言えず、法を証し道を証したとは言えない。三昧が現れる前後の時間は、睡眠も重くなく、雑夢や乱夢がなく、内心にもある程度の清明さがあり、睡眠は少なく軽く、昏沈しない。軽度の睡眠時には心中に影像があるべきであり、深度の睡眠時にはない。

日観は全ての観行の中で最も簡単で最も容易な観行に属する。しかし多くの人が三年以上修めても未だに何の消息もなく、三昧の影さえ見えない。これにより修行はそれほど簡単なことではなく、特に我見を断ち明心見性という大智慧の成就は、容易なことではないことが分かる。観無量寿経の十六観は、第三観を成就して初めて命終に極楽世界に往生することが保証され、第七観を修めて初めて明心開悟できる。三年の間に第一観を修め成した者がいなければ、第三観と第七観は何年何月に修め成せるのか? 修行はそれほど容易なことではない。前世で修習したことがあり、かつ成就者であって初めて、今世は少し容易になる。

十一、なぜ我見を断つには相応する禅定が必要か

我見を断つことは戒定慧が結合した産物であり、また煩悩を断った後の産物である。そして慧は禅定を離れられない。我見を断って初めて解脱を得る。解脱とは煩悩の纏縛(てんばく:絡みつく束縛)からの解脱である。煩悩を断つことは智慧の成就のみならず、禅定の結果でもある。禅定がなければ煩悩を断てず、我見を断てない。

初果と二果には未到地定(初禅に至らない定)が必要である。もし未到地定がなければ、初果向(しょかこう:初果に至る過程)にもなれない。初果は見道所断の煩悩(見惑)を断つ。これは欲界で最も粗重な下品の煩悩であり、未到地定の中で断たなければならない。二果は修道所断の煩悩(思惑)を断つ必要がある。これは欲界の中品と上品の煩悩であり、さらに未到地定の中で断たなければならない。初果と二果の人は命終後、欲界天に生まれるだけで、色界天と無色界天には生まれない。色界の初禅定がないためである。

二果は初果の基礎の上で引き続き四聖諦の理を観行する必要がある。現観(現前観察)は未到地定を離れられない。そうでなければ現観できず、意識の思惟分析に頼るしかなく、現量観察智を持つことができず、三果を証得できず、初禅定も得られない。三果は欲界の一切の煩悩を断ち、色界の少なくとも一品の煩悩を断ち、心解脱の聖者となる。それゆえ最も基本的に色界の初禅定が必要である。三果の人は命終すると色界の五不還天(ごふげんてん)に生まれる。または中有(ちゅうう:死後の存在)の中で再び一切の煩悩を断ち尽くし、四果を証得して無余涅槃に入る。もし三果人に色界定がなければ、どうして五不還天に生まれ、どうして煩悩を断ち尽くせようか?

禅定が具足しなければ、相応する煩悩を断つことはできない。色界定がなければ、欲界と色界の煩悩惑を断てない。未到地定がなければ、欲界の煩悩を断てない。四聖諦の理は解脱道の依り所とはならない。煩悩を断たずに菩提を証できると言う者は、禅定がなく、内心の煩悩を降伏できず、意識の解釈が勝り、非常に賢そうに見えるが、実証の智慧がなく、煩悩の纏縛を脱することができず、六道輪廻を離れられないからである。学仏して禅定を修めず、全てを臆測に頼れば、それは全て戯論(無意味な議論)である。

十二、禅定の中で観行し、得た結果は必ず現量実証か?

定中の観行で結果を観じた場合、この結果は、一に意識だけが観じた可能性、二に意識と意根が共に観じた可能性がある。それで意識だけが観じた場合は決定作用を起こせず、意根も観じて初めて決定作用を起こし、定慧等持の三昧が現れ、真の智慧となる。

なぜ同じ定中の観行で二つの結果が現れるのか? これは定に浅深の差があり、摂受する識心の観行智慧が異なるからである。定には浅深の差がある。例えば初禅定と具足した未到地定、また具足せず断続的な未到地定、さらに粗浅な定があり、定の時間の長短が異なる。それゆえ観行智慧には大きな差がある。定が浅く、未到地定が具足していない場合、意識の機能作用が大部分を占め、推理分析の作用が比較的大きい。意根の思量作用は小さく、得られた結論は現量ではない。未到地定があっても、毎回定の時間が比較的短く、観行が常に粗浅な段階にあり深く入り込めなければ、深く細かい観行智慧は持てず、得られた結果はこじつけであり、現量ではない。

禅定はこれほど重要である。ある者は一心に定を修め、何も顧みず、悪を断ち善を修めることもせず、性障(しょうしょう:修行の障りとなる煩悩)を取り除く方法も考えず、積極的に福徳を積むこともない。福がなく性障が重いため、十年二十年修めても、禅定は依然として修め出せない。逆に性障煩悩が軽微な者、積極的に三宝を護持し見道の功徳を積む者は、禅定を修めれば直ちに思うままにでき、数ヶ月で身体の調子も順調に整い、定力は急速に増強し、他の者の二三十年分の修行よりも速い。これにより修行は心を修めることにあり、坐る時間の長短にないことが分かる。もし心を修めず、煩悩が重くわがままに振る舞い、業障が減るどころか増えれば、禅定はどうして修め出せようか?

十三、見地(けんじ)とは何か

見地の「地」とは、修証の段階、置かれている身分地位を指す。瑜伽師地論で弥勒菩薩は地を十七地に分け、凡夫地から仏地までである。それぞれの地で身分が異なり、地位は上昇する。福徳、智慧、禅定の違いによって区別される。その中で欲界には九地あり、福徳によって区分される。色界と無色界は禅定によって区分され、智慧の補助もある。凡夫、阿羅漢、辟支仏、菩薩、仏地は証量(証得の程度)によって区分され、証量には福徳、禅定、智慧が含まれる。

それゆえ見地という言葉は凡夫には使えない。知見が実証され、見解が実証され、無生忍や無生法忍を証得し、一定の解脱智慧があって初めて、身分は聖賢の地位・段階に上昇する。以前の知見見解は見地となるのである。

知見、考え、観点が実証されていないものは、ただ知見、知解、個人的な考えと呼ばれるに過ぎない。自らの観点見解が正しいことを実証しようと思えば、戒定慧を修習し、定の中で参究し、自ら証得し、自ら見得(けんとく)しなければならない。遠くから思惟し考えたり、主観的に臆断するのではない。主観的に臆断したものは疑いを断ち切れない。自ら見得し実証したものは疑いを断ち切れる。疑いを断ち切って初めて解脱智慧が生じ、身心世界が根本的に変化し、ここから思想の段階・身分地位が共に上昇する。

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