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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 26

第三節 法智・類智と現観智

原文:彼は既にこの如く、その自らの内に於いて諸蘊を現見し、諸々の諦理に依って倒れることなく尋思し、正しく観察し終えて、復た所余の不同分界に於いて現見せざる蘊を比度して観察す。謂わく、彼の所有する有為有漏は一切の処に遍く、一切の種に遍く、一切の時に於いて皆この如き法有り、皆この如き理に堕ち、皆この如き性有り。彼の所有する滅は皆永く寂静し、常住安楽なり。彼の所有する道は皆能く永く断じ、究竟出離す。

釈:瑜伽行者は既にこの如く自らの内身に現前に五蘊を観見し、四聖諦理に依って倒れることなく尋思し、正しく観察し終えて、復た他の不同なる分界に現前に観察し得ざる五蘊を比度して観察す。五蘊中の所有する有為法・有漏法は一切の処に遍く一切の種子に遍く、一切の時に於いて現前に観察された法と同じく、皆四聖諦理の中に摂属し、皆苦・空・無常・無我の性質なり。これらの法は皆生滅するもの、滅した後は皆永遠に寂静し、寂静した後は永遠に常住し安楽なり、世間の所有する道は皆能く永遠に断滅し、究竟に出離す。

原文:当に知るべし、此の中に、若し現見する諸蘊の諦智に於いて、若し所余の不同分界に於いて現見せざる境の比度諦智に於いて、即ち是れ能く生ずる法智・類智の種子の依処なり。

釈:これらの法の観察の中に、若し現前に存在する五蘊を能く如実に観察し、現量に四聖諦の真実理を証見すれば、法智を生じ、是れ法智種子の所依の処なり。若し現前に存在する法の外の所余の現前に存在せざる五蘊法に於いて比度観察し証見の智慧を生ぜしめば、即ち類智なり、是れ類智種子の所依処なり。

此処に法を証する二種の方式を説く。一は当前に存在する五蘊の如実なる観察、二は非当前に存在する五蘊の比度観察、二種の観察は共に諦智を得ることを能う。非当前に存在する五蘊とは何を指すか。是れ即ち当の今此の刻以前と以後の五蘊を指す。若し今日の五蘊が現前ならば、昨日以前の五蘊と明日以後の五蘊は即ち非当前の五蘊なり、当前の五蘊と分界有り、時間点は異なるも、五蘊の性質と特徴は同じく、同類にして共同性有り、比べ得るもの有り。

若し今年の五蘊が当前の五蘊ならば、去年以前の五蘊と明年以後の五蘊は即ち非当前の五蘊なり。若し今世の五蘊が現前の五蘊ならば、前世と後世の五蘊は即ち現前に見えざる五蘊なり。此れを推すに、三大阿僧祇劫の五蘊は皆当前の五蘊と同じ属性を有し、或いは無始劫以前より無始劫以後に至るまでの五蘊は皆共同の属性と性質・特徴を有し、皆同類にして皆比べ得るもの有り。

正しき比度は法智と類智を生じ、現前に存在する五蘊を正しく如実に観察する基礎の上に、復た非現前に存在する其の余の五蘊を比度観察すれば、法智と類智を生じ、見道の無生智を得る。分界とは過去と未来の不同なる時期の法と当前の法の境界と分割を指す。法と法に境界が生ずれば、法を観察する方式も異なり、得る智慧の種類も異なる。現見し得る法は現量観察、現見し得ざる法は比度観察、観察が正しく如実ならば、諦智と無生忍を得る。

原文:又即ち是の如く、了相作意は、当に知るべし、猶お聞思の間雑たり。若し観行者、諸諦の中に於いて是の如く数数正しく観察するが故に、十六行を以て四聖諦の証成道理に於いて已に決定を得、復た諸諦の尽所有性・如所有性に於いて聞思の間雑作意を超過し、一向に修行勝解を発起す。此れ即ち名づけて勝解作意と為す。是の如き作意は唯だ諦境を縁とし、一向に定中に在り。此れに於いて修習し多く修習するが故に、苦集二諦の境中に無辺際智を得。

釈:以上に説かれたこれらの了相作意は、猶お間雑せる聞思の智慧に属す。若し観行者が四聖諦中に於いて是の如く絶え間なく正しく観察すれば、十六行を以て四聖諦の証成道理に於いて已に心得が決定する。復た四聖諦の尽所有性と如所有性に於いて、間雑せる聞思作意を超過し、常に修行勝解を発起し、名づけて勝解作意と為す。是の如き作意は唯だ真実の境界を縁とし、常に定中に在り、勝解作意に修習し且つ勤めて修習するが故に、苦諦と集諦の二種の境界中に無辺際智を得る。

四聖諦に心得が決定する前の了相作意は、聞思が交じり、純粋に正観察ではなく、また無間断の観察でもない。若し無間断に正しく観察し得て、始めて四聖諦に心得が決定する。心得が決定した後、始めて勝解し、勝解した後、始めて証する。四聖諦の尽所有性とは、四聖諦の覆う範囲を指し、如所有性とは四聖諦理に符合する所有の性質を指す。若し観察が無間断の正観察ならば、間雑せる聞思の段階を超過し得、此の時に四聖諦に対する勝解を発起し得、勝解作意と名づく。若し常に禅定を保持し、禅定を失わず、心は唯だ四聖諦を縁とし、他を縁とせず、是の如き作意観察は無辺際智を得ることを能う。

原文:此の智に由るが故に、無常を了知し、無常無辺際の勝解を発起す。是の如く苦等を了知し、苦無辺際の勝解を発起し、空無我無辺際の勝解を発起し、悪行無辺際の勝解を発起し、悪趣に往く無辺際の勝解を発起し、興衰無辺際の勝解を発起し、及び老病死愁悲憂苦一切の擾悩無辺際の勝解を発起す。

釈:無辺際智有るが故に、諸行の無常を了知し、無常法に対する無辺際の勝解を発起す。是の如く苦・空・無常・無我等を了知し、苦無辺際勝解・空と無我無辺際勝解・悪行無辺際勝解・悪趣に往く無辺際勝解・興衰無辺際勝解・及び老病死憂悲苦悩一切の憂悩無辺際勝解を発起す。

原文:此の中に無辺際と曰うは、生死流転を謂う。是の如き諸法は辺無く際無し、乃至生死流転絶えず。常に是の如き所説の諸法有り。唯だ生死有るのみ、余の息滅無し。此れ息滅すべきもの、更に余の息滅方便無し。即ち是の如き諸有諸趣の死生の法に於いて、無願行・無所依行・深く厭逆する行を以て勝解を発起し、精勤に勝解作意を修習す。

釈:無辺際の意味は、生死流転の如き諸法は辺無く際無し、以て生死流転が断絶せざるを謂う。以上に説かれた諸法は雖も常に有るも、唯だ生死は息滅すべきもの、更に余の残るもの無し。此の息滅すべき法に、更に余の息滅方便法無し。是の如き三有六道の生死法に於いて、無願行・無所依行・深く厭逆する行を以て勝解を発起し、精勤に勝解作意を修習す。

原文:復た是の如き諸有諸生の増上意楽に於いて深く心に厭怖し、及び涅槃に随って一行を起すに深く心に願楽す。彼は長夜に其の心色声香味触等を愛楽し、諸々の色声香味触等の為に滋長積集す。此の因縁に由り、涅槃に於いて深く心に願楽すと雖も、而も復た彼に趣入する能わず、証浄する能わず、安住する能わず、勝解する能わず。其の心退転す。寂静界に於いて未だ深く心に希仰を生ぜざるが故に、疑慮有るが故に、其の心数数厭離驚怖す。一切の苦集二諦に於いて数数深く心に厭離驚怖すと雖も、及び涅槃に数数深く心に願楽を発起すと雖も、然れども猶お未だ深く心に趣入する能わず。

釈:復た以上に説かれたこれらの諸有諸生死法の増上意楽に於いて、深く心より厭と怖畏を生じ、涅槃に生ずる任意の一種の行に対し、皆深く心より楽願有り。行者は曾て生死の長夜に於いて、内心世間の色声香味触等の法を愛楽し、これらの色声香味触等の法の為に滋長し苦諦を積集す。

此の因縁に由り、今は涅槃を深く心に願楽すと雖も、涅槃に趣入する能わず、清浄法眼を証得する能わず、四聖諦中に安住する能わず、また四聖諦を勝解する能わず。其の心は寂静界より退転す、深く心より涅槃に対する希冀と景仰を生ずる能わざるが故に、心中に疑慮有るが故に、度々厭離と恐怖生死を生ず。是の如き人は一切の苦諦と集諦の修習中に於いて、数多く深く心に厭離と驚怖生死し、涅槃に対し数多く深く心の願楽を発起すと雖も、然れども猶お深く心に涅槃に趣入する能わず。

原文:何を以ての故に。彼に猶お能く現観を障ぐる粗品の我慢有り、随入作意が間無間に転じ、是の如く思惟を作すが故に。我は生死に曾て久しく流転せり。我は生死に当に復た流転せん。我は涅槃に当に能く趣入せん。我は涅槃の為に諸々の善法を修す。我は能く苦を観ず、真実に是れ苦なり。我は能く集を観ず、真実に是れ集なり。我は能く滅を観ず、真実に是れ滅なり。我は能く道を観ず、真実に是れ道なり。我は能く空を観ず、真実に是れ空なり。我は無願を観ず、真に是れ無願なり。我は無相を観ず、真に是れ無相なり。是の如き諸法は是れ我の所有なり。

釈:何故深く心に生死を厭怖し涅槃を願楽すと雖も、涅槃に趣入する能わず、甚だしきに至っては勝解と安住も涅槃の法に於いて為し得ざるか。行者に現量観行を障ぐる能う粗き我慢有り、観行の深入に随って有間断或いは無間断の作意を生じ、心中是の如く思惟す:我は曾て生死の中に久しく流転せり;我は生死の中に復た流転せん;我は将来涅槃に趣入せん;我は涅槃の為に諸々の善法を修習せり;我は苦諦を観察し真実に苦なることを能う;我は集諦を観察し真実に集起することを能う;我は滅諦を観察し真実に滅すべきことを能う;我は道諦を観察し真実に道なることを能う;我は空を観察し真実に空なることを能う;我は無願を観察し真に無願なることを能う;我は無相を観察し真に無相なることを能う;是の如き諸法は我の所有する所なり。

原文:此の因縁に由り、涅槃に於いて深く心に願楽すと雖も、然れども心は彼に趣入する能わず。彼は既に知るが如く、是の如き我慢は是れ障碍なりと已に、便能く速かに慧を以て通達し、棄捨して任運に随転する作意を制伏し、一切の外の所知境を趣入作意に、作意に随って行じ、専精無間に聖諦を観察す。随って生起する所の心謝滅する時に、無間に心を生じ、作意観察し、方便流注して断無く間無し。彼は既に是の如く、心を以て心に縁り、専精に替わり無く、便能く彼の随入作意をして現観を障碍する粗品の我慢を容れて生ずることを得ざらしむ。

釈:行者心中にこれらの観念有るが故に、彼は涅槃に深く心に愛楽すと雖も、然れども心は涅槃に趣入する能わず、粗重なる我慢に遮障作用有るが故なり。行者は以上のこれらの我慢が涅槃に趣入する障碍なりと了知した後、速かに智慧を以て通達し、以て我慢遮障を去り、便ち従前の任心随意に出生する我慢を捨て、後に作意を運転し、心の触る一切の外境を制伏し、観行作意に転入し、作意に随って転じ、一心に精勤無間断に四聖諦を観察す。随って生起する我慢心の滅するに、心は無間断に作意観察する上に生起し、心識は無間断に四聖諦観察中に流注す。行者は是の如く智慧心を以て無間作意に縁り、専心精進し他を顧みず、四聖諦作意中に浸染し、是の如く現量観行を障碍する粗重なる我慢は機会を生ぜず。

原文:是の如く勤修する瑜伽行者は心の相続の展転別異し、新新として生じ、或いは増し或いは減じ、暫時にして有り、率爾として現前し、前後変易するは是れ無常性なり。心の相続が取蘊に摂せらるるを観るは是れ苦性なり。心の相続が第二の法を離るるを観るは是れ空性なり。心の相続が衆縁より生じ、自在を得ざるを観るは是れ無我性なり。是の如く名づけて苦諦に悟入すと為す。

釈:是の如く精勤に修習する瑜伽の行者は、自心の相続絶えず流転変異し、心に新たに一種の法を生じ、次の刹那に又新たに他の法を生じ、絶えず改変し、其の心意は時に増し時に減じ、皆暫時にして有り、刹那に現前し、過ぎれば即ち変ず。是の如く前後変易する心は無常性なり。復た自心の相続絶えず、取る所著する所有り、取蘊に摂受せらるるを観る、是れ苦性なり。復た自心の相続絶えず、心は却って如何なる法にも属せず、其の心は空なるが故に、是れ空性なり。復た自心の相続絶えず、衆多の因縁和合より生じ、自在を得ざるを観察し、是れ無我性なり。是の如く名づけて苦諦に悟入す、無常・苦・空・無我、名づけて苦諦と為す。

原文:次に復た此の心相続を観察す。愛を以て因と為し、愛を以て集と為し、愛を以て起と為し、愛を以て縁と為す。是の如く名づけて集諦に悟入すと為す。次に復た此の心相続の所有する択滅は是れ永滅性、是れ永静性、是れ永妙性、是れ永離性なり。是の如く名づけて滅諦に悟入すと為す。次に復た此の心相続の究竟の対治、滅に趣くの道は是れ真道性、是れ真如性、是れ真行性、是れ真出性なり。是の如く名づけて道諦に悟入すと為す。

釈:再び此の心相続絶えず、愛を以て因と為し、愛を以て集と為し、愛を以て起と為し、愛を以て縁と為すを観察し、此の理を観察して名づけて集諦に悟入すと為す。再び此の心相続絶えず、所有の択び出だした生滅法は皆永遠に滅尽する性質を具え、永遠に寂静する性質、永遠に微妙なる性質、永遠に離れる性質を有するを観察し、是の如く名づけて滅諦に悟入すと為す。再び此の心相続絶えず、能く徹底的に一切の煩悩を対治す。寂滅に趣くの道は真に道性なり、真に如性なり、真に行性なり、真に出離性なりを観察し、是の如く名づけて道諦に悟入すと為す。

原文:是の如く先に来たりて未だ善く観察せざりしが、今善く作意し方便に観察し、微妙なる慧を以て四聖諦に能く正しく悟入す。即ち此の慧に親近し修習し、多く修習するが故に、能く縁と所縁と平等平等にして正智生ず。此の生ずるに由り、能く障碍を断ち、涅槃を愛楽する所有の粗品の現行我慢を。

釈:従前未だ善く四聖諦を観察せざりしが、今は善く作意し方便に観察し、微妙なる智慧を以て四聖諦理に能く正しく如実に悟入す。能く親近し修習し、多く此の種の微妙なる観察智慧を修習するが故に、能く縁ずる智と所縁の法と平等平等にして、正智始めて生ず。正智が生じたるに由り、涅槃を愛楽するを障碍する所有の粗重なる現行我慢を断除す。

原文:又た涅槃に深く心に願楽し、速やかに能く趣入し、心に退転無く、諸々の怖畏を離れ、増上意楽を摂受し適悦す。是の如き行者は諸々の聖諦の下忍の摂する所に於いて、能く縁と所縁と平等平等の智生ず。是れ名づけて暖と為す。中忍の摂する所に於いて、能く縁と所縁と平等平等の智生ず。是れ名づけて頂と為す。上忍の摂する所に於いて、能く縁と所縁と平等平等の智生ず。名づけて諦順忍と為す。

釈:又た涅槃に深く心に愛楽し、速やかに趣入し得、心退転せず、一切の怖畏を離れ、内心に増上意楽を生じ、適悦す。是の如く修行する行者は四聖諦の修習過程に於いて、下忍位の摂する所に属す。能く縁ずる心と所縁の法と平等、平等智生じ、名づけて暖位と為し、中忍位の摂する所に属す。能く縁ずる心と所縁の法と平等、平等智生じ、名づけて頂と為し、上忍の摂する所に属す。能く縁ずる心と所縁の法と平等、平等智生じ、名づけて諦順忍と為す。

此処に涅槃に対する安忍を上中下の三品に分つ。下品忍は四加行中の暖位に在り、中品忍は四加行中の頂位に在り、上忍は亦た諦順忍と名づけ、四加行中の忍位に在る。暖位に在る行者は、心は涅槃に向かい、涅槃法の修習に心退転無し、涅槃法に増上意楽を生じたるが故に、怖畏を離れ、功徳受用有ればなり。然るに後の一切の修習過程に於いて退転せず、乃ち我見を断ち初果を得たる後は、更に涅槃の道に退転せず。四加行位の功徳受用は、初果の功徳受用と差別大なり。初果と二果、乃ち二果と三果四果の功徳受用は、差別皆大なり。故に功徳受用を誤解せず、四加行の功徳受用を、初果二果の功徳受用と誤解し、未だ証せずして証せりと謂う大妄語を出現せしむること無かれ。

原文:彼は既に是の如く、能く障碍する粗品の我慢を断ち、及び涅槃に摂受増上の意楽適悦す。便能く後後の観心の所有する加行を捨離し、無加行無分別心に住す。彼の爾時に於いて、其の心は滅するに似て而も実滅に非ず、所縁無きに似て而も非縁に非ず。又た爾時に於いて、其の心寂静し、遠離に似て而も遠離に非ず。又た爾時に於いて、美しき睡眠の覆う所に非ず、唯だ分明にして高無く下無く、奢摩他行のみ有り。

釈:行者は修習此れに至り、観行を障碍する粗重なる我慢を断除し、涅槃に対し更に増上意楽と愉悦快樂を生じ出すことを能う。是の如くして後続の観心の所有する加行を捨離し、加行無き無分別心中に住す。此の時、行者の心は滅したる如くして実は未だ滅せず、何も攀縁せざる如くして実は未だ攀縁せず。行者は又た或る時に其の心寂静し、六塵境界を離れたる如くして実は未だ遠離せず。行者は此の時心に猶お睡眠の蓋障有り、睡眠は未だ軽くして香美無夢ならず、唯だ甚だ分明にして相無き心有り、法の高下を取らず、禅定中に住し、四念処四聖諦を観ぜず。

修習瑜伽の行者は、現観を障碍する粗重なる我慢を断除し、涅槃に増上意楽を生じたる後、努めて加行功夫を為す必要無し。此の時心は分別無き如く、滅したる如く、実は未だ滅せず。心は何も思わざる如く、実は想有り。心は塵境を離れたる如く、実は未だ離れず。且つ此の時睡眠蓋障は未だ消除せず、睡眠は猶お重く、清明を得ず。唯だ分明なる無相心有り、法の高下を取らず、禅定中に住し、四念処四聖諦を観ぜず。

原文:復た一類あり。闇昧愚痴にして美しき睡眠の覆う所に於いて、其の心は滅するに似て実滅に非ずの中に増上慢を起し、現観と謂う。此れ是の如くに非ず。既に是の如く現観に趣く心を得たり。久しからずして当に正性離生に入らん。即ち是の如き寂静心位の最後の一念の無分別心に於いて、此れより無間に前の観ずる所の諸聖諦理に内作意を起す。此れ即ち名づけて世第一法と為す。此れより已後に出世心生ず。世間心に非ず。此れは世間の諸行の最後の界畔の辺際なり。是の故に名づけて世第一法と為す。

釈:復た一類の人昏昧愚痴、香美なる睡眠に覆われ、其の心は滅したる如く、実は真に滅せざるに、便ち増上慢を生じ、此れ即ち現量観察なりと謂う。実は是れ非ず。此の人は既に是の如く現量観察に趣く心を得たれば、久しからずして正性離生に入るべし。是の如く其の心似滅非滅の寂静心位に於いて、最後の一念の無分別心有り、再び後は無間断に前辺の観ずる四聖諦理に、内在作意を生じ、此れを世第一法と名づく。此れより以後、出世間の心は生じ、再び世間心無し。是れ世間諸行中の最後の界限辺際なり。故に名づけて世第一法と為す。

此の一段の文は重要なり。証道の前の最後の段階の心理状態、及び証道の前の最後の修習方法を述べ、世第一法と証道との差別相を明らかにす。証道の前、四加行位の最後の世第一法位に在る。此の位に於いて、睡眠蓋障は軽微となり、以て睡眠は甚だ軽微、また清明なり。半睡半醒の間に在り、睡眠中に心は甚だ清明、昏昧ならず、身体は甚だ適悦す。故に修道の遮障は小なり。心は滅したる如く、分別無き如く、然れども猶お分別性有り、未だ滅せず。唯だ了別軽微にして似有似無なり。是に於いて愚痴蒙昧の人は増上慢を生じ、自ら無心なり、現観有りと覚るも、実際は非ず。

然れども現観に遠からず。若し引き続き精進すれば、久しからずして生死を離るる正位に証入せん。即ち是の如き寂静心位中に、猶お最後の一念の無分別心有り。此の一念の無分別心を以て、此れより以後は無間断に従前の観行する四聖諦理に、内在の作意を生じ、是れを名づけて世間第一法と為す。此れより以後、出世間の心は生じ、世間心は断滅す。是れ世間裡諸行最後の出世間との界限と辺畔なり。此れを以て世間第一と謂う。

原文:此れより無間に前の観ずる所の諸聖諦理に内作意を起す。作意無間に前の次第の観ずる諸諦に随う。若し是れ現見ならば、若し是れ非現見ならば、諸聖諦中に如き其の次第に、有無を分別して後、決定智現見智生ず。此の生ずるに由り、三界の繋ぐ所、見道の断ずる所、附属の所依の諸煩悩品の一切の粗重は皆悉く永く断ず。

釈:此れより無間断に従前の観行する四聖諦理に、内在作意を生じ、作意は間断無く、従前の次第の観行する四聖諦に随い、或いは現量に見る所、或いは非現量に見る所の四聖諦中に、其の次第に随い、有るか無きかを分別した後、決定智と現見智は生ず。決定智と現見智が生じたる後、三界の繋縛する所、見道の断除する所、心の依止に附属する所の、所有の煩悩品類中の一切の粗重なる部分は、皆悉く永遠に断除せらる。

此の段は見道の部分を説く。四加行の後、再び無間断に作意観察すれば、智慧は生じ、決定を為し、四聖諦苦集滅道の理を確認す。同時に現量に法智は生じ、我見を断ち初果を証す。見道初果を証する同時に、一切の粗重なる煩悩は皆悉く永遠に断除せられ、再び生ぜず。故に若し人に粗重なる煩悩が猶お存在し、煩悩は尚ほ重き如く見ゆれば、即ち未だ見道初果を証せざるを説明す。此れより見れば、一人の身口意行の表現は以て其の見道を証したるかを説明するに足る。外見に身口意行が比較的清浄なるは、必ずしも見道せしに非ず。然れども見道せる人の身口意行は必ず清浄なり。粗重なる煩悩無し。

原文:此の永断の故に、若し先に已に欲界の貪を離れたる者は、彼は今時に於いて既に是の如く諦現観に入りて已に不還果を得。彼は前説の離欲者の相と当に知るべし、異なること無し。然れども此の中に少しく差別有り。謂わく当に化生を受くべし。即ち彼の処に於いて当に般涅槃す。復た還り来たって此の世間に生ぜず。若し先に倍に欲界の貪を離れたる者は、彼は今時に於いて既に是の如く諦現観に入りて已に一来果を得。若し先に未だ欲界の貪を離れざる者は、彼は今時に於いて既に是の如く諦現観に入りて已に粗重永く息み、預流果を得。

釈:粗重なる煩悩が永遠に断除せらるるが故に、若し先に已に欲界の貪愛を離れたる人は、今の時に於いて、既に是の如く四聖諦現量観行に入りて已に後、三果不還果を得。此の人と前辺に説かれた離欲者の相貌は、知るべし差異無し。然れども二者の間は稍々差別有り。即ち後世に五不還天に化生を受ける三果人は、即ち当に受生する処に直ちに入涅槃し、再び此の世間に受生せず。

若し先に欲界の貪愛を離るるに近き人、既に部分の欲界の貪愛を断除したる人は、此の時に於いて、既に是の如く四聖諦現量観行を得て已に後、二果一来果を得。若し先に未だ欲界の貪愛を離れざる人は、今の時に於いて、既に四聖諦現量観行を得て已に後、粗重なる煩悩は永遠に息滅し、初果を得。

以上弥勒菩薩の述べに依れば、初果を証得するは未だ欲界の貪を離れざるも、粗重なる煩悩は永遠に断除息滅すべきなり。微細なる煩悩は猶お存在し、後の修行に俟って漸く断除息滅す。四果に至り一切の現行煩悩を断尽す。初果より四果に至るまで皆四聖諦を現量観行することを能うも、其の福德・煩悩・禅定・観行智慧等に差別有るが故に、得る智慧に差別有り、果位に差別有り。

三果人は欲界の貪愛煩悩を断除し、受生処或いは中陰身に直接に無余涅槃を取る能力有り。即ち煩悩を断除する心解脱の聖者なり。初果と二果は猶お不同なる欲界の貪有り、心は欲界を解脱せず。故に心解脱の聖者に非ず、賢人に属す。

原文:能く知る智と所知の境と和合して乖くこと無く、現前に観察するが故に名づけて現観と為す。刹帝利と刹帝利が和合して乖くこと無く現前に観察するが如く、名づけて現観と為す。婆羅門等も当に知るべし、亦た是の如し。此れ亦た成就する所の衆多の相状有り。謂わく是の如き諦現観を証するが故に四智を得。謂わく一切の若し行、若し住の諸作意中に善く推求するが故に、唯法智を得、非断智を得、非常智を得、縁生行の如幻事智を得。

釈:能く真諦法を知る智慧と、所知の四聖諦理と和合して、二者乖離無く、是の如き現前の観察を名づけて現観と為す。譬えば刹帝利と刹帝利が和合して乖くこと無く、相違逆せず、是の如く現前に観察するは即ち現観なり。現前に婆羅門を観察するも是の如し。現観は亦た衆多の種相状を成就し得。諦現観を証得すれば四智を得。一切の苦行に於いて、若し所有の作意の中に住して善く推求観行すれば、唯法智・非断智・非常智・縁生行の如幻事智を得ることを得。

能く知る智とは、法を見知り証する六七識を指し、如実なる観察智慧を具える。所知境とは六七識の観察する理法を指し、譬えば四聖諦理や般若の法等なり。智と境が和合して、違逆せず、是の如き現前の観察を名づけて現観と為す。若し真実の理法を観察せず、或いは観察する所が真実の理法に善からざれば、智と境は相い匹配せず、現前の観察に非ず、現観と名づけず。

和合して乖くこと無く、相い違逆せずは、主に六七識の智慧境界、或いは智慧の層次に在り。智慧は法を正しく観察し認知するに足れば、理法に相い乖離せず、且つ現前の観察なり。揣摩や推理想象分析に非ず。現前に存在する法、事実は何なりや即ち其の如く、現量に観察し現量に認知す。是れを現観と名づく。現観の時は、法を証得し、法智と類智を得。現観に非ざれば、法智と類智無く、果証無し。

如何にして法が現前観察か非現前観察かを区別するか。譬えば苦諦を観察し、五蘊は苦なりと感ず。現前に五蘊の苦を観察した後、内心の苦に対する認知は甚だ深刻、時時処処心心念念に五蘊の苦を感知し、且つ心心念念に苦を逃れ苦を滅さんと欲す。此の心態は無間作意を形成し、間断無し。無間作意とは、即ち意根より生ずる作意、意根が苦を感知したるなり。単に意識の表面に留まらず。是れ現前観察の結果なり。

非現前観察の苦は、未だ無間作意を形成せず。断続し、時有り時無し。時に苦を忘れ、猶お楽を追求し、出離心強からず、覚悟性高からず、行動力更に劣る。楽境現前の時は自らを失い、楽境に深く陥り苦を知らず。将来に対する希冀は猶お大なり、楽を得て保持せんと妄想す。是の如く一方に苦と覚え、一方に楽を追求し、心と行為相い背く状態は、即ち非現前に苦を観察するなり。非現観の人は辨别の智慧力足らざるが故に、往々にして自らの此の情況を現量観察なり、実証せりと誤解す。実は実証と尚ほ相当の距離有り。

非現前観察の人は普遍的に、煩悩除かず、無明断たず、言行一ならず、表裏一ならず。口に空を説き、行為に処々有に著き、一処も空ならず。口に無我を説き、時時処々我なり、隠蔽せんと欲すも隠蔽し得ず。実証せざるが故に、実証後の身心境界を知らず、自らの所思所為が皆実証境界と反するを知らず。故に根本に凡夫の特徴を隠蔽し得ず。

原文:若し行境界に於いて、失念の故に、猛利なる諸煩悩纏を起すと雖も、暫く作意する時に速やかに除遣す。又能く畢竟に悪趣に堕せず。終に故思して学ぶ所に違越せず。乃至傍生も亦た害命せず。終に退転せずして学ぶ所を棄捨せず。復た能く五無間業を造らず。苦楽は自らの作る所に非ず、他の作る所に非ず、自他作る所に非ず、自他に非ざる無因より生ずるに非ざるを定知す。

釈:現観四智有る行者は、初果を証する前に、若し境界の中に身を置き、暫時失念の故に、猛烈なる諸煩悩纏縛を生ずると雖も、暫く作意すれば速やかに纏縛を除遣し得、且つ能く畢竟に悪道に堕せず、永遠に故思して修学に背く法を思考せず。乃ち畜生の命をも害せず、永遠に退転せずして修学を棄捨せず。此れ行者が四加行の世第一法段階の功徳受用なり。初果を証得する前、猛力の諸煩悩纏縛を速やかに除遣する能力有り、悪道に堕せず、四聖諦解脱道に退転せず、棄捨せざることを能う。見道前の四加行其の功徳も大なり。見道後の功徳受用は更に大なり。解脱智慧は確かに殊勝なり。

原文:終に外道を請じて師とせず。亦た彼に於いて福田の想を起さず。他の沙門婆羅門等に終に観瞻せず。口及び顔面を。唯だ自ら法を見法を得、法を知り法を得、法の源底を証し、疑惑を越度し、他に由らず。大師の教に於いて他に引かるるに非ず。諸法の中に於いて無所畏を得。終に妄りに世の瑞吉祥を計りて清浄と為さず。終に更に第八の有生を受くず。具足に成就する所の四種の証浄。是の如き行者は乃至世第一法に至る已前、勝解作意と名づく。

釈:終に外道を師と為して帰依せず。外道に福田の想を生ぜず。他の沙門や婆羅門等に永遠に其の顔面を仰ぎ、其の顔色を見、其の説く所を重んじ、其の口より法を得ず。唯だ自ら独り法を見法を得る。独り法を見法を得、法の底源(根本)を証得し、所有の疑惑を解除す。外の因縁に由るに非ず。法の底源を証得するは、世尊善知識の教導の故に由る。世尊の外の他処より引かれたるに非ず。行者は諸法の中に於いて無所畏、終に虚妄に世間の種々の瑞象や吉祥を清浄なりと計着せず、永遠に再び第八回生を三界世間に受くず。具足に成就する所の四種の証得せる清浄智。是の如き行者は世第一法に修至る以前、皆勝解作意と名づく。

行者は四智現観を得た後、四加行を修習し、第四加行の世第一法以前の観行は皆法に対する勝解と領悟と名づくべきなり。意味は現量実証前の思考参究は、皆法に対する勝解と領悟と名づくべきなり。唯だ勝解の後、始めて現量観察を得、実証と名づく。実証は初果位以上に在り。勝解は則ち初果向或いは四加行の世第一法位中に在り。四加行の後始めて実証見道す。故に如実に自らの智慧を観察すべし。現量観察智か、勝解か、或いは臆測推理分析等か。自らの智慧層次を了解し、始めて次の修行を計画すべし。

現観四智有る行者は、従って他処より法を得知せず、他人の説く所を究竟の帰依処とせず。皆自己の現量観察を依りて実証す。法を見法を得る事は自力参究観行に依るのみ。他人は助け得ず。他人が指引し指教するは、自己の現量観行に代わる能わず。疑惑は自己観行を以て解決すべし。他人の説くは内心の疑惑を解除し得ず。自ら見証せざるが故なり。或る人は方法を尽くして修行成果を套取せんとす。仏法は誰れか修すれば誰れか得る。套取したるは自らのものと成り得ず。見道智慧を得る能わず。今瑜伽師地論有りて指引す。法理は益々明らかに成る。果を証し心を明らかにする事に就いて、誰か服せざるも如何とも為す能わず。然らずんば弥勒菩薩を尋ね説き説きせん。

原文:諸々の聖諦を現観したる已後に於いて、乃至永く見道の断ずる所の一切の煩悩を断ずるを名づけて遠離作意と為す。復た此れより後、進んで修の断ずる所の惑を断ぜんと欲し、得たる所の道の如く更に数数修習し、永く欲界の上品中品の諸煩悩を断じ已に一来果を得。預流果の所有する諸相の如く、今此の中に当に知るべし、亦た是の如し。然れども少しく差別有り。

釈:四聖諦を現観したる後、永遠に見道の断ずる所の一切の煩悩を断除するに至るを名づけて遠離作意と為す。是れ初果の境界、欲界の下品煩悩を断除す。復た此れより後、更に進んで修道に断ずべき所の煩悩惑を断除せんと欲し、証得したる初果の我見を断つ基礎の上に、更に努めて精勤修習し、永遠に欲界の上品と中品の煩悩を断除したる後、二果一来果を証得す。初果を得たるが如く所有する功徳の如く、二果人有る功徳も是の如し。然れども其中に稍々差別有り。

原文:謂わく若し行境界に於いて、能く随順する上品猛利の煩悩纏の処に、失念の故に暫く微劣の諸煩悩纏を起すも、尋ねて能く作意し速やかに除遣す。唯一度来たりて此の世間に生じ、便能く究竟に苦の辺際を作し、不還果及び不還相を得。前の如く已に説けり。

釈:二果人は境界に直面する時、能く随順する欲界の上品甚だ猛烈なる煩悩纏縛の処に、失念の故に、剛に生起する微細劣弱なる諸煩悩纏縛に、直ちに作意し、速やかに煩悩纏縛を除遣し得。後に此の世間に投生し、唯だ一度来ることを得、即ち究竟の苦の辺際に到達し得、三果不還果を証得し、及び欲界を還らざる功徳相を具え、前辺に已に説けり。

初果見道の断ずる所の煩悩は欲界の下品煩悩、欲界衆生の煩悩中最も粗重なる部分、人類と三悪道の衆生が有する煩悩なり。天界の衆生は粗重なる煩悩無く、中品と上品の煩悩有り。人類も中品と上品の煩悩有り。若し喜ばず随順せざれば、欲界衆生の煩悩を断除し得、二果を証得す。欲界の上中下三品の煩悩を断除し、欲界の貪を遠離し、初禅定を出生し、三果を証得す。

故に初果は証道、二果と三果は修道を始む。修道の断ずる所の煩悩は初果より微細にして断じ難し。一旦断除せば、智慧は増進す。初果より三果に至る修道は即ち煩悩を断除せんとす。禅定と煩悩の程度を以て、果位と智慧層次を劃定す。故に修習理論の最終と根本の目的は煩悩を断除し、身口意行を清浄にすることなり。若し此れを為さず、理論のみを重んずれば、修道と名づけず。 

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