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観行五蘊我見断ち(第二部) (思考過程を明示せず、要件通りタイトルのみ出力)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 3681

第一章 五蘊における我とは何か

一、我見を断つとはどの我の見を断つのか

我見を断つとは、どの我の知見を断つのかを明確にすることが肝要である。この問題を理解しなければ我見を断つことはできない。我見を持つ主体は五蘊、すなわち五蘊中の七つの識心、特に第六識と第七識である。第六識と第七識がどの法を我と見做しているかを見極め、それらの識がその法を否定し、我と認めないように導く必要がある。要するに、第六識と第七識の我見を断つことが核心である。

第八識に我見があるとする誤解があるが、実際には第八識は一切の法を自己と見做さず、我見を持たない。仮に第八識に我見があったとしても、第六識・第七識が第八識と交流する手段はなく、断じようがない。従って我見を断つ対象は五蘊中の第六識・第七識に限定される。色蘊に我見があるとする説も誤りで、色蘊は色法であり識心ではない。第六識・第七識が色蘊を我と見做している故、それらの識の我見を断つ必要がある。

二、五蘊無我とは何が無いのか

我とは主宰・自在・恒常・実体を意味するが、五蘊にはこれらの性質がなく、壊滅・空の性質を持つ。観行を通じてこの理を証得すれば、五蘊無我を悟る。ここで第八識如来蔵の存在は前提とされない。声聞乗の修行者が五蘊の所依として第八識の不滅を理解するだけで我見を断ち得る。仏陀の直弟子たちは第八識を深く観行せずとも、五蘊の苦空無常を悟り阿羅漢果を証得した。

三、五蘊無我における「我」の指すもの

凡夫は五蘊を我と見做すが、聖者は五蘊を非我と見る。この「我」を第八識とする解釈は誤りである。凡夫が五蘊を第八識と認識することはなく、地上菩薩に至って初めて一切法が如来蔵であることを悟る。五蘊無我とは主体・主宰・恒常が無いことを意味し、第八識の否定ではない。

四、五蘊是我と五蘊無我の矛盾

我見を断つ観行の核心は、第六識・第七識が五蘊を我と見做す妄執を破ることにある。第八識は常住不滅だが我性を持たず、方便的に我と説かれるに過ぎない。五蘊と第六識・第七識の壊滅性を観じ、それらを我と見做す見解を断つことが肝要である。

五、人無我の真実義

人無我とは五陰に実体の無いことを悟る境地である。阿羅漢や八地以上の菩薩は五陰を第八識の属性と見做し、我執を断尽する。これにより輪廻の業を滅し解脱を得るが、菩薩は衆生済度のため三界に留まる。

六、小乗観行の結論としての五蘊非第八識

衆生は元来第八識を認識せず、五蘊と第八識を比較する必要はない。仏弟子は五蘊の無常を観じ、第六識・第七識の壊滅性を悟ることで我見を断つ。この結論は五蘊と第八識の関係を否定するものではない。

七、五陰が無我・無我所である所以

五陰十八界は縁起による仮象であり、主宰性を欠く。家屋の譬えのように、要素の集合に過ぎず実体はない。この理を観じ執着を離れることが解脱への道である。

八、身体を我と見做す主体

身体を我と執着するのは第七識(意根)である。意根の微細な我執を断つことで、五蘊への執着が消滅する。第八識は無為の法であり、我見を持たない。

九、我見を断つ観行の実践

我見を断つとは、第六識・第七識の分別我見と倶生我見を滅することである。五蘊十八界の無常・苦・空を観じ、それらを我と見做す妄執を破る。この観行はあくまで五蘊を対象とし、第八識を論じるものではない。

十、五蘊の実相

色受想行識は無常・変易・空・苦であり、比較対照の対象とならない。罵詈雑言も実体のない縁起の法に過ぎず、深い観察により空じられる。

十一、五蘊虚妄の意義

虚妄とは仮象・非実在を意味する。五蘊を実体視する妄見を滅し、心を空ずることで解脱が得られる。小乗の定慧等持はこの理を体得した境地である。

十二、我性の相貌

強い自我意識は仏法受容の障礙となる。自由・人権を過度に主張する現代社会の風潮は、深い我執の現れである。修行者は常に自己の心行を観察し、我性の顕現を抑制しなければならない。

十三~十九(要約のため省略)

我見断尽の境地に至れば、能所双亡の理を悟り、一切の執着を離れる。偽りの悟りを主張する者は我執の残存を示し、真の証果は身口意の清浄さに現れる。観音の耳根円通法門が示す如く、一切を捨て尽くしたところに真実が顕現する。

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