観行五蘊我見断ち(第二部)
第一章 五蘊における我とは何か
一、我見を断つとはどの我の見解を断つのか
我見を断つとはどの我の知見を断つことなのか、この問題をはっきりさせて初めて我見を断つことができます。断つべき我の知見がどれかすら分からなければ、我見を断つことはできません。目標が明確でなければ、当然ながら目標を達成することはできません。我見を持つのはもちろん五蘊であり、五蘊中の七つの識心、主に第六識と第七識です。第六識と第七識がどの法を我と見做すか、その法を第六識と第七識に否定させ、その法を我と認めさせない、あるいはその法が私ではないと確認させること、これが我見を断つことです。要するに、第六識と第七識の我見を断ち除くことです。
第八識の我見を断ち除くのだと曖昧に考える人もいますが、実際には第八識には我見がありません。第八識はどの法をも第八識自身とは見做さず、第八識そのものを自分自身とも見做しません。したがって第八識には我見がありません。仮に第八識に我見があったとしても、どうやって第八識の我見を断ち除くのでしょうか。全く手のつけようがなく、第六識と第七識は第八識と意思疎通や交流ができません。どうやって第八識に我見を断たせることができるでしょうか。ですから我見を断つ主体は五蘊中の第六識と第七識であり、第六識と第七識に我見を断たせる方法を考え出して、初めて五蘊中の第六識と第七識の生死を解脱させることができるのです。また色蘊にも我見があると考え、色蘊の我見も断つべきだとする人もいます。しかし色蘊は色法であり、色法は識心ではなく、思想観念がなく、我という観念がありません。どうやって色蘊に我見を断たせることができるでしょうか。第六識と第七識が色蘊を我と見做すからこそ、第六識と第七識に色蘊を我とする我見を断ち除かせるのです。
二、五蘊無我とは何が無いのか
我とは主宰の義、自在の義、恒常不変の義、真実の義です。しかし五蘊にはそのような特徴や性質がありません。したがって五蘊は私ではなく、五蘊は制御できず、主宰がなく、自在ではなく、恒常不変ではなく、真実ではありません。五蘊は破壊の義であり、毀損の義であり、壊滅の義であり、空の義です。観行によってこれらの理を証得すれば、五蘊が無我であり非我であることを証得したことになります。
ここには第八識如来蔵は全く関係ありません。声聞乗の修行者は第八識が不生不滅であり、五蘊の所依であることを知るだけで完全に我見を断つことができます。外道たちが仏陀に出会い、仏陀の説法を数分聞いただけで四果の大阿羅漢を証得しました。第八識を理解する時間など全くなく、第八識が何を意味するかも知らず、ましてや五蘊と第八識の関係を観行する時間などありません。彼らが五蘊に第八識が無い、五蘊は第八識ではないと観行し思惟して、そのような結論を導き出すことは不可能でした。しかし彼らは確かに阿羅漢果を証得し、仏陀の前で仏陀に先立って涅槃に入りました。
仏陀は四念処経で弟子たちに観行して果を証得するよう教えましたが、経典全体を通して五蘊の所依が第八識であるとは一言も述べていません。弟子たちは観行の全過程で、第八識に全く触れず、第八識を観行せず、五蘊と第八識を結びつけて観行することもありませんでした。それでも多くの弟子が最終的に五蘊は苦・空・無常・無我であることを証得し、初果から四果までの法眼浄を得ました。したがって無我という結論は、五蘊に第八識が無いという意味は全く含まれておらず、五蘊無我とは第八識が無いことではなく、主体が無く主宰が無く恒常でないということです。
三、五蘊無我の我とは何を指すのか
五蘊は我である、五蘊は我ではない、この我とは何を指すのでしょうか。凡夫は五蘊を我と考え、聖賢は五蘊を我ではないと考えます。この我とは一体何を指すのでしょうか。
この我は第八識如来蔵を指すのだと言う人もいます。この説は正しいのでしょうか。もし正しいならば、凡夫は我があるので、五蘊は第八識如来蔵だと考えていることになります。凡夫にそのような認識、そのような思想観念があるでしょうか。確かにありません。もしそのような思想観念があれば、誰もが凡夫ではなく、直接三賢位を越えて聖位の地上菩薩となっているはずです。なぜなら地上菩薩だけが五蘊十八界のあらゆる面が全て如来蔵性であり、実質は全て如来蔵であることを観察する能力を持ち、一分あるいは多分の一真法界性を証得しているからです。もし法界全体が一真法界であることを証得できれば、それは仏です。
したがって凡夫が五蘊が即ち第八識如来蔵であるという智慧の認識を持つことはあり得ません。実際、凡夫衆生にはそのような思想観念や認識はなく、仏法を学ぶ凡夫衆生でさえ、大多数は第八識如来蔵の存在を知りません。知っている者でもその真実性・虚妄性を認めない者が多く、もちろん証得もしていないので、五蘊を第八識如来蔵とは見做しません。特に三悪道の衆生は、五蘊と第八識を結びつけることはさらに不可能ですが、三悪道の衆生は皆我見を持ち、自分の五陰身を我および我の所有物として守ろうとします。特に畜生は愚痴の極みで、頭の中には何の概念もなく、ただ五陰身が私だと知っているだけで、私という概念すらありません。しかし畜生たちが自我を守ろうとする妨げにはなりません。なぜなら意根は言語や文字や思惟なしに五陰身という我を知っているだけで、他には何も知らないからです。
このように凡夫衆生は四聖諦の法を学び、五蘊を観行して、五蘊が即ち第八識如来蔵であるという絶対真理を否定し、五蘊は第八識如来蔵ではないという誤った結論を導き出す必要は全くありません。この結論は地上菩薩の唯識の甚深なる大智慧を直接否定し、唯識の正理に背き、華厳経が説く一真法界の正理にも背きます。したがって果を証得して五蘊は第八識如来蔵ではないという結論に至ることは、果を証得しておらず、如実の観行も行っておらず、真実の修行過程もないことを意味します。如実の修行過程を経た人は、決してそのような結論を導き出しません。これは我見を断つ観行における邪路であり、我見を断つ正しい結果を得られず、法眼浄を得ることもできず、解脱することもできません。
果を証得した後、人は五蘊は苦であり、空であり、無常であり、恒常不変ではなく、真実ではなく、自在ではなく、主宰がないと認識します。それゆえにそのような五蘊を次第に放棄し、次第にそのような五蘊を執着しなくなり、煩悩が次第に消え失せ滅び、それによって解脱します。真に我見を断った後は、これらの陳述には何の意味もありません。自らの実感が最も真実で信頼できるものであり、言葉はなく、心の中でどういうことか分かっています。
四、五蘊は我である、五蘊無我の我は何を指すのか
我見を断つ観行は非常に重要であり、五蘊を我と認める我が何かをはっきりさせることは極めて重要です。五蘊中に我見を持つ我が何かすらはっきりしなければ、どうやって我見を断つことができるでしょうか。我見を持つのは意識と意根であり、第八識には絶対に我見がありません。したがって我見を断つとは、意識と意根の我見を断ち除き、意識と意根に五蘊は私でも私の所有物でもないと確認させることです。私ではない我とはもちろん意識と意根を指し、第八識を指すのではありません。
五蘊と第六識・第七識の我は毀壊性・壊敗性を持ち、生滅変異するものです。したがって五蘊と第六識・第七識は私ではなく、無我です。第八識は毀壊せず、壊敗せず、常住不滅であり、方便的に我と言いますが、我性がなく、第七識のような主宰する我性がありません。したがって第八識もまた無我です。では五蘊無我を観行するとは、五蘊と第六識・第七識の毀壊性・壊敗性・生滅変異性を観行し、確認した後で第六識・第七識が五蘊を我とする我見と我所見を断ち除くことです。もし無我の我を第八識と見做すならば、それは概念のすり替えであり、結果として我見を断つことができません。
意根は無始劫以来ずっと五蘊を真実の我と見做し、執着してきました。意識は意根に染まって、同様に五蘊を真実の私と私の所有物と見做します。なぜこの我が意識と意根を指し、第八識を指さないのでしょうか。無始劫以来、衆生は第八識という理体があることを知らず、五蘊を第八識として扱うことは不可能であり、心の中に五蘊が即ち第八識であるという我見がないからです。したがって我見を断つとは、五蘊が第八識ではないと観行することではありません。もし衆生が五蘊を第八識と見做すことができれば、五蘊を空と見なし、五蘊に執着せず、我見も我執もなく、六道輪廻もありません。これは諸仏菩薩が喜んで見るところです。
もしそうであるならば、諸仏も娑婆世界に法を伝え迷いを救う必要はありません。したがって五蘊無我を観行した結果は、五蘊が第八識ではない、第六識・第七識が第八識ではないと証得することではなく、五蘊全体が敗壊し、生滅変異し、我と呼ばれるものは存在しないと証得することです。そうすれば五蘊を再び執着することはなくなり、我執は次第に融解していきます。
五、人無我の真実義
人無我は小乗の聖賢人と大乗の聖賢人の見地です。彼らは程度や角度は異なりますが、五陰が非我であることを証得しています。五陰無我を完全に証得するのは四果阿羅漢と辟支仏、および八地以上の大菩薩です。人無我に対立するのは人有我であり、五陰身という人に我性がある、私であり私の所有物であると考えることです。これは凡夫衆生の不正知見であり、そのような邪見は六道生死輪廻の苦を招きます。
もし衆生が五陰身を五陰身と見做し、五陰身が実有であり私および私の所有物であると考えるならば、それは無明の生死邪見です。もし衆生が五陰身を五陰身と見做さず、第八識から生じたものであり第八識の功能作用であり、本質は第八識であると見做すならば、その衆生は五陰が私であるという我見を破り、五陰は非我であり、五陰には真実の属性がなく全て第八識の属性であると証得します。これは大乗菩薩の見地であり、そうすれば六道輪廻の生死業は次第に終わり、三界輪廻から解脱することができます。しかし菩薩たちは三界を出ることはありません。
我見を断った菩薩は人無我を証得し、人を人と見做さず、色陰を色陰と見做さず、受陰を受陰と見做さず、想陰を想陰と見做さず、行陰を行陰と見做さず、六根を六根と見做さず、六塵を六塵と見做さず、六識を六識と見做さず、全てを第八識の属性、第八識の功能作用と見做します。五陰十八界はまさに第八識そのものです。したがって五陰非我とは五陰が第八識ではないという意味ではありません。
したがって人無我の真実義は、人が第八識ではないという意味ではなく、人には人の属性がなく、人は人という私ではなく、人の属性は成立せず、人の功能性は真実でなく、人の功能性は無常・生滅・変異であり、また第八識によって賦与されたものであるということです。このように我見を断った後は、五陰身を私が存在すると認めず、五陰身が私の所有物であるとも考えず、心の中にいわゆる私はいなくなります。衆生は五陰を私と認めるからこそ我執があり、生死輪廻の苦があるのです。もし衆生が皆五陰を第八識と認めれば、無我を証得し、心の中に私がいなくなります。心の中に私がいなくなると、次第に私への執着が軽くなり、ついには我執が断尽し、執着がなければ生死もなく、輪廻の苦から離れるでしょう。
六、五蘊非第八識は小乗観行の結論ではない
衆生が無始劫以来、不生不滅の第八識が常住して五蘊身中にあることを知らなかった以上、衆生には五蘊が即ち第八識であるという我見はありません。五蘊を観行して我見を断つ際に、五蘊と第八識を対比させ、五蘊は無常であり第八識は常住である、五蘊は生滅であり第八識は不生滅であると言い、したがって五蘊は第八識ではないと推論し、それゆえに五蘊が第八識の私であるという我見を断ち除いたと推論する必要はありません。このような対比と推論は全く不要であり、前提がなければ後の結論もありません。
仮に前提があったとしても、衆生が皆五蘊を第八識と見做すことは、我見ではなく、むしろ我見がなく無我の認識です。大乗で参禅し破参して第八識を証得した時、参禅の菩薩は五蘊が第八識から生じ、第八識の一部であり、まさに第八識そのものであることを知ります。そして菩薩は初地に入って以後、次第に一切法が真如第八識であることを観察します。そうすれば五蘊はさらに第八識であり、全体が即ち真如第八識であり、一真法界中の法です。もし衆生が無始劫以来、五蘊を第八識の私と見做す我見を持っていたならば、衆生は無始劫以来ずっと地上菩薩であり、唯識の種智を持っているはずで、六道生死輪廻はあり得ません。
さらに、仏陀が阿含経を説く際、まず弟子たちに、五蘊身中には常住法があり、不生不滅であり、衆生の五蘊の所依であると告げました。弟子たちは仏陀のこの言葉を聞いて、仏陀の説を信受し、常住の第八識が不滅であることを知り、五蘊は生滅無常であり、五蘊は常住の第八識では全くないと理解しました。それゆえに定を修め、五蘊の無常・苦・空・無我を観行し思惟し、五蘊が毀壊可能であり、第六識・第七識が毀壊可能であり、私も私の所有物も存在しないことを確認する必要があったのです。したがって観行して我見を断つ結論は、五蘊が第八識の私ではないということではなく、五蘊は無常であり壊敗し苦である、ゆえに(意根である)私でもなく(意根の)私の所有物でもないということです。
七、五陰がなぜ私でも私の所有物でもないのか
五陰十八界は生々滅滅し、幻化の仮相であり、自ら主宰性を持たないからこそ私ではないのです。例えば、たくさんの木や土や水が一定の法則に従って混ざり合い、家屋を形成します。この家屋は生滅幻化の仮相であり、自主性がありません。崩壊すると言えば崩壊し、自主的な実有の法として執着されるべきものではなく、家屋として執取されるべきではありません。
同様に、五陰といういわゆる私も、七大種子を和合して構成されたものであり、生々滅滅して実体のない法であり、自主性がなく、自我主宰性がありません。私とも私の所有物とも見做すことはできません。したがって五陰は私でも私の所有物でもなく、私も私の所有物もありません。貪り執着し、執取する必要はなく、様々な部品で組み立てられた法を頼りにできる私と見做してはいけません。では和合して構成された法に頼らず依存しなくなると、どうなるでしょうか。五陰十八界を執取しなくなります。そうなると、まだ何があるでしょうか。もし心の中にこの考え、まだ何があるかという思いがあるならば、我見は断尽しておらず、まだ執取があり、求めがあるので、まだ生死があり、苦があります。
もし我見を断つ際の私がはっきりしなければ、真に我見を断つことはできません。もし五陰は第八識ではなく、第八識でもなく、第八識と異なるものでもないという結論を導き出せば、それは我見を断っておらず、五陰十八界を如実如理に観行しておらず、心の中に五陰十八界という私が存在し、五陰十八界の私を廃除していないことになります。ただ意識が五陰十八界は第八識ではないと考えているだけです。空、この意味は非常に重要です。観行の最後には、五陰十八界が空であることが分かります。空とは何でしょうか。根源を究めれば、空とは無我なのです。もし空でないものがあれば、そこに私がいます。空の法を(意根である)私と見做す者などいるでしょうか。五陰の空を観行していない者以外にはいません。
八、身体を私とする私とは誰を指すのか
身体は私でもなく、私の所有物でもありません。私はこの身体に寄居しており、一旦身体が消滅すれば、再び別の身体を探して寄居しなければなりません。ここでの私とは誰を指すのでしょうか。身体を私および私の所有物と見做す者が誰か、その私が誰を指すかです。まず如来蔵は決して身体を私や私の所有物とは見做しません。如来蔵は身体を利用して何かをしたりしなかったりしようとは思わず、世間法の運行においては無心です。したがってこの私とは如来蔵を指すのではありません。
無始劫以来、身体を私と見做してきたのは第七識の意根です。無始劫以来ずっと絶え間なく身体を私として執取してきたのは第七識の意根です。したがってこの私とは主に七識を指します。五蘊中の五識心は非常に粗く、ほとんど私という観念や見解がありません。意識には私という思想観念がありますが、生まれ変わる際に身体を探して寄居する時、意識は力を発揮できず、意識は身体に寄居していますが連続的ではなく、身体に対しても主宰できず、主要な責任を負えません。したがってこの私とは主に意根を指します。住持し利用することは、意根が最も注目し執着することです。生まれ変わり色身を持つことは、意根が最も気にかけ執着することです。五蘊の功能作用は、意根が最も把捉したいことです。したがって意根の我見は根深く、最も執拗です。一旦意根が色身五蘊を私や私の所有物ではないと認めれば、色身五蘊への執拗は次第に断尽し、次第に五蘊世間の一切の苦受から解脱するでしょう。
漢語の語彙が豊富でないため、仏法と世俗の用語を分離できず、多くの法義を正確に表現できず、誤解が多く生じています。例えば「真」という言葉は、世俗法と仏法の両方で一つの言葉が使われます。世俗法での真が何を意味するか、仏法での真が何を意味するか、一般の人は全く区別できず、往々にして混同してしまいます。特に大乗如来蔵法を学んだ人は、真と言えば如来蔵のような真心や真実性と思い込んでしまいます。世俗法でも人々の間で真心という言葉や真実という言葉を使いますが、如来蔵とは全く関係ありません。例えば甲が乙に尋ねます。「あなたは本当にそうしたいのですか?本当にそう望みますか?あなたの真実の考えは何ですか?このことは真実ですか?このものは本物ですか?」どの言葉も如来蔵とは関係ありません。しかし如来蔵法を学んだこの人々は、何でもかんでも如来蔵に結びつけます。如来蔵には頭もないのに、どうやって結びつけることができるでしょうか。
世俗法に私があり、仏法にも私があります。二つの私の意味は非常に異なります。しかし如来蔵を学ぶと混乱し、どちらの私か分からなくなります。私という字に出会うたびに如来蔵を指すと思い込みます。まさか我見を断つことは如来蔵見を断つことでしょうか?五蘊は私であるとは、五蘊は如来蔵であるということでしょうか?五蘊非我とは必ず五蘊は如来蔵ではないと言うことでしょうか?
九、我見を断つ観行の内容と結果
我見を断つ際の私とは、意根の俱生我見と意識の分別我見を指し、如来蔵の我見を断つことではありません。如来蔵には我見がなく、断つ必要がありません。ただ意識と意根に五蘊十八界のこの部分の法は苦・空・無常であると観行させ、それによって意根と意識に五蘊十八界は私でも私の所有物でもないと確認させることです。如来蔵に五蘊十八界は私でも私の所有物でもないと確認させることではありません。無我とは如来蔵の私の存在を否定することではなく、五蘊十八界の真実の存在を否定することです。
まさに五蘊十八界が世俗界において真実に存在する不変の法ではないからこそ、意識と意根に五蘊十八界は無我であると確認させ、五蘊十八界を私や私の所有物と再び認めさせないようにするのです。観行の結果は、意識と意根に如来蔵は無我である、あるいは如来蔵の私が存在すると確認させることではなく、また如来蔵に自らが無我であると確認させることでもありません。観行の前には如来蔵の私の存在を認めることができますが、観行の結果は如来蔵に落ち着けてはいけません。なぜなら観行するのは五蘊十八界であって如来蔵ではないからです。観行の内容を錯乱させてはいけません。さもなければ結果も錯乱し、如実に我見を断つことができなくなります。
十、色受想行識の真実相とは何か?
色受想行識の真実相は、無常・変易・不安穏・空・苦であり、非我、不異我、不相在です。無我である以上、どうして私は優れている、私は劣っている、私は他人に劣らないなどと言えるでしょうか。私でない、私のない二つの法・複数の法、空の二つの法・複数の法、苦の二つの法・複数の法、真実でない二つの法・複数の法を、どうやって比較できるでしょうか。どうやってどちらが高くどちらが低いと言えるでしょうか。あるいは平等だと言えるでしょうか。空の法、実体のない法を、どうやって比較に用いることができるでしょうか。どうやってウサギの角の長短を比較するでしょうか。どうやってカメの毛の美しさを比較するでしょうか。どうやって私はあなたより強い、あなたは私より弱いと言えるでしょうか。どうやって私はあなたと同じくらい健康で裕福だと言えるでしょうか。世の人は無明に顛倒し、すでに習慣が自然となり、言うことが全く実義を持たないこと、全てが笑い話であることを知りません。言語や音声さえも、はかないものです。
二人が罵り合う時、実質的に誰を罵っているのでしょうか。色陰を罵っているのか、受陰を罵っているのか、想陰を罵っているのか、行陰を罵っているのか、識陰を罵っているのでしょうか。罵る音声は、どこに落ちたのでしょうか。罵られた者が不快に感じるのは、どんな不快感でしょうか。どの法が不快に感じるのでしょうか。不快とは何を指すのでしょうか。快い・不快いという法が存在するのでしょうか。罵る者が快く気が済むと感じるのは、どんな気分でしょうか。気が済むという法があるのでしょうか。
甚深な禅定の中でこれらの法を思惟観行し、一定の時が来れば、内心はこれらの法を空じ、身心は脱落します。これも一種の感覚であり、真実ではありませんが、解脱ではあります。禅定がなければ、たとえこれらの法を理解しても、何冊本を書いても、やはり空談であり、実質的な益はありません。
十一、五蘊虚妄の意味
虚妄とは何でしょうか。虚妄とは偽りで真実でないという意味であり、空の意味でもあり、その事や理がないという意味です。例えば皆が「某某が国王になった」と噂しますが、実際にはその事はなく、某某は国王になっていません。これは虚偽の噂であり、某某が国王になったということは虚偽であり、虚妄であり、空であり、真実ではありません。衆生はこれが真実の出来事ではないと知れば、噂することもなく、気に留めなくなり、心が晴れて、心が空になります。
同様に、衆生は無始劫以来ずっと五蘊を真実の実有と見做し、私と見做し、私の所有物と見做してきました。観行を通じて最終的に五蘊は真実でなく、虚妄であり、空であり、無我であり、私の所有物でもないと確認すれば、五蘊を自分自身とは見做さなくなり、心が空になり、晴れやかになり、解脱し、次第に手放し、執着せず、五蘊という仮我・空我のために業行を造ることもなくなり、苦は消滅します。
しかし仮我・虚妄の私は、世俗相においては存在しますが、その実体がなく、本質は空です。法眼浄を証得した人は今後もこの虚妄の五蘊を用いて修行と生活をしますが、内心の思想観念は変わり、煩悩が軽微になりついには断尽し、六道輪廻の業種が消滅し、生死の苦を出離する能力を得ます。これが小乗の定慧等持三昧の功徳です。
十二、我性の相貌
世界のどの地域の衆生が最も我見が強く、我執が強いでしょうか。自我を強調する衆生ほど我見が強く我執が大きいのです。仏法はインドに起源を持ち、後に中国(震旦)に伝わりました。西天インドの仏法は次第に衰退しましたが、中国震旦の仏法はますます興隆しました。達磨大師は西天で震旦に大乗の気象があるのを見て、生命の危険を冒して西天インドから中国に飛来し、法を伝え迷いを救いました。大乗仏法は広く伝わり、大乗の人才が次々と現れました。禅宗六祖が出現し、西天二十八祖が住世したことで、大乗仏法は泰山のように安定しました。
仏法はなぜ西洋などの国々に伝わらず、わざわざ中国震旦に伝わったのでしょうか。国家・地域の文化的背景、人文的素養の違いに起因します。中国には儒家・道家などの文化的背景があり、中庸の道は人間性の根本を顕しています。人間性を備えてこそ菩薩性や仏性を持つことができ、人間性を備えていなければ菩薩性はさらに備わりません。現在の世界的な肺炎の流行を見ると、これほど深刻な感染症であるにもかかわらず、あの国々の民衆はまだ自由を求め、人権を求め、自分が暢快であることだけを考え、他人の生命の安全を全く顧みません。これが利己的な我見・我執です。あの人々が求める自由は何を代表しているのでしょうか。彼らが主張する人権は何を代表しているのでしょうか。全てが私であり、我見であり、我執です。
たとえそのような自由が他人の利益を損なわないとしても、その自由は完全に我性を代表し、私を強調しています。いわゆる人権も、全て自我の権利を顕示し、自我を強調することであり、全て我性です。独立を求め、自主を求め、平等を求め、自由を求め、権利を求め、地位を求める。これらの要求は全て深く根付いた一つの私から始まり、自我の存在感を強調し、自我の解放を追求し、あの私を抑圧しないことを求めます。このような深い我性は大乗仏法を招き寄せることはなく、衆生が救われる因縁は成熟していません。
同様に、一人の個人でも、我性が強く、貪・瞋・嫉妬が強く、自我主張が強いならば、救われる因縁は成熟していません。たとえ仏法に出会っても、この世で我見を断ち、救われることはありません。仏法を学ぶ人は常に警戒心を持ち、常に自らの心の行い・心の性質に注意を払い、自我意識が頭をもたげるのを見つけたら、すぐに仏法の理論で思惟し自らを導き、自らを導き、自我が氾濫しないようにし、最終的に災いとなり手に負えなくなることを防がなければなりません。我性の表現形式、我性の様相、我性の特徴、我性が現れやすい環境を細かく理解し、適時にあの私を捉え、観照し、理に適わせ、説得し、教育し、諭し、降伏させ、ついには断ち除くのです。そうすればあなたは天を突き地を踏む好漢となり、世間の頂点に立ち、人の中の雄となります。これこそ快いことではありませんか!
十三、自我を発見できて初めて我見を断てる
我見を断ちたいなら、まずいわゆる私が何を指すのかを知り、自らが持つ全ての功能属性と照合し、あらゆる身心活動に現れる私がどれか、その都度その瞬間の身心活動に現れる私がどれか、あらゆる法における身心活動に現れる私がどれかを特定できなければなりません。これほど多くの私を特定できることは、非常に困難であり、その智慧と観察力は大変優れています。いつでもどこでも賊人を捕まえられることは、自分が今後二度と盗まれず、家宝を失わないことを予示しており、誠に喜ばしく祝うべきことです。賊人が罰せられたかどうかは別として、捕まえられれば成功の半分あるいは大半と言えます。
十四、なぜ異分子を排除することが凡人の凡夫性の特徴なのか?
異分子を排除する行為のある人は、煩悩を具足した凡夫です。なぜならそのような人は心の中に私があり、他人があり、四相があり、事理があり、心が全く空でなく、全てが我性だからです。そのような人は修行に向いていません。さらに不合理な手段を取ったり、手段を選ばず、常に他人を踏みつけようとするならば、その人は煩悩の結びつきが重く、普通の凡夫ではなく、我見を断って果を証得することはできません。
異分子を排除することは身口意の行為に属し、不適切な身口意行です。我見を断った人はもうこのようなことはしません。なぜなら初歩的に無我であり、心が無我と相応し、もはや粗重な悪業行を造作しないからです。したがってある人が果を証得したかどうか、道があるかどうかを判断するには、やはり七識の身口意行から判断し、具体的であればあるほど良いのです。これ以外に他の判断基準はありません。第八識の心行から七識の果証や修養を判断することはできず、口先だけから判断することもできません。行為が最もその人の証量と修養を体現します。口先で偽るのは最も簡単で、虚言・偽言で人の目を欺くことは数え切れません。時には身の行いでも偽ることができますが、非常に限られており、継続して偽り続けることはできません。
凡夫性はまた欲望にも現れます。仏法を学ぶ人の中には、学べば学ぶほど欲望が大きくなり、できるだけ早く果を証得し明心したいと願い、どんな手段でも構わず、どんな果でも欲しがり、偽の果でも構わず、証果明心の名声さえあれば良いと考える人もいます。名声を得た後、直接人上人となり、全ての利益を得ようとします。欲望は非常に大きいのです。どんな手段で果を得ても構わず、あらゆる方法で果を得ようとします。これは非常に奇妙な考えです。この考えこそが最も強大で堅固な一つの私であり、どうして我見を断って果を証得する希望が持てるでしょうか。仏法を世俗の名利を得る道具と見做し、利欲に心を曇らせ、利に蒙蔽されて、暗闇と輪廻から抜け出すのは困難です。要するに、衆生の凡夫性は語り尽くせず、手を打って嘆息せざるを得ません。このような覚醒のなさは、輪廻も当然のことであり、哀れむべき人には必ず憎むべきところがあります。
十五、ある人に私があるかないかをどう判断するか
ある人に私があるかないかを判断するには、人と話す言葉に「私」という字があるかどうかで簡単に判断してはいけません。なぜなら仏も人と話したり法を説く際に「私」という字を使うからです。「私」という字は避けられず、そうでなければ思想の主体がなく、自らの思想観念を明確に表現できません。仏も「私は如何如何」と言いますが、仏の心には私がありません。ある人は言葉に「私」という字を含みませんが、言葉の行間には私が満ちており、私の匂いが非常に強いのです。彼の文章や言葉の中のその「私」という字が、客観的な名詞概念なのか、それとも非常に実在的で真実の私を含んでいて、心の中に私があるために何らかの執着や思いがあり、非常に擁護し、あるいは誇りや自負や劣等感などの主観的感情で満ちているのかを観察分析しなければなりません。
義に依って語に依らず、各人の言葉の真実の意味、真実の指向を味わって初めて、その人の心の中に私があるかないか、私の匂いが軽いか重いかを判断できます。ある人が我見を断ったかどうかを判断するには、彼の言葉の表面的な意味から判断してはいけません。彼が指し示すものは真実ではないかもしれません。言葉の調子や言葉の味を仔細に弁別し、彼の行動が言うことと一致しているか、それとも無理に合わせているかを見なければなりません。これは偽装できますが、偽装は長く続かず、必ず正体が現れる時が来ます。
十六、我見・我執の種々の表現
もしある人が一心に自分らしくあろうとし、必ず人と異なり、独特の行動をし、一切の人や事の支配や手配に従わず、どんな人や事にも従順することを望まないならば、その人は我見を断ち無我の人でしょうか、それとも我執が特に強い人でしょうか。心の中に私がある人は、自我の感覚・感情に重きを置き、自分の特権や属性を気にし、自分の独自性を気にかけ、自分を大衆の中に融合させたり、自我を隠したり消滅させたりすることを望まず、心の中に堅固に私を執着し、放棄しようとしません。どんな人の要求にも従順することを望まず、管理されたり手配されたりすることを望まず、指導者に従わず、しかも自律できない人、それが我見が非常に重い人です。たとえ自律できても、やはり我見が重い人です。
我執を断尽した大阿羅漢の大目犍連は、果を証得した後、内心に全く自我の存在感がなく、完全に衆生の心に随順します。衆生が彼にどうしてほしいか望めばその通りにし、望まなければそうしません。たとえ衆生の要求が全て横暴で理不尽であっても、彼は何の怨みも言わずに従い、決して逆らいません。我見を断った後は無我の人であり、内心に自我がなく、人・衆生・寿者相もありません。では一心に自分らしくあろうとする人は、これと正反対ではないでしょうか。絶対に正反対です。私がないのに、どうして私らしくあろうとするのでしょうか。これは我見と我執を増やしているのであり、したがって我見・我執による生死流転は尽きず、わがままな人は必ず苦しみを味わいます。
非常に自我の存在感を強調する人、衆生のいかなる意志にも従いたくない人は、強い自我主義者です。全く服従せず、譲歩しない人は、我性が非常に強いです。全てが自分に及ばないと見て、しかも人に対して言葉が鋭い人は、皆私を非常に強く執着している人であり、我執が重い人は我見を断つのは難しいです。もしある人が常に「私が正しくあなたが間違っている」とし、是非をはっきりさせ、譲歩や随順を知らず、厚道でなく寛大でない態度を示すならば、それは我見・我執が非常に深刻な人であり、菩薩のような衆生に随順する心性がありません。
もしある人が生きる上でただ自分の感覚だけを気にかけ、自分の感覚を重視し、内心の快適さを追求し、狂放的で拘束されず、周囲の人や事がどうであれ、世界がどうであれ、いかなる制約も受けないならば、その人は我見・我執が非常に重く、しかも極めて重い人であり、この世で我見を断つのは非常に困難です。
各人は常に振り返って自らを反省し、内心で常に自省・自察しなければなりません。自省・自察するためには、自らの内心世界により注意を払う必要があります。あらゆる心の念いを反観し点検し、道に相応しない心の念いを発見したら、すぐにそれを捻じ曲げ消し去り、氾濫させてはいけません。これが修行です。真の菩薩は、俗に従わず、また俗に背きもせず、その中間の加減をどう図るかは、菩薩の修養と智慧・善巧によるのです。一般的な菩薩はそのような善巧方便の処世の智慧を持っておらず、処世にはいくらかの障害があります。
十七、我見断尽の境界
もし如来蔵を真実の私と見做すならば、我見は断尽しておらず、これも一種の我見です。なぜなら法界には七識の私など全く存在せず、私がない以上、どうして如来蔵が真我だと言えるでしょうか。根本である七識の自性がなければ、いかなる我性もありません。もし「如来蔵は真我である」という知見を確立すれば、同時に七識の私が確立されます。七識の私があるからこそ、如来蔵を真実の私と見做すのであり、七識がなければいかなる法も私とは見做しません。したがって法を見ることは妄見であり、妄見がなくなった時、必ず仏となります。禅宗の第三関を修める際、心の中にまだ如来蔵の私を執着しているならば、禅宗第三関を通過できず、有余涅槃を証得できず、生死から離れることはできません。
観世音菩薩の耳根円通法門は、修めの最後に、捨てられるものは全て捨て、空にできるものは全て空にし、捨てることさえ捨て、空にすることさえ空にします。能捨・所捨、能空・所空、および空空、全てを空にし、もはや空にすべきものは何もなく、ただポツンと如来蔵が残ります。捨てられず、捨てることもできず、空にできず、空にすることもできず、捨てる人もなく、空にする人もいなくなります。そうなれば家に着いたことになり、三十二応身を成就し、大慈大悲観世音菩薩と呼ばれます。
十八、果位や証果への執着も我見の表現である
今、外を見ると悟りを開き果を証得した人が何百何千といて、聖人で通りが満ち溢れそうですが、それほど多くの聖人でも心性や煩悩の面では、悟った後と悟る前では全く違いがなく、どんな思想境界や三昧境界もなく、身口意では相変わらずで、むしろ以前よりも染まっており、慢心は以前よりも重いのです。どうしてあの人々が真に果を証得し明心したかどうかを証明できるでしょうか。全く証明できません。三十七道品は修めておらず、戒定慧は全く具足せず、多くの人はただ意識の理解のレベルにあり、知識レベルの悟りと掌握に過ぎません。さらに多くの人は理論的知識さえ持たず不完全で、意識の境界にすら相応できず到達できず、ましてや意根は言うまでもありません。
したがって今、世間では大妄語をする者が実に多すぎます。なぜ大妄語をするのでしょうか。我見が重く、私を是とする人だから大妄語をするのです。我見が軽い人は非常に慎重で、非常に注意深く、非常に実事求是であり、至る所で自分の修行状態が果に証することなのかどうかを確かめ、自分を盲目的に高く評価したり、私は如何如何だと言ったりしません。我見が重い人が自分は果を証得したと思い込んでいるとき、あなたがそれは証得ではないと告げると、彼はすぐに逆上します。なぜ逆上するのでしょうか。なぜなら彼は証果という事柄に非常に執着し、自分は聖人だという事柄に非常に執着し、自分が人と違うことに非常に執着し、果位や身分に非常に執着し、自分の果位や身分を非常に気にかけているからです。
このような執着は、彼の心の中にあの私が存在し、以前と変わらないか、以前よりも重いことを表しています。もしあなたが彼に「意識が証得した果は真の証得ではない。情思意解や推測は証得とは言えない。必ず意根が証得しなければならない」と言えば、彼は自分の果位と名誉を守るために、あらゆる反対、駁斥、攻撃をし、全く思考せず反省せず、全く事実を顧みず、ましてや反省することはありません。なぜなら彼の心の中に一つの私、あの証得した私、普通でない私、人と違う私、高みにある私があり、そのような私を実有と見做すからです。非常に擁護し、また果を自分が実有するものと見做し、非常に擁護します。これはその人が我見が全て存在し、全く果を証得していないことを示しています。真に我見を断ち、智慧が次第に増長すれば、あらゆる心の行いをする人の心の中に私があるかないか、我見を断った人かどうか、どの程度の我見があるか、非常に深刻かどうかを判断する能力があります。
十九、能所双亡とは何か
能所双亡とは、能は七識心を指し、所は七識心が認知する法を指し、亡は滅の意味です。七識心がもはや七識を真実の主宰性を持つ私と見做さず、七識心が認知する法を七識が所有するものとも認めず、能所の虚妄不実性を認めること、これが能所双亡です。
心空を証得するとは、身体が空になったり六塵境界がなくなったりすることではなく、身体が空であること、五蘊が空であること、六塵境界が空であることを正しく認知し、心の観念が変わり、もはや五蘊色身を真実の私、我性を持つものとは考えないことです。身体が空になってなくなるのは禅定の境界であり、六塵境界がなくなるのは禅定の境界です。禅定の境界は生滅変異するものであり、禅定が消えた後、身体と境界は再び現れます。