観行五蘊我見断ち(第二部)
第七章 阿毘達磨倶舎論第二十三巻(証果に於いて断ずべき煩悩)
第一節 初果に於いて断ずべき煩悩
一、原文:修惑を断ずるに具(そな)わる断に殊(こと)あるが故に、三向を立てる。即ち彼の二聖(信行人・法行人)は、若し先時に於いて、未だ世道を以て修断の惑を断ぜざれば、具縛(ぐばく)と名づく。
釈:修行解脱道の者は、修行過程に於いて断ずべき煩悩惑の差別が甚だ大きい故に、煩悩惑業を断ずる者を三つの果向(初果向・二果向・三果四果向)と名づける。頓根の信行人と利根の法行人という二種の聖道修行者は、もし先に世間道の善法に於いて、修道に断ずべき煩悩惑を断じていないならば、この者は一切の煩悩を具足した凡夫である。
この意味は、修道は凡夫より修行を始めることを示し、凡夫もまた相応の煩悩惑を断ずる必要がある。凡夫衆生は皆、種々の修道過程を経なければならず、最初は必ず世間法を修行する。世間法に於いて悪を断ち善を修め、修行の内容たる四正勤が修められなければ、煩悩惑を断ずることはできず、即ち煩悩結縛を具足した凡夫である。凡夫は見道前に主に三十七道品を修行し、三十七道品は七覚分と八正道を含む。七覚分の中の定覚分が具足すれば、欲界の中下品の煩悩を降伏・断除する。
八正道の中にも正定があり、正定が具足すれば、欲界の下品煩悩も降伏・断除される。三十七道品を具足して修行すれば、戒定慧は円満し、見道の条件が具足して、因縁に遇って初果を証得し法眼浄を得る。もしこれらの修道条件が具足せず、因縁も具足しなければ、見道は不可能である。多くの者がこの修行段階を飛び越えて見道・初果証得を説くのは、誤った見道、大妄語に過ぎない。
倶舎論原文:或いは先に已に欲界の一品乃至五品を断ぜり。此の位に至るに、名けて初果向と為す。初果に趣(おもむ)くが故なり。初果と謂うは、即ち預流果なり。此れ一切の沙門果の中に於いて、必ず初めて得るが故なり。
釈:解脱道を修行する者の中には、先に欲界の第一品から第五品の煩悩惑を断除した者がおり、この時点でこの者は初果向であると言える。初果に趣向するが故に初果向と呼ばれ、間もなく初果法眼浄を証得する。初果は預流果とも呼ばれ、一切の出家沙門の果位の中で必ず最初に証得される果位である。
初果向は欲界五品の煩悩惑を断除して初めて初果を証得する。即ち凡夫位の初果向において欲界五品の煩悩惑を断ずる必要がある。凡夫が何を以て五品の煩悩惑を断じ得るか。上述の如く、凡夫は修道過程に於いて三十七道品を修行し、悪を断ち善を修めねばならない。善を修めれば悪を断つことができ、悪を断つことは即ち欲界五品の煩悩を断ずることに当たる。もし善のみを修め欲界未到地定が無いか、或いは未到地定が具足していなければ、五品の惑を断ずることはできず、初果向とは成り得ない。未到地定の修行は七覚分中の定覚分、即ち八正道中の正定である。欲界の未到地定が不足すれば正定は具足せず、八正道の修道は具足せず、正道はあり得ない。
故に、或る者が説く「初果・二果の見道に禅定は不要、未到地定は不要、定を修めずして証果できる」という言説は、七覚分と八正道の理に甚だしく背き、証果の真実理に背き、更に世尊・弥勒菩薩・諸仏菩薩の教えに背く。説く所の証果は事実無く、実体無く、これは仏法の修証を軽んずるものである。また、三十七道品の実際の修行段階を経ていないことを証明し、修行に対して盲目で憶測が多いことを示す。末法の世には多くの善知識が確かに知識の収集と拡散にのみ長け、修証の理を理解していない。
二、初果が断ずる粗重な煩悩とは何を指すか?
あらゆる法には粗相と細相の区別がある。粗相は比較的明らかで顕著であり、直ちに見え感じ取れる。細相は粗相の後に現れ、弁別し難く、注意深く観察して初めて見え感じ取れる。世間法・出世間法は共に粗略な部分と微細な部分に分かれ、識心もまた粗と細に分かれる。
煩悩もまた法であり、且つ心法である故、粗と細の部分に分かれる。粗煩悩とは粗重な煩悩を指し、煩悩の中で比較的明らかな部分、容易に気付く内容をいう。「重」は深刻な意味である。明らかで粗略な煩悩は必ず比較的深刻な、或いは甚だ重い煩悩であり、誰もが認識でき感じ取れる部分で、存在すべきでなく、世間人に受け入れられ許されない部分であり、最も先に断ずべき煩悩である。世間人すら受け入れられない粗重な煩悩は、修行界、特に聖賢の法界では、更に存在・顕現が許されない。
貪・瞋・痴・慢・疑・悪見の六根本煩悩は、各々粗と細の二大部分に分かれ、細煩悩は更に細分できる。粗細は相対的であり、最も粗い部分を除けば、細かい部分もまた粗細に分かれ、遂にはこれ以上分けられない煩悩、最も微細な煩悩に至る。この部分の煩悩は凡夫には発見・弁別が全く不可能で、恐らく数地の菩薩も発見・弁別できず、八地以上の菩薩が初めて断除できる。比較的細かい煩悩は、凡夫は智慧不足で自らも断じておらず発見・弁別できない。初めて証果し明心した者ですら弁別できず、経験・智慧が不足しているためである。
全ての煩悩は粗略に上中下の三品に分けられ、各品は更に上中下の三品に分けられる。上品の煩悩は比較的明らかで顕著、深刻であり、最も先に断ずべき、最も存在すべきでないもので、粗重煩悩と呼ばれる。これは四聖諦の修習過程に於いて、初果向の段階で断ずべきである。粗重な上品の煩悩を断じて初めて、初果預流果となる機縁が生じる。そうでなければ初果向すら証得できず、まして初果から四果まではなおさらである。
例えば貪煩悩は、粗細九品に分けられ、更に細分できる。最も粗い部分の貪は甚だ深刻、或いは比較的深刻で、普通の人でも認識でき感じ取り、耐えられない。これは存在すべきでなく、もし存在すれば煩悩の重い凡夫である。例えば財物に対する大貪、男女欲・感情に対する大貪、色身に対する大貪、名聞利養に対する大貪など、あらゆる方面で言い尽くせない。他の煩悩も同様で、深刻で明らかな部分は全て粗重煩悩に属し、初果或いは初果向の時に断ずる必要がある。
もしある者が証果した、明心見性したと自称しながら、その煩悩が依然として重く明らかで、容易に人に見られ受け入れられないならば、この者は大妄語であると判断できる。この者が理論を数多く語り、法を説く時に雄弁であっても、その身口意の行いに現れた煩悩によって、彼は凡夫であると断定できる。弁舌や理論水準は問題ではなく、理論的知識は実際の証量を代表しない。
もしある者が「私は何々の果位を証得した」と言い他人に話し、他人が疑いを抱けば非常に煩悩し、瞋心を起こし他人を怒らせ罵り報復し、悪縁を結ぶならば、この者は何も証得していないと断定できる。なぜならその煩悩が余りにも粗重で、普通の凡夫を凌ぐほどだからである。学んだ法を頼み衆生を蔑み誹謗・攻撃し、強きを頼み弱きを凌ぐ者は、基本的に粗重な煩悩を持つ凡夫と断定できる。
三、問:須陀洹果が五蘊身を我・我の所有とする知見を断ずるとは、意根を我とする知見を断ずることを指すか?
答:初果が我見を断ずるとは、意根と意識の双方が断ずることで、二者共に五蘊の苦・空・無常・無我を認める。しかし初果の我見断は徹底せず、二果は我見を更に深く断ずる故に貪瞋痴の煩悩が淡薄になり、三果は更に深く我見を断ずる故に貪瞋痴の煩悩を断除でき、四果に至って初めて我見を徹底的に断じ、我慢・我執を断尽し、世間法に微塵も染まらず、有余涅槃を取る能力を得る。即ち、一切の煩悩を断尽して初めて四果阿羅漢を証得する。四果阿羅漢は無学位であり、これ以上何の法も修する必要がなく、何の煩悩も断ずる必要がない。
初果には未だ貪瞋痴があり、淡薄ではないが、初果の我見断の功徳により貪瞋痴の煩悩は効果的に降伏され、凡夫のように明らかで容易に現行することはない。初果は修道過程に於いて三十七道品を全て修め終え、八正道が具足している。これは心地が正直で良善であり、修行の正しい道を歩んでいることを示す。四正勤を修め終えたことは、初果人の煩悩悪習が降伏され容易に現れず、善法が既に建立され、且つ初果人としての善を具足していることを示す。悪を断ち善を修める功徳により、初果人としての解脱の功徳受用を具足している。実際に証果していない或る者の言う「初果人は凡夫と同様の貪瞋痴煩悩を持つ」とは異なり、これは初果人の言行に対する甚だしい誹謗であり、実際は全くそうではない。
もし凡夫と同程度に貪瞋痴煩悩が重い初果人に遇ったならば、この者は偽の初果人、初果を装う凡夫であると断定できる。今の世間は詐術が流行し、仏教界にも詐術が多い。個別人は故意であるが、大多数は無意識で、ただ我執が強く自らを過大評価し、目を内に向けて自らを省みず、自己を点検・反省せず、人より優れようとし、人と優劣を争い、結果的に却って自らを害する。命終後、大妄語により自動的に地獄に堕ちる。
何故大妄語の罪業がこれ程重いのか。楞厳経で仏が説かれた如く、譬えば貧人が妄りに帝王を称すれば、王に捕らえられ斬首され晒され、九族皆殺しとなる。仏教界では凡夫が聖人を装うことは、世間法で帝王を装う罪業よりも遥かに重い。聖人は帝王よりはるかに勝れており、聖人を装い仏教を乱し視聴を混同し、衆生に聖凡の区別を付けさせず、仏教の修証の順序を乱す。聖人を装うことは波羅夷罪、断頭罪であり、死後直ちに地獄に堕ち罰を受け罪を償う。
四、初果が断ずる見惑
禅定は未到地定より始めて煩悩に対治し、煩悩を降伏できる。煩悩を降伏し、遮障を取り除くか軽減して初めて初果を証得できる。初果人は見地のみを持ち、見所断の煩悩のみを断ずるが、煩悩と三縛結を断ずるには必ず未到地定が必要である。未到地定は定を修めて初めて発起するが、見所断の煩悩も四加行の修行及び三十七道品の修行を経ている故、見道時に一部の欲界煩悩を断ずることができる。初果は見道時に見惑を断ずるが、未だ思惑煩悩は断じておらず、引き続き修道して初めて煩悩を断尽する。思惑煩悩は見道後、更なる修道を通じて漸次断除され、これも二果・三果・四果人の見地に属する。見地が透徹すればする程、適切であればある程、我と我の所有を断ずる程度が深く、心は空に近づき、煩悩は微細になる。
初果の見惑は初めて見道した時に断ずるが、初めての見道も漸次的な修道の結果であり、修めなければ見惑を断じられない。修道の内容は三十七道品と四加行であり、三十七道品の一つが禅定である。三十七道品を修めないか、三十七道品が修められなければ見道できず、まして見惑を断ずることはできない。故に未到地定は初果人が見道するに必要な条件である。
初果見道の前には、従前の貪瞋痴煩悩を一定程度降伏させ、粗重な部分を断除し、貪瞋痴煩悩が行者を遮障しないようにしなければならない。三十七道品の修行過程に於いて、極めて重い貪瞋痴煩悩を漸次降伏させ、煩悩を漸次微薄にし、心を漸次柔軟にし、智慧を漸次明朗にし、全ての遮障が密雲の如く漸次薄れ、智慧の陽光が雲を透して現れ、見道する。見道前の煩悩の淡薄・微薄は、従前の深刻な煩悩と相対的に言うものであり、二果時の貪瞋痴淡薄の程度とは異なる。二者には差があり、相対的な観点から言うもので、語彙は同じでも内包は全く異なる。故に二者を混同してはならない。
四聖諦:苦聖諦・苦集聖諦・苦滅聖諦・苦滅道聖諦。この中で苦滅道聖諦は即ち修道の真理、依るべき理論である。この理論の修学は初果以前に始まり、四果阿羅漢を証得するまで続く。故に修道は見道後に始まるのではなく、四聖諦に触れた時から始まり、最初に四念処観を修行した時から始まる。修めずして如何にして見道できようか。三十七道品中の四正勤:一、已生の悪法令して断ぜしむ。二、未生の悪法令して生ぜざらしむ。三、未生の善法令して生ぜしむ。四、已生の善法令して増長せしむ。これらの善を修め悪を滅する修道の内容は、衆生の煩悩に対治するものであり、対治後に煩悩を降伏させ微細にして初めて見道できる。
第二節 修道に於いて断ずる三界八十一品の思惑
原文:地地に失徳九有り。下中上各々三なり。論に曰く、失とは過失、即ち所治の障なり。徳とは功徳、即ち能治の道なり。先に已に弁ぜしが如し。欲界修断の惑の九品の差別の如し。是くの如く上地、乃至有頂に於いても、例亦た爾るべし。断ずる所の障の如く、一一の地の中に各々九品有り。諸の能治の道、無間解脱の九品も亦然り。
釈:三界の各地の過失と功徳は総じて九種あり、九種は更に各々下中上三種に分かれ、粗略に二十七種となる。各々は更に下中上三種に分かれる故、衆生の全ての思惑煩悩は細かく八十一種に分けられる。
失とは過失、衆生の過失は即ち貪瞋痴煩悩であり、修道に於いて対治すべき煩悩の障害である。徳とは功徳、煩悩思惑を対治し得る修道によって得られる功徳である。もし煩悩惑の九品の差別を断ずる修行を望むならば、修道を修めねばならず、修道は定を修めねばならない。定無くしては惑を断じ得ない。欲界から三界の頂である非想非非想天まで、各地に九品の煩悩過失が断ずる必要がある。故に各品の煩悩過失を対治し得る修道も九品に分かれ、三界一切地の九品思惑を断尽して初めて無間の解脱を得る。
所謂る無間の解脱とは、身心が一刹那ごとに解脱し、あらゆる法に於いて解脱し、如何なる時も解脱していることをいう。この解脱は意識単独で得られるものではなく、最終的に意根によって得られる。意根が解脱すれば一切解脱し、意根が解脱しなければ一切解脱しない。意根が解脱するには、修道は深く意根に至らねばならず、意根に至るには必ず定を修めねばならない。定無くしては意根に到達できず、意根は智慧を得られず、智慧無くしては解脱できない。故に解脱とは定慧等持であり、意識の乾慧(乾いた智慧)では成し得ない。
三界は総じて九地に分かれる:欲界、色界初禅天、二禅天、三禅天、四禅天、無色界空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想天。各地には相応する禅定の境界があり、各種の禅定は相応する煩悩思惑に対治できる。これが修道の功徳である。思惑は過失であり、その過失は禅定によって対治される。禅定が現れ修行の功徳が現れ、その禅定の功徳をもって煩悩思惑に対治し、その後この功徳によって証果する。もちろんその中には禅定から生じる解脱の智慧証量があり、合わせて初めて解脱する。
九地には相応する九品の思惑がある。欲界の貪瞋痴は粗略に下・中・上の三品に分かれ、各品は更に下中上三品に分かれ、総て九品となる:下下1、下中2、下上3;中下4、中中5、中上6;上下7、上中8、上上9。この九種の思惑は欲界定中と初禅定中に断ずる必要があり、禅定無くしては一品も断じ得ず、初果向を得られず、まして初果を得ることはできない。禅定の修行を飛び越えることは、修行とは言わない。如何なる理論的知識を学んでも、思惑を断じなければ生死の苦に抗えず、必ず業に随って生死を漂流する。ここから、定を修める功徳は極めて大きく、飛び越えることはできず、困難を恐れ重きを避け軽きに就くことは問題解決にならないことが分かる。定を修めるには戒律の厳守が不可欠であり、戒を守らず持たなければ禅定は修まらず、修道とは言わず、功徳は無く、煩悩過失は軽減・減少せず、命終すれば煩悩惑業に随って三悪道に流転する。
初禅天の貪瞋痴思惑は下・中・上の三品に分かれ、各品は更に下中上三品に分かれ、総て九品:下下1、下中2、下上3;中下4、中中5、中上6;上下7、上中8、上上9。同様に、二禅天の貪瞋痴思惑:下下1、下中2、下上3;中下4、中中5、中上6;上下7、上中8、上上9。三禅天、四禅天、空無辺処天、識無辺処天、無所有処天、非想非非想天も各々相応する九品思惑があり、合わせて八十一种の思惑煩悩となる。
原文:応に知るべし、此の中に於いて下下品の道の勢力は、能く上上品の障を断ず。是くの如く乃至上上品の道の勢力は、能く下下品の障を断ず。上上品等の諸の能治の徳は、初め未だ有らざるが故に。此の徳有る時に、上上品等の失は已に無し。衣を浣(あら)う位に粗き垢を先ず除くが如し。後後時に於いて漸く細き垢を除く。又粗き闇は、小なる明も能く滅す。細き闇を滅すには、必ず大なる明を以てす。
釈:修行者は理解すべきである。下下品の道の勢力は上上品の煩悩障を断じ、上上品の道の勢力は下下品の煩悩障を断ずる。上上品に対治し得る徳は、修道初期には未だ現れないが、一旦現れれば上上品の過失は無くなり、上上品の思惑は既に断たれる。譬えば衣を洗う時、比較的粗い汚れを先に除き、その後漸次に微細な汚れを除く。又譬えば粗重な闇は小さな光明で滅し得るが、深細な闇は大いなる光明を用いて初めて滅し、細闇が滅して初めて明るく闇が無くなる。
原文:失徳相対の理も亦た応に然るべし。白法の力強く、黒法の力劣るが故に。刹那の間に劣れる道が現行すれば、無始時来展転して増益した上品の諸惑を、能く頓(たちま)ち断ず。久時に経て集めたる衆病の如く、少分の良薬を服すれば能く頓ち癒ゆ。又長時に集めたる大闇の如く、一刹那の間に小灯も能く滅す。
釈:過失と功徳が相対する理も同様である。善法の力が強く悪法の力が劣る故に、一刹那の間に最低浅い道が現前すれば、衆生が無始劫以来絶えず増益してきた上品の貪瞋痴煩悩惑を頓時に断除できる。長い間集積した病が少量の薬で頓時に治癒される如く、又長時間集積した大いなる闇が一刹那に小灯で滅される如くである。
煩悩過失に対治し得る道は即ち徳、即ち修道によって発起する功徳である。修道の功徳は戒定慧を含み、三者は不可欠である。戒も定と同様に下中上品に分けられ、慧も下中上品に分けられる。戒を保つことにより、心は効果的に制約され散乱せず、これに定を修める功夫が伴い禅定が現れる。禅定がある故、接触する四聖諦理及び大乗の理は心に入り融通し、智慧が現れる。戒律を厳守すればする程、禅定は深まり、禅定が深まれば法義は心に入り、義理は融通し、煩悩は軽くなり、徳は大きくなる。故に戒を保つことは徳、禅定は徳、智慧は徳である。徳は功徳のみならず福徳でもあり、この徳により後世善道に生まれる。徳はまた根器、道を載せる根本の器である。徳有れば道あり、道有れば解脱する。
道と徳が合わさって即ち道徳となる。徳高く望重き、道徳高尚なる人は、その名声は自然に重く、敢えて宣伝せずとも、その徳は自然に感応を呼ぶ。譬えば花の香りは自然に蝶を引く。道と徳を持つ者は、下品の人が動かすことはできず、動かせば即ち損を受け、因果が許さず、徳もまた許さない。大いに動かせば大いに損し、小く動かせば小く損する。現世に花報(速い報い)を、後世に果報を受ける。避けることはできず、道徳が巍巍(高くそびえる)なるが故である。譬えば国王は位尊く権重く、辱めれば牢に入れられるか斬首され、九族皆殺しにさえなる。勢力が盛んなるが故である。
第三節 二果に於いて断ずべき煩悩
原文:若し先に已に欲界の六品、或いは七八品を断ぜり。此の位に至るに、名けて第二果向と為す。第二果に趣くが故なり。第二果と謂うは、即ち一来果なり。遍く得る果の中に於いて、此れ第二なるが故なり。
釈:もし先に欲界の六品の思惑、或いは七・八品の思惑を断除したならば、この位に修まれば二果向となり、二果に趣向する。第二果は一来果であり、人間と天上を一度往復し、便ち有余涅槃に入る。一切の得るべき果位の中で、一来果は第二位に位置する故、二果と呼ばれる。
欲界の六・七・八の三品思惑は、前五品思惑より深く微細で断じ難いが、一旦断じれば断徳は高くなり、果位は当然五品断徳の初果向・初果より高い。欲界の九品煩悩思惑は全て欲界の法に関わり、欲界の色声香味触法に対する貪瞋痴煩悩、欲界の飲食・衣具・生活資具に対する貪瞋痴煩悩、男女欲に対する貪瞋痴煩悩である。第一品の下下品煩悩惑は最も粗重で、最も混濁し、最低劣で、過失が最も重く、最も持つべきでなく、最も除くべきものである。二品はこれに次ぎ、三品は更に次ぎ、五品に至る。修断すれば初果向となり、凡夫と初果の間に位置し、凡夫に属し、三悪道を免れないが、三悪道に堕ちる確率は極めて減少し、初果位に至って初めて三悪道流転の苦を完全に滅除する。
欲界五品の煩悩惑を断じようとするならば、戒を保ち定を修め、欲界定が生起すれば五品思惑煩悩を降伏・断除する。此の煩悩惑を断じ、引き続き戒を保ち定を修め、観行の智慧を生じ、五陰の苦・空・無常・無我を証得し、三昧が現れ、法眼浄を得て初果を得る。この中で禅定が鍵である。欲界の未到地定が無ければ、一切の煩悩惑は降伏・断除できず、初果向も得られない。
何故未到地定が五品思惑を断じ得るか。定は心を定めるものであり、先ず身を定め、身が定まって初めて心が後に定まる。心が定まれば心は伏せられ、色声香味触法に向かうことが少なくなり、煩悩は自然に断たれる。二果向と二果が断ずる煩悩惑は、初果向と初果が断ずる煩悩惑より微細で深いが、依然として欲界の煩悩惑に属する。あと一品で欲界の煩悩惑を断尽する。欲界の未到地定があれば断除でき、色界定や無色界定は更に容易に断除できる。
或る者が「証果や明心に禅定は不要、煩悩を断ずる必要も無い」と説き、更に「初果人の煩悩も凡夫と全く同じ」と言う。これらの言説は、この者が実際に修道段階を経験しておらず、自らの心が確かに凡夫の煩悩と相応していることを示し、所謂る証明や明心は甚だ疑わしい。禅定の無い者は当然禅定の功徳受用を知らず、当然如何なる煩悩も断じず、その煩悩は凡夫と同様で区別が無い。しかし実際はそうではない。禅定には断徳があり、福徳・功徳があり、修道の最も重要な鍵となる助けである。禅定という鍵が無ければ、我見を断ずる智慧は生起せず、意識の理解は決定的作用を起こさない。意根の智慧こそ決定的であり、無明煩悩の有無を決定し、後世の趣向を決定し、解脱の有無を決定する。
初果を証得することは胎を脱ぎ骨を換えることに相当する。意根は主心骨(中心)であり、如何なる骨であるかが即ち如何なる胎であるかを決める。意根の無明煩悩が断たれなければ、骨が変わらず凡夫の胎を脱げない。中陰身で如何なる胎に入るかは意根の骨によって決まる。何故禅定は意根の脱胎換骨を可能にするか。禅定は六識を降伏させ、六識の動きは少なく遅くなり、意根の六識に対する支配・調節は自然に減少し、攀縁心は弱まり、その心は多く法義に住し、法義を吸収消化する能力が増強され、法義の考量に専念し、漸次に法義を融通し、智慧が生起し、煩悩が断除され、部分的な解脱或いは完全な解脱を得る。禅定が無ければ、六識の六塵に対する攀縁は絶えず、意根の六識に対する指揮も絶えず、法義に住することができず、智慧は生起せず、煩悩は断たれず、解脱の望みは無い。
第四節 三果に於いて断ずべき煩悩惑
原文:若し先に已に欲界の九品を離れ、或いは先に已に初定の一品を断じ、乃至無所有処を具(ことごと)く離る。此の位に至るに、名けて第三果向と為す。第三果に趣くが故なり。第三果と謂うは、即ち不還果なり。数は前に準じて釈す。
釈:もし先の修道に於いて既に欲界の九品煩悩惑を離れ、或いは先に色界初禅天の一品煩悩惑を断じ、乃至無色界の無所有処天の煩悩惑を全て離れているならば、この位に修まれば三果向となり、三果に趣向する。第三果は不還果であり、再び人間に来て修道し滅度を取らず、直接に五不還天で有余涅槃を取る。
三果の解脱智慧には多くの差別があり、後述する。今述べる重点は、三果向は既に欲界の全ての煩悩惑を離れ、色界初禅の第一品煩悩惑さえ断じているならば、三果向となる。欲界の全ての煩悩惑を離れるには、欲界の未到地定のみでは全く足りず、必ず色界の初禅定、最高で無色界の無所有処定が必要であり、初めて欲界の全ての思惑を断除できる。
何故欲界思惑を断じただけでは三果向であり三果ではないか。煩悩は先に断ずる必要があり、遮障が無くなって初めて、更に五蘊を観察し、より深い見道の智慧を生じることができる。三果の見道によって初めて三果を証得する。二果も同様で、二果向は未到地定中で八品思惑を断除し、煩悩遮障を除いて初めて更に進んで五蘊を観察し、二果の見道の智慧を生じ、二果を証得する。初果も同様で、凡夫位の未到地定中で五品思惑を断除し、粗劣な煩悩遮障を除いた後、五蘊の苦・空・無常・無我を観行し、最初の我見断の智慧を得て初果を証得する。
この見道の基準に照らせば、娑婆世界に真の小乗見道は果たして幾人いるか。もし小乗が真に見道していなければ、五蘊は死なず、如何にしてより高き大乗見道があり得ようか。元来、巷に溢れるのは皆偽りの見道・虚妄の見道であり、自ら名乗り他が認める全ての果は何の果か。後世の果報を思えば、幾度も冷や汗が出る。何故それほど多くの者が恐れを知らないのか。愚かで痴なるのみである。棺桶を見ても涙を流すことを知らず、棺桶に横たわる時には涙も流せず、三悪道で血を流すのみである。
原文:次に修道に依る。道類智の時に、衆聖の差別有るを建立するに。頌に曰く、第十六心に至る。三向に随って果に住するを名けて信解と為す。見至も亦た鈍利の別に由る。論に曰く、即ち前の随信行・随法行者は、第十六道類智心に至り名けて果に住すると為す。復た向と名づけず。前の三向に随い、今三果に住す。即ち前は預流向、今は預流果に住す。前は一来向、今は一来果に住す。前は不還向、今は不還果に住す。阿羅漢果には必ず初めて得る有ること無し。見道は修惑を断ずるを容れざるが故なり。
釈:三果向の後、再び修道に依って道類智が生じる時、多くの聖者の差別が現れる。第十六心に修まれば、三果向の断徳に随って三果位に住し、随信行の信解人と呼ばれる。随法行の見至人もまた根の利鈍によって差別がある。前述の随信行と随法行の者は、第十六道類智に修まれば三果の住果と呼ばれ、向果を捨て向とは呼ばれない。前の初果向・二果向・三果向に随い、今は三果に住する。前は不還果向、今は不還果である。阿羅漢果を証得するには向が無く、中間の果も無く、直接に阿羅漢果を証得する。阿羅漢は見道すれば修ずるべき・断ずるべきものが無い。前の三果を既に修め終えて初めて阿羅漢四果を証得し、無学となる。前三果は皆、有学・有修・有断であり、第四果は無学・無修・無断である。
第五節 四果以前に於いて断ずべき煩悩
一、阿羅漢は慧解脱と倶解脱の二種に分かれる。慧解脱の阿羅漢は禅定が初禅のみで、解脱智慧を主とする。倶解脱の阿羅漢は四禅八定或いはこれに滅尽定を加える必要がある。阿羅漢は一切の煩悩現行を断尽せねばならず、初禅以上の禅定が無ければ貪瞋我慢等の煩悩を全て断尽することは不可能である。証拠は瑜伽師地論或いは阿毘達磨倶舎論にある。
如何なる煩悩であれ、最も粗浅な煩悩ですら禅定が無ければ断除・降伏できない。欲界の最も粗重な五品煩悩を断じて初めて初果向となり初果に近づく。これには禅定が必要であり、禅定が深まれば断ずる煩悩も多くなる。色界禅定が無ければ欲界の貪欲煩悩は断尽できず、瞋恚煩悩も断尽できず、三果阿那含や四果阿羅漢を証得できない。故に仏法の修証に於いて禅定は非常に重要で不可欠である。禅定が無ければ実修はおろか、実証は全く論じられず、仏法の修学は児戯に等しい。故に或る者が「定を修めずに証果できる」「禅定が無くても証果できる」と言うならば、禅定が無いことはこの者が一切の煩悩を具足し、我見を断じ証果できないことを証明し、具縛凡夫の一人である。
煩悩断除の程度に依って証得した果位を判断できる。証果と煩悩断除は密接に関連し、禅定と密接に関連する。煩悩は即ち無明であり、無明を断じて初めて智慧を得解脱する。煩悩有れば智慧無く、禅定無ければ煩悩有り智慧無し。仏法は一環が一環に連なり融会貫通しており、もし各環節が断絶し繋がらなければ、この法はこの法、あの法はあの法となり、有機的に融合できず、仏法が通じておらず、関門を越えず、実証が無いことを示す。
二、何故我慢は障道の因縁となるか?
道は即ち無我であり、我慢は即ち有我である。我と無我は相い背き、無我の道及び無我の観行を障害する。我が重ければ重い程、無我の道及び無我の観行を障害する。我有る心を以て無我を観行しても、観じ尽くせば結局は我に戻り、道を証得できない。瑜伽師地論に列挙される我慢は皆「我」の字で始まり、我有れば必ず我慢有ることを示す。我慢は我の表現である。故に一切の煩悩は我によって生じ、我は罪の根、罪の魁である。もし或る者が「私は証果した」「私はあなた方より優れている」「私が最も優れている」等の態度を示せば、この者は我が重く、我見を断じておらず、故に我慢の重い者は我見を断じ得ない。修道は絶えず煩悩を断ずる過程であり、煩悩が軽ければ軽い程、我見は薄く、道に近づく。三向四果は煩悩を断ずる程度に依って定まる。
三、倶生我見と我慢の区別
或る者は我慢と倶生我見の区別が分からず、我慢を倶生我見と見做し「四果で初めて倶生我見を断ずる」と言う。この誤解は甚だ大きく、真に我見を断ずることができなくなる。倶生我見は意根の我見であり、二種の我見の一つで、初果時に断ずる必要がある。断じなければ初果人ではなく、我見を断じた者ではない。我慢は意根の最も深重な煩悩であり、意根の倶生我執に属し、倶生我見には属さない。倶生我執は四果を臨証する前になって初めて断じられる。故に四果阿羅漢に至って初めて我慢の現行煩悩が無くなる。
我慢と倶生我執は我見に依って有る。我見を断じて初めて我慢と倶生我執が漸次微薄となり、最後に断尽する。我見が断尽する時、我慢は無くなる。故に倶生我見と我慢は並べて論じられず、概念を混同してはならない。
下意識の中に即ち我がある。思索・分析・比較を要せず、これが我慢であり、意根の認知である。骨髄の如く、意根の我慢は発見し難く、更に抜き難い。卑慢・高慢・過慢を含む。心に我が有れば必ず我慢がある。人は皆我が有ると知り、或いは自惚れ或いは劣等感を抱く。これらは全て我見に基づき、非常に断じ難く根深い。例えば嬰児が他人に抱かれようとするのを見て、不機嫌になれば振り返らず構わない。これが生来の我慢であり、意根に伴って生じ、意識の比較が無くても存在する。意識が有ろうとなかろうと、意根には生来の我見と我慢がある。目立ちたがる者、自己を突出させたがる者は皆我慢が重い。誤りを指摘されると不機嫌になる者は皆我慢に属する。常に自分は結構だと思う者は皆我慢である。
意根の倶生我見は根深い我見であり、五蘊を我と認める心理は気付き難く極めて隠蔽されている。故に多くの者は倶生我見を降伏・断除できず、「意識の分別我見のみを断ずれば我見を断じて初果を証得した」と言う。しかし意根の倶生我見が断たれなければ、意識の分別我見が真に断じられたとしても、意根に依って絶えず我見が生起し、常に我見が生起するが自覚せず、非常に厄介である。
倶生我見は意識の我見ではない故、感覚ではなく、感覚は比較的表面的で意識の覚えであり、意識の分別我見である。分別によって初めて生じ、分別しなければ生じない。意根の我見より発見し易く降伏し易いが、降伏後も再び現れる。断尽できず、意識の倶有依たる意根が我見を断たないからである。意根に随って転ずる意識が如何にして真に我見を断じ得ようか。我見が常に生起することを免れず、常に抑圧せざるを得なくなる。多くの場合全く抑圧できず、命終の時は当然意根の倶生我見と煩悩に随って生死苦海を流転し、三悪道を免れない。
三縛結を断じた初果人には我慢があり、貪瞋痴が既に弱められた二果でさえ未だ我慢の煩悩心所が存在する。三果に至って初めて我慢を降伏、或いは一部を断除するが断尽できず、断尽して初めて四果となる。意根の倶生我執は倶生我見より更に断じ難い。次第から言えば、先ず倶生我見と分別我見を断じて初果を証得する。次に更に深化して二種の我見を観行し、貪瞋痴を弱めて二果を証得する。更に深化して二種の我見を観行し、初禅定を修め出し、煩悩を断じて三果を証得する。意根の倶生我見が徹底的に断尽され、倶生我執も徹底的に断尽され、我慢が消失して無くなれば、四果阿羅漢を証得する。
四、無明を破り煩悩を断ずることが正しい修行である
十二因縁の無明・行・識・名色の前四支は、名色の出生が即ち生死輪廻苦の継続を示す。生死輪転の苦は完全に無明による。無明は愚痴であり、愚痴には愚痴の業行が伴い、六識に絶えず貪瞋痴煩悩の身口意行を造作させ、悪業の種子を残し、ここから生死苦が相続して絶えない。故に修行は無明煩悩を破らねばならず、無明が破られれば智慧を得る。
無明と智慧は対立関係にあり、秤の両端の如く一方が下がれば他方が上がる。故に智慧有る時は煩悩無く、煩悩悪業を造作せず、煩悩有る時は心中に無明有ることを示す。如何なる煩悩の造作も無明有り智慧無き故であり、智慧有れば如何なる煩悩業も造作しない。一旦或る者が煩悩業を造作し、不如法の身口意行があれば、この者は無明が破られておらず、智慧が生起せず、生死苦を了断できないことを示す。
仏法を学び成就する印は無明を破り、煩悩を断じ、智慧を増すことにある。幾ばくの理論的知識を学んだかには無く、理論的知識を学ぶ最終目的は無明を破るためである。この宗旨を離れれば、法を学ぶことには何の意味も無い。生死苦を了断しようとするならば悪を断ち善を修めねばならない。善を行えば善道に向かい解脱し、悪を行えば悪道に向かい生死苦を受ける。もし無明が破られず煩悩が断たれなければ、幾ら仏法の知識を学んでも、生死苦の解脱には役立たない。故に多くの理論的知識を掌握することは修行の方向ではなく、無明を破り煩悩を断じ智慧を増すことが正道である。