観行五蘊我見断ち(第二部)
第九章 瑜伽師地論第二十九巻(四正勤)
原文:かくの如く四念住に於て。串習行ずるが故に。已に能く除遣す。粗粗たる顛倒を。已に能く了達す。善不善の法を。此より無間にして。諸の未だ生ぜざる。悪不善の法に於て。生ぜざらんが為に。諸の已に生じたる。悪不善の法に於て。断ぜんが為に。其の未だ生ぜざる。一切の善法に於て。生ぜんが為に。其の已に生じたる。一切の善法に於て。住せしめんと欲し。忘失せしめず。広説すること前に如く。乃至心を摂し心を持つのに至る。
釈:四念住を観行して熏習したるが故に、心中の最も粗浅なる顛倒を除き遣わすことを得たり。従前は身を以て我とし、浄を計り貪着せり、今は身は不浄にして我無きを知る。従前は苦を以て楽とし、覚受を貪り享けたり、今は受は皆苦なるを知る。従前は心は相続にして常なりと認めたり、今は心は無常なるを知る。従前は五蘊の世間法を我と計れり、今は我無きを知る。顛倒の知見を正しきに搬し戻し、心は再び顛倒せず。
四念住を修習したる後に、何が善法なるか、何が不善法なるかを了達し得、此より無間なく四正勤の修習に入る。未だ生ぜざる悪不善の法を生ぜしめざらしめ、已に生じたる悪不善の法を断除し、未だ生ぜざる善法を生ぜしめ、已に生じたる善法を保持し、永遠に忘失せしめざらしむ。広く説けば前辺の如し。四正勤の修習過程に於て、心を摂持し、心を保持し得るなり。
原文:何をか名づけて悪不善の法と為す。謂わく欲纏の染污せる身語意の業、是れ身語意の悪行の摂する所、及び能く彼を起す所有の煩悩。若し未だ和合せず、未だ現在前にあらずんば、未生と名づく。若し已に和合し、已に現在前にあらば、已生と名づく。
釈:何をか悪不善の法と為すや。悪不善の法は貪欲に纏縛せられたる身業・口業・意業にして、身悪行・口悪行・意悪行に摂属し、及び能く五陰七識の所有の煩悩を起すものなり。若し身口意の悪不善業未だ造作せられず、悪不善行未だ出現せざれば、未だ生ぜざる悪不善行なり。若し身口意の悪不善業已に和合して生じ、悪不善行已に出現せば、悪不善行已生と名づく。
和合とは煩悩と縁の合するを謂い、煩悩縁に遇えば悪不善業行出現す。煩悩縁に遇わざれば、煩悩は唯眠蔵するのみにして、悪不善業行は出現せず。悪業と不善業とは二者稍々区別あり、煩悩の軽重の程度に差別あり。悪行は煩悩比較的重く粗なるを示し、不善行は煩悩稍々軽く、悪と善との間に介在す。不善行の包含する範囲広く、悪行は人をして容易に忍受せしめざる行為なり。悪の此の煩悩は比較的粗重にして、表現比較的顕著なり。出現すべからざるものなれば、人をして己をして容忍し難からしむ。不善の煩悩は稍々軽く、各人に頻繁に出現し、人々之に対し一定の容忍度あり。
衆生は悪不善の法多く善法少なし。故に皆不善を正常の現象と看做す。然るに衆生は知らず、皆の認むる一切の正常現象は、悉く正常ならず、出現すべからざるものなりと。人々は不善を以て正常現象と為すは、衆生に皆不善法あり、心地清浄ならざるを示す。悪不善の法を容忍すればする程、人心の善法は減ず。衆生の容忍と諸仏菩薩の容忍とは截然として異なり、諸仏菩薩の容忍は智慧と慈悲の体現なり。衆生の容忍は多くの場合煩悩の体現なり。多くの人々、身口意の行い不善なる時、汝之を指摘すれば、皆喜ばず、心に慚愧無し。是れ自らの悪不善行為に対し甚だ能く容忍するを示し、此れ修行より尚一距離あるなり。
原文:何をか名づけて一切の善法と為す。謂わく若し彼の対治、蓋の対治、結の対治、未生已生、前に如く悪不善法の如く知るべし。若し時に未だ生ぜざる悪不善の法、先に未だ和合せず、生ぜざらしめんが為に、希願を発起し、我まさに彼の一切一切を、皆復た生ぜざらしめんと。是れ名づけて諸の未だ生ぜざる悪不善の法に於て、生ぜざらしめんが為に欲を生ずると。
釈:何をか一切の善法と為すや。善法は悪法の対治にして、悪法に相反し、悪法を降伏する法なり。故に善法と名づく。例えば煩悩蓋障の対治、煩悩結縛の対治なり。対治したる後に善法生起すれば悪法は滅す。恰も太陽生起して暗黒を駆逐すれば暗黒消失するが如し。若し悪法消失すれば、再び善法を以て対治せず。心清浄ならば不善不悪なり。善を作すも亦た有為法にして生死の業なり。心清浄ならば業無く、大寂静を得、大涅槃を得。
善法を以て悪法に対治するは、即ち四正勤の修習なり。未生の悪は之を生ぜざらしめ、已生の悪は之を断滅せしむ。悪不善法生起の因縁条件未だ具足せざる時、悪不善法を生ぜざらしめんが為に、心中に希求と願望を発起し、悪不善法再び生起せざらんことを願う。例えば願を発し、以後再び嫉妬せず、再び偸盗せず、再び妄語せず、再び殺生せず、再び人を陷害せず等。是れ即ち未だ出生せざる悪不善法に対し、之を生ぜざらしめんが為に、希冀と欲望を発起するを名づく。
原文:若し時に已に生じたる悪不善の法、先に已に和合せり、断ぜんが為に、希願を発起し、我まさに彼の一切一切に於て、皆忍受せず、断滅し除遣せんと。是れ名づけて諸の已に生じたる悪不善の法に於て、断ぜしめんが為に欲を生ずると。
釈:若し此の時生起する悪不善法の因縁和合し、已に生起したる悪不善法あり、之を断滅せしめんが為に希求と願望を発起し、自ら再び一切の悪不善法を容忍せざらんと決心し、一切の悪不善法を断滅し除遣し、心を善ならしめんとす。是れ即ち已生の悪不善法に対し、之を断滅せしめんが為に希冀と欲望を生起するを名づく。
以上発したる願は皆善願なり。唯覚悟の者のみ能く此くの如く願を発す。自心に悪と煩悩あるを覚悟し、悪不善法の悪果悪報を知り、解脱に対し障碍あるを了知し、且つ何が善なるか、何が悪不善なるかを弁別し得るなり。若し弁別し得ざれば、自心を覚悟すること能わず。仮に願ありと雖も、願の如くならず、願を満たすことを得ず。此等の願は修行過程に於て自動自覚的に発起するものにして、修行が法の如く成效あるの体現、精進の結果なり。精進は心の精進なり。身口等の表面にのみ文章を作すに非ず。身口は車の如く、心は車を駕する人の如し。若し車の速く穩やかに走り、方向正しからんと欲せば、当然車を駕する人を督促し鞭策すべし。初めて仏を学ぶ者は多く身口に精進用功し、例えば仏を拝し念仏するも、未だ心上に用功せず。老修行の人は自心を観察し、自心を監管し、自心に対治し、心をして悪を断ち善を増すことを知る。
原文:又た彼の一切の悪不善の法は、或いは過去の事に縁りて生じ、或いは未来の事に縁りて生じ、或いは現在の事に縁りて生ず。かくの如く彼の法は、或いは現見せざる境に縁り、或いは現見の境に縁る。若し過去未来の事の境に縁れば、是れ名づけて現見せざる境に縁ると。若し現在の事の境に縁れば、是れ名づけて現見の境に縁ると。
釈:一切の悪不善の法は、或いは過去の事に縁りて出生し、或いは未来の事に縁りて出生し、或いは現在の事に縁りて出生す。故に悪不善の法は或いは非現前所見の境に縁り、或いは現前所見の境に縁る。若し過去と未来の境に縁れば、現前所見せざる境に縁ると名づく。若し当前出現する境に縁れば、現前所見の境に縁ると名づく。
原文:知るべし此の中に於て、現見せざる境に縁る悪不善の法に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜざらしめんと欲し、其の已に生じたる者は、永く断ぜんと欲し、自ら策し自ら励ます。是れ名づけて策励。現見の境に縁る悪不善の法に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜざらしめんと欲し、其の已に生じたる者は、永く断ぜんと欲し、勇猛に正しく勤む。是れ名づけて発勤精進。所以は何ぞや。要ず当に堅固に、自ら策し自ら励まし、勇猛に正しく勤むれば、方能く彼をして或いは復た生ぜず、或いは永く断滅せしむ。
釈:而して現前所見せざる境に縁るに於て、若し悪不善法未だ生起せざる時は、必ず悪不善法を出生せざらしめ、若し悪不善法已に出生したる時は、必ず悪不善法を永遠に断滅せしめ、此を以て自ら鞭策し、自ら激励す。是れ即ち策励と名づく。現前所見の境に縁るに於て、若し悪不善法未だ出生せざる時は、必ず之を生ぜざらしめ、若し悪不善法已に出生したる時は、必ず之を永遠に断滅せしめ、此くの如く勇猛精進に修行するを、奮発・勤勉精進と名づく。何故に此くの如く精進するや。是れ唯心堅固に自策自励し、勇猛精進すれば、始めて悪不善法を或いは再び出生せず、或いは永遠に断滅現れざらしむるを得ればなり。
原文:又た下品中品の諸纏に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜざらしめんと欲し、其の已に生じたる者は、永く断ぜんと欲す。故に自ら策励す。上品の纏に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜざらしめんと欲し、其の已に生じたる者は、永く断ぜんと欲す。発勤精進す。又た若し過去の境界を行ずれば、是の如く行ずる時、煩悩をして彼に縁り生起せしめず。設い復た失念し、暫時生起すと雖も、而も忍受せず、速やかに能く断滅し、除遣し変吐す。過去に縁るが如く、若し未来を行ぜば、知るべし亦た爾りの如し。是の如く未だ生ぜざる悪不善の法を、能く生ぜざらしめ、生じ已に能く断つ。是れ名づけて策励。
釈:下品と中品の所有の煩悩纏縛に於て、若し未だ出生せざるは、必ず之を生ぜざらしめ、已に生じたるは、必ず之を永遠に断滅せしむ。故に自ら策励す。上品の煩悩纏縛に於て、若し未だ出生せざるは、必ず之を生ぜざらしめ、已に生じたるは、必ず永遠に滅除せんとす。因って勤勉精進す。
若し心過去の境に縁れば、正に過去の境に縁想する時、煩悩をして過去の境に因り生起せしめず。仮令心中正念を失い、煩悩の出現を察知せずと雖も、一旦煩悩の生起を発見すれば、再び煩悩の継続を容忍せず、速やかに滅除し得、除遣し剔除す。若し心未来の境に縁れば、亦た過去の境に縁るが如く対処すべし。此くの如く未だ生起せざる悪不善の法を、之を生ぜざらしめ、已に生起したるを速断せしむ。是れ即ち策励と名づく。
原文:若し現在の縁る所の境界を行ずれば、是の如く行ずる時、煩悩をして彼に縁り生起せしめず。設い復た失念し、暫時生起すと雖も、而も忍受せず、速やかに能く断滅し、除遣し変吐す。是の如く未だ生ぜざる悪不善の法を、之を生ぜざらしめ、已に生起したるは、生じ已に能く断つ。是れ名づけて発勤精進。
釈:若し心現在現前所見の境に縁れば、現前の境中に運行する時、煩悩をして現在の境に縁り生起せしめず。仮令一不注意に正念を失い、煩悩暫時生起すと雖も、一旦発見すれば、其の継続を容忍せず、速やかに断滅し、除遣し剔除す。此くの如く未だ生起せざる悪不善の法を、之を生ぜざらしめ、已に生起したる悪不善の法は、生起後即ち之をして煩悩断滅せしむ。是れ即ち勤勉精進と名づく。
能く以上の如く勇猛精進に四正勤を修行し、自策自励すれば、煩悩久しからずして除遣せられん。煩悩除遣の後、心清浄にして始めて見道し、智慧解脱を得ん。若し煩悩纏縛に対し其の害を覚悟せず、煩悩に任せ氾濫せしめば、輪廻苦悩の災い除かず、見道証聖の由無し。此を以て知る、煩悩を断ぜずして菩提を証するは、其の事無しと。
原文:又た或いは悪不善の法有り、唯分別の力より生じ、境界の力に非ず。或いは悪不善の法有り、分別の力より生じ、亦た境界の力なり。唯分別の力より生じ、境界の力に非ざる者は、謂わく住時に於て、過去未来の境界を思惟し、而して彼に於て生ずるに、思惟の力より生ず。亦た分別の力より生じ、境界の力なる者は、謂わく行時に於て、現在の境界に縁り、而して彼に於て生ずるに、当に爾の時に、決定に亦た理に非ざる分別有るべし。知るべし此の中に於て、悪不善の法、唯分別の力より生じ、境界の力に非ざる者は、彼若し未だ生ぜずんば、能く生ぜざらしめ、生じ已に能く断つ。是れ名づけて策励。若し分別の力より生じ、亦た境界の力なる者は、彼若し未だ生ぜずんば、能く生ぜざらしめ、生じ已に能く断つ。是れ名づけて発勤精進。
釈:或る悪不善の法は、唯分別の力より出生し、境界の力より出生せず。分別の力は即ち意識の分別性、亦た意根の習気に随順する結果なり。現前の六塵境界の熏染を受けず、境界は悪不善法を已に出生せしむる力無し。是れ意根固有の習気の力強きが故なり。或る悪不善の法は意識の分別力より生ずるのみならず、亦た六塵境界熏染の力より生ず。
唯分別の力より生じ、境界熏染より生ぜざる悪不善の法は、現前法に住し、而して過去と未来の境界を思惟し、悪不善法出生するを謂う。此の如き悪不善の法は、主に意根の煩悩習気より生ずるものなり。分別力より生ずるのみならず、亦た境界熏染より生ずる悪不善の法は、身口意運行の時、現前の境に縁りて悪不善法を生ずるを謂う。身口意運行の時は六識の分別力あるのみならず、亦た現前の境界に熏染を受く。此の時は境界の推動作用あるのみならず、決定に非如理分別有るが故なり。是れ意根の煩悩習気と現前境界の熏染共同して生ずる悪不善法なり。
此を以て知る、悪不善の法唯分別の力より生じ、境界の力熏染を受けざるものは、若し未だ出生せざれば、之を生ぜざらしめ、出生後之を断滅せしむ。是れ策励と名づく。若し分別の力より出生し、同時に境界熏染の力より生ずる悪不善の法は、此等の法未だ出生せざる時は、之を生ぜざらしめ、仮令出生後と雖も、亦た断除し得。是れ発勤精進と名づく。
原文:其の未だ生ぜざる一切の善法に於て、生ぜしめんが為に欲を生ずる者は、謂わく未だ得ざる、未だ現在前にあらざる所有の善法に於て、得せしめんと欲し、現在前にあらしめんと欲し、心を発して希願し、猛利なる求獲得の欲を発起し、現前の欲を求め、而して現在前にあらしむ。是れ名づけて其の未だ生ぜざる一切の善法に於て、生ぜしめんが為に欲を生ずると。
釈:未だ出生せざる一切の善法に対し、之を出生せしめんが為に希冀と願望を生起するは、未だ得ざる、未だ出現せざる所有の善法に対し、之を得んと欲し、現前にあらしめんと欲し、心を発して希望し、且つ猛力の願望を発起し、善法を得んと期求する欲望を求め、善法現前を期求する欲望を求め、終に善法を現前に出現せしむ。是れ即ち未だ出生せざる一切の善法に対し、之を出生せしめんが為に欲望を生起するを名づく。
原文:其の已に生じたる一切の善法に於て、住せしめんと欲し、忘失せしめず、修して円満ならしめんが為に欲を生ずる者は、謂わく已に獲得し、已に現在前にあらしむる所有の善法、是れ名づけて已生の善法。此の善法に於て、已得にして失わず、已得にして退かず。依って説いて住せしめんと欲すと。此の善法に於て、明了にして現前にあらしめ、闇鈍の性無し。依って説いて忘失せしめずと。此の善法に於て、已得現前し、数数修習し、成満究竟す。依って説いて修して円満ならしめんと欲すと。此の善法に於て、心を発して希願し、猛利なる求堅住の欲を発起し、忘れざらんと欲する求、修満の欲を求め、而して現在前にあらしむ。是れ名づけて其の已に生じたる一切の善法に於て、住せしめんと欲し、忘失せしめず、修して円満ならしめんが為に欲を生ずると。
釈:已に出生したる善法に対し、善法を堅住せしめ、善法を忘失せしめず、之を円満ならしめんが為に希冀と願望を生起す。已に獲得したる所有の善法、已に現前に出現したる所有の善法を、已生の善法と名づく。已に得たる善法を再び失わず、亦た退去せず、是れ即ち希冀善法常住と名づく。已有の善法心中に明了自持し、清清楚楚にして暗鈍性無し、是れ即ち善法を忘失せしめざらしむと名づく。已に獲得したる善法に対し、絶え間なく修習し、善法を円満究竟無間ならしむ、是れ即ち修習を円満ならしむと名づく。
善法に対し希冀心を発起し、猛力の求取心を発起し、獲得と持有を願い、且つ堅固に善法中に住し不退失不忘却せんと欲し、善法を修習円満ならしめんと欲する此等の欲望と心愿を、其の已生一切の善法に欲望を生起し、住着永存せしめんと欲し、善法を忘失せしめず、善法を修習円満ならしめんが為に生起したる欲望と名づく。
原文:策励とは、已得の為に現前にあらしめんが故に。発勤精進とは、未得の為に其の得せしめんが故に。又た策励とは、已生の善に於て、住せしめんと欲し、忘れざらしめんが故に。発勤精進とは、修して満たしめんが故に。又た下品中品の善法に於て、未生は之を生ぜしめ、生じ已に之を住せしめ、忘失せしめず。是れ名づけて策励。上品の善法に於て、未生は之を生ぜしめ、生じ已に乃至修して円満ならしむ。是れ名づけて発勤精進。
釈:所謂る策励は、已に獲得したる善法に対し、之を現前せしめ、身口意行に顕現せしめんが為に、勇猛に自らを鞭策激励するを謂う。所謂る発勤精進は、未だ獲得せざる善法に対し、之を速やかに得せしめんが為に、勤勉精進するを謂う。策励は亦た已に生起したる善法に対し、之を堅住持久せしめ、忘却されざらしめんが為に自らを鞭策激励するを指す。発勤精進は亦た已に生起したる善法に対し、之を速やかに修習円満ならしめんが為に、勤勉精進心を生起するを指す。
別に、下品と中品の善法に対し、未だ出生せざるは、之を出生せしめ、已に出生したるは、之を堅住せしめ、再び忘却せしめず。是れ策励と名づく。上品の善法に対し、未だ出生せざるは、之を出生せしめ、已に出生したるは、之を堅住せしめ、且つ之を修習円満ならしむ。是れ発勤精進と名づく。
原文:策心と曰うは、謂わく若し心奢摩他の一境性を修するに於て、正しく勤め方便し、諸の未だ生ぜざる悪不善の法に於て、生ぜざらしめんと為し、広く説くこと乃至其の已に生じたる一切の善法に於て、住せしめんと欲し、忘失せしめず、修して円満ならしめんと為すに由る因縁に、其の心内に於て極めて略しく下劣、或いは下劣を恐る。是れを観見し已で、爾の時に随って一種の浄妙なる挙相を取り、殷勤に策励し、其の心を慶悦せしむ。是れ名づけて策心。何をか持心と為す。謂わく挙を修する時、其の心掉動し、或いは掉動を恐る。是れを観見し已で、爾の時に還復内に於て略摂其の心し、奢摩他を修す。是れ名づけて持心。
釈:所謂る策心は、心が止を修習する時、専ら一境の奢摩他に於て、正に精勤して方便力を持ち、未だ出生せざる悪不善の法に対し、之を出生せしめざらんと為し、已に出生したる悪不善の法に対し、之を滅除せしめんと為し、広く説けば、乃至于已生一切善法、之を堅住せしめ、忘失せしめず、修習円満ならしめんと為す。此の修止の因縁に由り、自心の極めて昏昧なるを発見する時、或いは昏昧を恐るる時、即ち随機に一種の清浄勝妙なる殊勝の相を選択し、自らを激発激励し、心を歓喜せしめ心之を向往せしむ。是れ即ち其の心を策励すると名づく。何をか持心と為すや。挙相を修習する時、自心の掉動止まざるを発見する時、或いは掉動を恐るる時、心中に悄然と自心を収摂し、心を止まらしむ。是れ即ち持心と名づく。
此処に説く策心は、定を修する時、心に昏沈清明ならざるを発見すれば、観を修して対治し、心を提起し、観ずる法に集中せしむるを指す。此くの如く心は昏沈掉挙せず。観ずる法は多く有り、自らが目前修習する法と相同じ或いは相似の内容を選び、注意力を此の法に集中す。観ずる法愈々明晰明確、愈々勝妙殊勝なれば、愈々興味を引き、自らの注意力を引き付け、精力旺盛となり、昏沈暗鈍を駆逐す。観を修する時、自心の注意力集中足らず、心散乱するを発見すれば、観を修するを停止し、心を一境に止めて動かさず、心静まるを待ちて再び観を修習を続く。
定慧止観を修習するに於て、一味に定と止を修するに非ず、亦た一味に慧と観を修するに非ず、自心の状況に依りて抉択すべし。修行は定慧等持、止観双運すべし。若し定多にして心沈没するを発見すれば、正念を提起し、多く観を修すべし。若し自心専一深入ならざるを発見すれば、多く止を修すべし。止の中に観有り、観は定中に在るを保証すべし。二者缺一すれば、善果を得ず。
原文:是の如く四種は、亦た正勝と名づく。謂わく黒品の諸法に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜざらしめんと為し、其の已に生じたる者は、断滅せしめんと為し、欲を生じ策励し、発勤精進し、策心持心す。是れ二の正勝。白品の諸法に於て、其の未だ生ぜざる者は、生ぜしめんと欲し、前に如く黒品の広説に応じて知るべし。是れ二の正勝。
釈:以上四種の修習方法は、亦た四正勝と名づく。黒品の煩悩の法に対し、若し未だ出生せざるは、之を生ぜざらしめんと為し、已に出生したるは、之を断滅せしめんと為し、欲望と策励を生起し、勤勉精進心を発起し、其の心を策励し、加持す。是れ二種の正勝なり。白品の諸善法に対し、未だ出生せざるは、之を出生せしめんと為し、已に出生したるは、之を堅住円満せしめんと為し、願望と策励を生起し、精進修行に発心し、其の心を策励し、堅持す。是れ亦た二種の正勝なり。
勤は勤勉精進の意なり。勝は心勝、亦た精進の意なり。正は方向と方法正しく誤り無きを指す。正しき方向に努力精進するは正精進、絶え間なく目標に趣向す。之に反し、正しからざる方向に努力精進するは邪精進、精進すればする程目標より遠ざかる。少なからず仏を学び修行する者は邪精進なり。修行の目標明らかならず、修行の原理明らかならず、只一味に用功するのみ。勇猛は勇猛なりと雖も、智慧甚だ欠乏せり。
原文:是の如く四種は、亦た正断と名づく。一は名づけて律儀断。謂わく已に生じたる悪不善の法に於て、断ぜしめんと為し、欲を生じ策励し、乃至広説す。二は名づけて断断。謂わく未だ生ぜざる悪不善の法に於て、生ぜざらしめんと為し、欲を生じ策励し、乃至広説す。已に生じたる悪不善の事に由り、応に律儀を修し、其の断滅せしめんと為す。忍受すべからず。此の因縁に由り、名づけて律儀断。其の未だ生ぜざる悪不善の事に於て、彼をして現行せざらしめんと欲し、彼をして現前せざらしめんと欲し、断ぜんが為に断つ。故に名づけて断断。
釈:是の如く四種の正勝は、亦た四正断と名づく。其の一は身口意造作の律儀断なり。已に生起したる悪不善の法に対し、之を断ぜしめんと為し、欲望と策励を生起す。其の二は断断なり。未だ生起せざる悪不善の法に対し、之を生ぜざらしめんと為し、欲望と策励を生起す。已に生起したる悪不善の法に由り、応に身口意の律儀を修習し、之をして悪不善の法を断除せしめ、此等の悪不善の法を出生し増長するに任すべからず。是れ律儀断と名づく。未だ生起せざる悪不善の法に対し、之を再び現行せざらしめんと為し、現前せざらしめんと為し、悪不善の法を断除せんが為に断つを、断断と名づく。
原文:三は名づけて修断。謂わく未だ生ぜざる一切の善法に於て、生ぜしめんと為し、広く説くこと乃至策心持心に至る。善法に由り、数修数習し、先に未だ得ざるを能く現前にあらしめ、能く断つ所有有る。故に名づけて修断。四は名づけて防護断。謂わく已に生じたる一切の善法に於て、住せしめんと欲し、広く説くこと乃至策心持心に至る。已に得たる已に現在前にあらしむる諸の善法中に於て、放逸を遠離し、不放逸を修し、能く善法を住して忘失せしめず、修習円満ならしむ。防護已に生じたる所有の善法、能く断つ所有有るが故に、名づけて防護断。
釈:其の三は修断なり。未だ出生せざる善法に対し、之を出生せしめんと為し、其の心を策励し、加持す。善法に由り、数度反復して修習し、先に未だ獲得せざる善法を、現に之を現前出現せしめ、悪不善の法を有所断除せしめ得るを、修断と名づく。其の四は防護断なり。已に出生したる一切の善法に対し、之を堅住せしめんと為し、絶え間なく其の心を策励し、加持す。已に獲得し、已に現前出現したる所有の善法中に於て、其の心放逸を遠離し、不放逸行を修習し得、善法を堅住して忘失せしめず、善法修習円満ならしめ得るを、防護は生起す。所有の善法は、悪不善の法に対し能く有所断除するが故に、防護断(悪不善の法)と名づく。
防護は悪不善の法の出現を防護す。心中に善法有れば、悪不善の法を断除し出現せしめざるを得。善悪同時に出現せざるが故に、善法は防護の作用を起す。善法堅固なれば、悪不善業を造作せず。是れ長時間善法を修習したる結果なり。四正勤は最初に修習する助道の法に属し、見道の必要条件なり。故に見道の者は相応する粗重の煩悩を断除すべく、心中の善法は堅固なるべく、悪不善の法は輕易に現前せざるべし。
若し四正勤を修了し、命終の前未だ見道せざれば、心変改の故に、後世受くる所の悪報も甚だ軽微ならん。但し善法退去せず、悪不善の法再び出現せざるを保証せず。業縁の故に、悪の環境に熏染されざるを得ず。亦た善法の基礎有るが故に、再び善縁に遇えば、善法は尚容易に生起し、善法を修習するは甚だ速やかなり。見道以後、善法始めて保持し得、且つ絶え間なく堅固に増長し、絶え間なく円満ならしむ。
原文:是の如く広く四正断を弁じ已で、復た何を以てか此の中の略義を知る。謂わく為に黒白の品の捨取の事中に於て、増上意楽の円満、及び加行の円満を顕示せんと為す。故に宣説す。四種の正断。知るべし此の中に於て、欲を生ずるに由りて、増上意楽円満なり。自ら策励し、発勤精進し、策心持心するに由りて、加行円満なり。
釈:是の如く広く四正断を論弁したる後、如何にして四正断の大略要義を知るや。四正断の大略要義は、黒白善悪諸品の取舍過程に於て、其の増上意楽円満し、悪を去り善を増す加行も円満するを顕示す。故に四正断を説くべきなり。汝ら当に知るべし、四正断の修習過程に於て、心に已に悪を断ち善を増さんと欲する欲望生起したるが故に、増上意楽は円満し、自心能く自らを策励し、進んで勤勉精進心生発し、絶え間なく其の心を策励し、自心を加持するに由り、故に加行は円満す。
四正断に達する以前、四正勤の修習に於て、未だ甚だ強き欲望生起せざれば、増上意楽未だ円満ならず。四種の正断は出現せず。自身に対する策励激励尚強からず、其の心を鞭策し駆策する力度尚足らず。故に四種の正断は出現せず。意楽と策励共に円満具足するに至りて、四正断始めて出現す。此の時四正勤は修了す。
原文:瑜伽を修する師は、唯爾許の正に応に作すべき事有り。謂わく為に断滅すべき所応に断ずべき事、及び為に獲得すべき所応に得べき事に於て、先ず当に希願楽欲を生起すべし。諸の纏を断ぜんが為に、復た応に時時に正しく勤め修習すべし。止挙捨の相を。諸の纏及び随眠を断ぜんが為に、更に応に対治の善法を修集すべし。現に是の如く一切の所作を顕せんが為に、四正勝及び四正断を説く。是れ名づけて略義。
釈:瑜伽を行ずる行者は、唯此等の法のみが其の修すべきものなり。断滅すべき所応に断除すべき事、及び獲得すべき所応に獲得すべき事の為に、先ず希冀・意願・楽欲を生起すべし。諸の煩悩纏縛を断除せんが為に、尚時々正精勤に止相(禅定)・挙相(自心を激励)・捨相(悪不善の法を捨棄)を修習すべし。諸の煩悩纏縛及び随眠を断除せんが為に、更に応に悪に対治する善法を修集すべし。此等の所有応に作すべき事を顕現せしめんが為に、四正勝及び四正断を宣説す。此等の内容を即ち四正断の大略の義と名づく。
以上四正勤の此等の法は、或る人々修習を欲せず、此等の法を軽賤し、此等の法は甚だ基礎的、小乗の法なりと看做し、時間を費やし修習する必要無く、全ての精力を以て大乗法を熏習すれば足ると思惟す。然るに四正勤を修せざれば、心転じて善ならず、徳具足せず、徳相応せず、大乗法を証得すること能わず。所有の熏習終に理論のみ。理論は一定の因縁条件下に於て忘却丢失し得。仮令忘却せざると雖も、理論終に一理論に過ぎず、多少の実用価値無く、命終には却って悪不善法に因り堕落す。徒らに理論有るも命を救うこと能わず。