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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 2038

第八章 倶舎論疏第二十三巻(聞思修証の四慧) 

聞所成慧(もんしょじょうえ)と思所成慧(ししょじょうえ)は、四加行(しかぎょう)――暖(だん)・頂(ちょう)・忍(にん)・世第一法(せだいいちほう)という四種の善根(ぜんこん)が生じる以前に現れる智慧である。この二種の智慧は堅固ではなく、逆縁に遇えば退失する。思所成慧の後に位置する修所成慧(しゅしょじょうえ)の段階に至って初めて、観行(かんぎょう)の智慧は退失しなくなる。四種の善根の中で忍善根(にんぜんこん)が現れる時、善根は初めて不退となり、観行の智慧も不退となる。四加行の修行を終えた後に初めて証慧(しょうえ)が現れ、四聖諦(ししょうたい)によって生じる智慧、すなわち現量智(げんりょうち)・法智(ほっち)・類智(るいち)などを証得するのである。 

第一節 聞慧(もんえ)

原文:雑縁法念住(ぞうえんほうねんじゅう)には総じて四種あり。二三四五蘊(にさんしごうん)を境とする別があるが故に。唯だ総じて五蘊に縁(えん)じて此れを修するを名づく。彼(か)の此の中に居(お)りて四行相(しぎょうそう)を修す。総じて一切の身・受・心・法を観ず。所謂(いわゆる)非常(ひじょう)・苦(く)・空(くう)・非我(ひが)なり。然(しか)るに此の念住を修習する時。余(よ)の善根有りて能(よ)く方便(ほうべん)と為(な)る。彼(か)れ応(まさ)に次第に修して現前(げんぜん)せしむべし。謂(いわ)く彼(か)れ已(すで)に熟修(じゅくしゅ)せり。雑縁法念住を。

釈:四念住(しねんじゅう)中の法念住(ほうねんじゅう)を修習する際には、更に間(ま)を置いて身念住(しんねんじゅう)・受念住(じゅねんじゅう)・心念住(しんねんじゅう)を観じ、法念住のみに縁(えん)ずるのではなく、他の三念住にも間を置いて縁ずる必要がある。法念住を修習する際に対応する受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)の四蘊(しうん)という境界(きょうがい)が各々異なるため、色(しき)・受・想・行・識の五蘊(ごうん)を総じて縁り、法念住を観修(かんしゅ)しなければならない。行者(ぎょうじゃ)は心を法念住に縁じ、苦諦(くたい)の四つの行相――苦・空・無常(むじょう)・無我(むが)――を修習し、総体的に身・受・心・法の苦・空・無常・無我の性質を観行する。そして法念住を修習する時には、他の善根である暖・頂・忍・世第一法が、修習の結果を方便として検証する助けとなり得る。行者は次第に修習し、四種の善根を一つずつ現前させるべきである。この四種の善根が現前する時、行者が既に雑縁法念住を熟達して修習していることを示している。

原文:将(まさ)に修習せんと欲(ほっ)す。此の念住を。先(ま)ず応(まさ)に総縁(そうえん)すべし。無我行(むがぎょう)を修せよ。次(つい)で生滅(しょうめつ)を観ぜよ。次に縁起(えんぎ)を観ぜよ。以(もっ)て観行者(かんぎょうじゃ)は。先(ま)ず諸行(しょぎょう)を観ず。因(いん)より生滅するを。便(すなわ)ち因果(いんが)に於(おい)て。相属(そうぞく)の観門(かんもん)に易(やす)く趣入(しゅにゅう)せしむるが故に。或(あるい)は欲(ほっ)して先ず縁起を観ぜしめんと令(せ)しむ。此の後(のち)三義(さんぎ)の観を縁(えん)じて引起(いんき)せしむ。此の観は無間(むけん)なり。七処善(しちしょぜん)を修せよ。

釈:行者がまさにこの法念住を修習しようとする時、まず五蘊を総体的に縁り無我の行相を観行し、次に五蘊の生滅を次第に観察すべきである。これは五蘊の無常行相を観行することであり、更に五蘊の縁起を観行する。これは五蘊の空の行相を観行することである。観行者は先ず身・受・心・法の諸行(一切の現象)が因縁に随順して生滅することを観じるため、因果の相属(相互関係)という観点から無我・無常を観行し、四聖諦の理(ことわり)に容易に趣入できるからである。ある者は先に五蘊の縁起を観察し、その後で蘊(うん)・処(しょ)・界(かい)の三法の意義(三義)に縁る観行を引き起こそうとする。この観行方法は、無間断(途切れなく)に七処善を修習すること、すなわち色・受・想・行・識の五蘊それぞれについて、その苦・集・滅・道・味(み)・患(かん)・出離(しゅつり)を観察することである。

原文:七処善に於(おい)て善巧(ぜんぎょう)を得たるが故に。能(よ)く先来(せんらい)の諸(もろもろ)の所見境(しょけんきょう)に於て。因果諦(いんがたい)を立(りっ)し。次第に観察す。是(か)くの如(ごと)く熟修(じゅくしゅ)す。智及び定(じょう)已(すで)に。便(すなわ)ち能(よ)く安立(あんりゅう)す。順現観諦(じゅんげんかんたい)に。謂(いわ)く欲(よく)界(かい)・上界(じょうかい)の苦等(くとう)各別(かくべつ)なり。是(か)くの如き八(はち)に於て。随(したが)って次第に観ぜよ。未だ曾(かつ)て修せざる所の十六行相(じゅうろくぎょうそう)を修せよ。彼(か)れ聞慧(もんえ)に由(よ)りて。八諦(はったい)の中に於て。初(はじ)めて斯(か)くの如きを起(お)こす。十六行観(じゅうろくぎょうかん)。薄絹(うすぎぬ)を隔(へだ)てて衆色(しゅしき)を見るが如(ごと)し。此(ここ)に斉(ひと)しくして聞慧円満(もんええんまん)と名づく。

釈:七処善を修習する際に善巧を得たが故に、先に観行した全ての境界において因果の諦理を確立し、すなわち五蘊の苦・集・滅・道を明らかにし、五蘊の七善処を次第に観察できるようになる。このように観行の智慧と禅定(ぜんじょう)を熟達して修習した後、四聖諦に順じる現観諦智(げんかんたいち)を生じさせることができるようになる。順現観諦とは、欲界と色界・無色界それぞれの苦諦・集諦・滅諦・道諦などに随順する智慧のことであり、この時点ではまだ現量(げんりょう:直接知覚)の観行智慧は生じていないが、暖法(だんぽう)の善根を生じさせ、四聖諦の理に背かないようになる。

このように四念住と四聖諦という八種の義理について、その次第に従って観行し、以前には修められなかった十六種の行相を修習する。行者は聞法によって得た智慧により、この八種の諦理の観行において、初めてこのような十六行相の観行を生じる。この時の智慧は、薄い布絹一枚を隔てて一切の色相(しきそう)を見るようなものであり、ここまで来て聞慧は円満に修められる。

聞慧が円満に修められた時、四念住と五蘊を観ることは、薄絹一枚を隔てて色を見るようなものであり、色の輪郭は見えるものの未だ鮮明ではなく、ぼんやりとしている。聞慧が現れる以前は、一切の法は更にぼんやりとして明らかではなく、無明が非常に重い。思慧(しえ)や修慧(しゅえ)に修められると無明は更に薄くなり、証慧(しょうえ)が現れるに至って無明の一部が断たれ、三縛結(さんぷくけつ)が断たれる。

以上の論文に描かれた聞慧の特徴と修行過程を対照し、自身の聞慧がどの程度修められ、円満に修習されているかどうかを点検すべきである。たとえ既に修習が円満であっても、これは単に聞慧の段階に過ぎず、証慧にはまだ程遠い。もし何年か修行しても、聞慧すら円満に修められていないならば、自身のどこに不足があるのか、如何に差を埋めるべきか、どのような措置を取るべきかを点検し、速やかに精進して道を修めるべきである。 

第二節 思慧(しえ)

原文:思所成慧(ししょじょうえ)は此(こ)れに准(じゅん)じて応(まさ)に説くべし。次(つい)で生死(しょうじ)に於て深く厭患(おんげん)を生じ。涅槃(ねはん)の寂静(じゃくじょう)功徳(くどく)を欣楽(ごんのう)す。此の後(のち)多(た)に厭観(おんかん)を引いて現前(げんぜん)せしむ。方便(ほうべん)勤修(ごんしゅ)して漸(ようや)く増し漸く勝(まさ)る。是(か)くの如きを引起(いんき)す。能(よ)く順決択(じゅんけっちゃく)に順(したが)う。思所成に摂(せっ)する所の最勝(さいしょう)善根(ぜんこん)。即(すなわ)ち修する所の総縁(そうえん)共相(ぐうそう)の法念住(ほうねんじゅう)。

釈:思所成慧は聞所成慧の基準に照らしても説くべきであり、聞所成慧が円満となった後、生死輪廻(りんね)に対して深く厭患(嫌悪・倦怠)の心が生じ、世俗を厭い、涅槃の寂静なる功徳を欣楽(喜び願う)するようになる。その後、厭離(おんり)世間の観行をより多く引き起こし、現に世間の厭うべきことを観じるようになる。これにより修道と観行は一層精進し、観行は次第に深まり、智慧はますます殊勝(しゅしょう)となる。ついには五蘊の苦・空・無常・無我の諦理に随順する順決択分(じゅんけっちゃくぶん)を引き起こすことができるようになり、思所成慧に摂属する最勝の善根が現れる。これが修する所の、五蘊を総体的に縁り四聖諦の共相(共通の性質)に着目する法念住である。

共相とは、一切衆生の五蘊が同じく苦・空・無常・無我であり、全ての衆生の五蘊がこのような共通の属性を持つことを指す。これに対し別相(べっそう)は、個々の衆生の五蘊の苦・空・無常・無我の属性を指す。法念住は別相と共相の二つの角度から次第に観察して初めて修行が円満となる。

ここに思所成慧の相貌(そうぼう)と特徴が描かれている。最も主要なのは五蘊の世間に対する厭患の心、すなわち三界世間に倦怠し、清浄なる涅槃の功徳を慕い求める心であり、内心が五蘊の苦・空・無常・無我の性質に随順し、四聖諦の理に背かず、四念住について理に適い真実の如くに決択(見極め)し、順決択分を発起することである。順とは四聖諦に随順し、背かないという意味である。もし内心が無我・無常・苦・空の理に抵抗するならば、順決択分はなく、聞慧も円満具足していない。

もし学人が未だ五蘊世間に対する厭離の心が現れず、依然として世間に欲求や希冀(きき:願い)を抱き、世間法を称賛し、三界世間法に貪着(とんじゃく)し、捨離することを肯(がえん)ぜず、世間の眷属(けんぞく)に執着し、情執(じょうしゅう:情愛への執着)が深重であるならば、思所成慧はなく、四聖諦の理に随順していない。このような状態では修所成慧は更に具足せず、証道(しょうどう:真理を悟ること)には程遠い。多くの所謂(いわゆる)証果明心(みょうしん:心の本性を悟ること)をしたと称する人々の言行を観察すると、極めて稀にしか厭患世間の者はおらず、大多数は世間に貪欲と希冀で満ちている。故にこれらの所謂なる「果」は、真の果位(かい)とはあまりにもかけ離れており、その来世の果報を思うと慨嘆(がいたん)せざるを得ない。

或る者は言うであろう、「我ら大乗法を修学し仏道を成じようとする者は、五蘊を保有し、五蘊世間の中で修行し、自利利他すべきであり、五蘊世間を厭離すべきではない。もし世間を厭離するならば、それは菩薩種性(ぼさつしゅしょう)に非(あら)ず」と。この言は誤りである。菩薩も声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)と同様に世間に厭いを生ずべきである。ただ厭いながらも離れないだけであり、決して凡夫のように世間を喜び楽しみ、世間に貪着することはない。世間が幻化(げんけ:幻のように仮のもの)であることを知っている菩薩の智慧が、どうして幻化の世間に何らかの希冀や欲望を抱くことがあろうか? 欲や貪りや喜び楽しみがあれば、その智慧に欠けや誤りがあり、空幻(くうげん)の理を明らかにしていないことを示している。菩薩は世間が空幻であることを知り、その心は淡泊(たんぱく)であり、欲も求めもない。ただ道業(どうごう)と衆生のために、その願力に随い、やむを得ず世間を歩むのである。一方、凡夫の心は「やむを得ず」ではなく、世間を欣楽し、世間に味着(みじゃく:深く耽る)し、捨離するに忍びない。故に小乗の学人であれ大乗の学人であれ、思所成慧を修め出せば、必ず世間に厭離欲(おんりよく:厭い離れたいという願い)を生じる。菩薩が欲を離れないならば、それは真の菩薩ではない。

聞所成慧と思所成慧には共に禅定があるが、ただ禅定の深浅が異なるに過ぎない。もし基本的な粗浅(そせん)な禅定すらなければ、聞所成慧は円満具足できず、ましてや思所成慧や修所成慧はなおさらである。それぞれの智慧は、禅定と切り離すことができない。定がなければ心は乱れ、心神が集中しなければ聞思は具足せず、定が浅ければ慧も浅く、定が深ければ慧も深い。その後の修所成慧が集積する過程においては、禅定は必ず未到地定(みとうじじょう)を具足して初めて参究(さんぎゅう:深く究めること)し成就し、見道(けんどう:真理を初めて見ること)することができる。未到地定が具足していない時は、聞慧や思慧はあり得るし、修慧もあり得るが、修慧は円満にはならず、従って見道することはできない。

原文:上(かみ)の論文に准(じゅん)ずれば、即(すなわ)ち是(こ)れ三義(さんぎ)七処(しちしょ)等の後に。総相念住(そうそうねんじゅう)を起(お)こし。暖法(だんぽう)に入るなり。三義観とは、即(すなわ)ち蘊(うん)・処(しょ)・界(かい)の三科(さんか)の義(ぎ)なり。七処善とは、色(しき)の苦(く)を如実(にょじつ)に知り。色の集(じゅう)、色の滅趣(めっしゅ)、色の滅行(めつぎょう)、色の味(み)、色の患(かん)、及び(および)色の出離(しゅつり)を如実に知る。受・想・行・識の七(しち)も亦(また)爾(しか)りと如実に知る。色を如実に知るは、是(こ)れ四智(しち)の知(ち)なり。法智(ほっち)・類智(るいち)・世智(せち)・苦智(くち)と謂(い)う。

釈:上述の論文に照らせば、蘊・処・界の三科の意義および七処善を観察した後に、五蘊の総相に縁る法念住が生じ、暖法の善根に入ることを知るべきである。三義観とは蘊・処・界の三法の観察のことである。七処善とは、色蘊の苦、色蘊の集、色蘊の滅(涅槃への)道、色蘊を滅する(涅槃に至る)ために修すべき道、色蘊の味(愛着を生む面)、色蘊の過患、および色蘊の出離性(解脱できる性質)を如実に知ることである。そして受蘊のこれら七処善、想蘊の七処善、行蘊の七処善、識蘊の七処善も、色蘊の七処善と同様に如実に知ることを指す。また色蘊を如実に知ることにより、四種の智――法智・類智・世俗智(せぞくち)・苦智――が生じる。

解脱した者は十種の智――法智・類智・世俗智・他心智(たしんち)・苦智・集智(じっち)・滅智(めっち)・道智(どうち)・尽智(じんち)・無生智(むしょうち)――を具える。五蘊の各蘊の七処善を如実に観察することにより、智慧をもって色蘊を如実に知るようになる。色蘊を知る智慧には四種あり、それが法智・類智・世智(世俗智)・苦智である。法智とは一切の法を総体的に智慧をもって無我・無常・苦・空であると観知することである。類智とは総体の法の中の同類の法について智慧をもって観知することである。世智(世俗智)とは世俗界における法への智慧による対応、すなわち世俗の衆生の根基(こんき:素質)の利鈍(りどん)に随い適宜に度化(どけ:救い導く)することである。苦智とは五蘊世間を如実に観察し、智慧をもって世間の一切の法が皆苦であり取るに足らないと知ることである。 

第三節 修所成慧(しゅしょじょうえ)の四加行(しかぎょう)四善根(しぜんこん)

一、四念処(しねんじょ)の観行は、四聖諦と関係があるのか? 四念住の観行過程において、それぞれの念住ごとに四聖諦の理を観行する。こうして合わせて十六の行相を観察し、十六行相を具足して観行すると、四種の智慧の境界、すなわち四種の善根を得る。この四種の善根が暖・頂・忍・世第一であり、四加行とも呼ばれる。これは見道の前に必ず経なければならない段階である。四加行・四善根は修所成慧に属し、これ以前は聞慧と思慧に属し、比較的浅く、意根(いこん:末那識)まで熏習(くんじゅう:影響を及ぼすこと)されていない。意根に熏習され、意根が何らかの触発を受け変化し、苦・空・無常・無我に随順し、順決択分を発起して初めて、修所成慧が生じる。修所成慧が円満具足して初めて見道する。故に四加行は非常に重要であり、皆が理解すべきである。私は徐々にこの方面の法を少しずつ説いていきたい。

更に皆に理論を補完すべきものとして三十七道品(さんじゅうしちどうほん)があり、少し細かく説き、各自が自分が三十七道品を修めているかどうか、またどの程度修めているかを知らせたい。最後に、見道以前の修道過程において、禅定の中でどのような比較的粗重な欲界の粗煩悩(そぼんのう)を断ずる必要があるかについても少し述べたい。細煩悩(さいぼんのう)は見道後に初めて断じることができ、見道以前には断じられない。色界の煩悩は更に断じられない。これで小乗の法は基本的にほぼ十分であり、これ以上多くを説く必要はない。

修道とは、実に九割の時間が個人の修行に費やされ、法を聞き理論的知見を吸収し修行を指導し、道を外れたり脇道にそれないようにするために使う時間はごく僅かである。理論的知見がほぼ十分に吸収されると、完全に個人が専心一意に修行に用いるべき時であり、更に多くの時間を理論学習に費やすことは、却って事を遅らせる。故に私は今後あまり多くの法を説きたくない。皆の実修の妨げになることを恐れるからである。もし今後も理論上の不足が見つかれば、徐々に補足したい。具体的には実修を主とし、理論は十分に役立てば良い。貪って多くを求めても大した効果はなく、時間の無駄である。

四加行の修行段階では、意根に効果的に熏習されるため、身心共に変化が生じる。心は以前より清浄になり、煩悩は軽くなり、身・口・意の行い(行為)がある程度清浄に転ずる。このようにして初めて、次第に見道後の聖賢の心行(しんぎょう:心の働きと行為)の品質に相応し、その後で見道できるのである。故に、自身の身心が変化し煩悩が軽くなったからといって、見道した、証果したと言うのは誤りであり、まだ程遠い。大乗法で悟った悟ったと常に疑っている人々が、もしこれらの法を修めず、具足円満に修めていないならば、今後はこの疑いを断つべきである。疑う必要はない、自身は悟っていない。解悟(げご:理論的理解)ですらない。或る者は悟後も悟前と身心世界の変化が大きくないか、或いは全く何の変化もなく、ただ知見が少し増えただけである。或る者は知見すら不足しており、このような人々は三十七道品すら修めておらず、四加行にも至っていない。ただ聞思の段階にいるだけである。このような誤解は全く甚だしい。何故このような誤解が生じるのか?

二、1+1=2 を知ることは、聞・思・修・証の四種の慧の中で何に属するか?

聞・思・修・証の四種の慧は全て 1+1=2 を知るが、知と知の差は非常に大きい。一歳の子供でも 1+1=2 を知ることができ、犬でさえ調教すれば 1+1=2 を知ることができる。大学教授も 1+1=2 を知り、数学者も 1+1=2 を知る。この間の差は一体どれほどか? 1+1=2 はゴールドバッハ予想における難題であり、中国の数学者では陳景潤(ちんけいじゅん)と華羅庚(からこう)のみがかつてその証明に取り組んだ。しかし華羅庚や他の数学者も証明できず、有効な証明を与えられなかった。陳景潤が完全に証明したかどうかは知らない。1+1=2 を証明する能力を持つ者は一億人に一人もおらず、証明に着手できる者は一億人に一人も満たず、1+1=2 を思索する者は千分の一、万分の一もおらず、ただ 1+1=2 を知る者は無数にいる。

故に我々全ての者が 1+1=2 を知っているが、この「知」の水増し(実質の伴わない部分)は一体どれほどか? 同様に、多くの学仏者が四聖諦の理や如来蔵(にょらいぞう)の法を学び、数年、あるいはわずか二、三年、あるいは二、三ヶ月しか学んでいないのに、証した悟ったと言う。ここでの水増しは当然ながら非常に大きく、大多数の者は「修」という段階に至っておらず、如実に着実に修行する因縁も整っておらず、見道の因縁は一切満たされていない。どうして修慧や証慧を語ることができようか? 思慧さえあれば大変良い方である。故にまた、学仏修行のこの道はそう容易く歩めるものではなく、過分に自身を過大評価し、仏法を過小評価すべきではない。そうでなければ、古い業が消えないうちに新たな業を積み、来世どうして解脱できようか?

幼稚園の子供や小学生、中学生たちが 1+1=2 を実証しようとするなら、如何に努力すべきか? 1+1=2 を証明する因縁条件を如何に整えるべきか? 一億分の一、十億分の一、百億分の一という実証比率を考えれば、これらの子供たちが将来実証する可能性がどれほどか分かるであろう? 如何なる努力が必要か? 数学の天才でなければ、可能性はほとんどない。1+1=2 の証明において最も重要なのは、中間の論理演算の過程である。結果は既に与えられており、中間の証明過程がなく、それを補完しなければならない。論証過程においては結果を忘れ、結果を未知のものとして扱わねばならない。論証過程の辛苦(しんく)は、陳景潤のことを知れば分かる。代償は非常に大きい。

仏教において四聖諦や般若唯識(はんにゃゆいしき)に接触し修習した仏子も若干いるが、全ての学仏者の中での比率は依然として非常に少ない。これらの人々の中で、大小乗の法について様々な程度の知や解(理解)があり、四種の慧の多くは聞慧に属し、少数は思慧に属し、極めて少数が修慧を持つに過ぎない。しかし証慧という段階に達する者は恐らく寥々(りょうりょう)たる数であろう。億分の一の可能性がある。では既に四聖諦の理や如来蔵・般若空(はんにゃくう)の理を知っているが未だ実証していない学仏者は、如何にして実証し親証すべきか? 或いは既に仏法を理解し、解悟した学仏者は、如何にして更に親証・実証すべきか? どのような因縁条件を整え、如何なる努力をすれば真に実証できるのか?

そして仏法を理解し、解悟したこの部分の人々が仏法を実証しようとするならば、自らが解した所、悟った所を全て忘れ、結果を未知のものと見なし、参究(深く究めること)の過程に持ち込んではならない。これには修慧が必要であり、三十七道品、戒定慧(かいじょうえ)、菩薩の六度(ろくど:六波羅蜜)を実修し、見道の種々の条件を整え、甚深(じんじん)なる禅定の中で理に適って参究しなければならない。故に仏法を解悟した者は、解した所を忘れ、以前に学んだ知解を放下し、名利の心、争い勝とうとする心、虚栄心を捨て、初めからやり直すことを惜しまず、一歩一歩着実に、焦らず慌てず進むべきである。そうして初めて実証の可能性があり、その過程では大きな代償を払い、非常に苦労する。一分の汗水が一分の収穫であり、如何なる代償を払おうともそれは価値がある。

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