観行五蘊我見断ち(第二部)
第三章 五蘊を具体的に如何に観行するか(2)
十四、如何に気息を観じて身見を断つか
問:修定の際、常に気の動きが原因で深い禅定に入ることができません。気の上で観行を行い、身見を断つための突破口を得ることは可能でしょうか?
答:深い禅定に入ることができないのであれば、観行も深く連続したものにはなりません。これは何を観行する場合でも同様です。しかしながら、観行が一つの心で連続して途切れない状態を保つことができるならば、禅定は次第に深まっていきます。定と慧、止と観は互いに関連し合い、互いに促進し合う関係にあります。気を観るとは気息を観ることであり、気息は呼吸とも関係しています。それはすなわち四念処の観行の範疇に入ります。五蘊のいずれの法を手がかりとして観行を始めても、身見を断つことは可能です。鍵となるのは未到地定を得ていることです。
身体の中の種々の気は物質的な色法です。もし気の生・住・異・滅、苦・空・無常・無我を観行し得たとしても、それは色蘊の我見を断ずるに過ぎず、識心の我見まではまだ断つことはできません。しかしながら、身体の中の気を明らかに観行できることは非常に良いことです。点を以て面を帯びれば、全身の色法を明らかに観行し、その来歴を知り、その生滅変異が無常であることを証することができます。色身の我見だけを断ずることも非常に優れたことです。煩悩が軽減された後、識心の苦・集・滅・道を観行すれば、それはより容易になるでしょう。
如何にして気を観行し、身見を断つのでしょうか? 俗に言う「一息でも途切れれば、気絶して命を落とし、陰陽が隔たる」とは、気が色身にとってそれほど重要であることを示しています。気は身体の中で身体が必要とする酸素を運び、血液の流れを促します。気血が合わさって色身の生存に必要な養分となります。気血の潤いがなければ、色身は必ず滅びます。気は四大の種子によって構成される色法であり、風大を主とします。故に気は流動性と漂動性を持ち、全身に行き渡ることができます。一旦どこかで詰まって運行しなくなると、その箇所には病障が現れます。気は四大で構成される色法である以上、生滅変異する無常の法です。気の無常性、変異性、空性を観行すれば、それが苦性であることを知り、苦性は即ち我でもなければ我所でもないことを知ります。気が我ではないならば、気によって支えられている色身も同様に、生滅変異して無常であり、苦・空・無我です。気という観点から観行しても、身見を断つことができます。
十五、空は捉えられるか?
問:座禅の際に自分を空じ、一心に「空」を見守ることは可能でしょうか?
答:自分を空じようとするならば、まず何が自分であるかを知らなければなりません。空じる心が自分であり、空じられる法が自分です。自分が空じられてしまえば、空じる心も空じられる法もなくなります。そうであるならば、すでに自分を空じてしまったのに、どうして空を見守ることができるでしょうか? 空を見守る必要がまだあるでしょうか? 空を見守るという「見」そのものが既に空ではありません。能見(見る側)と所見(見られる対象)があり、能所がともに存在しているならば、それは空ではないのです。あなたが見ているその空もまた「有」であり、これは頭上にさらに頭を設けるようなものです。
座禅の中で自分を空じたとしても、もしその状態を保とうとする念いが起これば、それは空ではありません。空の境に住すること、あるいは空の心で静座することは、どちらも純粋な禅定に過ぎず、無我の智慧を生み出すことはできません。定の中で観を起こさなければ、観の智慧を生み出すことはできません。これは六祖壇経の中で六祖が既にはっきりと批判していることです。本を読む時ははっきりと分かるのですが、実用になると途端に分からなくなってしまいます。定の中に法義を観照する心がなく、観行がなく、疑情がなければ、智慧を生み出すことはできません。例えば念仏定であっても、定がどれほど良く深くても、その中に疑情がなく、観行がなく、参究がなければ、どうして智慧を生み出して我見を断ったり明心したりできるでしょうか?
観行とは何でしょうか? 例えば世俗法の面では、ある人や事柄を多く経験するうちに、次第に見抜けるようになり、その後は気にしなくなります。観行もこれと同じです。多く見ることで、見抜けるようになるのです。見抜けるとはどういう意味でしょうか? 人と長く接していると、その人を見極められるようになり、取捨を決め、付き合いを続けるかどうかを決めるようになります。自分自身を観察するのも同じです。五蘊の身心を常に観行していると、時が経つにつれて五蘊を見抜けるようになります。道理は同じです。智慧が少し優れている者は、早く見抜けるかもしれません。智慧が非常に乏しい者は後世にならなければ見抜けません。しかしながら、この基礎は必ず築き上げなければならず、修行の功夫は必ず為されなければなりません。
十六、心は空にして無為、有為は空ならず
仏教を学び修行する者は、人々の中でも独りでいる時も、自分の存在感を弱めるべきです。自分をあまり気にせず、自分を大したものだと思いすぎず、強がって勝とうとせず、何事も第一になろうとしないことです。自分は実在するものではなく、相手も実在するものではなく、集団も実在するものではありません。第一も第二もなく、最良も最悪もなく、全ては仮の名相に過ぎません。もし人が心の中で常に「私は全ての人に勝たなければ」「私は必ず全ての人より優れ強くなければ」と考え、常に人より抜きん出て目立ちたい、全ての目を自分に向けさせたいと思うならば、そのような考えは我執が非常に重く、無為に相応せず、聖人の心に相応しません。我見を断って聖賢の人となることは非常に困難です。
聖人の心は空にして無為であり、そのような心性はありません。自分をより際立たせようとすればするほど、心性は人後に落ちます。聖人はこれとは反対で、自我の存在感がなく、有為の事を行いながら心は無為です。ただ一心に大衆のために尽くす者のみが、聖人となる資格を持つのです。
十七、虚相・仮相にも虚妄の作用あり
真空とは、即ち如来蔵を指します。真実でありながら性は空です。その心体には一法もないのに、全ての法を変現することができます。妙有とは、五陰十八界の法の相は有ではあるが、その実質は無であり、全て如来蔵が変現した虚妄の法です。虚妄の法は虚妄ではあるものの、全てが存在しないとは言えません。なぜなら衆生は一分一秒、刹那ごとにそれらを用いているからです。五陰を用いて食事をし、着物を着、歩き、五陰を用いて生活しています。衆生は虚妄の十八界の中で生きており、見るのは仮の色、聞くのは仮の声、嗅ぐのは仮の香り、味わうのは仮の味、感じるのは仮の触、識るのは仮の法です。見・聞・嗅・味・触・識は全て五陰の作用です。故に五陰の表面的な存在現象を否定することはできません。
五陰は真実の存在ではありませんが、虚妄の存在というこの方式はあります。明らかに衆生は毎日五陰を用いているのに、それでも五陰は存在しないと言います。心から五陰が確かに虚妄であると認められる時、それが即ち我見を断った状態です。全ての衆生がそうあることを願います。もし五陰の虚相すら存在しないと否定するならば、それでも我見を断つことはできません。なぜなら五陰十八界を観行できなければ、五陰十八界の虚妄不実性を見極めることができず、従って我見を断ずることもできず、全ての無明煩悩を消し去ることもできないからです。
十八、一切の法は皆な仮名なり
例えば国家。単独の一人は国とは呼びません。単独の人が国でないならば、多くの人も国ではなく、十億人も国ではありません。国はどこにあるのか? 仮の名です! 故に一切の法は皆な仮名であり、実体はありません。真如を除いて。同様に、一つの頭は人とは呼べず、一本の腕は人とは呼べず、一本の脚は人とは呼べず、組み合わさっても人とは呼べません。人とは何か? 人無し! これが仮名であり、実体はありません! 一切の法は皆な仮名であり、実体はありません。真如を除いて。
何が某某その人か? 某某その人などおらず、頭・目・脳・髄も某某その人ではなく、腕・脚も某某その人ではなく、思想・覚知・観念・受覚も某某その人ではありません。和合してもなお某某その人ではなく、しかしこの法を離れて某某その人を見ることはありません。もし誰かが某某その人を罵るならば、某某その人を罵ることができるでしょうか? できません! もし誰かが某某その人を打つならば、某某その人を打つことができるでしょうか? できません! 某某その人は空であり、打つことも罵ることも皆な空です! その人もその事も存在しません。
十九、何故五陰は仮相なのか?
問:何故尊い五陰も卑しい五陰も皆な仮相だと言うのですか? また何故『般若心経』で諸法は皆な空相で不生不滅だと言うのですか?
答:例えば子供が積み木で家を積み上げては壊し、その後また積み上げては壊し、繰り返し絶え間なく積み上げたり壊したりする様子を考えてみてください。家は無から有となり、また有から無となり、生じては滅し、滅しては生じます。故に家は幻であり、仮相であり、空相だと言います。しかし積み木は常に存在し、壊れることはありません。積み木が存在し、子供が飽きずに積み上げる限り、家は絶えず出現し存在します。故に家は常に存在する空相であり、不生不滅だと言うのです。
同様に、五陰は七大種子によって構成されています。因縁が具足した時、七大種子は五陰を構築します。因縁が散じた時、五陰は散じ、再び元の七大種子の状態に戻ります。因縁が再び具足した時、七大種子は再び五陰を構築します。このように五陰は因縁業力に従って絶えず生じたり滅したりします。七大種子が福ある業種と因縁に依って構築した尊い五陰であろうと、福なき業種と因縁に依って構築した卑しい五陰であろうと、皆な仮相であり幻化の相であり、空相です。
五陰が滅びても、七大種子は残ります。そしてこの七大種子は因縁が再び具足した時、再び五陰を構築します。繰り返し絶えず五陰を出生させます。このように七大種子に依って五陰は永遠に出生し、永遠に存在し続けて絶えることがありません。そうであるならば、この角度と意義から言えば、空相である五陰もまた不生不滅となるのです。衆生は永遠に流転し続けるでしょう。七大種子があり、業種があり、因縁があるならば、五陰をどうすることもできません。
二十、如何に正しく識陰を認識するか(一)
『持世経』原文:仏、持世に告げたまわく、何を菩薩摩訶薩の正しく識陰を観察選択するというや。菩薩摩訶薩は非陰なるこれ識陰なりと観ず。顛倒陰なるこれ識陰なり。虚妄陰なるこれ識陰なり。何を以ての故か。持世よ、この識陰は顛倒より起り、虚妄の縁に繋がれ、先業より有り、現在の縁に繋がれ、衆因縁に属し、虚妄にして所有無し。
釈:仏は持世菩薩に言われた:何を菩薩摩訶薩が正しく識陰を観察し認識することと言うのか? 菩薩摩訶薩は識陰と呼ばれる陰など何もないことを観察する。識陰は無所有である。顛倒陰が識陰であり、虚妄陰が識陰である。何故そう言うのか? 持世よ、識陰は顛倒心によって出生するからである。識陰は虚妄の業縁によって繋縛され、識陰は過去世の業によって生じ、現在の業縁によって繋属される。識陰は多くの因縁が和合して初めて出生するものである以上、識陰は虚妄無所有であり、空である。
識陰の粗相の虚妄を証得するのは無生忍であり、極細相の虚妄を証得するのは無生法忍である。本来法は無い。法無き中で、因縁の力によって強いて識陰が建立される。識陰は虚妄・虚構・無所有である。この理を容忍することが、即ち無生忍あるいは無生法忍である。
原文:憶想分別より起り、識より生ず。識する所有るが故に、これを識と名づく。憶想分別の覚観より生じ、仮借して有り、識する所有るが故に、数として識と名づく。諸物を識するが故に、心業を起こすが故に、思惟するが故に、衆縁生相の故に、種種の思惟を起こすが故に、数として識陰と名づく。識する所有るに従い、識像出で、心業を示すが故に、思惟を摂するが故に、数として識陰と名づく。
釈:識陰は意根の憶想分別によって生じ、阿頼耶識から生じる。識陰には識別の機能があるため、識陰と呼ばれる。識陰は意根の憶想分別の覚観から出生し、多くの因縁を仮借して存在し、また識別の機能作用があるため、五陰の数に堕ちて識陰と呼ばれる。識陰は諸法を識別できるため、心の業行を生じさせることができるため、識陰は思惟を起こすことができるため、多くの因縁和合相があるため、種々の思惟を起こすことができるため、五陰の数に堕ちて識陰と呼ばれる。
原文:或いは心と名づけ、或いは意と名づけ、或いは識と名づく。皆な意業分別の故に、識陰に摂せらる。識相・識行・識性の示すが故に、数として識陰と名づく。かくの如く非陰なるこれ識陰なり、生ぜず起らず作らず、ただ顛倒相応の縁に以て、虚妄識の故に、数として識陰と名づく。
釈:識陰はある時は心と呼ばれ、ある時は意と呼ばれ、ある時は識と呼ばれる。全ては意業分別に属し、識陰に摂受される。識の相貌、識の運行、識の性質が示されるため、五陰の数に堕ちて識陰と呼ばれる。このように本来陰入の陰などないものを識陰と名づける。識陰は実は本来出生せず、起用せず、何の機能作用もない。しかしながら顛倒の相応する業縁によって、虚妄に諸法を識別するため、五陰の数に堕ちて識陰と呼ばれる。
原文:何を以ての故か。この識陰は衆因縁より生ず。自性無し。次第相続して生ず。念念生滅す。この識縁は陰相を生ぜず。何を以ての故か。この識陰の生相は得べからず。決定相も亦得べからず。生相得べからざるが故に。決定相得べからざるが故に。根本所有無きが故に。自相無きが故に。牢堅得べからざるが故に。
釈:何故そう言うのか? 識陰は多くの因縁和合から出生するため、識陰自体の自体性はない。識陰は次第に相続して出生し、念念が生滅している。このような識の縁は陰入の相貌を出生しない。何故か? 識陰の出生の相貌は不可得である。識陰に出生がなければ、出生の相貌もない。識陰の決定有相も不可得である。識陰の出生相が不可得であり、決定有相が不可得であり、識陰は根本的に無所有であり、識陰の自体相も無所有であり、識陰の牢固相も無所有である。
二十一、如何に正しく識陰を認識するか(二)
『持世経』原文:智者は正しく観察選択し、通達す。非陰なるこれ識陰なりと。凡夫は非識陰に於て識陰相を生じ、覚観分別憶想を以て、顛倒に相応し、虚妄に縛られ、強いて識陰と名づく。この識陰に貪着す。所識に依止し、識種種の示す思惟に依止するが故に、識陰を生起す。この人は種種に分別し、内識に貪着し、外識に貪着し、内外識に貪着し、遠識に貪着し、近識に貪着す。識相の故に、識陰を起こして分別す。
釈:智慧ある者は正しく観察し、択び、通達すべきである。いわゆる識陰は本来陰入自体の性も相もなく、識陰がないのに仮に識陰と名づけられている。しかし凡夫は本来識陰ではない法に識陰の相貌を生じさせる。自らの覚観、憶想、分別を用い、顛倒心と相応し、虚妄相に縛られて、強いて識陰と名づける。凡夫は虚妄相を識陰として貪着し、虚妄の識別性に依止し、識陰に依止し、種々に識陰の思惟機能性を示現し、識陰相を生起させる。
凡夫人は種々に分別し、身内の塵を識別する内識に貪着し、身外の塵を識別する外識に貪着し、内外識に貪着し、過去未来の遠い識に貪着し、現在眼前の近い識に貪着する。虚妄に識心の相貌を了別するため、虚妄の識心相貌を了別し、これらの虚妄の相貌を識陰として執着する。
原文:この人は憶想分別を以て、若し心、若し意、若し識、仮借して強いてこれ心、これ意、これ識と名づく。かくの如く種種の心相生ずるを知る。これ凡夫の識陰に貪着するなり。識陰に縛らるるが故に、心・意・識合するが故に、種種の識陰を起こす。虚妄の事を分別するが故に、一相の故に、決定相の故に、能くこれ心、これ意、これ識を得、能く分別愛着す。
釈:凡夫人は識心の相貌を拠り所として、これが心、これが意、これが識であると言い、仮に識心の相貌を借りて、強いて心・意・識と名づける。このように分別した後、心中に識心の種々の相貌が生じる。凡夫人は識陰に貪着するため、識陰に縛られ、心・意・識が和合して初めて識陰が顕現する。そこで心中に識陰の相貌が生じる。識陰が虚妄に種々の事相を分別できるため、虚妄に識陰の和合相を見るため、心中で識陰に相貌があると決定するため、凡夫人はこれが心・意・識であると執着し、かつ分別し貪着する。
原文:この人は識陰に依止す。深く識を貪うが故に、亦過去の識陰を得、貪着して有りと念ず。亦未来の識陰を得、貪着して有りと念ず。亦現在の識陰を得、貪着して有りと念ず。諸凡夫は見聞覚知の法中に於て、識陰を得と計り、貪着して有りと念ず。この人は見聞覚知の法に貪着す。識陰に縛らるるが故に、その知る所を貴び、心・意・識合して繋がるるが故に、馳走往来す。所謂この世より彼世に至り、彼世よりこの世に至る。皆な識陰に縛らるるが故に、能く如実に識陰を知ることあたわず。
釈:凡夫人は識陰に依止し、深く識陰に貪着するため、過去の識陰も執着し、識陰に貪着し、識陰が確かに存在すると執る。そこで未来の識陰も執着し、識陰に貪着し識陰が確かに存在すると考え、現在の識陰も執着する。
識陰が実有の法であると貪着し執るため、諸凡夫人は一切の見聞覚知の法の中で、計着して識陰の機能作用であるとする。識陰が有であると貪着計着するため、凡夫人は見聞覚知の法に貪着し、識陰に縛られ、能知能覚の法を宝愛し大切にする。心・意・識の三つが和合して共同でその心を繋縛するため、凡夫人は六道の中で絶えず生死輪廻し、生まれ死に、死に生まれ、この世から後世へ、前世からこの世へと、全て識陰に繋縛されるが故であり、識陰を如実に了知し、見破ることができない。
二十二、如何に正しく識陰を認識するか(三)
『持世経』原文:識陰虚妄にして実ならず。顛倒に相応す。見聞覚知の法に因って起る。この中に実識なる者無し。もしかくの如く実観せずんば、或いは善識を起こし、或いは不善識を起こし、或いは善不善識を起こす。この人は常に識に随って行ず。識の生ずる所を知らず。識の如実相を知らず。
釈:識陰は虚妄であり、実有の法ではない。妄見の法であり、無の中に有を見る顛倒心と相応し、能見・能聞・能覚・能知の法によって生じる。いわゆる見聞覚知の中に、実在する識心が見聞覚知しているわけではない。もしこのように如実に識陰を観察しなければ、善法を造作する識陰を生じたり、あるいは不善法を造作する識陰を生じたり、あるいは善法と不善法を造作する識陰を生じたりする。このような人の心は常に識陰に従って流転し、識陰の出生する処所を知らず、識陰の真実の相貌を知らない。
原文:持世よ、菩薩摩訶薩は此の中に於て、かくの如く正しく観ず。識陰は虚妄識より起ることを知る。所謂見聞覚知の法中に衆因縁生ず。法無きに法想を生ずるが故に、識陰に貪着す。是の諸菩薩、如実に観ずる時、識陰虚妄にして実ならず、本より已来常に生ぜざる相なることを知る。非陰なるこれ識陰、想陰なるこれ識陰、幻陰なるこれ識陰を知る。
釈:持世よ、菩薩摩訶薩は見聞覚知の中で、如実に識陰を正観し、識陰が虚妄の識から生じることを了知する。すなわち見聞覚知の法の中で、多くの因縁によって識陰が生じ、法がないのに法の念想を生じ、そこで識陰に貪着する。諸大菩薩がこのように如実に観察する時、識陰が虚妄不実であり、本以来全く出生したことがないことを知る。識陰の本体相貌がないものがいわゆる識陰であること、心念思想が流転する想陰も識陰であること、種々の虚構の陰入法がいわゆる識陰であることを知る。
原文:譬えば幻の化する人の識、内にも在らず亦外にも在らず、亦中間にも在らず。識性も亦かくの如し。幻性の如く虚妄の縁より生じ、憶想分別より起り、実事無し。機関木人の如し。識も亦かくの如し。顛倒より起り、虚妄の因縁和合の故に有り。かくの如く観ずる時、識は皆な無常・苦・不浄・無我なることを知る。識相は幻の如しと知り、識性は幻の如しと観ず。
釈:例えば幻化不実の人の識心は、内になく、外になく、内外の中間にもない。識心の性質もまたこれと同じで、幻化性であり、虚妄の縁法によって出生し、憶想分別から生じ、実在の分別性はない。ちょうど仕掛けられた木偶人(でく)のようなものである。識陰もまたこれと同じで、顛倒の心行から生じ、虚妄の因縁が和合して初めて識陰の作用がある。このように正しく識陰を観察する時、識陰は全て無常・苦・不浄・無我であることを知る。識陰の相貌が虚構であることを知り、識陰の性質も虚構不実であると観察する。