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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 24

第三章 五蘊の具体的な観行の方法(2)


十四、気息を観じて身見を断つ方法

問:禅定を修する際、常に気の動きによって深い禅定に入ることができません。気を観行の対象とし、身見を断つ突破点とすることは可能でしょうか?

答:深い禅定に入ることができないならば、観行も深く連続したものにはなりません。これは何を観行する場合でも同じです。しかし、もし観行を一心不乱に連続しておこなうことができるならば、禅定は次第に深まっていきます。定と慧、止と観は互いに関連し合い、互いに促進し合う関係にあります。気を観るとは気息を観ることであり、気息は呼吸とも関係します。これは四念処の観行の範疇に入ります。五蘊のいずれの法を手がかりとして観行を始めても、身見を断つことができます。重要なのは未到地定を得ていることです。

身体内の様々な気は物質的な色法です。もし気の生住異滅、苦・空・無常・無我を観行できたとしても、それは色蘊に対する我見を断つことができるだけであり、識心に対する我見はまだ断つことができません。しかし、身体中の気を明瞭に観行できることも非常に良いことです。点から面へと広げることで、全身の色法を明瞭に観行し、その来歴を知り、その生滅変異無常を証することができます。色身に対する我見だけを断つことも非常に優れた成果です。煩悩が軽減された後、識心の苦集滅道を観行すれば、より容易になるでしょう。

では、気を観行してどのように身見を断つのでしょうか? 俗に「一息続かなくなれば、気絶して命を落とし、生死を分かつ」と言います。気は色身にとってそれほど重要なものです。気は身体内で身体が必要とする酸素を運び、血液の流れを促します。気と血が合わさって色身が生きるために必要な養分となります。気血の潤いがなくなれば、色身は必ず滅びます。気は四大種子によって構成される色法であり、風大を主とします。したがって気は流動性と漂動性を持ち、全身に行き渡ることができます。一旦どこかで詰まって流れなくなると、その場所に病障が現れます。気が四大で構成される色法である以上、それは生滅変異する無常の法です。気の無常性、変異性、空性を観行すれば、それが苦性であることを知り、苦性は我でもなければ我所でもないとわかります。気が我ではないならば、気によって支えられている色身も同様に、生滅変異し無常であり、苦・空・無我です。気という角度から観行しても、身見を断つことができます。

十五、空は見つめることができるか?

問:座禅中に自分を空じ、一心に「空」を見つめることはできますか?

答:自分を空じようとするなら、まず何が自分なのかを知らなければなりません。空じる心が自分であり、空じられる法が自分です。自分を空じてしまえば、空じる心も空じられる法もなくなります。そうなると、すでに自分を空じたのに、どうして空を見つめることができるでしょうか? 空を見つめる必要などあるでしょうか? 空を見つめようとする「見る」という行為そのものが空ではなく、能見(見る側)と所見(見られる対象)があり、能所がともに存在しているならば、それは空ではありません。あなたが見ているその空もまた「有」であり、これは頭上にさらに頭を乗せるようなものです(余計なものをつけ加えている)。

座禅中に自分を空じたとしても、その状態を保とうと念を起こせば、それは空ではありません。空の境に住すること、あるいは空の心で静座することは、純粋な禅定に過ぎず、無我の智慧を生み出すことはできません。定の中で観を起こさなければ、観の智慧を生み出すことはできません。これは六祖壇経で六祖がはっきりと批判していることであり、読む時はよくわかっても、実践の場面になると混乱してしまうものです。定の中に法義を観照する心がなく、観行がなく、疑情(深く疑い探究する心)がなければ、智慧を生み出すことはできません。例えば念仏三昧で、どれほど深く定に入ったとしても、その中に疑情がなく、観行がなく、参究(探究)がなければ、どうして智慧を生み出し我見を断ったり、明心(心の本性を悟る)したりできるでしょうか?

観行とは何でしょうか? 例えば世俗の事柄について、人や出来事を多く経験するうちに、次第に見抜けるようになり、やがて気にしなくなります。観行もこれと同じで、多く見ることで見抜けるようになります。「見抜ける」とはどういう意味でしょうか? 人と長く接していると、その人を見極めることができ、取捨を決め、さらに付き合いを続けるかどうかを決めます。自分自身を観察するのも同じです。五蘊身心を常に観行していると、時が経つにつれて五蘊を見抜けるようになります。道理は同じです。智慧が少し優れている人は、早く見抜けるかもしれません。智慧が非常に乏しい人は、来世以降にわかるでしょう。しかし、この基礎は必ず築かなければならず、修行の努力は必ずしなければなりません。

十六、心は空にして無為、有為は空ならず

仏道を学び修行する者は、人々の中でも独りでいる時でも、自分の存在感を弱め、自分をあまり気にせず、自分を大したものと思わず、争い強がらず、何事も一番になろうとすべきではありません。自分は実在せず、相手も実在せず、集団も実在せず、第一も第二もなく、最良も最悪もなく、すべては仮の名相に過ぎません。もし人が心の中で常に「私はすべての人に勝たなければならない」「私は必ずすべての人よりも良く、強くなければならない」と思い、常に人より抜きん出よう、目立とうとし、すべての目を自分に向けさせたいと望むならば、そのような考えは「我」の性質が非常に強く、無為(作為のない自然の境地)に相応せず、聖人の心に相応しません。我見を断って聖賢となることは非常に困難です。

聖人の心は空にして無為であり、そのような心性はありません。自分をより際立たせようとすればするほど、心性は人後に落ちます。聖人はこれと反対で、自我の存在感がなく、有為の事を行いながら心は無為です。ただ一心に大衆のために尽くす人だけが、聖人となる資格があります。

十七、虚相・仮相にも虚妄の作用がある

真空とは、如来蔵を指します。それは真実でありながら性は空であり、その心体には一法もないのにすべての法を変現することができます。妙有とは、五陰十八界の法の相は「有」ではあるが、その実質は「無」であり、すべて如来蔵が変現した虚妄の法です。虚妄の法は虚妄ではあるが、すべてが存在しないとは言えません。なぜなら、衆生は刹那ごとにそれを使っているからです。五陰を使って食事をし、衣を着て、歩き、五陰を使って生活しています。衆生は虚妄の十八界の中で生きており、見るのは仮の色、聞くのは仮の声、嗅ぐのは仮の香、味わうのは仮の味、感じるのは仮の触、識別するのは仮の法です。見・聞・嗅・味・触・識はすべて五陰の作用です。したがって、五陰の表面的な存在現象を否定することはできません。

五陰は真実の存在ではありませんが、虚妄の存在という様式はあります。明らかに衆生は毎日五陰を使っているのに、五陰は存在しないと言うのです。心から五陰が確かに虚妄であると認められる時、それが我見を断つことです。衆生が皆そうなりますように。もし五陰の虚相さえも存在しないと否定するならば、それもまた我見を断つことはできません。なぜなら、五陰十八界を観行できなければ、五陰十八界の虚妄不実の性質を見極めることができず、したがって我見を断つこともできず、すべての無明煩悩を消し去ることもできないからです。

十八、一切の法はみな仮名である

例えば国家。単独の一人は国とは呼びません。単独の一人が国でないならば、複数の人も国ではなく、十億人も国ではありません。国とはどこにあるのか? 仮名です! ゆえに一切の法はみな仮名であり、真如を除いては実体がありません。同様に、一つの頭は人とは呼べず、一つの腕は人とは呼べず、一本の脚は人とは呼べず、組み合わせても人とは呼べません。人とは何か? 人などいない! これは仮名であり、実体はありません! 一切の法はみな仮名であり、真如を除いては実体がありません。

何々というその人とは何か? 何々というその人はおらず、頭や目や脳や髄も何々というその人ではなく、腕や脚も何々というその人ではなく、思想や覚知や観念や感受も何々というその人ではありません。それらが和合してもなお何々というその人ではなく、しかしこの法を離れて何々というその人を見ることはありません。もし誰かが何々というその人を罵れば、その人を罵ることができるでしょうか? できません! もし誰かが何々というその人を打てば、その人を打つことができるでしょうか? これもできません! 何々というその人は空であり、打つことも罵ることもみな空です! その人もその事も実在しません。

十九、五陰はなぜ仮相なのか?

問:なぜ尊貴な五陰も卑賤な五陰もみな仮相だと言うのですか? また、なぜ心経で諸法はみな空相で不生不滅だと言うのですか?

答:例えば、子供が積み木で家を積み上げては壊し、その後また積み上げては壊し、反復継続して絶えず積み上げたり壊したりします。家は無から有となり、また有から無となり、生じては滅び、滅びては生じます。したがって家は幻であり、仮相であり、空相であると言います。しかし積み木は常に存在し、壊れることはありません。積み木が存在し、子供が飽きずに積み上げる限り、家は絶えず出現し存在します。したがって家は常に存在する空相であり、不生不滅であると言います。

同様に、五陰は七大の種子によって構成されます。因縁が具足した時、七大の種子は五陰を組み立てます。因縁が散じた時、五陰は散じ、再び原始の七大の種子の状態に戻ります。因縁が再び具足した時、七大の種子は再び五陰を組み立てます。このように五陰は因縁業力に従って絶えず生じたり滅びたりします。福ある業種と因縁に依って構築された尊貴な五陰であろうと、福なき業種と因縁に依って構築された卑賤な五陰であろうと、みな仮相であり、幻化の相であり、空相です。

五陰が滅びると、七大の種子が残ります。そしてこの七大の種子は因縁が再び具足した時、再び五陰を構築します。反復して絶えず五陰を出生します。このように七大の種子に依って五陰は永遠に出生し、永遠に存在し続け、断絶しません。そうすると、この角度と意義から言えば、空相の五陰もまた不生不滅となります。衆生は永遠に流転し続けることになります。七大の種子があり、業種があり、因縁があるならば、五陰をどうすることもできません。

二十、識陰を正しく認識する方法(一)

『持世経』原文:仏、持世に告げたまわく、何を菩薩摩訶薩の正しく識陰を観察選択するというや。菩薩摩訶薩は陰ならざるを観る、これ識陰なり。倒錯の陰はこれ識陰なり。虚妄の陰はこれ識陰なり。なんとなれば。持世よ。この識陰は倒錯より起り、虚妄の縁に繋がれ、先業より有り、現在の縁に繋がれ、衆因縁に属し、虚妄にして所有すること無し。

釈:仏は持世菩薩に言われた。何を菩薩摩訶薩が正しく識陰を観察し認識することと言うのか? 菩薩摩訶薩は、識陰と呼ばれるような陰は何もないことを観るのであり、識陰は無所有である。倒錯の陰が識陰であり、虚妄の陰が識陰である。なぜそう言うのか? 持世よ、識陰は倒錯心によって出生し、識陰は虚妄の業縁によって繋縛され、識陰は過去世の業によって生じ、現在の業縁によって繋属されるからである。識陰は多くの因縁が和合して初めて出生するものである以上、識陰は虚妄無所有であり、空である。

識陰の粗相の虚妄を証得するのは無生忍であり、極細相の虚妄を証得するのは無生法忍である。本来法は無いのに、法の無い中で、因縁の力によって強引に識陰が建立される。識陰は虚妄・虚構・無所有である。この理を容認するのが無生忍または無生法忍である。

原文:憶想分別より起り、識より生ず。識するところ有るが故に、これを識と名づく。憶想分別の覚観より生じ、仮借して有り、識するところ有るが故に、数を識と名づく。もって諸物を識するが故に、もって心業を起こすが故に、もって思惟するが故に、衆縁生相の故に、種種の思惟を起こすが故に、数を識陰と名づく。識するところ有るより、識像出で、心業を示すが故に、思惟を摂するが故に、数を識陰と名づく。

釈:識陰は意根の憶想分別によって生じ、阿頼耶識から生じる。識陰には識別の機能があるので、識陰と呼ばれる。識陰は意根の憶想分別の覚観によって出生し、多くの因縁を仮借して有り、また識別の機能作用があるので、五陰の数に堕ち、識陰と呼ばれる。識陰が諸法を識別できるから、心の業行を生じさせることができるから、識陰が思惟を起こすから、多くの因縁和合相があるから、種々の思惟を起こすことができるから、五陰の数に堕ち、識陰と呼ばれる。

原文:或いは心と名づけ、或いは意と名づけ、或いは識と名づく。皆是れ意業の分別の故に、識陰の摂するところなり。識相・識行・識性の示すが故に、数を識陰と名づく。かくの如く陰ならざるは是れ識陰、生ぜず起らず作らず、但だ倒錯相応の縁に以て、虚妄識の故に、数を識陰と名づく。

釈:識陰はある時は心と呼ばれ、ある時は意と呼ばれ、ある時は識と呼ばれる。これらはすべて意業の分別に属し、識陰によって摂受されるものであり、識の相貌、識の運行、識の性質が示されるので、五陰の数に堕ち、識陰と呼ばれる。このように本来陰入の陰がないものを識陰と呼び、識陰は実は本より出生せず、本より起用せず、本より何の機能作用もないが、倒錯相応の業縁によって、虚妄に諸法を識別するので、五陰の数に堕ち、識陰と呼ばれる。

原文:なんとなれば。この識陰は衆因縁より生ず。自性無し。次第相続して生ず。念念生滅す。この識縁は陰相を生ぜず。なんとなれば。この識陰の生相は得べからず。決定相も亦得べからず。生相得べからざるが故に。決定相得べからざるが故に。根本所有無きが故に。自相無きが故に。牢堅得べからざるが故に。

釈:なぜそう言うのか? 識陰は多くの因縁和合から出生するので、識陰自体の自体性はない。識陰は次第に相続して出生し、念念生滅している。このような識の縁は陰入の相貌を出生しない。なぜか? 識陰の生じる相貌は不可得であり、識陰には生じることがないので生じる相貌もなく、識陰の決定有相も不可得であるからである。識陰の生相が不可得であり、決定有相が不可得であり、識陰は根本的に無所有であり、識陰の自体相も無所有であり、識陰の牢固相も無所有であるからである。

二十一、識陰を正しく認識する方法(二)

『持世経』原文:智者は正しく観察選択し、陰ならざるは識陰なりと通達す。凡夫は識陰ならざるに於て識陰相を生じ、覚観分別憶想を以て、倒錯相応し、虚妄に繋がれ、強いて識陰と名づく。識陰を貪着す。識するところに依止し、識に依止し、種種に思惟を示すが故に、識陰を生起す。是の人は種種に分別し、内識を貪着し、外識を貪着し、内外識を貪着し、遠識を貪着し、近識を貪着す。識相を以ての故に、識陰を起こして分別す。

釈:智慧ある者は正しく観察し、抉択し、通達すべきである。いわゆる識陰は本来、陰入自体の性も相もなく、識陰ではないものを仮に識陰と名づけている。しかし凡夫は、識陰ではない法に対して識陰の相貌を生じ、自らの覚観、憶想、分別を用い、倒錯心と相応し、虚妄相に繋縛され、強いて識陰と名づける。凡夫は虚妄相を識陰として貪着し、虚妄の識別性に依止し、識陰に依止し、種々に識陰の思惟機能性を示現し、識陰相を生起する。

凡夫人は種々に分別し、身内の塵を識別する内識を貪着し、身外の塵を識別する外識を貪着し、内外識を貪着し、過去未来の遠い識を貪着し、現在眼前の近い識を貪着する。虚妄に識心の相貌を了別し、虚妄の識心相貌を了別するので、これらの虚妄の相貌を執って識陰とする。

原文:是の人は憶想分別を以て、若し心、若し意、若し識、仮借して強いて是れ心、是れ意、是れ識と名づく。かくの如く種種の心相生ずるを知る。是の凡夫は識陰を貪着し、識陰に繋がれ、心・意・識合するが故に、種種の識陰を起こす。虚妄の事を分別するが故に、一相を以ての故に、決定相を以ての故に、是の心・是の意・是の識を得て、能く分別愛着す。

釈:凡夫人は憶想分別を頼りに、これは心だ、これは意だ、これは識だと言い、識心の相貌を仮借し、強いて心・意・識と名づける。こうして分別すると、心中に識心の種々の相貌が生じる。凡夫人は識陰を貪着するので、識陰に繋縛され、心・意・識が和合して初めて識陰が顕現するので、心中に識陰の相貌が生じる。識陰が虚妄に種々の事相を分別できるから、虚妄に識陰の和合相を見るから、心中で識陰に相貌があると決定するから、凡夫人はそれを心・意・識だと執り、さらに分別し貪着する。

原文:是の人は識陰に依止し、深く識を貪うが故に、亦た過去の識陰を得、貪着して有りと念う。亦た未来の識陰を得、貪着して有りと念う。亦た現在の識陰を得、貪着して有りと念う。諸の凡夫は見聞覚知の法中に於て、識陰を得と計り、貪着して有りと念う。是の人は見聞覚知の法を貪着し、識陰に繋がれ、その知る所を貴び、心・意・識合して繋がるが故に、馳走往来す。いわゆるこの世よりかの世に至り、かの世よりこの世に至る。皆識陰に繋がるが故に、能く如実に識陰を知ること無し。

釈:凡夫人は識陰に依止し、深く識陰を貪着するから、過去の識陰をも執り、識陰を貪着して確かにあると執る。未来の識陰をも貪着して確かにあると執り、現在の識陰をも執る。

識陰を貪着して実有の法であると執るので、諸凡夫人は一切の見聞覚知の法の中で、計って執って識陰の機能作用であるとする。識陰を貪着し有と計るので、凡夫人は見聞覚知の法を貪着し、識陰に繋縛され、能知能覚の法を宝愛し大切にする。心・意・識の三者が和合して共同でその心を繋縛するから、凡夫人は六道の中で絶えず生死輪廻し、生まれ死に、死に生まれ、この世から後世へ、前世からこの世へと、みな識陰に繋縛されるが故に、識陰を如実に了知し、見破ることができない。

二十二、識陰を正しく認識する方法(三)

『持世経』原文:識陰は虚妄にして実ならず。倒錯相応す。見聞覚知の法より起こる。此の中に実識なるもの有ること無し。若し能くかくの如く実観せずんば、或いは善識を起こし、或いは不善識を起こし、或いは善不善識を起こす。是の人は常に識に随って行く。識の生ずる所を知らず。識の如実相を知らず。

釈:識陰は虚妄であり、実有の法ではなく、妄見の法であり、無中に有を見る倒錯心と相応し、能見・能聞・能覚・能知の法によって生じる。いわゆる見聞覚知の中には、実在の識心が見聞覚知しているわけではない。もしこのように識陰を如実に観察しなければ、善法を作る識陰を生じたり、不善法を作る識陰を生じたり、善法と不善法を作る識陰を生じたりする。このような人は心が常に識陰に従って流転し、識陰の出生する処所を知らず、識陰の真実の相貌を知らない。

原文:持世よ。菩薩摩訶薩は此の中に於て、かくの如く正しく観る。識陰は虚妄識より起ると知る。いわゆる見聞覚知の法中、衆因縁より生じ、法無きに法有りと想うが故に、識陰を貪着す。是の諸の菩薩、如実に観る時、識陰は虚妄にして実ならず、本より已来常に生ぜざる相なるを知る。陰ならざるは是れ識陰、想陰は是れ識陰、幻陰は是れ識陰と知る。

釈:持世よ、菩薩摩訶薩は見聞覚知の中で、如実に識陰を正観し、識陰が虚妄の識から生じたことを了知する。つまり見聞覚知の法の中で、多くの因縁によって識陰が生じ、法のない中に法の念想を生じたので、識陰を貪着する。諸大菩薩がこのように如実に観察する時、識陰が虚妄不実であり、本以来ずっと生じたことのない相であることを知る。識陰の本体相貌がないものがいわゆる識陰であり、心念思想が流転する想陰も識陰であり、種々の虚構の陰入法がいわゆる識陰であることも知る。

原文:譬えば幻の化する人の識、内にも在らず亦た外にも在らず、亦た中間にも在らず。識性もまたかくの如し。幻性の如く虚妄の縁より生じ、憶想分別より起り、実事有ること無し。機関木人の如し。識もまたかくの如し。倒錯より起り、虚妄の因縁和合の故に有り。かくの如く観る時、識は皆無常・苦・不浄・無我なるを知る。識相は幻の如しと知り、識性は幻の如しと観る。

釈:例えば幻化不実の人の識心は、内にもなく、外にもなく、内外の中間にもない。識心の性質もこれと同じで、幻化性であり、虚妄の縁法によって出生し、憶想分別によって生じ、実在の分別性はない。まるで仕掛けのある木偶人(からくり人形)のようである。識陰もこれと同じで、倒錯の心行から生じ、虚妄の因縁が和合して初めて識陰の作用がある。このように正しく識陰を観察する時、識陰はすべて無常・苦・不浄・無我であることを知り、識陰の相貌が虚構であることを知り、識陰の性質も虚構不実であると観る。

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