観行五蘊我見断ち(第二部)
第六章 倶舎論第二十三巻(四加行)
本巻は、瑜伽行者が声聞の四念住を修習する過程において生じる四種の善根、すなわち暖法善根・頂法善根・忍法善根・世第一法善根について述べる。この四善根はまた声聞の見道以前の四加行位でもある。かくの如き四加行を行じた後には、法眼浄を得て初果乃至四果を証得する。もし四念住を修せず、白骨観などの他の四聖諦法を修習しても、やはりこの四善根が生じ、四加行位に住し、最後に初めて見道して果を証するのである。
四種の善根の中で、暖法善根を得た者は、なお退転して善根を断じ、あるいは無間地獄業を造り、死して悪道に入ることは可能であるが、六道輪廻において長く流転することなく涅槃に至ることができる。頂法善根を得た者は、退転することはあっても善根を失わず、畢竟して断絶せず、むしろ善根を増長する。忍法善根を得た者は、善根が増長して退くことなく、命終しても再び異生位に住せず、無間地獄業を造らず、悪道に堕ちず、卵生や湿生となることもなく、無想天や北倶盧洲および大梵天処に生まれることもなく、黄門や両性人となることもなく、また第八度三界に生まれることもなく、見道によって断ずべき惑はついに再び現れない。世第一法善根を得た者は、なお暫時は異生位に住するが、正性離生に趣入し、必ず見道して生死の苦を離れるのである。
第一節 暖善根と頂善根
原文:頌に曰く、彼は法念住に住し、総じて四つの所縁を観じ、非常及び苦空非我の行相を修す。論に曰く、彼の観行者は、縁に総雑に居し、法念住の中に在って、総じて所縁たる身等の四境を観じ、四つの行相、すなわち非常・苦・空・非我を修す。この観を修した後、いずれの善根を生ずるや。
釈:頌に曰く、正に四念住のうち法念住を修習している行者は、総体的に身・受・心・法の四つの所縁境を観行し、身・受・心・法の苦・空・無常・無我の行相を観行すべきである。論に曰く、四念住を観行する行者は、触対する縁に総有と雑有があり、法念住を観行する際には、総体的に所縁たる身・受・心・法の四つの所縁境界を観行し、苦諦の四つの行相である苦・空・無常・無我を修習すべきである。かくして法念住の観行を修習した後、いかなる善根が生じるであろうか。
ここで意味するのは、法念住を修習する段階において、総体的に身・受・心・法の所縁境を観行すれば、四善根、名付けて四加行が生じるのであり、見道の前になって初めて四加行を修し、法念住を修習する以前には四善根は未だ現れず、機縁が至らず、善根が成熟していないが故である。
原文:頌に曰く、此より暖法を生じ、四聖諦を具観し、十六行相を修す。次に頂を生ずるもまた然り。かくの如き二つの善根は、皆初めは法念住にして後は四つなり。次に忍は唯法念住、下中品は頂と同じ。上は唯だ欲界の苦を観じ、一行一刹那なり。世第一もまた然り。皆慧を以て体とし、得を除き五蘊なり。
釈:偈頌に曰く、四念住の苦・空・無常・無我を修習した後、暖法が生じ、暖法善根は四聖諦を具足して観行し、十六種の行相、すなわち苦諦四行相・集諦四行相・滅諦四行相・道諦四行相を修習する。引き続き法念住を修習した後もまた同様に頂法が生じ、やはり四聖諦を具足して観行し、十六種の行相を修習する。暖法と頂法の二つの善根は、共に最初は法念住を修習し、総体的に身・受・心・法の四つの所縁境を観行し、後に四聖諦を修習して生じたものである。
その後続く忍法善根は、法念住のみを修習すれば生じる。忍法の下品と中品の善根は頂法善根の観行する所縁と同じであり、忍法の上品善根は、唯だ欲界の苦を観行し、五蘊中の各行の各刹那を観じてその苦諦を観行する。世間第一法というこの善根も同様であり、皆法念住を修習する時に生じるものであり、下品と中品の観行する所縁は頂法と同様であるが、上品は唯だ欲界の苦を観ずる。四種の善根は皆慧を体とし、智慧の体性であり、第五の得法得道者の善根を除く。
十六種の行相とは、四聖諦を修習した後に現れる行相であり、その中で苦聖諦は四念住の苦・空・無常・無我性を観察し、この四つの行相を具える。集聖諦は集諦の因・集・起・縁の四行相を観察し、滅聖諦は滅諦の滅・静・妙・離の四行相を観察し、道聖諦は道諦の道・如・行・出の四行相を観察する。暖法と頂法善根の修習においては、共に十六種の行相を修し、その中の観行智慧は次第に深細となり、禅定も次第に深入し、定慧の次第は漸次に深入して、第四の善根たる世間第一法が円満した後、定慧が具足して初めて見道できるのである。
原文:論に曰く、総縁共相の法念住を修習し、漸次に成熟し、乃至上上品に至る。此の念住の後より、順決択分有り。初の善根生じて、名付けて暖法と為す。此法は暖の如く、暖法の名を立てる。是れ能く惑の薪を焼き、聖道の火の前相なり。火の前相の故に、暖と名付く。
釈:論に曰く、一切衆生の共相を総縁して法念住を修習すれば、その智慧は漸次に成熟し、上上品に達する。法念住を修習し終えた後、順決択分が生じ、四聖諦の理に順従し、最初の善根が生じる。この善根を暖法と名付ける。この智慧は温暖の相の如く、心が四聖諦によって熏され、四聖諦に趣向するが故に、暖法と名付けるのである。暖法は譬えば煩悩惑の薪材を焼き壊すことができ、聖道の火が現れる前の相貌であり、火が燃える前の状態の如きもので、暖と名付けられる。
見道を火相現前、材薪燃焼の義に譬え、火が現れる前に、最初に温度の変化が生じ、温度が上昇し、暖度が現れる。この時は暖法善根に相当する。温度が絶えず上昇し、熱量が一定程度に達すると、材薪が燃え、火が現れる。この中間には次第に頂法善根・忍法善根・世間第一法善根を経て、その後見道するのである。暖法の出現は、行者が四念住と四聖諦を修習することにより、心が既に変化し、四聖諦の理に随順して順決択分を生じ、もはや四聖諦の理に抗拒せず背かず、また四聖諦の理を初步的に受け入れ、かつ熏されたことにも相当する。
原文:此の暖善根は分位長きが故に、能く四聖諦の境を具観し、及び能く十六行相を具修す。苦聖諦を観じて四行相を修す。一に非常、二に苦、三に空、四に非我。集聖諦を観じて四行相を修す。一に因、二に集、三に生、四に縁。滅聖諦を観じて四行相を修す。一に滅、二に静、三に妙、四に離。道聖諦を観じて四行相を修す。一に道、二に如、三に行、四に出。此の相の差別は、後に当に弁ぜんが如し。
釈:この暖法善根が経過する修習段階が比較的長いが故に、即ち住する分位が長いが故に、暖法善根が現前する段階において、四聖諦の全ての真実の境界を具足して観察し、及び十六行相を具足して修行することができる。意味としては、苦諦のみを観察しても暖法善根は現れず、苦諦と集諦のみを観察しても暖善根は現れず、更に滅諦を観察しても尚暖法善根は現れず、四聖諦を全て観察して初めて暖法善根が現れるのである。
五蘊の苦聖諦を観察し、四つの行相、無常・苦・空・無我を修行する。五蘊の集聖諦を観察し、四つの行相、苦が集起する因・苦が如何に招集されるか・苦集が如何に出生するか・苦が何を縁として出生するかを修行する。滅聖諦を観察し、四つの行相、苦が如何に息滅するか・苦が滅した後は寂静である・寂静は最微妙の境界である・寂静後は苦を離れるを修行する。道聖諦を観察し、四つの行相、苦を滅する所修の道・所修の道が真実の理に契合する・身口意行が四聖諦の理に契合して涅槃に趣向する・三界を出離して永遠に解脱を得るを修行する。ここに涉及する全ての修習内容には差別があり、これらの差別相は後に弁論する。
原文:此の暖善根は、下中上品、漸次に増長し、成満の時に至りて、善根生じて、名付けて頂法と為す。此は転じて勝れたるが故に、更に異なる名を立てる。動く善根の中、此の法最も勝れたり。人の頂の如きが故に、名付けて頂法と為す。或いは此れ由りて是れ、進退両際、山頂の如きが故に、説いて頂と名付く。此もまた暖の如く、四諦を具観し、及び能く十六行相を具修す。
釈:この暖法善根が下品より中品へ、中品より上品へと漸次に増長して円満に至る時、別の善根が生じ、頂法善根と名付けられる。頂法善根がますます殊勝になるにつれ、別の名に改められる。この絶えず増長する善根の中で、頂法は最も超勝であり、人の頭頂の如きものであるから、頂法と名付ける。頂法と名付けるのは、また頂法が進退の両者の間に位置し、前は進み、後は退く。頂法は山頂の如きものであるが故に、頂法と名付けられる。頂法善根の段階も暖法の如く、四聖諦を具足して観察し、及び十六行相を具足して修行することができる。
原文:かくの如き暖・頂の二種の善根は、初め安足する時は、唯だ法念住なり。何の義を以てか初め安足と名付く。謂わく、随う所の善根、十六行相を以て、最初に四聖諦の跡を遊践するなり。後の増進する時は、四念住を具す。諸の先に得たる所は、後には現前せず。彼に於いて欽重の心を生ぜざるが故に。
釈:かくの如き暖法と頂法の二つの善根は、最初に生じる時は、法念住を修習する時にのみ現れる。何の故に初安足と言うのか。これは、如何なる善根に随伴して、十六種の行相をもって最初に四聖諦の観行に入るかという意味である。暖・頂法善根が増進した後は、四念住の修習が具足する。これ以前に修得した法は、以後は現前せず、何故ならば以前に修したそれらの法に対して、心に特に重んじる思いを生じないからである。それらの法は比較的粗浅で、既に越えて修する必要が無いためである。
第二節 忍善根と世第一善根
原文:此の頂善根は、下中上品、漸次に増長し、成満の時に至りて、善根生じて、名付けて忍法と為す。四諦の理に於いて能く忍可する中、此れ最も勝れたるが故に。又た此の位の忍は退堕無きが故に、名付けて忍法と為す。此の忍善根は、安足増進、皆法念住にして、前と別あり。然るに此の忍法は下中上有り。下中二品は頂法と同じ。謂わく、四聖諦の境を具観し、及び能く十六行相を具修す。
釈:頂法善根が下品より中品へ、中品より上品へと漸次に増長して成熟円満に至ると、他の善根が生じ、忍法と名付けられる。苦集滅道の四聖諦の理を忍可できる善根の中で、この忍法が最勝であるが故に、忍法と名付けられる。またこの忍位は退堕せず戻らないが故に、忍法と名付けられる。四聖諦の理の修習過程において、容忍・安忍・忍可・認可できるものの中で、忍法善根が最勝品に属し、この忍位において、心は四聖諦の理に退堕せず、故に忍法と名付けられる。
この忍法善根の最初の生起と漸次的な増進は、共に法念住を修する時に現れる。前の三念住を修しても忍法善根は生じず、忍法善根は雑修によって生じるものではなく、これが前の暖・頂善根と区別される点である。この忍法善根も下中上の三品に分かれ、下品・中品は頂法と同じく、共に四聖諦の理を具足して観察し、及び十六行相を具足して修習する。
上文より知られるように、忍法善根は四聖諦の理を認めない状態に戻ることはない。暖法と頂法善根は戻る可能性があり、即ち既に生じた順決択分が失われ、内心に順決択分がなくなり、四聖諦の理に随順せず、苦集滅道の理を受け入れなくなる。智慧が退堕する原因は様々であり、如何なる因縁も智慧の退堕を招きうる。業障が大きければ仏を信じ学ぶことを止めるかもしれない。しかし業障が過ぎ去れば、再び仏法を学び修行する勇気と信心が燃え上がり、再び暖法や頂法善根を修得する可能性もある。しかし忍法善根を修得した段階では戻ることはない。
四種の善根は皆修慧に属し、修行によって獲得される智慧である。故に聞慧と思慧は退堕し得、堅固ではない。修慧の前半も退堕し得、堅固ではない。修慧の後期に至って智慧は堅固となり、退堕しなくなる。一旦見道して実証すれば、更に退堕することはない。見道後は禅定は退堕し得るが、見道の智慧は永遠に退堕せず、果位は退かない。三果を修得した時、初禅定は退堕し得て永遠に保持できないが、三果の解脱智慧と功徳は永遠に退堕せず、果位は退かない。見道以前は禅定は退堕しないかもしれないが、智慧は退堕し得る。智慧が退堕すれば、善根も退堕する。禅定の如何に関わらずである。
原文:上品は異なり、唯だ欲界の苦を観ず。世第一と隣接するが故に。此の義に由りて準うれば、暖等の善根は、皆能く三界の苦等を具縁す。義は既に成立し、簡別無きが故に。謂わく、瑜伽師は色界・無色界の対治道等に於いて、一一の聖諦、行相所縁を漸減漸略し、乃至唯だ二念の作意有りて、欲界の苦聖諦の境を思惟す。此れ以前を斉しくして中忍位と名付く。此の位より無間に勝れたる善根を起こし、一行一刹那、名付けて上品忍と為す。此の善根起こるは相続せざるが故に。上品忍無間に、世第一法を生ず。
釈:忍法善根の上品は頂法と差別があり、上品は唯だ欲界の苦を観察し、世間第一法と緊密に隣接する。この義理によって確定されるのは、暖・頂・忍等の善根が現れる時、皆三界の苦等の四聖諦を具足して縁とすることができ、この義理が心中に既に成立しているため、改めて選別する必要がないということである。ここにおいて瑜伽行者は色界と無色界の修道の四聖諦の対治法について、各聖諦の行相所縁を次第に減少・簡略化し、遂に最後には二念の作意のみで、欲界の苦聖諦の境界を思惟する。
これ以前を中忍位と名付ける。中忍位より無間断に更に殊勝な善根が生じ、各行の各刹那を上品忍と呼ぶ。忍法が最初に生じる時、善根は相続しないが、上品忍を修すると善根は無間断となり、この時に世間第一法が生じる。
原文:上品忍の如く、欲界の苦諦を縁とし、一行相を修し、唯一刹那なり。此れ有漏なるが故に、世間と名付け、最も勝れたるが故に、第一と名付く。此の有漏法は世間中最も勝れたり。是の故に名付けて世第一法と為す。士用の力有り、同類の因を離れ、聖道を引いて生ぜしむ。故に名付けて最勝と為す。
釈:世第一法は上品忍と同じく、皆欲界の苦聖諦を縁とし、十六種の行相の各々を修し終えるのに一刹那の時間のみで完了する。しかしこの善根は有漏であるため、世間と名付けられる。世間中最も殊勝であるため、第一と名付けられる。この有漏法は世間中最も殊勝であり、故に世間第一法と言われる。この世第一法には大きな作用があり、凡夫同類の因を離れ、聖道を引生するため、最勝と名付けられる。
世第一法はなお世間の法に属するが、しかし世間法の中で最も殊勝であり、以後は出世間法の証聖預流果である。出世間とは解脱に向かい、漸く三界を離れ、漸く涅槃に趣くことを意味する。故に四加行は見道前の最終段階であり、また準備段階でもある。
原文:かくの如き暖等の四種の善根は、念住性なるが故に、皆慧を体と為す。若し助伴を併せば、皆五蘊性なり。然れども彼得を除く。諸の聖者の暖等の善根が重ねて現前することを許さざるが故に。此の中の暖法は、初め安足する時は、三諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相、未来の四を修す。滅諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の一を修す。随う一行相現在に在りて、未来の四を修す。
釈:かくの如く暖・頂・忍・世間第一の四種の善根は、念住があるが故に、皆智慧を体とし、智慧性を具える。四善根が助伴と合わされば、皆五蘊性に属し、識蘊の具える善根と智慧である。しかし得法得道者を除き、その他は未だ諸聖賢者には属さない。何故なら暖等の四善根が再び現前し、加行位に住するが故であり、四善根後の見道者こそ聖者に属する。その中の暖法が最初に現れる時は、苦・集・滅の三聖諦法を縁とし、念住は現在の身・受・心・法に在り、未来世の身・受・心・法を修する。四聖諦の各諦中の各行相に随って、未来世の身・受・心・法を修する。また滅諦一法を縁とし、念住は現在の身・受・心・法に在り、未来世の法念住を修する。四聖諦中の如何なる現在の行相に随っても、未来世の身・受・心・法を修する。
原文:此の種性は、先に未曾得なり。要は同分の者にして、方能く修するが故に。後の増進する時は三諦を縁とし、随う一念住現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。滅諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。此の種性は先に既に曾得せしが故に、不同分の者も亦能く修するが故に。
釈:この声聞種姓の者は、以前に暖法を得たことがないため、同じ善根を具える者でなければ暖法を修習できない。後の時、善根が増進する際に苦・集・滅の三諦を縁とし、現前の一念住に随って、未来の四念住を修習する。四聖諦の現前の各行相に随って、未来の十六行相を修習する。滅諦法を縁とし、現前の念住において未来の四念住を修習する。滅諦の各行相に随って、未来の十六行相を修習する。この種姓は以前に既に暖法を得たが故に、異なる分位に住する者も修習できる。
原文:頂の初め安足は、四諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。後の増進する時は、三諦を縁とし、随う一念住現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。滅諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。
釈:頂法善根が生じ始めた時は、四聖諦法を縁とし、念住は現前の法に在って未来の四念住を修習し、四聖諦の現前の各行相に随って未来の十六行相を修習する。後に増進する際は、苦・集・滅の三諦法を縁とし、現前の一念住に随って未来の四念住を修習し、現前の各行相に随って未来の十六行相を修習する。滅諦を縁とし、現前の念住において未来の四念住を修習し、滅諦の現前の各行相に随って未来の十六行相を修習する。
原文:忍の初め安足及び後の増進は、四諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の十六を修す。然れども増進に於いて所縁を略する時は、略す所の所縁に随い、彼の行相を修せず。世第一法は、欲界の苦諦の法を縁とし、念住は現在に在りて、未来の四を修す。随う一行相現在に在りて、未来の四を修す。異分無きが故に。見道に似るが故に。
釈:忍法が最初に生じる時、及び後に増進する時は、四聖諦法を縁とし、現前の念住において未来の四念住を修習し、四聖諦の現前の各行相に随って未来の十六行相を修習する。しかし忍法が増進した後、幾つかの所縁法を省略する際は、省略された所縁法に随い、この法の行相を修習しない。世第一法は欲界の苦聖諦を縁とし、現前の念住において未来の四念住を修習し、苦諦の現前の各行相に随って未来の四行相を修習する。何故ならもはや他の分位が無いが故であり、この位は見道位に比較的似ているが、しかし畢竟見道ではない。
原文:論に曰く、此の暖・頂・忍・世第一法の四つの殊勝なる善根は、名付けて順決択分と為す。何の義に依って順決択分の名を建立するや。決とは決断を謂い、択とは簡択を謂う。決断簡択とは諸の聖道を謂う。諸の聖道は能く疑を断ずるが故に、及び能く四諦の相を分別するが故に。分とは分段を謂う。此の言は意を顕わす。順ずる所は唯だ見道の一分たる決択の分なり。故に決択分の名を得る。此の四を縁として決択分を引き、彼に順じて益するが故に、彼に順ずるの名を得る。故に此れを名付けて順決択分と為す。かくの如き四種は皆修所成なり。聞思所成に非ず。唯だ等引地なるが故に。
釈:論に曰く、此の暖・頂・忍・世第一法の四つの殊勝なる善根は、順決択分と名付けられる。これは如何なる義理に依って順決択分の名が建立されたのか。決とは決断の意味、択とは簡択分別の意味である。決断簡択は諸聖道法を指し、諸聖道は疑惘を断除でき、及び四聖諦の相貌を分別できるが故である。分とは分段の意味であり、言葉は既に意趣を示している。順ずる所は見道の一分、決択の分位であるため、決択分の名を立てる。
暖・頂・忍・世第一法の四善根を縁として決択分を引き起こし、聖道に順従し増益するが故に、順決択分の名を得、故に順決択分と呼ばれる。如是の四種の善根は皆修所成慧であり、聞所成慧や思所成慧ではなく、唯だ等引地に摂せられる。