衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年03月29日 閲覧数: 826
<h3 style="text-indent: 2em;">第四節 修道の功徳</h3>

原文:当知此中。由观察作意。于一切修道。数数观察。已断未断。如所得道。而正修习。又于此中。云何名修自性。云何名修业。云何名修。品类差别。谓由定地作意。于世出世。善有为法。修习增长。无间所作。殷重所作。令心相续。会彼体性。如是名为。修之自性。

解釈:修道の過程において、観察作意があるために、一切の修道の過程で、繰り返し何度も、自分がすでに断除した煩悩とまだ断除していない煩悩を観察し、修すべき道にしたがって、正しく如理に修習する。四聖諦の修習の過程において、修自性とは何をいうのか。修業とは何をいうのか。修の品類差別とは何をいうのか。禅定において作意して修習し、世間・出世間の善なる有為法に対して、絶えず修習し、精進して修習し、間断なく善を行い、精勤に善を修めば、心を相続して善法の中に住せしめ、心と善の体性とを会合させる。これを修の自性と名づけるのである。

原文:当知修业。略有八种。一有一类法。由修故得。二有一类法。由修故习。三有一类法。由修故净。四有一类法。由修故遣。五有一类法。由修故知。六有一类法。由修故断。七有一类法。由修故证。八有一类法。由修故远。

解釈:修業には大略八種がある。第一に、修によってはじめて得られる一類の法がある。第二に、修によってはじめて現前出現する一類の法がある。第三に、修によってはじめて清浄となる一類の法がある。第四に、修によってはじめて遣除できる一類の法がある。第五に、修によってはじめて証知できる一類の法がある。第六に、修によってはじめて断除できる一類の法がある。第七に、修によってはじめて証得できる一類の法がある。第八に、修によってはじめて遠離できる一類の法がある。

原文:若先未得。殊胜善法。修习令得。名修故得。若先已得。令转现前。名修故习。若先已得。未令现前。但由修习。彼种类法。当令现前。令转清净。鲜白生起。名修故净。若有失念。染法现行。修善法力。令不忍受。断除变吐。名修故遣。

解釈:もし先に殊勝な善法を得ておらず、修習によってそれを得たならば、これを修故得と名づける。もし先にすでに善法を得ており、修習によって善法を現前出現させるならば、これを修故習と名づける。もし先にすでに善法を得ていながら、まだ善法を現前出現させておらず、しかしその種類の善法を修習することによって、それを現前させ、さらに清浄にし、鮮白に生起させるならば、これを修故浄と名づける。もし失念によって染汚法が現行したとき、善法を修める力によって、心をして染汚の法を忍び受くことなからしめ、それを断除して吐き出すならば、これを修故遣と名づける。

原文:若未生起。所应断法。修善法力。了知如病。深心厌坏。了知如痈如箭。障碍无常苦空。及以无我。深心厌坏。名修故知。如是知已。数修习故。无间道生。断诸烦恼。名修故断。烦恼断已。证得解脱。名修故证。如如进趣。上地善法。如是如是。令其下地已断。诸法转成远分。乃至究竟。名修故远。当知是名。八种修业。

解釈:もし断除すべき法がまだ生起していないとき、善法を修める力によって、断除すべき法は病のごとしと了知し、深心に厭壊し、断除すべき法は癰のごとく毒箭のごとしと了知し、無常・苦・空および無我の智慧を障礙するものであると知って、深心に厭うならば、これを修故知と名づける。かくのごとく断除すべき法の体性を了知したのち、繰り返し修習するがゆえに、無間道が生じて、もろもろの煩悩を断ずる。これを修故断と名づける。煩悩を断除したのち、解脱を証得する。これを修故証と名づける。かくのごとくかくのごとくと、上地の善法に向かって進趣し、かくのごとくかくのごとくと、下地の煩悩を断除させ、もろもろの下地の法を自分から遠ざかるものとし、ついには究竟に遠離させる。これを修故遠と名づける。以上が八種の修業であると知るべきである。

原文:应知此修。品类差别有十一种。一奢摩他修。二毗钵舍那修。三世间道修。四出世道修。五下品道修。六中品道修。七上品道修。八加行道修。九无间道修。十解脱道修。十一胜进道修。

解釈:修行者はこの修習の品類と差別には十一種があることを知るべきである。第一、止(シャマタ)と禅定の修法。第二、観(ヴィパッサナー)と智慧の修法。第三、世間道の修習。第四、出世間道の修習。第五、下品道の修習。第六、中品道の修習。第七、上品道の修習。第八、四加行道の修習。第九、無間道の修習。第十、解脱道の修習。第十一、勝進道の修習。

原文:奢摩他修者。谓九种行。令心安住。如前已说。毗钵舍那修。亦如前说。世间道修者。谓于诸下地。见粗相故。于诸上地。见静相故。乃至能趣。无所有处。一切离欲。出世道修者。谓正思惟。苦真是苦。集真是集。灭真是灭。道真是道。由正见等。无漏圣道。乃至能趣。非想非非想处。一切离欲。

解釈:止の修習とは、九種の方法によって心を安住させることであり、前述のとおりである。毘鉢舎那の修習もまた前述のとおりである。世間道修とは、もろもろの下地(欲界)において粗相を見、もろもろの上地(色界と無色界)において静相を見ることであり、ついには無所有処に趣向でき、一切の地において欲を離れて欲に執着せず、世間において無碍である。出世間道修とは、苦諦は真に苦である、集諦は真に集である、滅諦は真に滅である、道諦は真に道であると正しく思惟できることであり、正見などの無漏の聖賢の道によって、ついには非想非非想処に趣向でき、一切の地において欲を離れて欲に執着せず、出世間道において無碍である。

原文:下品道修者。谓由此故。能断最粗。上品烦恼。中品道修者。谓由此故。能断所有。中品烦恼。上品道修者。谓由此故。能断所有。最后所断。下品烦恼。

解釈:下品道修とは、この種の修によって、最も粗重な上品の煩悩を断除できるということである。中品道修とは、この種の修によって、すべての中品の煩悩を断除できるということである。上品道修とは、この種の修によって、最後に断除すべきすべての下品の煩悩を断除できるということである。

原文:加行道修者。谓由此故。为断烦恼。发起加行。无间道修者。谓由此故。正断烦恼。解脱道修者。谓由此故。或断无间。证得解脱。胜进道修者。谓由此故。从是已后。修胜善法。乃至未起。余地烦恼。能治加行。或复未起。趣究竟位。当知是名。十一种修。品类差别。

解釈:加行道修とは、この種の修によって、煩悩を断除するために加行を発起するということである。無間道修とは、この種の修によって、真に煩悩を断除し、しかも永遠に煩悩を断除することを無間道と称するということである。解脱道修とは、この種の修によって、無間に煩悩を断除し、解脱を証得できるということである。勝進道修とは、この種の修によって、これ以後、さらに勝れた善法を修行し、ついには他の諸地の煩悩も生起せず、対治と加行の法も、あるいはまた生起せず、究竟の四正性離生の位に趣向でき、二度と三界の世間に生まれることがないということである。これが十一種の修の品類差別である。

原文:如是于修。勤修习者。于时时间。应正观察。所有烦恼。已断未断。于时时间。于可厌法。深心厌离。于时时间。于可欣法。深心欣慕。如是名为。摄乐作意。彼即于此。摄乐作意。亲近修习。多修习故。有能无余永断。修道所断烦恼。最后学位。喻如金刚。三摩地生。由此生故。便能永断。修道所断。一切烦恼。

解釈:このように修に対して精勤に修習できる者は、常に正しく観察すべきであり、すべての煩悩がすでに断除されたのか、それともまだ断除されていないのかを観察し、常に厭うべき法に対して深心に厭離し、常に喜ぶべき法に対して深心に欣喜し仰慕する。これを摂楽作意と名づける。修行者はこの摂楽作意に親近して修習し、多く修習するがゆえに、修道所断の煩悩を余なく永遠に断除することができ、最後の学位が生じる。この位は金剛三摩地に譬えられる。この最後の学位が生じるがゆえに、修道所断の一切の煩悩を永遠に断除することができるのである。

この最後の学位は三果の位である。初果・二果・三果は有学位であり、三果の有学位において一切の煩悩を断じ尽くし、四果の無学位を証得すれば、これより修むべき法はなく、断ずべき煩悩もなく、これを無学と名づける。

原文:问。何因缘故。此三摩地。名金刚喻。答。譬如金刚。望余一切。末尼真珠。琉璃螺贝璧玉。珊瑚等诸珍宝。最为坚固。能穿能坏。所余宝物。非余宝物。所能穿坏。如是此三摩地。于诸有学。三摩地中。最上最胜。最为坚固。能坏一切。所有烦恼。非上烦恼。所能蔽伏。是故此三摩地。名金刚喻。

解釈:問:いかなる縁故に、この三摩地は金剛に譬えて名づけられるのか。答:譬えば金剛は、摩尼・真珠・琉璃・螺貝・璧玉・珊瑚などの一切の珠宝と比べて、最も堅固であり、他の一切の宝物を穿ち壊すことができるが、他の宝物によって穿ち壊されることはない。このような三摩地は、すべての有学の三摩地の中で最も上であり最も勝れ、最も堅固であり、一切の煩悩を破壊することができ、上の煩悩によって蔽われ降伏されることがない。それゆえ、この三摩地は金剛に譬えて名づけられるのである。

初果から三果まですべて有学位であり、まだ断除していない煩悩漏があり、修むべき法がまだある。煩悩が断じ尽くされていないか、あるいは煩悩を断除していないため、煩悩を断じ尽くすために、なお修学すべきものがあるのである。煩悩を断じ尽くすのが四果の阿羅漢であり、もはや断ずべき漏も煩悩もなく、修むべき法もなく、解脱道の諦理を修学する必要ももはやなく、すでに最後の清浄に達しており、すでに三界世間のもろもろの有から解脱しているので、無学と称するのである。しかし三果以前はそうではない。三果が証得した三摩地は初果・二果よりも勝れており、最も堅固であるので、金剛三摩地と名づけるのである。

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