衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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観行五蘊我見断ち(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 575

第十二章 雑談

一、愛随眠とは何を意味するのか

愛随眠とは煩悩随眠のことであり、「随眠」という文字の意味は睡眠に伴うこと、隠れているという意味、背後で運行しているという意味、付き従うという意味である。五蘊の活動の中では、時々刻々、至る所に愛と煩悩が付き従っており、肝心な時が訪れると、愛と煩悩が跳び出して顕現し、染汚業が現れ、染汚の種子が積み重なり、未来の苦が集まってくるのである。

愛随眠と煩悩随眠があると、心は覆い隠され、真実の理を見ることができず、愚痴によって智慧の光明が遮られる。したがって、わずかな煩悩があればそれは無明であり、心は清らかで明るくなく、暗く、智慧の光明は現れない。愛を断つことは苦を断つことであり、愛が重ければ苦も重く、娑婆に生まれ、愛が軽ければ苦も軽く、天界に生まれる。愛がなければ、その場が極楽である。

二、修行が力を得た後の現象

正精進の修行の後、修行の方向性が正しければ、必ずや利益を得ることができ、欲望が軽くなり、執着と煩悩が少なくなり、身心には一定の変化が現れる。世の無常・空・無我を知り、物欲が薄れ、物質的な色法への執着が軽減され、貪る心が減る。物欲さえ少なければ、享受を貪り求めず、この世で生活するのに基本的には大した金銭や物質は必要ない。世の物質に依存する習慣のある者は、貪欲が必ず盛んであり、金銭や物質への需要が多く、必死に金を稼いでもまだ足りないと感じる。足りるか足りないかは心次第であり、物質や金銭の多少によるのではなく、善く知足することを知ってこそ心は安らかで楽しくなるのである。

正精進の修行で力が得られた後は、逆縁に遭遇するが、これは業障を消し遮りを除くのに大いに役立つ。金剛経に「世人に軽賤せられるが故に、この人は先世の罪業すなわち消滅を得る」とある。修行が道にかなうようになると、いくつかの逆縁を感召するが、これらの逆縁もまた修行の増上縁である。逆縁は修行者に代わって罪業を消し去り、ごくわずかな軽賤される代償で重大な罪業を滅除できるため、逆縁を喜んで受け入れるべきである。時として、明らかに何もしていないのに、誰かが冤罪を着せ中傷することがあるが、もし黙って耐えることができれば、逆縁は過ぎ去り、業障は消える。もし耐えられずに反撃を加えれば、新たな業を造るだけでなく、古い業も消えない。したがって仏は「忍辱は徳なり」と言い、功徳があり、福と慧を増すと説かれた。その境遇を善く遇すれば、道を助けることができる。

三、捨覚支と行捨の区別

捨覚支は七覚支の中で最後の覚支であり、七覚支とは念覚支・択法覚支・精進覚支・喜覚支・猗覚支・定覚支・捨覚支である。「捨」とは一切の身心の負担や重荷を捨て去ること、善悪を問わず、苦楽を問わず、あらゆる覚受を捨て去り、内心が清浄無為であることを指す。

行捨はまた「不害」とも呼ばれ、悪しき不善の行為や造作を捨て去ることである。例えば、もともと誰かを復讐しようと思っていたが、今は復讐を思いとどまり、復讐の行為を捨て去った。あるいは、もともと人を妬み害そうと思っていたが、今は妬まず、人を害そうとも思わず、悪行を捨て去り、内心が清浄であるか、あるいは善の中に住している。しかし、その覚受までは必ずしも捨て去れるわけではなく、心の中に喜楽や軽安、あるいは他の覚受があるかもしれず、捨覚支とは異なる。

四、無常法と常法は同様に苦法である

一切の法は無常であり、感情もまた無常である。それらには生・住・異・滅の発展段階があり、良し悪しを問わず持続不変ではなく、永続することはできない。もし貪瞋痴の煩悩が引き起こす喜怒哀楽の感情が永続不変であるなら、衆生の結果はどうなるかを考えてみよ。結果は精神崩壊を経て、最終的に死を迎えることになる。たとえ煩悩性のない喜楽が心に永続不変に着いていたとしても、この人は甚深な禅定を得ることはない。

世の無常の法則は、衆生の生存に適している。その法が常に変わらぬものとなれば、衆生は皆耐えられない。無常法は衆生を苦しめるが、常法も同様に人を苦しめる。したがって世とは苦そのものなのである。

五、行陰の意味

変動し流転して静止しない一切の法は、すべて行陰、あるいは行蘊に属する。身心の両面を含むが、身の動きは実際には識心の動きによるものであり、識心が動かなければ、身は動くことができない。相分の伝導もまた動きであり、すなわち塵境の生住異滅の変動は、識の動きによって引き起こされる。識心の刹那も止まない思念や様々な心理活動は、すべて識陰に属する。もしこれらの変動する法が、自己が理にかない如法な認識を妨げ、真性を弁識することを阻み、ただ動く相の行のみを認めるならば、これらの変動は行陰である。もし単に法の運転性や活動性を強調するならば、行蘊と呼ばれる。

六、いつになったら情執を断ち切れるのか

まず身見を理解し、それを断除し、それから我執を破り、その後で初めて情執を断ち切ることができる。情執は我執の後に少しずつ断ち切られるものであり、非常に容易ではない。まず貪欲があり、その後に情執がある。貪欲は三果で断じ尽くすことができるが、情執は第一から第二の無量劫の間でようやく断じ尽くされる。なぜなら貪は比較的粗くて断ちやすく、情は非常に細やかで特に断ちにくいからである。

七、この仮想世界の存在にはどんな意味があるのか

この仮想世界の存在は、人為的に操作されるものではなく、衆生の業縁の必然的な結果である。したがって、意味があるかないかを論じることはできない。衆生には三界の業種があり、業種が消滅しない限り、仮想世界は絶えず現れ、衆生に業種を実現させ、業の報いを受けさせる。学仏者はこの仮想世界を利用して修行することができる。

衆生は明らかに目の前にしているのは電気信号だけで、何もないのに、色とりどりで絢爛豪華な六塵世界を解釈してしまう。それらの電気信号もまた実有ではなく、見えず触れられない種子が幻化したものであり、実際には世の中には何もなく、世も存在しない。衆生には翳病(目の病)があり、無理に世と世の中の一切の法を分別してしまうのである。世および世の中の一切の法は、あなたが意味があると思えば意味があり、意味がないと思えば意味がない。法には心がなく、物には心がなく、情景には心がなく、世界には心がない。衆生に心があるから、情景にどんな意味を付与すれば、情景はその意味を持ち、世界にどんな意味を付与すれば、世界はその意味を持つのである。あなたに心がなければ、世界は存在せず、心があれば一切の法がある。

八、執念を捨てることは自我を捨てることである

仏法の中に「禁取戒」というものがある。それは外道が設立した理にかなわず解脱できない戒であり、仏弟子はそれを執取し守ることは許されない。したがって仏法の修証において我見を断とうとするならば、外道の禁取戒を破棄しなければならず、その戒条を遵守してはならず、そうして初めて正しく如法に仏戒を持ち、我見を断つことができる。したがって私たちも、これまで意味のない誓いや邪願をいつまでも執取し続ける必要はなく、無駄に精力と心力を消耗する必要はない。執着があれば生死があり、解脱しない。菩薩となるには大智慧が必要であり、菩薩の大智慧は世の種々のエリートをはるかに凌ぐ。衆生に利益のない事柄には、菩薩は時間も精力も浪費せず、ただ利益のあること、あるいは大いなる利益のあること、最も重要なことだけを行う。

人前での不必要な体面の問題を捨てることは、すなわち一つの「我」を捨てることである。他人からの意味のない評価や見解など、どうでもよいことである。なぜなら本来「我」は存在せず、それらの不合理な評価を気にする必要などないからである。ただ正しいことを行い、ただ人に利益となることを行い、ただ時を無駄にせず、ただ仏菩薩と衆生に恥じない生き方をしていれば、どうなっても構わない。一つの不合理な執念に固執し、円融できないことは愚痴である。執念さえあれば、波旬(魔)はこの心理を利用して、あなたに愚痴なことを行わせる。しかし無心であれば利用されることはなく、誰も付け入る隙がなく、したがって悪果も生じない。仏陀は常に菩薩たちに、虚偽の名誉や名声を気にせず、毀(そし)られようが誉められようが心を揺るがさず、ただ真理を堅持するよう教えられた。

自らの修行の目標を調整し、直接目標に向かって進み、不必要な事柄にこだわって得るものより失うものの方が大きくなってはならない。意気ではなく智慧を用い、他人の目に失敗者と映ることを恐れてはならない。世俗の法における成功と失敗は、すべて幻化した虚偽の相である。世俗の中で敗れても、仏法の中で容易に成ることができる。他人の心中にある自分の不必要なイメージを考慮してはならない。それはまさに「我」である。様々な「我」を滅除してこそ、真の我見を断つ者である。

九、過去現在因果経 第三巻

原文:爾時太子。即便問曰。我今已知汝之所说。生死根本。復何方便。而能断之。仙人答言。若欲断此生死本者。先当出家修持戒行。谦卑忍辱。住空闲处。修习禅定。离欲恶不善法。有觉有观。得初禅。除觉观。定生入喜心。得第二禅。舍喜心。得正念。具乐根。得第三禅。除苦乐。得净念。入舍根。得第四禅。获无想报。别有一师。说如此处。名为解脱。从定觉已。然后方知非解脱处。离色想。入空处。灭有对想。入识处。灭无量识想。唯观一识。入无所有处。离于种种想。入非想非非想处。斯处名为究竟解脱。是诸学者之彼岸也。太子若欲断于生老病死患者。应当修学如此之行。

釈:シッダールタ太子は、いかなる方便の方法をもって生死の根本を断除できるかを問うた。仙人は答えて言う、まず出家して戒律を守り、忍辱行を修め、閑静な場所に住して禅定を修習しなければならないと。初禅に入るとは、欲界の悪しき不善法を離れ、覚(尋)と観(伺)があること。二禅に入るとは、覚と観がなくなり、定から喜楽が生じること。三禅に入るとは、喜心を捨て去り、正念を得て、楽根を具足すること。四禅に入るとは、苦楽受を滅除し、浄念を得て、捨根に入り、無想報を得ること。別の仙人の師は、この無想処に至って解脱を得たと言う。しかし実際はそうではない。無想処定から出定した後に、これが解脱の境地ではないと知るのである。

仙人はさらに続けて言う、色界への念想を離れ、無色界の空無辺処定に入ること。有対想を滅除し、識無辺処定に入ること。無量の識想を滅除し、ただ一識を観じて無所有処定に入ること。種々の想を離れ、非想非非想処定に入ること。これが究竟の解脱の境地であり、すべての行者が到達すべき解脱の彼岸である。太子よ、もし生老病死の禍患を断除しようと望まれるならば、このように修学すべきである。

原文:尔时太子。闻仙人言。心不喜乐。即自思惟。其所知见。非究竟处。非是永断诸结烦恼。即便语言。我今于汝所说法中。有所未解。今欲相问。仙人答言。敬从来意。即问之曰。非想非非想处。为有我耶。为无我耶。若言无我。不应言非想非非想。若言有我。我为有知。我为无知。我若无知。则同木石。我若有知。则有攀缘。既有攀缘。则有染着。以染着故。则非解脱。汝以尽于粗结。而不自知细结犹存。以是之故。谓为究竟。细结滋长。复受下生。以此故知非度彼岸。若能除我及以我想。一切尽舍是则名为真解脱也。仙人默然。心自思惟。太子所说。甚为微妙。

釈:太子は仙人の言葉を聞き、心に喜び楽しむことがなかった。心の中で思うには、仙人の説くところは究竟の解脱の境地ではなく、永遠に諸々の結縛(煩悩)を断除する方法ではないと。そこで言うには、私はあなたの説くところに理解できない点があるので、今お尋ねしたい。非想非非想処には「我」があるのか、それとも「我」はないのか。もし「我」がないと言うならば、非想非非想処と言うべきではない。もし「我」があると言うならば、私は知覚があるのか、それとも知覚がないのか。私に知覚がなければ、木石と同じである。私に知覚があれば、攀縁(執着の対象を求める心)がある。すでに攀縁があれば、染着がある。染着があるが故に解脱ではない。

あなたは粗い結縛は尽くしたが、細かい結縛がまだ存在していることに自ら気づいていない。この故に究竟であると言うのである。しかし細かい結縛が育ち増長すれば、再び劣った生処を受けることになる。したがってこれは生死の彼岸に渡ったとは言えない。もし「我」および「我」という想いを除き、一切をことごとく捨て去ることができてこそ、真の解脱と呼ばれるのである。仙人は黙り込み、心の中で思うには、太子の説くところは非常に微妙であると。

仙人は涅槃への道を示したが、この道は涅槃への道ではない。なぜなら道中には戒と定しかなく、解脱の慧がないからである。定はあっても慧がないのは外道であり、解脱を得ることはできない。解脱とは「我」なき心の解脱であり、心に無我の智慧があって初めて解脱を得る。解脱とは諸々の結縛煩悩が永遠に断たれ余すところがないことであり、ただ解脱の理論や知見があっても煩悩が依然として存在する状態を解脱と呼ぶわけではない。したがって修行の中で、もし自らの煩悩が以前と変わらず、自らの理論や知見を誇り、他人を蔑視するならば、それは実は煩悩を具足した凡夫に過ぎない。また、修行の最初も最終も、無明の我相を破り、煩悩を断除することであり、ただ理論や知見を得ただけで学仏したとは言えないのである。智慧があれば無明はなく、無明がなければ煩悩はない。煩悩があれば無明があり、無明があれば智慧はなく、智慧がなければ生死の中にあって解脱しない。したがって自らの修行の成果を検証するには、無明煩悩の薄らいだ程度、そしてどの程度薄らいだかによるのである。

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