衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 624

前 言

四念処経(しねんじょきょう)は、大念住経(だいねんじゅうきょう)とも呼ばれ、その内容は四念処の修習(しゅんじゅう)です。すなわち、身不浄観(しんふじょうかん)、受是苦観(じゅぜくかん)、心無常観(しんむじょうかん)、法無我観(ほうむがかん)を観じることです。修習が成就(じょうじゅ)した後、第三の聖果(しょうか)あるいは第四の聖果を証得(しょうとく)し、解脱(げだつ)を得て清浄なる涅槃(ねはん)に至ります。したがって、四念処法を修学する目的は、我見(がけん)を断除(だんじょ)し、煩悩(ぼんのう)を降伏(ごうぶく)し、解脱を得ることにあるべきです。修習の過程において、ひたすら心を四念処の観行(かんぎょう)に住(じゅう)せしめれば、時が経ち功が深まるにつれ、必ず身見(しんけん)と我見を断ち、必ず解脱の果(か)を証得し、三縛結(さんばくけつ)およびすべての煩悩の結縛(けつばく)を断除し、生死の結縛を解き、未来永劫(みらいえいごう)に三悪道(さんあくどう)の苦しみを受けることもなく、六道輪廻(ろくどうりんね)の苦しみをも受けることはありません。もしこのような観行を行わなければ、我見を断除することは難しく、三縛結も断除し難く、生死の結縛は解けず、苦海(くかい)から出ることはできません。

三縛結とは、それぞれ我見、戒禁取見(かいごんじゅけん)、疑見(ぎけん)です。我と我見とは何でしょうか。いわゆる我とは、五蘊(ごうん)十八界(じゅうはっかい)の生滅無常(しょうめつむじょう)なる仮(け)の我(が)、すなわち色蘊(しきうん)、受蘊(じゅうん)、想蘊(そううん)、行蘊(ぎょううん)、識蘊(しきうん)、および六根(ろっこん)、六塵(ろくじん)、六識(ろくしき)というこの仮の我を、我であると見なすことが我見です。我見の中には身見があり、それは色身(しきしん)を我であるとする知見(ちけん)です。身見も我見もともに断除しなければ、邪見(じゃけん)を断ち生死を出離(しゅっり)することはできません。我見を主として、あらゆるところで我に執着(しゅうじゃく)すると、その結果はどうなるでしょうか。結果として、この生滅無常なる仮の我のために無量無辺(むりょうむへん)の三種の業行(ごうぎょう)を造作(ぞうさ)し、業行を造作した後は六道の中に拘束(こうそく)されて苦しみを受けることになります。我見は一つの結(けつ)であり、この結が私たちを六道、特に三悪道に縛り付け、生死の大苦から出離することを妨げるのです。

戒禁取見とは何でしょうか。それは、解脱を得るために一種あるいは複数の戒律(かいりつ)を制定(せいてい)して遵守(じゅんしゅ)するものの、これらの戒律は解脱の境地へと導くものではなく、理(ことわり)にも法(のり)にもかなわず、これに依(よ)って修行する者が解脱を得ることを可能にしないものです。もしこれらの法にかなわない戒を執着し、法理にかなっていると見なして遵守し実行するならば、このような知見を戒禁取見といいます。戒禁取見は一般に外道(げどう)が設定した戒を指し、その戒法(かいほう)は単に色身の身行(しんぎょう)をあれこれと取り繕(つくろ)うだけで、正しい知見を得ることもできず、解脱の智慧(ちえ)もなく、自心の煩悩を降伏することもできません。そのような戒法を守っても解脱を得て生死輪廻を出離することはできず、それらの戒法に執着すること自体が一つの結縛となり、さらに自らを六道輪廻に縛り付け、生死の苦しみから脱することはできません。

理にも法にもかなわない戒とは何でしょうか。制定された戒が心を修め心行(しんぎょう)を変えるために用いられるのではなく、単に身体の外相(げそう)だけをいじるようなものは、理にかなわない戒禁取戒(かいごんじゅかい)です。また、仏が制定した戒と一致せず、その内実(ないじつ)と目標も一致せず、解脱の目的に達しないものは、理にも法にもかなわない戒禁取戒です。これらの理にも法にもかなわない戒に執着することを、戒禁取見といいます。

例えば、ある外道は言います。「魚は水の中で自由自在に生きている。もし我々が魚のように自在であれば、一日中水に浸かっていれば、将来魚のように自由自在な解脱を得られるだろう」と。このように設定された戒法で自由や解脱を得られるでしょうか。得られません。また別の外道は言います。「牛や羊は草だけを食べ他の食物を口にしないからこそ清浄自在である。もし我々も草だけを食べれば、清浄自在な解脱を得られるだろう」と。しかし、草だけを食べて本当に清浄な解脱を得られるでしょうか。まったく得られません。我見を断つことと草を食べるかどうかは全く関係がなく、解脱は自心(じしん)にかかっており、いかに心を用いるか、智慧(ちえ)にかかっているのであって、単なる飲食(いんしょく)の一面だけによるものではありません。

また別の外道は言います。「解脱を得るためには、無量劫(むりょうこう)の昔から造ってきたすべての悪業(あくごう)を完全に消滅させなければならない」と。それらの業をどうやって消滅させるのでしょうか。彼らは多くの無意味な苦行(くぎょう)で自らを苦しめたり、一日に一麻一麦(いちまいちばく)しか食べなかったり、土だけを食べたり、長い間何も食べず飢えに耐えたり、灰の上に臥(ふ)したり、夏は火に焼かれ、冬は氷で凍(こお)らされたりします。要するに、さまざまな方法で自らの身体を苦しめ、そうすれば無量劫以来の罪業(ざいごう)をすべて消滅させ、それによって解脱を得られると考えるのです。しかし、このように自らを苦しめて、すべての罪業を消滅させられるでしょうか。もちろんできません。考えてみてください、我々は無量劫の昔からどれほどの罪業を造ってきたことか。無量劫以来造ってきた罪業は数えきれず、地獄の罪業だけでも無量無辺なほど多いのです。ましてや餓鬼道(がきどう)や畜生道(ちくしょうどう)の業、その他の業もあります。これほど自らを苦しめてすべての罪業を消せるでしょうか。もちろん消せません。特に衆生(しゅじょう)への負債は、これらの方法では返済できないのです。

無量劫の昔から造ってきた罪業をどうすれば消滅させ、三悪道の苦しみを免れることができるでしょうか。ただ我見を断ち、三縛結を断ち、心の中の一切の無明(むみょう)を断除するしかありません。もし誤った知見を正しく直し、心の中に一つの我もなく、五蘊の我が虚妄(こもう)で真実ではないと認めるならば、この我によって造られた罪業もまた虚妄で真実ではないことになり、そうすれば三悪道の罪業は免れるのです。我見を断ち、三縛結を断とうとするならば、五蘊十八界の無我性(むがしょう)を観行し、五蘊が仮我(けが)であり空幻(くうげん)であって真実ではないことを証得しなければなりません。そうして初めて我見を断つことができます。外道のいわゆる戒行(かいぎょう)では、根本的にすべての罪業を消すことはできません。それゆえに、それらの理にかなわない知見を戒禁取見というのです。

三つ目の結縛が疑結(ぎけつ)、すなわち疑見の結縛です。疑見とは何でしょうか。心の中に決着(けっちゃく)のつかない法が存在し、五蘊が果たして真実なのか、生滅無常なのか、果たして依頼(いらい)できる不滅の我なのか、未来世(みらいせ)へ行けるのかどうか、確信が持てないことです。これについて疑惑(ぎわく)が晴れないと、優柔不断(ゆうじゅうふだん)となり、決断(けつだん)できず、そうなると依然として五蘊に依存(いぞん)し、信頼(しんらい)を置き、五蘊によって造られた三悪道の業を消すことができず、業に随(したが)って三悪道を流転(るてん)することになります。この疑見こそが煩悩の結縛であり、もし断除しなければ、必ず煩悩・惑(わく)・業・苦が滅びることはありません。

どうすれば疑見の煩悩を断除できるでしょうか。ある人は言います。「私は五蘊の苦・空・無常・無我の性質を学習し観察して、確かに我は存在しないと理解しました。こうして五蘊無我を確認し、心の中に疑いがなくなり、疑結を断ちました」と。では、意識(いしき)が五蘊の苦・空・無常・無我を思惟(しい)しただけで、心の奥底の疑惑を断除できるでしょうか。おそらくできません。意識の理解は意根(いこん:末那識(まなしき))の証得(しょうとく)を意味するものではなく、どちらも修行した者が得るものです。意根が修行せず、観察しなければ、証得することはできず、我見を断つことはできません。無始劫(むしこう)の昔から、意根自体が持つ深重(じんじゅう)な無明のため、意識の単純で粗浅(そせん)な思惟理解では、根本的に意根の無明を消し去ることはできず、我見を断つことはできません。では、どうすれば疑結を断除できるでしょうか。疑結を断除しようとするならば、必ず禅定(ぜんじょう)を修め、禅定の中で細心に観行し思惟し、あるいは仏の説かれた四念処の観行方法に従って、真実に努め、小手先(こてさき)の技に頼らず、着実に八正道(はっしょうどう)・七覚分(しちかくぶん)を修行し、禅定と空三昧(くうざんまい)を発起(ほっき)しなければなりません。

仏在世(ぶんざいせ)の大根器(だいこんき)の衆生は、五蘊無我の理(ことわり)を聞いたその場で、反復(はんぷく)して思惟観行する必要もなく、第四の聖果である阿羅漢(あらかん)を証得し、袈裟(けさ)を着ると髭髪(ひげはつ)が自ずから落ち、神通(じんつう)が現前(げんぜん)しました。例えば、大迦葉(まかしょう)、舎利弗(しゃりほつ)、須菩提(しゅぼだい)などがそうです。それは彼らが前世で第四の聖果を証得してから現在まで無量劫が経過しており、あるいは三つの無量劫にも及び、その正体(しょうたい)は仏の再来者(さいらいしゃ)である可能性があり、生まれながらにして禅定を持ち、宿命通(しゅくみょうつう)を持ち、生まれながらにして阿羅漢であったからです。彼らはもちろん、一つの言葉を聞いて即座(そくざ)に聖果を証得することを示現(じげん)できます。なぜなら、意根が無量劫の昔にすでに聖果を証得しており、それは決して断滅(だんめつ)せず、ずっと五蘊無我を知っていたからです。意識が再び苦労して意根を薫染(くんぜん)し、教え導く必要はありません。彼らが今世(こんぜ)の五蘊は新しく、意識も新しいものですが、仏法に出会い意識が少し思惟しただけで聖果を証得します。このように聖果を証得するのが非常に速いのは、意根が妨げにならないためです。

もし意識に宿命通があれば、同様に生まれながらにして五蘊無我を知っており、再び我見を断って聖果を証得する必要はありません。しかし、衆生を度(ど)し、影響を与えるために、聖果を証得することを示現できます。今世の意識が一つの仏法を聞き、思惟することなく、五蘊無我を証得できるのです。そして意根はずっと知っているのです。前世で聖果を証得したことがある者は、今世での聖果の証得が皆非常に速く、意識が再び意根を薫染し、教え導く必要はありません。前世で聖果を証得した回数が多ければ多いほど、今世の聖果の証得は速くなります。なぜなら、意根に無明がなく、悟(さと)りの妨げにならないからです。意根が薫染され、転換(てんかん)された者は非常に利発(りはつ)で、意識が理解できさえすればよいのです。もし前世で初果(しょか)を証得していれば、今世で再び初果を証得するのは容易ですが、第二の聖果を証得するのは容易ではありません。なぜなら、意根は初果程度の観行の智慧にしか相応(そうおう)していないからです。

前世で第二の聖果を証得した者は、今世で再び第二の聖果を証得するのは比較的容易ですが、第三の聖果を証得するのは容易ではありません。なぜなら、意根は第三の聖果にまだ相応せず、必ず第三の聖果の内容を再び観察し思量(しりょう)し、意識と意根が第三の聖果を証得しなければならないからです。前世で第三の聖果を証得した者は、今世で再び第三の聖果を証得するのは比較的容易ですが、第四の聖果を証得するのは容易ではありません。なぜなら、意根は第四の聖果の境地に相応せず、必ず第四の聖果の内容を再び観察し思量し、意識と意根が第四の聖果を証得しなければならないからです。これが再来人(さいらいにん)が聖果を証得し、明心(みょうしん)が他人より速い理由です。

以上、三縛結について説明しました。次に、四念処の経文の解説を始めます。

ページトップへ戻る