衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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四念処経講話 第二版(新修)

作者: 釋生如 分類: 二乗解脱 更新時間: 2025-02-27 閲覧回数: 553

前 文

四念処経、またの名を大念住経という。この経典は四念処の修習、すなわち「身を観じて不浄とし、受を観じて苦とし、心を観じて無常とし、法を観じて無我とする」を説く。修習成就すれば三果あるいは四果を証得し、解脱を得て清浄なる涅槃に入る。よって四念処法を修学する目的は我見を断除し、煩悩を降伏し、解脱を得るべきである。修習の過程において、ただひたすら四念処の観行に心を住まわせるならば、時を経て功徳深まり、必ずや身見・我見を断じ、解脱果を証得するであろう。三結を断じ、一切の煩悩結縛を断ち、生死の結縛を解き、未来永劫に三悪道の苦しみを受けず、六道輪廻の苦しみからも脱するのである。このような観行を行わなければ、我見を断ずることは難しく、三結も断ち難く、生死の結縛は解けず、苦海より出づることは叶わない。

三結とは、我見・戒禁取見・疑見を指す。我と我見とは何か。いわゆる我とは、五蘊十八界の生滅無常なる仮の我、すなわち色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊、および六根・六塵・六識というこの仮の我を我と執することを我見という。我見の中に身見があり、色身を我と見なす知見である。身見・我見を共に断じて初めて邪見を断じ生死を出離する。我見を主とし、所々に我を執すれば、如何なる結果を招くか。この生滅無常なる仮我のために無量無辺の三業を造作し、業行をなせば六道に拘束され苦しみを受ける。我見は一つの結であり、この結によって我々は六道、特に三悪道に縛られ、生死の大苦より出離できない。

戒禁取見とは、解脱を得んがために制定された一乃至多の戒律を遵守するが、それらが解脱に導かず、理法に適わず、修行者を解脱させ得ないものを指す。不如法の戒を如法如理と執し、これを遵守実行する知見を戒禁取見という。これは一般に外道が設けた戒を指し、その戒法は色身の行いに混乱をもたらすのみで、正知見を得ず、解脱の智慧もなく、自心の煩悩を降伏させず、かかる戒法を守る者は生死輪廻より出離できず、戒法そのものを執取すること自体が結縛となり、六道輪廻に縛られ生死の苦より脱せない。

不如理不如法の戒とは、心を修め心行を改めるためでなく、ただ身体の外相に拘るものを指す。仏の制定した戒と一致せず、内実と目標が解脱に至らないものは全て不如理不如法の戒禁取戒である。これらを執取することを戒禁取見という。

例えばある外道は「魚は水中で自由に生きている。我々も魚のように自在たるべく、終日水に浸かれば、将来魚のように自在解脱を得られる」と説く。かかる戒法で自在解脱が得られるか。得られない。また「牛馬は草のみを食し他を食べぬ故に清浄自在である。我々も草のみを食すれば清浄自在解脱を得られる」と説く外道もある。しかし草のみを食して真に清浄解脱を得られるか。断じて得られない。我見の断絶は飲食と無関係であり、解脱は自心の使い方と智慧によるのである。

また「解脱を得んには無量劫に造った全ての悪業を滅尽せねばならない」と説く外道もいる。彼らは無意味な苦行で自らを痛めつけ、一日一麻一麦のみを食し、土を食し、飢えに耐え、灰土に臥し、夏は火に灼かれ冬は氷に凍らせる。かくして無量劫の罪業を消滅させ解脱を得ると考える。しかしこのような苦行で罪業が消えるか。断じて消えない。無量劫に造った罪業は数え尽くせず、地獄道の業のみでも無量無辺である。まして畜生道・餓鬼道の業を、かかる方法で消滅させることはできず、ましてや衆生への負債は償えない。

無量劫の罪業を消滅し三悪道の苦を免れるには、我見を断ち三結を断じ、心の無明を断ずるのみである。誤った知見を転倒させ、五蘊の我が虚妄不実と認めれば、この我の造った罪業も虚妄となる。かくして三悪道の業を免れる。我見・三結を断ずるには五蘊十八界の無我性を観じ、五蘊が仮我・空幻であることを証得せねばならない。外道の戒行では罪業を消し得ず、故に不如理の知見を戒禁取見という。

第三の結縛は疑結、即ち疑見である。五蘊の実在性・生滅無常性・未来世への存続可能性について確信を持てず、五陰に依存し信頼する故に、三悪道の業を消し得ず輪廻を続ける。この疑見は煩悩結縛であり、断じなければ煩悩・惑業苦は滅しない。

疑見を断ずるには、禅定を修め細心に観行し、四念処の教えに従い八正道・七覚分を実践し、禅定と空三昧を発起せねばならない。仏在世の大根器の衆生は、五蘊無我の理を聞くや直ちに四果阿羅漢を証得した。大迦葉・舎利弗・須菩提等は前世に四果を証し、意根が既に無我を知悉していた故、今世の意識が理を理解するや速やかに証果したのである。

前世に初果を証した者は今世の初果証得が容易だが、二果以上は意根の相応が必要である。同様に二果証者は二果再証が容易だが三果は新たな観行を要し、三果証者は四果証得に更なる精進を要する。これが再来人の速やかな証果の所以である。

以上、三結の解説を終え、ここに四念処経文の講義を開始する。

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